「明日死ぬかもしれない」〜 きょうこちゃんの発見

きょうこちゃんの心のシェア・第2弾。

木の花には「きょうこ現象」という言葉があります。何か失敗をしては反省するけどすぐに忘れてまた同じことを繰り返す。そんなきょうこちゃんが、ガンをいただいたことで変化し始めています。
一昨日は自然療法をテーマとした出張木の花塾に参加し、昨日はパートナーのこうちゃんと一緒にガンセンターへ行ってきたきょうこちゃん。ガンを切らないことについて家族の了承が得られているかをお医者さんから確認され、そのことのリスクを説明された上で改めて、手術はしない意向を病院に伝えました。
そしてその夜の大人ミーティングで、以下の文章をシェアしました。

出張木の花塾で、自身の想いを語るきょうこちゃん
出張木の花塾で、自身の想いを語るきょうこちゃん

 
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昨日は「出張木の花塾」だった。
最後に私の事例がとりあげられた。改めて自分の状況を皆の前で発表したのだが、こうして公に意思を表明していくことで、さらに覚悟をさせてもらったと感じている。

昨日の出会いでよかったのが、判事を退職されたIさんと話せたことだった。Iさんは、「もう私も死が近いといつも思っている。だから、人と会うといつも、もうこれが最後かも知れないと思って会うのだ」と言っていた。ある意味、私も余命宣告されたわけではないが、体にガンという爆弾を抱えているのは事実で、いつ死がやってきてもおかしくない。
ひまわりに帰って、ミーティングが終わって、ホールを出るとき、これがみんなに会う最後かな・・なんて思うと、なんとも言えない感謝の気持ちが湧いてきて、泣きそうになってしまった。これは、何か感傷的になるとういことではなく、すごく良いことだと思った。

明日死ぬかもしれないと思って、ことに接すると、いつもと違ったものが見えてくる。
あるのが「当たり前」、そして次の瞬間も明日も「当たり前」にあるのだと思っていたものが、「今」「この時」にしか出会えないものであることをすごく感じることが出来た。考えてみれば当然で、時空を移動している私たちなのだから、二度と同じトキ、トコロはありえないのだが、そうは思えていなかったということ。ミーティングでもいつも話されていることだが、頭で理解していただけで、やっと「そういうことか」と実感できたのでした。
出張木の花塾に来てくれた方から「また会えますよね」と言われたことに対して、何も考えずに「また会いましょう」と返した私でしたが、そんないい加減なことを言ってはいけないと反省したのでした。
「明日、死ぬかも知れない」と思って生きることって、実はとても新鮮な日々を送る秘訣なのかもしれないなと、新しい発見だった。

今日から、苗チームで新しい試みを始めた。朝一番に中神のハウス全体を皆で一緒に見て回る事。苗全体の様子を、チームの皆が把握で来るようにすることで、情報の共有と、苗を見る目を養う事、私がいなくても全体がスムーズに回っていくようにするために思いついたので、まずは始めてみた。私がいないと分らない、という状態はある意味私が作って来たもので、「人を育てる」という視点も欠けていた。一人で抱えこむ癖から、情報が全体に行き渡らず、滞りを生む原因にもなっているのだから。

これも「明日、死ぬかもしれない」ということから出てきたことで、いろいろなことを手放していくことは、人の為になったり、全体の為になったりするはずなのだ。「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」と段取りばかり頭の中を巡っているのでは、直観など入り込む余地がないはず。
人一倍失敗したくない私は、人に任せるのがすごく苦手。その割には、大きく外して「きょうこ現象」をもらって、またまた反省・・・。矛盾だらけで、しかも当然起こるべくして起こる結果。

負のスパイラルを断ち切ろう。何か新しいことやってみよう。失敗するかもしれないけれど、いただいて次に行けばよい。
良い流れを作っていくぞ~!

 

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追記:
きょうこちゃんが手術しないことを知った娘のきよ(小学4年生)は、それ以来たびたびきょうこちゃんに「手術しないの?死んじゃうの?」と聞いていたのですが、昨日の夕食時、とことこときょうこちゃんのところにやって来て、こう言ったそうです。
「そっか。こころ磨き、するんだね。」

 

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出張木の花塾は、下記サイトにて動画を公開しています。
 → 出張木の花塾「人は変われる〜宇宙視点の自然療法」

*ファイルは全部で6つあります。
5月19日現在まだアップロード中ですが、2日以内に全動画をご覧いただけるようになります。

*次回出張木の花塾は、6月7日(日)、同じく船橋にて開催します。
単なる病気の話ではなく、人が生きることの本当の意味を探る、すべての人にとって大切なお話をします。どなたさまもどうぞお越しください。

 → お申し込みはこちら!
  event★konohana-family.org
  (★は@に置き換えてください)

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ガンをいただいて 〜きょうこちゃんの心のシェア

16年前にメンバーになったきょうこちゃんは、育苗(野菜の苗を育てる)担当。いつも明るい笑顔で、別名「スマイリー・きょうこ」と呼ばれる彼女が育てる苗は、毎年バスでツアーを組んで買いに来てくれるお客様がいるほど、元気でいい苗なのです。

そんなきょうこちゃんが、先月、子宮頸ガンであることがわかりました。

子どもの頃から親や先生に褒められることが自分の存在価値であると思い、いい子を演じて自分の正直な思いを隠しているうちに、いつの間にか自分の正直が何であるかもわからなくなってしまった。その溜め込んできた思いが、自分のガンをつくった。そう捉えた彼女は、ある決意をしました。
以下、大人ミーティングできょうこちゃんがみんなにシェアした文章をご紹介します。

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今までの私の人生の結果として、ガンをいただいた。

子宮頸癌で、2センチくらいの大きさだそうだ。子宮の入り口にできている。
5年前、妊娠したときにした検査で、ガンではないが、それに近い細胞があると診断された。
私の中では、まだ癌でないからと、真剣にそのことに向き合ってこなかった。
定期的に検診を受けてきたが、今年に入って精密検査をした方がよいといわれ、検査した結果、ガンだと分かった。

このことを通じて、私の正直な心と向き合うことをつきつけられた。
今まで、自分の正直と向き合ってこなかったので、最初は自分の気持ちさえも分からなかったし、気持ちを語ったところで上げ底だとコメントをもらったり・・本当の自分の気持ちは何なのか・・。

最初は、ガンを切ってしまえばよいと安易に考えていた。みかちゃんの例もあったからだ。みかちゃんは、非常に小さな段階で、円錐切除といって、少しの部分を切り取る手術でよかったのだ。でも、私の段階はもっと進んでいて、子宮とその周りの組織を全部摘出する必要があるというものだった。転移の可能性があるからだ。
切らない場合はなおさら、もっと転移の可能性が高くなる。膀胱や大腸、腎臓、リンパなどが隣接している。少し病状が進んだだけで、手術が有効でなくなる。つまり、手術が出来なくなるということも伝えられ、私には転移を恐れる心があった。
さっちゃんに「何で切りたいの」と聞かれた時、一度体をリセットしたらよいと思うからと答えた。その時、さっちゃんからは「きょうこちゃんは、すぐに忘れちゃうから、切って終わりになっちゃうのじゃないの」とも問いかけをもらった。
その問いかけを受けて、いろいろ考えてみて、やはり切らないでやっていこう、と心に決めたつもりで病院に行ったら、先生の話を聞くうちにグラグラと心が揺れて、不安や恐れに囚われる自分があり、やはり、手術する方向でいこうと決めた。
そのことをいさどんに伝えると、私なら当然そうなることぐらい分っていたと言われた。
私みたいな覚悟のない人間は、取ってしまえばいいのだと。

人は必ず死ぬ。・・・分っていたつもりで、全然分っていなかった。全然覚悟もできていなかった。すごく上げ底で、自分が見えていなかった。

その後、大人ミーティングで、死についての話題が何度かとりあげられた。人は死ぬ。全てのものは必ず死ぬ。死を恐れるなんて、バカな話だと。
けれど、このガンが与えられて、私は初めて死というものを意識した。今まで、意識しないで生きていたことに、やっと気が付いた。

今日、苗のお客さんから、野菜の栽培についての質問がメールで来ていた。「いつも上手に野菜ができないのだが、どのように肥料をやったらよいか」という質問。
私は昨年から取り組んでいる、「天然循環法」について簡単に説明した。
「天然循環法」とは、天と繋がって直感で感じ、作物と会話しながらやるもの。「ある世界(現象界)」の中だけの循環ではなく、「無い世界(潜象界)」から湧き出てくるエネルギーを含め全ての循環とともに行うものだ。
野菜ができない=肥料が必要、ではないこと。肥料がなければできないと思っていたが、天然循環法に切り替えてから、肥料無しでやってみたら、とてもいいものが出来たのだ。
そこから学んだことは、固定概念を捨てて、信じてそこに賭けきる心の大切さ。

天然循環法に取り組み始めたころ、疑いが全く無かったわけではなかった。もう駄目かな、大丈夫かなと黄色くなったキュウリに、畦で刈った青草を敷き続けた。それを信じてやるぞ、と気持ちを切り替えてやった結果、最初は苦しそうだったキュウリやナスが、ある瞬間、スイッチが切り替わった。あの見事なキュウリの葉の茂り方を見て、私はとても感動したことを思い出した。淡く美しい緑色のトンネル。左右バランスのとれた美しい葉の形。余分なものがなく、清楚な空気がそこにはあった。
ある年、ナスにアブラムシが大発生した。どうにも仕様が無かった。私たちは農薬など一切使わないので、そのままにしておいたら、いつのまにかテントウムシが大量に発生して、いつしかナスはきれいになっていたことも思い出した。

自然の中にお手本があった。もともとある力を信じて賭けきったとき、その答えが与えられる。不安や恐れから、手術を選ぶのではなく、自分の可能性にかけてみようと決めた。
どうせ死ぬのだから。
どうせ死ぬのなら、悔いの無い選択をする。不安や恐れの方ではなく、信じる方を選ぶ。

だからといって、ガンが小さくなったり、無くなってしまう保障はどこにもないが、もしガンが大きくなっていたら、まだ信じる心が足りなかったと、さらに前に行くだけだと思う。

全ては善への旅である。
ありがとうございます。

 

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全ては善への旅である

 
どんなに真理を得ようと思っても、どんなに真理を生み出そうと思っても、それを受ける器がなければ真理は降りてこない。真理への道は無限にあるが、そこに行く意思がなければ意味がない。道を語ろうと思っても、聞く者がいなければ語れない。信じる者は救われる。求める者に道は開かれる。歩む者に目的は現れる。
世界に痛みの伴う秩序があるのは、まっすぐ立つことへの指針である。道があっても目的地のない道は無意味である。曖昧な道を歩んでは目的地には到達しない。

世界に秩序があるのは目的地に人をいざなう為にある。秩序に溺れて漂う為に秩序があるのではない。世界の秩序を感じなさい。それはあなたを目的に導く道である。秩序が観えない者は目的地に行くことができない。秩序は世界の法である。秩序は世界のすべてに喜びを与える。世界は秩序の海である。秩序の中にあって内から自我を発する者は、法に反する者である。

内なる自我に捉われず、外の秩序に従うこと。内なる自我を取り去ることで内なる鏡が磨かれて、外の秩序が映し出される時、外の秩序が内の秩序になる。自我を捨てることではない。それは、自我を描くこと。そして自我の鏡に外なる秩序を映しなさい。そうすれば自我は消え、内なる秩序は無限の秩序となる。
世界には秩序が蔓延している。道があることを知らぬ者に道はない。道を歩まぬ者に道はない。道を求めぬ者に道はない。道を待つ者に道はない。道を観る者に道は観える。道を歩む者に道は開かれる。道を歩む者に目的は観える。この世界には秩序がある。

この秩序が観えるか?すべてを繋ぐ秩序。織物のように紡がれ、無限に連鎖する。連鎖とは繋がり。目的はひとつ。すべてはひとつであること。ひとつであることは区別がないこと。その元には善意、愛、調和。その姿は真、善、美。世界を紡いでいるのは善意。愛に基づいた善意。美に基づいた善意。それが真理。
世界に善を見いだせない者は内に濁りがある者。世界に悪を見る者は内に悪を持つ。世界の実相は善意。世界のすべてに善を観なさい。出来事は世界の真理、善を見るための情報。すべてに善を観ぬ者は内に悪を持つもの。すべてに善を観なさい。世界のどこにでも善を観なさい。

世界に善を観ない者は内なる悪を持つもの。汚れを取り去り、美しくしなさい。それを鏡としなさい。そして真理、善を内に映しなさい。その者は世界を照らす者。内なるものも外なるものも善を創るもの。この世界に悪などありはしない。悪があるとするならば、それは善への道しるべ、善を顕す為にある。すべては善の為にある。善という美であり、真理である。すべてに善を観なさい。

計る心に悪が生まれ、計る心に善が生まれ、計る心にすべてが生まれ、計らなければすべてが消える。

愚か者に悪が生まれ、光への旅に善が生まれ、光への旅に喜びが生まれ、光への旅に愛が生まれ、光への旅に調和が生まれ、光ヘの旅に真理が生まれる。

見えぬ者は内なる鏡の汚れに気づき、自らの盲目に気づきなさい。

真理を観る目を育てなさい。真理を観ようと努力しなさい。そして信じなさい。世界が善意で創られていることに目覚めなさい。愚かしいと思えることのすべては善の為にある。

すべては善への旅である。すべては善への旅である。すべては善への旅である。
すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。
すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。

その心が世界を美しくするのです。有難いことです。有難いほどの真理の元に、この世界の秩序がある。それに気づいたならば、どうして世界に不足など生まれましょうか。ただ有難いと思って生きるのみ。有難いことに気づいたならば、有難い神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる。有難宇御在益。

ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

 

 

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病気とは何か。生きるとは何か。

そんなことをテーマに、
5月17日(日)、出張木の花塾@船橋を開催します。

きょうこちゃんも参加して、自身の体験を語ります。

140729-083407
     皆さんのお越しをお待ちしています!

→詳細はこちら

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実録・心の問答集 〜 いさどん vs よしてる〈後編〉 

前編からの続き 〉

 

2015年1月20日 ケア滞在16日目

昨日たかちゃんと話した具体的な内容ですが、整理できそうにないのでそのまま書きます。

た「卒業後とか、この先どうするの?」

私「考えていない。」

た「不安じゃない?僕は不安だ。色々考える。不安はないの?」

私「不安は出る。でも、不安が出る人は、先のことを考えていてもいなくても、不安は出ると思う。だから、考えていなくても同じ。だから、考えなくてもいい。それに、ケアに来ている立場だから、ケアが終わってから考えることにしている。今の自分が考えることと終了後の自分が考えることは違うといさどんから伝えられているし、自分もそう思う。だから、考えても無駄だから考えない。考えるべき時が来るから、その時考える。」

~いさどんからのコメント~

名回答です。

た「委ねるということができない。自分で決めるという気持ちがある。」

私「自分もそう思う。人の意見を素直に聞くとか、委ねるとか、そういうこともそうするぞと自分で決めること。たかちゃんの言うように、結局は全部自分で決めることだと思う。」

た「人と話している時に、自分も話さないといけないとか、話していない自分を悪く思う気持ちがある。カトケンに、別に話さなくてもいいんじゃない?と言われたのだけど、そう言われても、そういう気持ちが出る。」

私「カトケンが言っているのはその通りだと思うよ。でも、僕やたかちゃんのようなタイプだと、そういう言われ方をしても抜けられなかったり、逆にはまってしまうかもね。良い悪いで判断する癖が強いと、話さなくても良いと言われたら、逆の悪いを作ったりするし、そう言われて話さないでおこうとしても、心の中ではこれで良いのだろうか?とか、また別の良い悪いにはまったりして、そういう状態から抜けられなかったりするかもね。僕もそういうところがあって、普段どうしているかというと、おやつの時間を例にしたら、話さないといけないという『自分が』という意識を集まりの円に広げてみる。それからもっと広くしていく。そうしたら見えてくるものがあるから、その時に見えてきたもの、例えばみかんが見えてみかんが食べたいと思ったら、もうその時今までのとらわれから外れている。この時、正直になることも大事。みかんを食べたいをそのまま行動してみるとか。そんな感じでとらわれから離れることを試してみたりしている。人によって理解しやすいやり方とか、受け入れやすいやり方があると思うから、たかちゃんもたかちゃんなりの抜け方を作っていけたらいいね。それから、そう思う元の心があるはずだから、それを見つけることができたら、なぜそう思うかがわかって、問題事が起きなくなるかもしれない。」

~いさどんからのコメント~

ナイスアドバイスです。

私「この先、社会に出て、仕事をしたりする場合でも、行動や考えの元になっている心を見るということは、とてもプラスになると思う。全部とはいかないまでも、一割でも取り入れていければ、今までうまく行かなかったこともうまく行くかもしれないし、問題事も減らせると思うし、やりたいこともスムーズにやれるようになるかもしれないよ。」

昨日のたかちゃんとの会話は大体このようなものです。たかちゃんは真っ直ぐこちらを向いて、しっかり聞いてくれていたと思います。それでその後、日記を一生懸命書いていました。

~いさどんからのコメント~

たかちゃんのサポーター役をしてくれてありがとう。

昨日のコメントで、「もっとしっかり振り返って下さい」とありました。体力的な問題、疲れが溜まっている、回復がうまくいかないというのは、今までの生活が体を使うものではなく、リズムの悪い不健康なものだったということが一つあると思います。それから、まだまだ余計な思考にエネルギーを使いすぎていることもあると思います。エネルギーを取ろうと思い、食事はしっかりと食べようと思っていたのですが、消化吸収がもたついていて、それがエネルギーの負担や循環の悪さにつながっていたと思います。時間の使い方も、もう少しメリハリがあったり仕分けができたら、もっとうまく行けたと思います。新しい所への切り替えが潔くできていない。まだ今までの自分を所有している。取り組む姿勢や意識の低さ、向かう意志の弱さがあると思います。甘えたい気持ちや依存していることの楽さに気持ちを取られている所があります。大人へと向かう方向へしか道は切り開けないとは思っています。いや、大人になって気持ちよく生きていけるようやっていきます。

~いさどんからのコメント~

良く自分を振り返ることができています。その振り返りをしっかりと身につけて、これからは他者の為に生かしてください。

お風呂で長期滞在中のあわちゃんと話した。「この先依存せずに甘えずに生きていたいのだけど、どうしたらいいか・・・」と言っていた。大人サミットで言えば、どんな柱でもいいから柱を一本通したら、人の影響に引きずられたり依存しようとしなくなると思う。まずは柱を通して大人になることだと思う、と伝えた。自分も思うだけでなく、そうなるように積み重ねていく。

~いさどんからのコメント~

ナイス姿勢です。

昨日のたかちゃんとの会話で、たかちゃんはああしたい、こうしたいがあると言っていた。それで、僕はそういうのが少なくなってきているという話をした時に、なぜ?と聞かれたので、「ああしたい、こうしたいがある時は不満があるからで、ここの価値観が入ってきたり、こういった生活の中にいると自然に満たされていくので、不満が減っていってやりたいことが少なくなっていく」と話した。思い出したので追加しておきます。

~いさどんからのコメント~

これからも正直に自分を出して、自分の為に、そして同時に人の為に取り組んでいって下さい。そうすれば、新しい人生は自然にあなたの前に現れてきます。自らの変化によって喜びが生まれてくるような、希望ある生き方をして下さい。

 

2015年1月21日 ケア滞在17日目

午前はキッチンでの作業だった。作業にも集中できたし、気分良く過ごせた。途中で被害妄想にとらわれることはあった。キッチンの人達とはあまり接する機会がないので、入れて良かった。

午後は畑で玉ねぎの補植をした。おやつの時間にひろみちゃんは、「私の心の形は陽性なので、物理的なほうばかりに気が向く」と話していた。そのことを気にしている様子だった。そして、「あきちゃんにガンガン言われることにうっときて、どうしても身構えてしまう」と言っていた。その時はメンバーの人達で、メンバー同士でどう場を創っていくかということを話し合っていたので、色々思ったけど口に出さなかった。作業後、ひろみちゃんに送ってもらうことになった。その時、今だと思い、おやつの時間に思ったことをひろみちゃんに伝えた。「ここで過ごしてきて、個性に悪いものはないのだと感じてきている。ひろみちゃんの個性もそのまま出せばいいと思うし、あきちゃんもそうだと思う。我にとらわれると悪い癖として表現される。あきちゃんはデリカシーのなさを自覚していて、それを気にしている。でも、正直に伝えるという面で個性が良いように出ている。ただ、伝え方にデリカシーのなさがある。それで、相手が嫌な気持ちになるときがあるかもしれない。ひろみちゃんはあきちゃんに対してうっとすると言っていたけど、それはひろみちゃんだけの問題ではないかもしれない。うっとさせる人のほうにも探っていけば、何か問題があるかもしれない。よく調べてみるとわかってくるかも。お互いの信頼関係の問題であるとも思う。あきちゃんもデリカシーのなさを気にしているのだから、ひろみちゃんが思ったことを伝えてあげたら嬉しいかもしれない。」そう伝えると、ひろみちゃんは「そうかもね。機会があったら思ったことを伝えてみる。でも、多分私の問題だと思うけどね」と笑っていました。

~いさどんからのコメント~

以上のところをミーティングでシェアして下さい。メンバーでもそこまで自らをしっかりと振り返れている人ばかりではありませんので、皆にとって良い見本となっています。

お風呂であわちゃんとカトケンが話をしていた。あわちゃんは、いさどんとの面談音源を何度も何度も聞いて、浸透させようとしていると言っていた。二人は理屈のことを話していて、要するにこうでああでとずっとそんな感じだった。お風呂であわちゃんは色々な人とそのような話をしていることが多い。そういうあわちゃんを見て、わかろうとしているのだと思った。特にあわちゃんが私に話しかけてくるわけでもないし、押し付けがましく思ったことを言うのもどうかと思ったので、話しかけはしたが、関係のない話を少しだけした。でも、あわちゃんに何かを言いたい気持ちはあった。ちょうどその時なかのんが入ってきたので、なかのんの隣に行き、話しかけた。「色々とプラスになるような知識があっても、それにとらわれることがある。とらわれようと思えば、何にでもとらわれるね」となかのんに言った。そうしたらなかのんは、「そうだね。知識だけではなく、直感や経験を通して感じることが大切だね」と期待通りの返事をしてくれた。「その上で得た知識と比べていって、自分なりのものを創っていくことなのかな」と二人で話した。あわちゃんはこの会話を聞いていたと思う。聞いていなくてもいいけれど。

~いさどんからのコメント~

ハイレベルの会話ができています。

 

2015年1月22日 ケア滞在18日目

午前中はキッチンでの作業。昨日の被害妄想にとらわれず、気持ちを新たにして取り組む。自分を守る姿勢を崩す。どう思われているか、気になる時はある。今までに比べたらとても少ない。基本的に楽しく集中して過ごせた。まわりの人たちとのコミュニケーションも良かったと思う。不安や恐怖、寂しさはまわりとの分離感から来ていると思う。今日は至れり尽くせりでとても居心地が良かった。分離感を減らしていくために、もう一度今まで取り組んできたことを復習して定着させていく。それがこの前の面談でいさどんから与えられた課題でもある。昨日のあわちゃんの姿勢を見習う。昨日のひろみちゃんについても自分の鏡だと思うので反省する。全員が何らかの先生であり、反面教師でもあると思った。自分にとらわれなければ、ただ個性を表すだけの、先生でも何でもないような世界になるのかもと思った。

疑問に思ったことがあったので・・・。自分をコントロールすることについてですが、今の自分にとっては正直・素直・信じるところへ自分を促す意味として捉えています。ただ、そうしていくことで、むしろ自分でないものにコントロールされるような気がしています。そして、コントロールされるということは、個性を発揮していくことにつながるとも思います。コントロールされていくためにコントロールしていくという妙な感じになりますが、実際にはどういうことなのでしょうか?それとも、その人の目指す所によって、自分をコントロールする意味合いは変わっていくものなのでしょうか?

~いさどんからのコメント~

そうですね。自我の力が強く働いていると、まわりに流れている流れに乗れません。リラックスするには、感情的な思考(強い自我)から離れることが必要です。その為に心を磨き、正直・素直・信じるの状態が思考の元にあることが大切です。自分でないものとは、自我から解放された新たなものとなることです。自我から離れて、この世界(宇宙)の法則のままに自由にあることです。ただ、人それぞれの意識レベルによって段階はありますから、今目の前にあることに正直・素直・信じるという姿勢で向き合うことが常に大切なのです。

 

2015年1月23日 ケア滞在19日目

今日一日、色々な人と色々な話をした。自分なりに思ったことを話した。10人以上と話したけど、今日は全員ここのメンバーの人だった。常日頃から自分自身と向き合い正確に心を見ていくこと、一つ一つ行動していくことが大切だという話が多かった。どんな所にも心が表れていて、見ようと思えば心を見ることができるという話もあった。夕食中、あっちゃんと話した。大人サミット以降、あっちゃんがあわちゃんにどういう心で接していたかを聞いてみた。あっちゃんは「自分自身の行動や接し方が的を射ていたかどうかはわからない」と言っていたが、その元にある心は僕の心よりも深いものだと思った。自分の未熟さを感じた。勉強になった。

~いさどんからのコメント~

心の探求は、生きている限り続いていくものだと思います。その求める心が常にあれば、人は常に学び、成長していけるものです。その中では希望があふれ、喜びに満ちているものです。

 

2015年1月24日 ケア滞在20日目

食事中、子供ミーティングを子供の側から見る。大人に心を開いていないと堂々と発言できる状況ではないと感じた。食事中や食後の皿洗い中に子供達と触れ合う。自分との心の開き具合の差を感じる。癒されると同時に、良い見本を見せてもらう。

~いさどんからのコメント~

子供の側から見る物事の捉え方は、子供の側からの捉え方であって、大人の捉え方をすると別の考えも出てくるのではないですか。

食後にあわちゃんと話す。ここは子供が育っていくにはとても良い環境。自分の育て直しにとっても良い環境。そう二人で話し合う。その後、あわちゃんは「ではどうすればいいのか?というところで悩む」と言っていた。まわりがバタバタとしていてそこで話が途切れた。僕は、それは正直・素直・信じることをしたらいいのではないか?と思った。

~いさどんからのコメント~

そうですね。

そう言いたくもあったけど、タイミングを逃して言えなかった。あわちゃんの雰囲気は悪くなかったので、まあいいかと思った。僕もまだまだの所にいて、そして共に学んでいるのだと思える人がいる。そういう仲間がいることがここでは当たり前のことだけど、ここに来る前はとても孤独だった。それを思うと、今のこの環境はとてもあたたかい。

~いさどんからのコメント~

僕も本当にそう思います。

ふっと思ったこと。正直・素直・信じるということは、誰に、何をという所が大きく関わってくるという説明がありました。自分で自分の心を見る場合、緻密に見たとしても自分の枠の中で見てしまい、自己完結して本当を捉えきれないかもしれません。正直でありさえすれば、緻密に見ることは必要のないことなのかとも思いました。そういうことを考えていたら、昨日のいさどんのコメントを思い出しました。「求める心。」それがキーワードのような気がしました。求める心があれば、信じて間違いないものに出会うのかなと思いました。そうであれば、先程の私の考えるようなことは考える必要のないことなのかもと思いました。そもそも信じる心があれば、そのようなことは考える必要はないですね。

~いさどんからのコメント~

とても良い投げかけです。ミーティングで質問して下さい。あなた一人に答えるのは、もったいないからです。

【ミーティングでのいさどんの説明】

「正直・素直・信じる」の正直は、まず自分のありのままを表現することです。正直は一つしかありません。ですから、正直を言うのであればいつも簡単なことです。正直が複雑にある時には「複雑にあります」と言えばいいだけですし、正直がいくつかある場合には「いくつかあって、これとこれとこれです」と言えばいいので、結局正直は一つだけなのです。ところが、ウソをつくとその中身は沢山あるのです。まず一つウソをつくと、それがバレそうになったら次のウソをつき、また次のウソをつく・・・とずっとウソをついて生涯ウソをついていくことになります。その場合は頭をすごく使うことになるので大変です。ウソつきほど頭を沢山使っていますし、詐欺師はある意味大変能力が高い人たちです。その能力をまっとうなことに使えばよっぽど世の中の為にも自分の為にも良いのです。それにひきかえ正直はただありのままを言えばいいのですから、全く頭を使わなくてもいいのです。

そこで、正直を言う時に、もう一つセットで必要なものがあります。それは素直な心がないと、正直は出てこないのです。素直は素に直る。素は元という意味です。その元はどこにあるのかというと、この世界の元です。この世界の元は宇宙原理ということにもなりますが、自分の中にある良心のことでもあるのです。それは自分を創っている一番元の心です。それに直るということが素直ということで、素直に合ったこと、つまり内にある駆け引きや思惑のない言葉を伝えることは、仏様の心を持っていることになります。人は、このような心を表現する人を憎みませんし、攻撃もしません。仮にその人が間違っていても、代わりにまわりの人がかばってくれるのです。こういう人を徳のある人と呼びます。

ところが、普通の人が正直に素直に生きようと思っても、それはなかなかできません。「この人はこういう人だ」と思っても、「そんなことを言ったら、逆に叱られてしまうのではないか、自分が損をするのではないか」と余分なことを考えてしまうのです。そうやって自分の損得を考え、相手の想いを勝手に膨らませて、正直を伝えずウソをつくのです。そうすると、本当に正直になるには勇気がいるのです。勇気がいるということは、やはり信じていなくてはいけません。その信じる時に、ほとんどの人は条件付きで信じようとするのです。「これをしたら自分が良い思いをする」とか、神社に行って「ご利益をもらえるのなら信じる」と思っているのです。しかし、信じるということは、わかったらやるとか、約束をしてくれたらやるということではないのです。わからないけれどやる、というのが信じることなのです。木の花のメンバーも、一体全体自分たちがどこへ向かっていくのかわからなくても、大事だと思うからこれまで歩んできたというのは、信じる心があるからです。つまり、信じることは、素に戻る、常に変わらない自分の大元に自分が直ることです。そうすると、正解がどうなのか、行く先が良いのか悪いのかはわからなくても、ただ正直に素直に生きていくことが、信じる心のベースにあるのです。信じる心ができると、勇気が湧いてきます。そうすると、とてもたくましく生きていくことができます。それは覚悟ができていることでもあるのです。

そうすると、知意行の元の心である決意ができて、それで人は道が開かれていくのです。カタカムナでは「知意行一体」といって、知は知ること、意は決意すること、そして行は行うことです。その三つが一体でないといけないのです。そうすると、最初に知ることが必要になり、その知る内容によって決意するレベルも変わってきます。そこで、まずは何を知るか、次に知ったことに対してこれは大切なのだから行じていこうと決意し、行いになるのです。そうすると、人は言行一致の人になります。言行一致の人は言ったことを行うのですから、これを正直な人生というのです。言ったことをやらなかったり、思ってもいても出さないというのは不正直であり、知意行一体にならないのです。この知意行全てをマスターした段階に至った人は、ものをグルグルと考えなくても、直観で物事を判断できるのです。ですから、知意行一体の後に初めて直観が湧いてきて、考えるよりも鋭い真理が湧き出してくる人になるのです。

同じように、正直・素直・信じるは三位一体なのです。一つずつではダメなのです。正直と素直と信じるがセットになって初めて意味があるのです。

 

2015年1月25日 ケア滞在21日目

朝、かずこちゃんに中神倉庫まで送ってもらった。かずこちゃんが、昨晩いさどんと僕のノートのことで話をした、と言っていた。かずこちゃんは「メンバーでも慶晃くんほど心を振り返ることができていない人もいる」と言った。僕は「メンバーの人達と僕とでは日常の作業量が違いすぎる。僕は心を見る余裕がいっぱいある。それにちょっと作業をしただけでも、心を見る精度も頻度もガクッと落ちる。いさどんはメンバーの人達に、それでもやればできるはずなんだよ、それほどあなたたちは素晴らしい人達なんだよ、と伝えて期待しているのだと思う」と言った。この話を終えて、一人中神倉庫で車から下りた。この時、自分に違和感を覚えた。自分の言いたいことに気を取られ過ぎて、かずこちゃんの話を丁寧には受け取っていなかった。こういうコミュニケーションではダメだと思った。自分が強い。

~いさどんからのコメント~

素晴らしい振り返りです。日常の生活(行動)に生かしていきましょう。

午後の作業が終わり、家に着く。外でたかちゃんと話す。たかちゃんはこう言った。「今日カトケンに違和感を感じた。いつもよりとても作業が雑で荒かった。あまり良い感じではなかった。でも言えなかった。正直に出せない。言ったら悪いのではないかと思ったり、出さないほうがいいのではないかと考えたりしてしまう。おやつの時カトケンに、道の真ん中ではなくもっと端でしたほうが良いと思ったけど、言えなかった。結局ひろみちゃんが、もっと端じゃないと邪魔だからと言って、端に移った。その時、正直に出してもいいのではないかと思った。でも、正直に出せない自分がいる」とたかちゃんが伝えてきた。それを聞いて僕は「たかちゃんが出さないほうが良いか悪いか考えても、それはたかちゃんの枠の中で考えているから、結局わからない。出せば、結果が見られるから、それでわかるかもしれない。わかりたかったら、考えないでそうしたほうが良い。カトケンも自分を振り返るきっかけになったのかもしれない。たかちゃんは僕に違和感を感じたかを聞いたけど、僕はカトケンを見ていなかった。あの時あの場でそのカトケンを見ていたのは、たかちゃんだけだったのかも。そのたかちゃんだけの視点が集団に加わると、その視点がプラスされて新しい何かが生まれるきっかけになることもあると思う。おやつの時の話もたかちゃんが正直に出していたら、正直に出したリターンを感じられたと思う。前にたかちゃんが、自分を好きになれないと言っていた時にアドバイスしたことは、そういうこと。正直に出してその反応を受け取ることで、自分を認めて自分を好きになれることにつながる。(今日は良いチャンスだったというニュアンスで。)

それから、たかちゃんの話の中でひっかかることがある。それは正直に出せないという言葉。出せないのではなく、出さないが正しいと思う。以前いさどんが、人は毎日3000回の選択をしていると言っていた。その言葉をそのまま受け取るとしたら、みんな常にやる、やらないの選択をし続けているということ。だから、やるかやらないかしかなくて、できないということは現実にはありえないこと。できないことは他の何かにそうさせられているというニュアンスがある。でも、本当はできなくなる元の心があって、その心は自分が持っている心。その心があって、やらないことを選んでいることが事実だと思う。」

僕がそう言うと、たかちゃんは「確かに僕の中に人にどうにかしてもらおうとか、甘える心がある。何かのせいにしている心もある」と言った。僕が「それは本当に自分の中を見て言っている?」と聞くと、たかちゃんは「うん、自分の中にある」と言った。それから、「やらないという言葉を使うとスッキリする。やらないという言葉を使っていけば、できないではなくやらないと思えるようになる?」と聞いてきた。そこで僕は「自分の心を見ていけたら、できないではなくやらないことがわかってくるかも。やらないという言葉を使っていくと、そう思えるようになるかもしれないし、それは僕にはわからない。たかちゃんが色々やってみたらいいと思うよ。それから、僕の話だけではなく、色々な人の意見を聞いてみてね。僕は僕の経験と僕に合うやり方を持っているだけかもしれないから、それがたかちゃんに合うかどうかわからない」と答えた。

その時、長期滞在中のまもるくんが話に入ってきて、「何を話しているかわからないけど、結果は結果でブツブツ・・・続けていけばブツブツ・・・」と言ってきた。たかちゃんはその時イラッとしたらしい。まもるくんはそういうことをよくしてきて、そのたびにたかちゃんはイライラすると言っていた。でも、そういう時正直に出さないことが多いと言った。イライラを相手に出すと悪い気がするし、相手の顔色を見て卑屈になって言えなくなったりすると言っていた。そういうイライラしている時も言っても良いのか?と聞かれ、それも出してみないとわからないと答えた。

「いさどんは『自我がないと、行為は自分のためにも相手のためにもなる』と言っていたけど、自我があっても結局お互いのためになっている気がするし、それはわからない。僕もまるるくんにちょっと違和感を感じたけど、まもるくんの顔に変な空気はあまり感じなかったから、何を伝えたいのか聞いてみた。それで、結果は気にしないで続けていくことが大事だと言いたいの?と聞くと、まもるくんはうんと言って、スッと消えていった。そういう感じで僕は今自分が思ったことを行動してみた。たかちゃんもそんな感じで色々やってみたらいいよ。客観的にといさどんも言っていたでしょ?外にもう一人の親のような自分がいる感じで、こういった会話を聞いていて、『いいぞ、たかちゃん、いいやり取りをしているね』とか、『こういう時どう選ぶの?』とたかちゃんを想って見守っているような感じ。そういう視点をつくって自分の今を見るといいよ。客観的に見るということはそういうことだと思う。それから、今日のおやつの時のやり取りでもあったけど、この世界はまわりで全部うまくいくようになっているから、力を抜いて気楽にやっていったらいいと思うよ。僕もすぐ固くなるし、そういう時は特に力を意識している。」

・・・というような話をしました。たかちゃんはちゃんと聞いてくれました。

~いさどんからのコメント~

良い役割をありがとう。ミーティングでシェアして下さい。

今日は課題の部分はできたと思います。一日良い感じだったと思います。書かなくても良いような日常のやり取りも書いてみました。こんな感じで過ごしましたということを伝えたくて・・・以上です。

~いさどんからのコメント~

一日を何の滞りもなく過ごせることを目標にしましょう、とよくケアの人に伝えます。その余裕の状態には沢山の学びがありますね。

 

2015年1月26日 ケア滞在22日目

昨晩、いさどんにノートを返してもらって部屋に戻った後、「しまった!」と思った。昨日のノートのコメントについても書こうと思っていたのに、書き忘れてしまった。自分の書きたいこと、伝えたいことに気が行き過ぎていて、もらったコメントに対して書くことを後回しにし、ついには忘れてしまっていた。少し落ち込んだ。今はまだそういう自分。そう思って寝る。

一昨日のコメントで、「大人の捉え方をすると、別の考えも出てくるのではないですか」とありました。大人達は子供の成長をあたたかい心で見つめ、共に日々の出来事を楽しんでいると思いました。その中で成長に邪魔なものをチェックし、子供のためにそれを伝えるという大人としての態度も持っています。子供達が正直で素直にその場にいられるような大人のあり方も問われていると思いました。客観的に見てみると、良い関係性でスムーズな人間の循環が表れていると見えました。

~いさどんからのコメント~

そうですね。木の花の子育てもだんだん成長しているのでしょう。

午前中、話し込み過ぎてまわりを忘れる時があった。その度にひろみちゃんが作業に引き戻してくれた。まわりを忘れるのは、分析すること、人に意見を聞いてもらうことに悦を感じているからだと思う。自分勝手な思い込みとウソがストレスや不満の元。それらを減らして意識を広げて色々なことができるようにしていく。

~いさどんからのコメント~

自分の中にある本当とウソは自分が一番良く知っています。コントロールすることも自らの力です。コントロールする力を身につけましょう。

~慶晃くんからのコメント~

はい。

中神倉庫へカトケンと向かう。カトケンに「お願いがある。声が小さくて聞こえにくいことがよくある。もっと聞こえるように声を出して欲しい」と伝えた。「言ってくれてありがとう」とカトケンは言ってくれた。思っていたことは伝えたが、うまく伝わるように、気分を害さないようにという思惑がある。それが言う時、言い方に表れている。正直を出したとは言えない。

~いさどんからのコメント~

正直に素直を足して考えていくことですね。

~慶晃くんからのコメント~

そうですね。正直ばかりに意識が行っていました。

食後、あわちゃんに声をかけられる。昨日いさどんと面談をしたこと。僕の話が出たこと。僕の言葉に反発していたこと。共に学ぶ仲間として思っていること。ここはあたたかい場所だということ。そして、これからもヨロシクと伝えてくれた。僕もヨロシクと伝えた。

~いさどんからのコメント~

良い役割をしてくれていますね。

最近、私の意見を聞いてくる人、ノートを見せて欲しいと言われる機会が増えている。いさどんの話の影響が大きいのだろうけど、そういうことがあるということは謙虚な心を忘れずにいるということだと思った。こういう状況にとまどいはある。行動が伴っていないところが多いから。行動を伴わせていくきっかけとして捉えることと、これまでの行動があるからこそ今の状況があると理解しておこうと思う。

~いさどんからのコメント~

それで良いですね。

お風呂場でこうちゃんと隣になった。こうちゃんが話しかけてきた。「このあいだ言われたこと。僕がなかなか自分を捨てられない、捨てたと思っても次々と湧いてくる、捨てるということがどういうことがわからない、いつまでたってもそうである自分が嫌だと言ったことに対し、慶晃くんは自分が嫌だという自分を所有していると思った、それを所有していると次に同じような現象が必要になってくると思ったと言っていたよね。あれはその通り。捨てていくことと方向性を持つことだね」と言っていた。僕が「方向性と聞くと先のことを考えて不安と恐怖が出る」とこうちゃんに伝えると、「方向性というのは時間軸のことではなく、視点のことだよ」と教えてくれた。自分意識か地球意識か宇宙意識かということを説明してくれた。なるほど!と思った。とても良い話を聞いた。先への恐怖は、はっきりとは見えない。ただ、先を考えると自分にとらわれる。今に向き合い、意識を広げると、とらわれなくなる。とりあえず意識を広げるツールとして、先への恐怖を扱っておく。

~いさどんからのコメント~

その時その時、今を生きることです。先案じはエネルギーの無駄使いです。

~慶晃くんからのコメント~

はい、気をつけます。

色々書きましたが、心を見ることをしていないと思う。書いている内容が薄いような気がしている。そういう気がして、いさどんのコメントを読み返してみた。ケアとしては上出来かなと思った。

~いさどんからのコメント~

そうですね。他の人の見本にもなっています。しかし、心を磨いていくことは一生のことですから、いつも心掛けていきましょう。

 

2015年1月27日 ケア滞在23日目

今日はケアがスタートしてから三週間が経ったので、面談があった。いさどんからは、あと一週間でケアを卒業することを視野に入れて、今後の方針を決めていくことが次の課題として与えられた。今の状況に執着がある。今、結構楽しいというか、楽しくなってきたばかりだから、次のステップに行くのに後ろ髪を引かれる思いだ。先をどうするかは考えるし、アンテナをはっておこうとは思っている。でも、そういう心があるのは事実・・・と今日のミーティングでもみんなに伝えました。知意行一体の話を聞いて、決意ができないのは正直・素直・信じるが少なくて、たくましくなっていないからかなと思いました。とにかくアンテナをはっていれば、何かしらひっかかると思うので、ひっかかったものを元にして考えていきます。

~いさどんからのコメント~

そうです。特に正直・素直・信じるの信じる心です。「感情を抜きにして物事を観る」ことですね。

 

2015年1月28日 ケア滞在24日目

朝、ちょっと鬱っぽくなる。やる気が出ない。嫌だ嫌だとなっている。正直・素直・信じるから逃げたい。自分自身の妄想に負けている。今日だけのことを考えると気持ちが晴れるが、温泉につかっている状態から出たくないという感じ。それでも31日の富士浅間木の花祭りのことを考えると、ワクワクする。自分が変化するポイントになる気がするから。花祭りはポイントにならないかもしれないけど、先の自分の変化を楽しみにしている自分もいる。枠にとらわれたり、開放されたり、そういうことが面白い。

~いさどんからのコメント~

そうですね。自分の中にある色々な所も楽しんでいける余裕を持てるといいですね。

~慶晃くんからのコメント~

そういうスタンスを崩さないようにやっていきます。

午前中、中神倉庫で作業。作業しながら話をした。色々話したが、くわっちに「覚悟を決めるだけだね」と言われた。たかちゃんも覚悟を決めて、2月15日から開催される1ヶ月間の真学校に臨んでいると言っていた。覚悟を決めること、それが課題。

~いさどんからのコメント~

ワッハッハー!まだそんなことが課題になっているの――!!

~慶晃くんからのコメント~

なっています。一番の課題です。勇気を出します。

今日は大人サミットに参加していたけんくんがここに来ていた。大人サミットの時、僕があっくんのことを日記でシェアした後、けんくんも子供のことで色々考えていると教えてくれた。悩んでいるようだったので、僕もここに元パートナーと子供と来た経緯やその時の思いを話したことがあった。今日の昼食中けんくんと話し、色々と心の見方の話をした。その話の中で、どうしてその状況を選ぶのかという元の心を見ることも大切だねという話が出た。僕は自分を育て直すためにここに来た。ここには人を育て直す秘訣があるから、ここに来たはず。それを取り入れないでここにいることは、意味がない。大人サミットに始まって、大人になって終わる。そういう道筋にしていく。

~いさどんからのコメント~

それは良い心構えですね。

~慶晃くんからのコメント~

ありがとうございます。みんなのおかげです。

自分で考えて先のことを決める一週間。いさどんのコメントを読み返してきっかけを探る。「その時その時、今を生きることです。先案じはエネルギーの無駄使いです」とあった。その通りと思い、とりあえず今日は今日のことをする。ひょっとしたら決意さえあれば、考えることなく目の前に現れることなのかもしれないと思った。

~いさどんからのコメント~

その通りです。

作業の帰りにかずこちゃんと話す。かずこちゃんに滞りが起きて、自分を見ようとしていると話をしていた。かずこちゃんの話をいさどんの言葉を元に解説してみた。お互い色々あるね、と言って別れた。今までよりもっと心を見ようとしている人が増えていると思った。そういうことを促す役割を僕はしているのだろうか。知意行の知はある程度は入ってきていると感じる。次は意です。

~いさどんからのコメント~

みんな、お互いのことに刺激を受けているのだと思います。

~慶晃くんからのコメント~

そうなのですね。僕もそうです。お互いにお互いが価値のあるものなのです。

食事中、まり姉が声を掛けてきた。僕に色々見てもらいたいと思ったけど、自分自身で天意を降ろすように気持ちを持っていったと話してくれた。まり姉は改めて天意を自分で降ろすことを決意したのだと思った。そして、上を見過ぎずに今あることを見て、階段を一つ一つ昇っていくことが一番スムーズだよと教えてくれた。まり姉の姿勢とアドバイスに感謝。

~いさどんからのコメント~

道理には、天の理と地の理とがあります。いずれその両方が得られると良いですね。

ミーティング前にあわちゃんと話した。あわちゃんの前向きな気持ちに背中が押される思いがした。

~いさどんからのコメント~

それは良い関係に育ってきましたね。

 

2015年1月29日 ケア滞在25日目

午前中、ひろみちゃん達と落ち葉かきをした。少しだけど桜の花が咲いていた。ひろみちゃんが「若い咲きだ」と言った。それから、「今の時期は地上のほうが冷たく、地下のほうがあたたかい。植物はこの時期、地面の下で大きく根を広げていく」と話してくれた。この話を聞いて、自分自身もまだ今は地に足をしっかりとつけていられるように、根を広げていく時期なのだろうか?早く咲き過ぎないように見極める必要があるのだろうか?何を決意したらいいのだろうか?と色々考える。くにさんに「なるようになるよ」と言われ、そうだと思い、考えるのをやめる。

~いさどんからのコメント~

それは良いことに気付きましたね。シンプルなことが一番楽です。

午後は味噌作り。作業も淡々とこなし、コミュニケーションも表面上は問題なくやり取りするが、気分は優れない。自分にとらわれていると思いながらも、ずっととらわれたまま。ここに来る前での社会にいた時の感覚を思い出す。今、社会に出てもまだうまくやっていけないかもと思った。焦らずに様子を見ることにする。

~いさどんからのコメント~

今までの経験を元にして、未来に不安を持つのはやめましょう。未来はこれから創っていくのですから、あなた次第です。

~慶晃くんからのコメント~

はい、わかりました。

 

2015年1月30日 ケア滞在26日目

ぼーっとしている時が多い。作業は淡々とこなす。話をして楽しかったりそうでなかったり。今まで習った世界観があまり感じられなくなっているような感じ。あわちゃんに「社会に出たら何の仕事をしたい?」と聞かれ、「仕事はしたくない」と答えた。付け加えて「ただ、ゴミを拾いたいとは思う。落ち葉かきに行っても、ゴミのほうが気になる。空き家でもみんなつぶす時はぐちゃぐちゃにして埋めたりするけど、僕は分別して片づけた。そういうようなことだったらしたい」と答えた。あわちゃんは「面白い考えだね。人の為につながることだしね」と言った。僕は「人の為という気持ちは全くない。ただそうしたいと思うだけ」と言った。自然の中に人工的なゴミが落ちていると、それがすごく気になる。そういう教育を受けてきて頭にこびりついているのだろうか?自分の心が投影されているのだろうか?よっぽどキレイにしないといけない心なのかな?と思った。あまり深くは考えないけど、それをお金にはしたくないとは思う。

~いさどんからのコメント~

面白い!人は生きる為といって、この世界を汚します。そして美しくすることを良いことにするのです。

この人はちょっと嫌だなとか苦手だと思っていると、その人と一緒になって話す機会が与えられることが多い。そして、苦手意識が無くなったり、少なくなったりすることが多い。面白いと思う。

~いさどんからのコメント~

それが天に通じている人の現象ですね。

一昨日のコメントで、「道理には天の理と地の理とがあります」とありました。大人サミットで少し話があったように思いますが、覚えていません。簡単に説明してください。

~いさどんからのコメント~

天の理=宇宙の理・法則=地球の外から来る上から降りてくる理

知の理=地球の法則=地球引力の範囲=地上から上へ昇っていく理

簡単に説明すると、このような感じです。

 

2015年1月31日 ケア滞在27日目

今日は富士浅間木の花祭り。鬼の舞では、元々、鬼の役割ではないメンバーやゲストも一人ずつ前に出て、鬼の舞を体験する機会があった。祭り終了後、お風呂でこうちゃんが「自分にこんなエネルギーがあるとは思わなかった。ストッパーがかかっていたのだな」と言っていた。それを聞いて、僕も自分にこんなにエネルギーがあるとは思わなかったと思った。感情にとらわれたり、保身を考えなくてもいい場では、こんなにも力が発揮できるのだと思った。逆に、どれだけ日常でとらわれや保身にエネルギーを使っているのかと思った。

~いさどんからのコメント~

そこがポイントでしたね。

それからこうちゃんは、「みんなの前で踊った時、最初は慶晃くんの眼鏡が曇っていたけど、踊っているうちに曇りが取れたね。目の曇りも取れたかね」と冗談っぽく言ってきた。眼鏡の曇りが取れた時、目の前には自分を見守り応援しているみんなの姿があった。この世界の本来の姿はこうなのだと教えてくれたような気がした。こうちゃんの話を聞くまでは、とらわれていて祭りを振り返ることができていなかった。何にとらわれていたかというと、トランス状態なる人がいたり、それに自分も乗れることを期待していて、それができなかったことにすごくがっかりしていたこと。こうちゃんの話がなかったら、自分自身では振り返ることができなかったかもと思った。未熟すぎると思った。

~いさどんからのコメント~

道は自分で開いていくものです。その時にまわりの人やこの世界が応援してくれていることに気付けば、なお豊かに感じるものです。

祭りの最中、人に変に思われるのではないかとか、優れていると思われたいということにとらわれた。とらわれるとまわりから切り離されて一体になれない感じがした。それを手放すと、また一体に戻れる。祭りは自我にとらわれることと手放すことを簡単に体験できる場でもあると思った。

~いさどんからのコメント~

そうですね。毎日マツリの精神で生きていきたいものですね。

~慶晃くんからのコメント~

そう思います。

昨日のコメントで、「人は生きる為といって、この世界を汚します。そして美しくすることを良いことにするのです」とありました。これは美しくすることは良いことではないのに、良いこととして勘違いしているという意味ですか?

~いさどんからのコメント~

そうですね。本当のことがわからず勘違いしているということです。

昨日のコメントでの天の理と地の理には順序がありますか?

~いさどんからのコメント~

同時に成立しているものですが、どちら側に強く意識しているかで順序が生まれてきます。

今日の日記は面白い興味ある内容です。ミーティングでシェアして下さい!

 

2015年2月1日 ケア滞在28日目

午前中、あやちゃんと直売所の大富士に言った。あやちゃんに「慶晃くんの話は聞いた人のプラスになっている」と言われた時に、僕は「そういう時期はもう終わったと思う」と答えた。ここ数日で自分の言葉と心の差の大きさを意識することが多かったから。昨日のミーティングでも、みんなが大事にしていることを僕がどれほど大事にできているかと言えば、ほんの微々たるものだと感じた。それに身につけていないものを語るのは、とても後味が悪い。これからしばらくは身につけていくことがメインの日々が来るのだろうという思いがあった。

~いさどんからのコメント~

これからが本当の勝負ということですね。

 

それから、午後に畑でこうちゃんとひろみちゃんと話をした。その時、僕の話でこうちゃん達にも気付くことがあったみたいで、先に、そういう時期はもう終わったとか、これからは・・・と思うのも自分なりの思い込みで、僕がどう思おうか関係ないのだと思った。いさどんが言っていたように、お互いのことに刺激を受けていくものなのだと思った。

~いさどんからのコメント~

人は完全ではないので、互いに補い合っていくことが喜びにつながりますね。

~慶晃くんからのコメント~

僕も補えるのですね。その通りだと思います。

こうちゃんとひろみちゃんに昨日のミーティングでシェアしたノートの内容を聞かれて、話をした。その後に作業中に感じたことを話した。集中して作業をしていても楽しくなく、つまらない感じがしていた。その時、昨日の祭りのことが頭に浮かんだ。まわりのもの(マルチ、黒マルくん、作物、山等々)はどのようなものを奏でているのだろうか?それぞれ何かのパートを持っていて、自分も何かのパートを持っている。そう考えて、何かを奏でるようにまわりの響きに合わせる気持ちで作業をしてみる。そうすると、作業が楽しいものになった。この話をこうちゃんにした時に、こうちゃんは「虫も微生物もみんな喜びたいと思っているんだよ」と話していた。こうちゃんの世界観は広くて深いと思った。そういうコメントをもらえるのも、自分の世界観を広げることにつながって、他の人の意見というものは良いものだと思った。

~いさどんからのコメント~

人は自らの意識と近いものと話が合い、通じたいと思うものです(類は友を呼ぶ)。高い意識でありたいと思います。

今日は流れであやちゃんと直売所に行くことになり、一般社会を色々と目にした。お風呂であわちゃんに1ヶ月間の真学校の前身の昨年の講座の経験について聞いた。何やかんやと情報が入ってきたり、今までと違った事柄が起きてきて、新しいステージが迫っていると感じている。

~いさどんからのコメント~

希望を持って未来を生きたいと思います。正直でいれば、その為の人や出来事に出会うものです。

~慶晃くんからのコメント~

意識して行います。

 

2015年2月2日 ケア滞在29日目

朝は中神倉庫で収穫隊の手伝い。その後こうちゃんと宮ノ下へ行く。腐葉土の移動をする。午後はこうちゃん達と竹を取りに行った。竹を取る作業が終わって長靴を見ると、両足とも切れたり破けたりしていた。荒れた竹藪を強引に進んだせいだと思った。ひび割れもあったので、こうちゃんは「寿命だろう」と言った。そうかもしれないと思いつつ、心の現れだろうとも思っていた。破けた長靴を見ながら、作業中のことを振り返った。ヤッケや長靴を破かないようにとは何度も思った。そう思っていても、成果を上げて満足したいとか、良いように思われたいという思いから丁寧に配慮して作業を進められなかった。子供ミーティングで物をすぐに捨てたり大切にしないという話が出た。身のまわりの物があるから、毎日の行いを行うことができている。そういう気持ちが僕にもなかったと、子供ミーティングを見ながら改めて反省した。

今日一日作業はこなしたが、心が遠くに行っている感じがした。正直に出して素直に受け取ることをしていないせいだと思う。正直を出さなければ出さないほど、この世界から切り離されてしまう。ふと思ったこと、自然を見て感じたこと。出さずに心の中で一人思っておくことが当たり前になり過ぎている。出さなかった、出さなければ、取るに足らないことだからまあいいか・・・と色々思考がまわるうちに、場面は変わり、時を逃す。不満と自己否定感が残る。ものすごく小さなストレスだが、気付かないうちに溜まっていって、それがいつのまにか心の重荷になっている。余裕が出てきていて、ストレスがありつつも日々の作業はこなせているし、気持ちの切り替えもできてきている。そういう過ごし方をしていることが、全般的な気持ちの停滞を生んでいるような気がしている。このままこういう状態や感情に流されていくと、同じことを繰り返すことになりそうだと思った。客観的に見ながら、流れを見て、次の波に乗っていくことだと思う。お風呂でやじおさんやりょうちんに話を聞いてもらって、今の自分の状態を確認できた。決して悪い状態ではない、良いと思うと伝えてくれた。少し安心した。

~いさどんからのコメント~

小さなことのようで、意味深いことです。毎日その精神でありたいものです。

~慶晃くんからのコメント~

そうなのですね。意識して行動につなげていきます。

いさどんからノートにコメントをもらうことで、ものすごく背中を押してもらっています。いさどんからもらった言葉を他の人に伝えるだけで、その人は元気になることが多いです。とにかく、私の目的は大人になること。逃げたい気持ちもありますが、そうなるまでは取り組みを続けます。その後はその時に決めますが、その後はいさどんがいなくても自分で背中を押せるように、押すような背中がないようになることを目標にしたいと思っています。

~いさどんからのコメント~

それは楽しみなことです。これからもっとあなたらしいあなたを生かしていって下さい。

 

2015年2月3日 ケア滞在30日目

昨日のミーティングでは、木の花ファミリーブログとして掲載されたのんちゃんの「ありがとう」の物語がシェアされた。ミーティング後、のんちゃんに「僕ものんちゃんみたいに感謝できるようになりたい」と言った。のんちゃんは「一緒に感謝しようね」と言った。それを聞いてハッとした。そうか、そうすればいいだけか、と思った。

~いさどんからのコメント~

そうですね。

お風呂でカトケンと話をした。カトケンが、畝立て機が左右にぶれないように気を付けることを通じて、感情に左右されないで物事を捉えていくにはどうすればいいかに気付いた、と言っていた。それができると正確にありのままを人に伝えることもできて、それで人の為にもなれると言っていた。どうしたらいいかというと、感情が出る前に察知して、左右される前に用意しておくということだった。僕が「客観的に自分を見ていて感情が出ても、すぐに修正する感じ?」と聞くと、「出る前に察知するんだ」と言っていた。それはすごいと思ったが、自分にはすぐに取り組めそうにないので、感情が出てから早いうちに修正ができるようにしようと思った。感情というものがもっとはっきりとわかってコントロールできるようになったら、カトケンの言うようなこともできるようになるのかなと思った。

~いさどんからのコメント~

物事が起きる前に予感がするということですね。

 

~慶晃くんからのコメント~

なるほど、そういうことですか。その予感を信じて行動できる人になることも大切だと思いました。

今日はいつもより少し早目に作業が終わった。僕は個人のパソコンを持っている。部屋に戻った時、漫画のサイトを見たり、遊びのサイトを見たりしたくなった。時間を無駄にするとか、不要な価値観に触れるとか、今の取り組みのスタンスからずれると思ったけど、20分ぐらい見続けていた。そうしているうちにゆうくんが部屋に戻ってきた。知られたくなかったのでこそっとパソコンを閉じた。隠していて出さないことで軽くうなだれていたら、ゆうくんが「どうかした?」と聞いてきた。僕は「何でもない」とウソをついた。ゆうくんが入ってきてくれて良かった。その出来事があったおかげで、自分を取り戻せた。今晩は1ヶ月面談があるけれど、まだまだ他人の力を必要としている。

~いさどんからのコメント~

たまには世間の情報として、そして自分の一面を観る為にも良いのではないですか。

~慶晃くんからのコメント~

そうですか。もっと柔軟に物事を捉えられるようになるといいですね。正直でいさえすれば良いことなのかなとも思いました。

夕食中にみっちゃんと話をした。みっちゃんは気管支炎を患っている。もっと早くに気付いて対処していれば、こんなことにならなかった。そうできなかったから、こうして現象をもらっていると言っていた。さっきの部屋のことを思い出した。いさどんの話にもあったけど、客観的に自分を捉えて一人でも自己をコントロールしていくことと、そのことにつながる広い世界観を受け入れることがもっともっと必要だと思った。これまでもそれが課題だったけど、まだまだできていない。今日はそのことに関する話が多かったと思った。自己コントロールの精度を上げていくことを今後一週間の課題にする。

~いさどんからのコメント~

そうですね。世界観(宇宙観)は無限の探求の旅ですね。そして、それが深まり世界が広がっていくと、心に余裕が出てきて、物事が良く観えるようになってきます。

~慶晃くんからのコメント~

そういう気がします。それを元に行動できると、今と違ったものを現せそうな気がします。そうできるようになることが今の僕の課題です。

 

2015年2月4日 ケア滞在31日目

昨日の面談で卒業が決まり、今日の夜に卒業コンサートをしてもらうことになった。今日の午前中はカトケンと作業。ケア滞在中の作業は、カトケンに始まりカトケンに終わった。こういうのも縁だと思う。カトケンと作業中に学ぶってどういうこと?真実を知っていくことかな?自分以外もみんな自分だよね。そう考えると、結局存在するのは自分一人だけ。一人で何をやっているのだろうね。人生はそういうゲームなのかな。カタカムナや地球暦などのアイテムを手に入れながら、色々な人に情報をもらって進む冒険ゲーム。あえて真実を知らない状態にしたり、間違いを覚えている状態にして、真実を知る遊びをしている。一人妄想の中で。本当に僕達は何をやっているのだろうね、と笑いながら作業をした。

~いさどんからのコメント~

そうですね。僕は神様から「あまり真剣になるな、ゲームじゃからな」と言われました。本当だとつくづく思いました。

 
 

≪卒業式で読み上げた慶晃くんのケア滞在記≫

ケアを決める時も、またケア滞在中も、僕の前にケアを卒業した人たちのケア滞在記を読み直しました。それに何度も背中を押してもらいました。だから、僕の滞在記がこの先ケアを受ける人が出てきた時に何らかの足しになるように、そういう思いで書いてみました。

感謝
主治医のいさどん、ケア担当者のようこちゃん、サポーターのゆうくん、そしてメンバーとそれ以外の皆々様、どうもありがとうございました。おかげさまで、本日を持ってケアを卒業することになりました。

ここに来た経緯
そもそも今回僕がケアを受けることになったのは、社会の中にうまく馴染めずにいて、うつ状態のようになり、どうにもならなくなったからです。病院での治療や数々のセラピスト、ケアサポートグループ等も頼ることがありましたが、思ったような成果は上がりませんでした。人を信じられなくて、人と繋がることができなくて、一人、世界と切り離されて暗闇の中を生きていました。そういう経緯があり、以前訪れたことのある木の花ファミリーに救いを求めてやってきました。

ここに来た当初
ここに来た当初は、ここに来る直前よりも状態が悪化して、被害妄想や先取り不安、自己否定にとらわれ続けていました。嫌われている、変に思われている、自分は受け入れられていない、ダメな人間だ、人と関わるのが恐い、そう思いながらずっと布団の中に閉じこもっていました。当初はとても苦しかったけど、今思うと、そうであって良かったと思います。自分の心の闇がそこで大きく出たからこそ、そのことに対して取り組むことができて、先へと進めた気がします。

回復への取り組み
そんな僕に与えられた取り組みは、いさどんとノートのやり取りをすること。日々思ったことやどう過ごしたかということを日記形式でノートに綴り、それに対していさどんからコメントをもらう。そのノートを通して、自分自身を知ること。自分が持っている考え方や繰り返し続けている行動を知ること。その考え方や行動のきっかけになっている心を知ること。頭の中にあることと事実とのズレを知り、正していくこと。ズレが正されていくことで、どういう現実が現れるか、現れた現実をどのように感じるかということを体感すること。

この取り組みを毎日続けることで、知らず知らずのうちに状態は改善されていき、1ヶ月でケア終了となりました。

自分自身の状態に合わせて過ごし方や取り組み内容を柔軟に設定してもらえたので、スムーズに順調に進むことができました。不思議といつも丁度良いタイミングで丁度良い人や出来事が現れて、トントン拍子にケアが進みましたが、それはここの人々の多様で柔軟な人間性と活動がケアの基盤となっているからだと思います。

ケアを受けるにあたって、主治医のいさどんとサポーターのゆうくんだけでなく、メンバーの皆さんや大勢の滞在者、来訪者の皆さん、ここの子供達すべてがケアを進めるサポーターとしての存在になってくれていたと思います。

1ヶ月というケア期間でしたが、この1ヶ月はとにかく自分自身と向き合う1ヶ月。出会う人達と出来事を通して、いかに己を見るかという1ヶ月でありました。その中で、僕が社会の中で人間不信になり、世界から切り離され暗闇の中を生きていたのは、自分自身にその元があるからだということを知りました。

ケア期間中にケアを受ける立場としてはとても良い評価をもらえることもありました。でも、僕は他のケアの人より優れていたとは思えません。僕が木の花に出会ったのは27歳の時。今年で10年目を迎えます。

何となくここを訪れて、ちなっぴーに声をかけられて、いさどんとまりちゃんに面談してもらって・・・。「何かをする前に心を正したほうがいいね」と言われて、その日からここに住み込むことになって・・・。それから木の花との縁が始まりました。当時はいさどんも毎日畑に出ていて、一緒に作業することも度々ありました。一緒に作業しながら神様の話をしてもらったり、「まわりの影響を受けないように過ごせるようになることだね」とアドバイスをもらったり、「繊細かつ大胆に」とレイキやQホーの扱いを教えてもらいながら心の在り様を教えてもらったりしました。

そういうところから始まって、逃げ出したり、またここに来たりしながら、10年目にしてようやく自分と向き合う気になり、卒業を迎えることができました。それほどに出来が悪く歩みが遅い自分ですが、だからこそ培われたものがあると思っています。そういった経験がこれから先、何かに生かされていったら嬉しいです。

いさどんといると妙なことばかりが起きますが、それがだんだん面白くなってきました。いさどんがなぜこれほどまでに人に愛されるか、僕なりに感じることがあります。

多くの事実を知っている。みんなを率いていく力がある。みんなを誰よりも深く愛している。いろいろあると思うけれど、1番はそういう全部をひっくるめて、この人といると面白いからなんじゃないだろうかと思っています。

この先、定められたシナリオをなぞっていくだけの人生なのかもしれないけど、そうやって生きていく中で真実を知っていく。もしくは思い出していく毎日を、肉体が尽きるまでは続いていくのだろうと思います。そういう毎日を楽しんで歩んでいこうかと思います。

 

≪いさどんからのコメント≫

今まで色々な人達のケア担当をしてきましたが、今回の慶晃くんのケアは途中経過だと思っています。通常ケア滞在というのは、その人やその家族の健全を図って進んでいくものですが、今の慶晃くんの全身からは道の探求ということが漂ってきています。そういう意味で、心の探求の同志が一人現れたようにも思っています。ここまで理屈っぽくネガティブな人がそのエネルギーの方向を変えると、そのネガティブなエネルギーは道を探求するポジティブなエネルギーにそのまま変わるのです。

心の方向が低く重く沈んでいけば底なし沼にはまってしまうことになるのですが、逆に、高く軽く広くなっていけば希望が湧いてくるのです。ですから、ただ心の向く方向を変えればいいだけであり、そのことに気付けば簡単なことなのです。面白いもので、人間は気持ちが落ちていくとどんどん卑屈になっていき、自分でのめりこんでいくのです。そのようなことを喜ぶ人はいませんが、それはその人の卑屈なエネルギーがそれをさせるのです。ところが、今度はそれが高くなっていくと、それが希望になって、喜びが自らを引き上げてくれるのです。ということは、エネルギーを向ける方向を間違えたらいけないと思います。この途中経過の卒業式の次に慶晃くんは2月15日から始まる1ヶ月間の真学校を受講することになっています。

そして、そのプログラムを通して真の人間力を身につけ、自らの意志をしっかりと確立し生きていく喜びに目覚めてもらうことが次のステージとなります。今回1ヶ月間の真学校は第1回目の開催となりますが、慶晃くんたちのようにケアを卒業した人が参加することは、とても大きな一歩になると思っています。そこに参加する十数名の人達と共に場を創っていこうと思っているのですが、特にこの真学校前にこうやってケア滞在をして大事をマスターし臨む人たちは、この大切な歩みのパートナーだと思っています。慶晃くんにも、そういった心構えで次に臨んでもらいたいと期待しています。卒業おめでとうございます。そして次があるのですから、共にしっかりとやっていきましょう。

自らの身近なことに興味があるのは人間の常ですが、やはりどのレベルに意識があって、どこに意識が向いているかによって、その人の未来が創られていくのです。そして、その意識の方向によってはその人の未来どころか、まわりの環境にも影響を与えて世の中を創っていくのです。ですから、自分は何も悪いことをしていないと思い、テロリストでもない私たちでも自らのことばかり考えて生きていたら、そしてそういった人たちがいっぱいになって、自分のことや自国の都合ばかり考えるようになったら、さらにそのような政治家が国を治めれば、世の中は自分が正しく他人が間違っているという風潮の今の世界を創るのです。個人から観ればそれは小さなことだと思うかもしれません。そして、一人では何もしていないように思えるのです。ですから今、あなたがどこを観て何をしているかが、今の世界の状態につながっているのです。それは単なる地球上の私たちの社会のことですが、私たちの姿勢がそういった迷いの世界を創ってしまうのだとしたら、世の中を本当に良い方向に導くのはやはり一人一人の目覚めが大切なのです。これからは一人一人の力が時代を創る時代になるのです。

この慶晃くんのようなビフォー・アフターの事例を生かして、僕はこの世直しを進めていこうと思っています。それに関わる真学校受講生やメンバーの皆さん、改めてよろしくお願いします。
 
 
 
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そしてそれが社会にどのような影響をもたらしていくのか。

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実録・心の問答集 〜 いさどん vs よしてる〈前編〉 

今年1月から2月にかけて、木の花で自然療法プログラム(通称ケア滞在)を受けていたよしてるくん。ここに来た当初は、自分は嫌われている、変に思われている、受け入れられていない、ダメな人間だ、と思い、人と関わるのが怖くて布団の中にこもっていました。
そんなよしてるくんに与えられた取り組みは、いさどんとノートのやり取りをすること。日々思ったことやどう過ごしたかということを日記形式でノートに綴り、それに対していさどんがコメントを返していくのです。このノートを通して、自分自身を客観的に捉え出したよしてるくんは、大きく変化し始めます。

今回は、この二人のやりとりをご紹介します。題して『実録・心の問答集』―――

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心の問答集
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*5月17日(日)、自然療法プログラムをテーマに船橋で開催される「出張木の花塾」にて、
よしてるくん始め卒業生たちが体験を語ります。詳細は下記をクリック!
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「心の問答集」とは?

37歳の佐竹慶晃(よしてる)くんが初めて木の花ファミリーを訪れたのは、今から9年前のことでした。大学生の頃から鬱的だった慶晃くんは木の花ファミリーに長期滞在をしたり、その後パートナーと子供と一緒に訪問しながら木の花ファミリーと関わってきました。4年前、パートナーのあやちゃんとその子供であるあっくんは木の花ファミリーのメンバーとなりましたが、自分の心と向き合うことから逃げていた慶晃くんは、その後ファミリーとは距離を置くようになりました。

そのような中、鬱的な状態が悪化してきた慶晃くんは2014年12月に再び木の花ファミリーを訪れ、いさどんとの面談を受けた後、2015年 1月5日にケア滞在をスタートさせました。ケアの取り組みの一環として、毎日日記を書き、いさどんに提出することが課題として与えられました。ようやく自分の心と向き合わざるを得なくなっていた慶晃くんは、時には一日の日記の量が7~8ページにわたるほど、熱心に心を見つめ振り返っていきました。そして、ケア滞在をスタートしてからちょうど1ヶ月後の2月4日、ケアの卒業を迎えた慶晃くんの日記の量は、ノート丸二冊分になっていたのです。

この心の問答集は、そんな慶晃くんがケア滞在中に綴っていた日記とそれに対するいさどんのコメントの抜粋です。

自分の心を観るとはどういうことなのか?
どのように自分の心を改善していけばいいのか?
学んだことを日々の中で実践するためにはどうしたらいいのか?

この心の問答集には、人が本来の目的に目覚め生きていく為のヒントが沢山詰まっています。いつでも、どこでも、誰でもできる心磨きの扉は、今あなたの目の前で開かれるのを待っています。

 

================== 以下 本文 ==================

 

2015年1月5日 ケア滞在1日目

いさどんと面談をした。座っていさどんを見たら涙が出てきた。涙が出てくるのでまともに見ることを避けた。涙の出るわけを探ってみたけど、わからなかった。自分では自分の感情がわからない。ただ、今は感じたり、考えたりしたことを書いて、いさどんとやり取りしたい。いさどんという人をとても信用している。今まで色々な人に頼ろうとしてきたけど、みんな信用できない何かを持っている気がして頼れなかった。いさどんにプライドが高いと言われたけど、プライドが高いことが人を信じないことにつながっているのかも??とも思う。自分にはプライドが高いことがどういうことなのか、まだピンと来ていない。

今日、来てすぐに本宅の居間で待っているように言われた。みさこさんがひまわりに連れて行ってくれるからということで。待っている時に女性からコーヒーをもらった。目の前にコーヒーをドンと置かれて、どうぞと言って去っていった。その女性の態度を見た時に、自分は嫌われていると感じた。そう感じる前に相手をどういう人か・・・主には自分に害があるかないかを観察していた。その時にコーヒーをもらったことには思いが行っていなかった。欲しいと思っていなかったということもあるかもしれないけど、相手からの行動に対する思いやりはなかった。この出来事を自分なりに評価してみようと思ったけど・・・でも良くわからなかった。

このノートをもらいに事務所のような所へ行った時、5、6人が座っていた。軽く挨拶をされたりされなかったりだったけど、その時に自分の中にうつうつしている感じと、笑顔で対応したい気持ち、みんなからどう思われているのだろうと気になる気持ちとあった。自分に正直であるようにしたいと思うけど、まだ自分の本心がはっきりとわからないから、その時どうしたら良いか迷った。まり姉さんにドアを閉めてと言われた時、その表情と言い方に自分のことを嫌っていると思った。僕は今までずっと人に気に入られるように、嫌われないように振舞ってきた。だから、自分の笑顔もウソか本当か自分にもわからなくなっていて、そんなことを考えると全てどうでもよくなってくる。

ヒロッチに挨拶をされる。女の子に話しかけられる。少し笑顔になる。感情が動く。一人になると気持ちが沈む。人に話しかけられると不安が襲う。頭が混乱する。自分が自分でわからなくなる。だから、人に話しかけられたくない。不安と混乱が後で来るのが怖いから。その時少し笑顔になっても後が怖い。だから、部屋にいる。みんながいるから食堂にいるのが嫌だった。人の目を気にしている自分。部屋に帰って泣きそうになる。自分を情けなく感じたのだろうか?辛い気持ちだった。人と関わるのが怖い。大勢の中はもっと怖い。目線が気になる。自分を罰する。人を疑う。そういう心配が多い。

テーブルの一番端で食事をする。負のオーラを出しているからなのか、まわりには誰も座ってこない。色々と話しかけられてもしんどいかもしれないので、今日はこれで良かったと思っていたら、目の前にさっちゃんが座った。「今日の面談はどうだった?」と聞かれて、なかなか答えられずしばらく沈黙。「いさどんはちゃんと聞いてくれて、ちゃんと答えてくれる。今まではそういうコミュニケーションがなかった。初めてそういったやり取りをしたように思う」と答えた。さっちゃんが目の前に座った時、かなり動揺した。自分の中に話しかけられたい気持ちと話しかけられたくない気持ちと両方あって、不安になっていたから。途中でしんどくなっても、しんどいと言う度胸もないし、嫌だったりしても嫌だと言わずに我慢するから、人と関わるのを避けたくなる。早めに食事を済ませて部屋に戻る。笑顔でお帰りと挨拶してくれる人もいて嬉しくもあるけど、その度に動揺してしんどくなるので、その場から逃げたくなる。

今までケアを受けた人の話の中で、症状を必要としているという話があった。部屋で寝っころがってぐるぐると考えているうちに、自分も今の状態を必要としているのか?ということに考えがまわった。浮かんできたのが・・・人に良い顔をしないですむこと。人に良い顔をしないですむ状態を自ら作り出しているのかな・・・??わからないけどそうかもしれない。そうだとしたら、普段よっぽど人に良い顔をしていて自分を偽って、それにストレスを感じていることになる。色々考えるけど、こうやって考えることが先につながっていく気がしない。先につながるということ自体が怖い。先が怖い。

人に優しくされると一瞬嬉しいけど、その後辛くなる。辛くなって、それ以降優しくされることが怖くなる。なぜだろう?と考えてみた。優しくされた後、正直な自分でいられなくて、相手に合わせた自分でいることが辛いのかもしれないと思った。今はどのようなのが正直な自分で、どのようなのが相手に合わせた作った自分なのかがはっきりとわからない。優しくされることに罪悪感を感じているのかもしれない。わからなくなる。

~いさどんからのコメント~

これからも正直に素直に日記に自らの内側を書いていって下さい。そして、それを振り返って、自らを観る機会にして下さい。そのためのサポートはさせてもらいます。信じて正直を出して下さい。そうすれば、あなたに良い智慧が湧き出して来て、豊かで幸せな人生が待っているのです。

 

2015年1月6日 ケア滞在2日目

朝6時過ぎに目が覚める。しんどい・・・。頭が痛い。昨日のミーティングでの話がずっと頭をグルグルしている。頭がいっぱいいっぱいで、とにかくしんどい。ずっと横になっていたい。横になっていると廊下で人の声や足音がする。こっちに来ないかと不安になる。人と接触して、その時心が不安定になることが怖い。

~いさどんからのコメント~

ここですでに不安定になっています。

昨日のミーティングで、いさどんはこう生きれば豊かになるという説明をしていた。私は豊かな人間関係と聞くとゾッとする。人と関わることが増えてくることに恐怖があるかだと思う。自分自身は何を望んでいるのか、自分で良くわかっていないと思う。何かを望んでいるフリとか、つもりになっているのかもしれない。本当に何を望んでいるのかをはっきりさせる必要があると思った。どうしたい?どうなりたい?という質問には何も出てこない。何もしたくないと思う。

~いさどんからのコメント~

いつからそのようになったか考えると良いですね。

自分は何でも悪く取ると言われた。傷ついたり、嫌な思いをするのが怖いのでそうなのか・・・。自分が受け入れられる気がしない。自分自身もまわりの人に対して敵意を持っている。正直でいると嫌われると思っている。正直でいることを恐れている。

~いさどんからのコメント~

それは、ウソつきで生きていくということです。

いさどんから「わからない」というストッパーが働いていると言われた。それはわからないほうが良いからなのか・・・。わからない状態を必要としているというようなことも言われて、なぜなのだろうと思った。今この状態が必要な理由は何なのか・・・。

~いさどんからのコメント~

わからないとしておいたほうが、何も取り組まなくて良いからです。

いさどんから愛の話を聞いたときに、愛と愛情の違いについて知った。愛は無条件のものであり、愛情はそれに情がついている執着の状態。私が求めているものは愛情だと思った。ずっと小さい頃から愛情が欲しくてたまらなかった。でももらえないから、そうじゃないフリをしていたと思う。大人になるまでそのことに気付かなかった。愛の話を聞いても、私には愛の良さがわからなかった。やっぱり愛情を求めていて、愛情に価値を置いているのだと思う。

~いさどんからのコメント~

それはないものねだりの心です。愛は、与えて成立するものです。

いさどんに、日記には不平不満ばかりだと言われた。そう思っていなかったので驚いた。不平不満が当たり前になっていて、自分で気付かずにいる。食堂にいる時やまわりに人がいる時、常におびえていて体が固くなっている。びくびくしている。何かが怖い。

~いさどんからのコメント~

それはまわりの人が原因なのではなく、あなたの心が創っているのでは?

部屋にいる時に昨日のミーティングの話を思い出していると、また不満な気持ちが出てきた。神様に対する不満。こんな宇宙の法則の中で、こんな性格に生まれ育ったらしんどいだけの罰ゲームみたいなものなのではないかと・・・。それに僕は学びたいとも成長したいとも思っていないし、無理矢理そんな所に突き落とされている気がして、どうしても神様を良く思えていない。

~いさどんからのコメント~

それはあなたの勝手ですが、その結果が今の人生に現れているのでしょう。

僕は理屈っぽいのだけど、理屈をうまく扱えないというか、むしろ理屈に振り回されてマイナスなことになっている気がする。いさどんの話を聞いても、うまく生かせないばかりか、悪くするものとして働かせている気がする。何か違った方向で、理屈ではない何かを見つけていかないとどうしようもないかも・・・と思った。

~いさどんからのコメント~

その通りですが、それをどうするかはあなたの意志です。

お風呂でこうちゃんとすれ違う。何も気にしていないようで、実はすごく気にしてくれていると感じる。部屋に帰って泣く。涙の理由はわからない。泣いた後に、ありがとうと思った。

~いさどんからのコメント~

自分に対する愛情を求めているのですね。

食事中、ヒロッチと話をした。話の中で「生きていて良かったね」と言われた。生きるということを否定的に捉えている自分にとって、その言葉を聞いてすごく複雑な気持ちになった。今晩は食事があまりおいしく感じられなかった。今の自分の状態では、食事をとる必要はないのかもと思った。

~いさどんからのコメント~

何度も自分の日記を読み返して下さい。客観的に自らを観て判断することが大切です。

 

2015年1月7日 ケア滞在3日目

今朝は昨日ほどしんどくなかった。不愉快の感じも少なかった。昨晩のミーティングの途中で無理せずに早めに部屋に戻り、いっぱいいっぱいから抜けて余裕をつくることを自分で良しとしたこともつながっているのかなと思った。正直にするとはこういうことなのでしょうか?

~いさどんからのコメント~

それは自分に素直になってきたということですね。

ノートのいさどんのコメントで、少しずつ自分の正直な気持ちとか、これからの指針が見えつつあるのも自分を落ち着かせていると思う。こういうやりとりをさせてもらっているのも、自分には心の安定にすごく良いような気がしている。今までこういうやり取りを求めていた気がする。今の状態の自分をとがめたり、変な心配をする人がまわりにいないこと、受け入れられていることを少しずつ感じてきていて、そのことも自分を落ち着かせてくれていると思う。

~いさどんからのコメント~

客観的な目線が育ってきています。この姿勢を忘れないようにしましょう。

11時頃起きて、ノートを書く。今朝から少しだけ作業をしたい気持ちが出てくる。12時になり、昼ごはんを食べるかどうか迷う。ノートを書いたりするだけの力はつけておきたかったので食べることにする。まわりの人に色々思われるのが怖かった。何もしていないのに食べるだけは食べるのだと思われるイメージが出てきた。でも悪く取らない、と心に思って、それを消そうとした。それから、もしそう思われても、自分はちゃんと目的があってそうしているのだから堂々としていようと思って、食事に行った。それでも食堂に行くと、人との接触を避けて人目を気にする自分がいた。部屋に帰ると、午前中とは違い、すごくストレスを感じるようになっていた。そういえば、以前にも似たような経験があると思った。それは、精神病院に入院していた頃の話。入院したては、とにかく人が怖くて部屋から出られなかった。食堂に行くのも必死で、とにかくものすごいストレスでしんどかった。それからストレスなく食堂に行けるようになったのだけど、なぜそうなれたかは思い出せない。ただ、この先こうならないようにするには、どういう心がそれを創っているのかを知らないといけないような気がする。

ノートのいさどんのコメントにあったように、まわりのせいではなく自分の心が創っていると思うのだけど、どういう心が創っているかはまだはっきりとはわからない。人から受け入れられないとか、嫌われていることを恐れる心がある。そういう心が創っているのですか?

~いさどんからのコメント~

それはあなたの潜在意識の中にあることですから、癖のように出てきます。これからゆっくり観ていきましょう。

昨日のノートのコメントで、「ここでもうすでに不安定になっています」という意図がわかりません。人と接触して不安定になることを恐れ、現実に接触する前にもう不安定になっているから、すでに不安定になっていることについて考えてみなさいということですか?

~いさどんからのコメント~

現象に出会う前に不安の心の種(癖)がすでに発生しているということです。

「ないものねだりの心」というのは、汚れた心なのですか?今まで私は愛情が足りないので必要だと思っていました。そして愛情・・・。ノートでも、いさどんに指摘された自分に対する愛情を求めています。自分に対する愛情は私には必要のないものなのですか?

~いさどんからのコメント~

愛は一方的に与えるものです。それに情がからむと執着になります。もっとさわやかに心を表現したいものです。

「愛を与える」とはどういうことですか?自分なりの解釈だと不安なので、説明が欲しいです。愛は宇宙の法則ということが頭にあって、わけがわからなくなっています。単純に思いやりということでいいですか?

~いさどんからのコメント~

愛には、高い精神から湧いてくる無情の愛もあれば、個人的な執着の愛もあります。

いさどんからのコメントで、豊かな人間関係と聞くとゾッとするのを「いつからそのようになったのか考えてみたら良いですね」とありました。いつからかははっきり覚えていませんが、5歳ぐらいの時にはもうみんなから嫌われているイメージができていて、姉の友人のお誕生日会に行くのも怖かったし、近所の子供達と遊ぶのも向こうから誘ってくれないと遊べなかったし、一緒に遊んでいても嫌われるのを怖がっていました。でも、そういえば20歳ぐらいまでは豊かな人間関係にまだあこがれは持っていたような気がします・・・。大人になって社会に出て色々な人達と接していく中で、少しずつあこがれが消えていって、人間関係というものが苦しく辛いだけのものと思うようになっていった気がします。

~いさどんからのコメント~

次回の面談の時に詳しく聞かせて下さい。

神様を良く思えないということに対し、「その結果が今の人生に現れているのでしょう」という指摘については、そうかもしれないと思いました。はっきりとはわかりませんが、今までの考え方や性格が自分の人生を創っているのは事実だと思うので、どうにかして変えていくことが人生を変えることにつながると思います。だから、勝手な考えにもっと気付いていく必要があると思いました。

~いさどんからのコメント~

良いところに気付いています。そこの気持ちを大切にしていきましょう。

理屈ではない何かを見つけることに対して、「その通りですが、それをどうするかはあなたの意志です」とおっしゃいましたが、このノートを続けていれば見つかっていきますか?今、思いつくのはこのノートを通じてということと、作業をメンバーの人と一緒にさせてもらったら何か見つかるのかもと思っています。どう思いますか?

~いさどんからのコメント~

ノートの交換もそうですが、色々な物事の捉え方を色々な人に聞いて、自らの考え方やものの観方を広げていくことが大切です。その為に今、この取り組みをしています。あせらずやっていきましょう。

正直でいることを怖れて、ずっとウソつきで生きてきました。自分が正直でいる感覚もわかりません。今、自分は正直なのか?そうでないのか?と自分で自分を疑ってしまい、混乱します。でも、ウソつきで生きていくのはもうしんどいので、やめていく方向で正直のトレーニングをしようと思います。・・・というのはやっぱり人と関わる必要がありますね。少しずつですが努力します。

~いさどんからのコメント~

そうですね。この日記は全体に正直に書けています。

素直とはどういうことですか?たとえば、言われたことをそうですね、とそのまま受け取ることですか?それから、誰に対しても素直でいたほうがいいですか?

~いさどんからのコメント~

それは相手にもよりますが、まず正直と素直はセットで考えなければ意味がありません。そして、気持ちを楽にして望むべきです。

「わからないとしておいたほうが、何も取り組まなくても良いからです」という解説がありました。確かにその時は何もしたくないという思いがありました。ノートを書きたいとかミーティングで話を聞きたいということはありましたが、その上でそれを生かして取り組むところまでは、しんどくてしたくなかったです。今は、ちょっと取り組みたいと思っています。ただ、何をどのようにということについては、慎重に決めたいと思っています。またもう嫌だ、やめたいということになりたくないので。

~いさどんからのコメント~

本当は、自分で決めるのではなく、流れに任せられると良いですね。

一通りいさどんのコメントについてノートに書く。書き終えたら気が楽になった。そして、心に余裕を感じる。そこで、ここに来た経緯を振り返ることにした。今まで人生のほとんどにおいてうまくいかなかったこと。苦しんで自分ではどうしようもなくなったこと。自分の中にうまくいかない元があって、それをどうにかしないと何をやってもダメだと思ったこと。今の自分の性格だとやればやるだけ問題を大きく広げると思ったこと。それをどうにかしないと生きていても仕方がないと思って、ここに来ようと思った。

食事中にひろみちゃんに「ノートに沢山書いているね」と言われた。その後に「浅い所でいっぱい考えても仕方がない。深い所で考えないと・・・」と言われた。そう言われるということは、僕は浅い所でいっぱい考えているのだろう・・・。でも、考えや内容が浅い・深いが僕には全くわからない。今まで深いとか浅いと思ったことが一度もない。今、自分のやっていることを不安に思った。深い考えとは一体どのようなものなのでしょうか?

~いさどんからのコメント~

物事を観る時に主観で観ることと客観で観ることの違いがあります。さらに、その奥に客観背後の視点もあります。

 

2015年1月8日 ケア滞在4日目

朝6時半頃、目が覚める。睡眠中ずっと夢を見ていた。体が重い。胸が苦しくて少し呼吸がしづらい。何を考えるのも、何をするのも嫌だった。隣にいるサポーターのゆうくんの気配を感じ、何も話しかけてこないでくれと願っていた。

~いさどんからのコメント~

それではゆうくんに失礼ですよ。もし、人が隣にいることが嫌なら一人部屋でもいいですよ。それではケアが進みませんが。

私は緊張して相手と接する時や自分で自分のことがわからない時が多いので、やり取りが成立するように適当なことを言ったり、ウソをついたりしてしまう。会話でのコミュニケーションだと、心の動揺と自分の気持ちの確認で余裕がなくなる。

~いさどんからのコメント~

良いやり取りをしようとしないで、浮かんできたことを素直に語れば良いのです。カッコつける心があると難しいです。

食堂にいる時、自分の動きを一つ一つ見られている気がする。そして、こう動いたら変なのではないか?と気にして変にならないように気をつけて行動する。特に気にするのが今まで暗くしていたのを明るく振舞うとか、じっとしていたのに急に何かやってみようと動き出したりすること。

~いさどんからのコメント~

誰があなたを見ているのか、本当のところを確認する必要があります。

そのことを考えていたら、昔のことを思い出した。昔、僕は何かあるとすぐ泣く子だった。泣いていて、何かの拍子に機嫌が良くなってパッと笑ったりすることもよくあった。その時にまわりから、泣いたカラスがもう笑ったとバカにされ、笑われた。そのことがすごく嫌だった。ひょっとしたら、そういうことが自分の中にトラウマのようなものとして引きずっているのかもしれないと思った。

~いさどんからのコメント~

それは昔のことであり、今と区切りをつけて観る必要があります。皆はそれを過去のこととして忘れていくのです。

横になっていると、胸が苦しくなってきた。心臓の音がすごく大きく聞こえた。しんどいと思いながら横になっていたら、外からいさどんの声が聞こえてきた。ランニングシューズの話だったけど、その話の最後に「余裕がないとダメだよ」と言っていた。それを聞いて、自分も余裕がないのかなと思った。少し余裕が出てきても、またすぐいっぱいいっぱいになる。それでしんどくなって布団にこもって、何もしたくないと思うのだけど、それを客観的に見てみた。客観的に見ると・・・無理しないでいいから見守ってあげようと思った。

~いさどんからのコメント~

これも主観ですよ。

私は主観が強くて主観を大事にしていることが良くわかってきた。いさどんのコメントの意味や意図がよくわからないので、サポーターのゆうくんに解説してもらった。とてもわかりやすく解説してもらった。そして最後にゆうくんが、「僕の話は僕の主観も入っているから、色々な人の話も聞いたらいいよ」と言われた。いさどんのコメントにもそういうことが書いてあったと思い、機会があったらそうしようと思った。夕食の時、誰かに聞かなければと思い、ノートを持っていった。勇気が要ったが、りゅうしろうくんに声をかけた。忙しいということでヒロッチを勧めてくれた。ヒロッチに聞いたら、丁寧に細かくわかりやすく説明してくれた。質問した以上に沢山説明してくれたのだけど、その部分がよくわからなくて頭に入らなかった。そのことを不満に思った。教えてもらってありがとうとは言ったけど、感謝の気持ちが少なかった。自分は性格が悪いと思った。ゆうくんに、客観的にものを観られるようになると感謝の気持ちが出てくると言われたのですが、自分もそうなりますか?

~いさどんからのコメント~

そうなりますか?と聞いて、どうしたいのですか?大切なのは、自分がそうなりたいかどうかなのです。相手に自分の意志を聞くことではありません。

今もノートを書いていて、「ああ、もう嫌だ。何もしたくない」と思い、また横になる。

~いさどんからのコメント~

そうして時間が経ち、年を取っていくのです。

昨日のノートのコメントについてですが、これからの取り組みについて、「流れに任せられると良いですね」とありましたが、それは自分でああしようと思わずに、向こうからやってくるのを待つということですか?

~いさどんからのコメント~

向こうというのは、どこをイメージしているのですか?この世界の動きには全て流れがあり、それは法則に則って動いているのです。それが読み取れる人になりたいものです。

一昨日のノートのコメントで、「何度も自分の日記を読み返してみて下さい。客観的に自らを観て判断することが大切です」とあったので、ノートを読み返す。つい感情移入して、主観的になる。客観的にと思いながら読もうとしたけれど、客観的に読むことができなかった。なぜ?と自分に聞いてみた。「つまらない。」そう思った。それはなぜ?と思った。なんて情けないことなのだと思った。そういう自分を端から眺めてみて、「何をしにここに来たの?」「何のためにここにいるの?」と思った。情けないけど、見捨てないであげようと思った。気を取り直してまたノートを読む。

~いさどんからのコメント~

本当の自分を知ることは、人によっては勇気の要ることです。しかし、自分を知らずして、人生に何を積み上げていくかということです。有意義な人生は、自らを知り、成長(変化)することを楽しむことです。そう想いませんか。

 

2015年1月9日 ケア滞在5日目

9時頃まで横になる。起きて顔を洗い、談話室に行く。途中ヤスエさんに挨拶をする。ここに来て初めて、自分からきちんと挨拶をした気がする。少しずつここの生活に慣れてきて、生活のリズムが良くなっている気がする。ケア卒業生の滞在記は、自分の気持ちを支えてくれる。自分もそうなれると思わせてくれる。

昼食の時、長期滞在中のあわちゃんの前に座った。ちょっと話してみたいと思っていたが、自分からは話しかけられなかった。そうしたら、あわちゃんから話しかけてくれた。お互いのことを少し話した。うまく話をしようとか、カッコつける心や失敗して傷つくことを怖れることが、自分から話しかけられなかった原因だと思う。まだいさどんのアドバイスを聞き入れられていない。

~いさどんからのコメント~

結果を先に考えずに行動しましょう。

あわちゃんと話した後に、隣に座っていたともちゃんにノートでわからないことを聞いた。わかりやすく説明してくれた。このノートは色々な人の話を聞くことにも、すごく役立っている。ともちゃんのおかげで、なぜトラブルが起きるかとか、自分の本当に望んでいることを知ることができた。私はあらゆることに感謝できる人になりたいし、みんなと仲良くできるようになりたいです。

~いさどんからのコメント~

その為にはどのような姿勢になったら良いのでしょうか。

昨日のコメントで「ゆうくんに失礼ですよ」とありました。そう言われて、失礼なことなのだと頭では思うのですが、実際に失礼だとは感じません。失礼だということ自体が良くわからないのかもしれません。人に対する思いやりや感謝の心がないのだと思います。でも、ケアは進めたいので一人にしないでください。ゆうくんがいてくれたから、ノートをきっかけに色々な人と話をすることができるようになっています。ゆうくんのおかげです。それを思い出すとゆうくんのありがたみが出てきました。ゆうくん、ごめんなさい。質問ですが、この「ゆうくん、ごめんなさい」という気持ちと「ゆうくん、失礼しました」は同じ意味ですか?そもそも失礼の意味がわからないです。

~いさどんからのコメント~

相手の内にある真実とあなたが感じていることに違いがあり、それがわかったら失礼しましたと伝えるべきではないですか。

昨日のコメントで、「誰があなたを見ているのか、本当のところを確認する必要があります」とありましたが、とりあえず自分自身は見ていると思います。それからまわりの人については聞いていないのでわかりません。でも、まわりの人は見守っているだけなので、見られていたとしても変には思っていないですね。変に思っているのは自分自身だけです。

~いさどんからのコメント~

そうですね。そこの仕分けには注意しましょう。

昨日のコメントで、「それは昔のことであり、今と区切りをつけて観る必要があります。皆はそれを過去のこととして忘れていくのです」とありましたが、忘れるということも意識的にできるのですか?忘れたいので、というか、とらわれたくないので、忘れようと思います。

~いさどんからのコメント~

今に注目して生きる人や未来に希望のある人は、過去にとらわれることが少ないです。

昨日のコメントで、「これも主観ですよ」とありました。しんどいと思っている時に客観的に見ようとすることは、今取り組むことがある状況だったら、しんどいと思っていたとしてもそれは無視して、取り組んでいくということですか?

~いさどんからのコメント~

客観的に物事を捉えると、心は苦しくなくなるものです。

昨日のコメントで流れの話があり、「向こうというのはどこをイメージしているのですか?」とありました。向こうというのはどこということはないのですが、受け身でいて渡されることをやると思ったのです。誰かが頼んできたことをやるとか、自分からは動かないと思ったのです。違っていますか?

~いさどんからのコメント~

その通りです。ただし、流れは自分の意志とは関係なく流れているのです。それを逃さないようにしたいものです。

昨日のコメントで、「有意義な人生は自らを知り、成長(変化)することを楽しむことです。そう想いませんか」とありましたが、私には心から楽しいと思うことがなくて、多分成長したと思ったこともないので、今は取り組んでみてそれが楽しいかどうかやってみます。

~いさどんからのコメント~

楽しいと思う心がないのは、何か心にゆがみがある状態です。その状態は正したいですね。

少しずつ色々な人が声をかけてくれるようになり、コミュニケーションが増えてきたが、まだ自分の枠を超えているわけではない。そうさせてもらっているのがほとんど。夜8時、明日から開催される大人サミットの会議が始まった。僕自身、いさどんに勧められて大人サミットに参加するし、この会議に参加してみたら?と言われたので、参加してみた。でも、集まってきたみんなを見て、自分だけ場違いな感じがして焦った。いさどんが入ってきた時に、「なぜ場違いな人がいるの?」と言われそうな気がしてそわそわしていた。実際はそんなことを言われなくて、結局自分が自分でそう思っているだけだった。

~いさどんからのコメント~

自分で勝手に思っていることが多くなると、ストレスが多くなります。

大人サミットの内容を聞いていくたびに、「大丈夫かな、大丈夫かな」と不安になった。普段は横になったり、ノートを書いているだけだし、今日やっとおやつの時間に出られるようになったぐらいだし、何かしんどいことが起きたらどうしようと会議中に何度も何度も不安になった。でも、ケア卒業生の滞在記に、何かあったとしてもまわりが助けてくれるし、安心してやってみたらいいと書いてあったし、妄想は妄想だし、とにかくやってみようと不安になるたびにそれを振り払って自分を落ち着かせていた。みんなの配慮も感じられて嬉かった。難しそうな内容だけど、大人になりたい、自立したいと思っていたので、良いきっかけにしたい。

~いさどんからのコメント~

それはとても良い判断です。あなたの成長の為にも、自分の知らない世界の価値に出会うことが大切ですね。前向きに、リラックスして参加しましょう。

 

2015年1月10日 ケア滞在6日目

昨日のミーティング中に、私のことが少し話題に出された。いさどんの話では、私は自分のことを緻密に観ることはできている、今とらわれの中にいる、この先うまくいけば使いものになる、ということだった。その話の中で、とらわれの中にいるということは自分でもわかった。緻密に観ることができているとか、使いものになるという話はピンと来なかった。そういう自覚がない。昼にともちゃんから、いさどんのコメントをそのまま受け取ればいいんだよ、と言われたのを思い出した。そうなんだと受け取ることにする。自分には何もできない・・・この先もできないかもと思っていたけど、このまま続けていけば何かできるようになるのだと思い、少し希望が持てた。

~いさどんからのコメント~

信じる者は救われると言います。信じて先に向かっていきましょう。

そうしていたら、隣の部屋で声がした。まっちゃんだった。まっちゃんはケア滞在をしているゆっくんのサポーターなので、ゆっくんを起こしに来たようだった。「そうやって怠けてどうするの。生活のリズムを直しに来ているのに」とはっきりと厳しく伝えていた。それを隣の部屋の布団の中で聞いていて、自分も同じように怠けていると思い、起きてノートを書きに談話室へ行った。そうしている間にずっとまっちゃんの声は聞こえていた。まっちゃんはゆっくんのためを思ってわざと厳しくしている、それはまっちゃんの愛だと思ったり、まっちゃんとゆっくんを端から見ていて客観視を意識できたり、自分も客観的に見るとゆっくんと同じようだと思ったり、ゆっくんがこういう役をやってくれるから自分や色々なことのためになっているのかも、と多くのことを思わせてくれた。色々教わった気がした。

~いさどんからのコメント~

学ぶ気になれば、どのようなことからも学べますね。

妄想が出てきてすぐに体が緊張する。余計な心が多い。多い時は数分に一回ぐらいのペースで妄想と不安にとらわれる。トイレでこのことを考えていると、いさどんの「自分は無力だ。だから天意を表せる」と言っていたのを思い出した。自分も無力だと思ってみようと思った。自分で自分を守ろうとして緊張が起きているような気がしたから。自分には自分を守る力はないと思ってみた。イメージすると怖かった。しばらく考えていて、ああ、そうか、すでに守られていると思えばいいのだと思った。いさどんも安心して色々やれる世界なのだと言っていたし、今の環境はみんなに見守られている環境なのだ。本気でそう思えていないから、まだまだ緊張が直らないのだけど。守られている、自分で守る必要はないということをこれから意識することにする。

~いさどんからのコメント~

素晴らしい気付きです。ミーティングでみんなにシェアして下さい。

昼食は大人サミットのメンバーが並んでの食事だった。まわりの人たちが話しかけてくれて、少しずつ人と関わることがしんどく感じなくなってきている。昼食から帰ってきたら、ゆうくんが部屋にいた。僕が今までゆうくんに思っていた不満や不安を話した。それで、今までゆうくんがどういう思いでサポートしてくれていたかを聞いた。僕が勝手に思っていたこととは違っていて、僕の状態にふさわしくケアがきちんと進むように丁寧に見てくれていたことを知った。それを聞いて自分が間違っていたと知り、失礼しましたと伝えた。でも、まだ相手に悪かったという気持ちが少なかった。少しはあった。そのことも伝えた。少しずつでいいよと言ってもらえた。ありがたい。優しいと思った。

~いさどんからのコメント~

この箇所もミーティングでシェアして下さい。

昼食後、子供達の自己紹介の後で僕の子供であるあっくんとある女の子がマイクを取り合っていた。それを見ていて、あっくんが勝つように応援していた。結局女の子が勝ったのだけど、ものすごく感情移入して胸が痛んで、悲しい、かわいそうだという気持ちになった。こういった気持ちをあっくんに向けないように気をつけようと思った。もう無くなったと思っていた子供への執着の強さを知った。私が育てなくて良かった。

~いさどんからのコメント~

この部分もミーティングでシェアして下さい。

大人サミット参加者に対するウエルカムコンサートでは、途中から自分の心が軽くなり、自分が自分でなくなる感じがして、頭がポーッとした。その場の力にものすごく感化された気がした。ケア中だということ、まだまだ進み始めたばかりだということを忘れないようにしたい。

~いさどんからのコメント~

とても良い流れで進んでいます。この姿勢を忘れないように取り組んで下さい。

 

2015年1月11日 ケア滞在7日目

日記の内容をミーティングでシェアしてみないかといさどんに言われた。去り際に「あなたの人生だから強制はしないけどね」と言われた。その時に突き放されたような感じがし、寂しさが襲ってきた。でも、これは今の自分に丁度良いように伝えてくれているのだということと、自分の甘えた心がそう見せていることなのかもと思った。そう思えたのは、ゆうくんが僕に対するサポートの姿勢を教えてくれていたから。僕にかまって欲しいという心がある時、ゆうくんはそういう僕の波動を感じてそれにふさわしく関わっていると教えてくれた。いさどんが去った後にけいご君が「今日の大人ミーティングではまわりにマイクを渡されて受け身で発言したけれど、次は自分の枠を壊すために自分から発言する良いチャンスだね」と言ってくれた。この出来事をわかりやすく解説してくれた。僕が何もしなくても、次から次へと事が運ばれていく、というようなことを思った。また、いさどんの「僕は無力だから天意を表せる」という言葉が浮かんだ。ひょっとしたら、無力というところに立てば、全自動で事が運ばれていくようになると思った。無力の無は無限の無。全ての力を持っているということなのかもと思った。

~いさどんからのコメント~

そうですね。

自分が人の話を聞いていてしんどくなる理由に、こういうやり取りにしたい、こう返して欲しいという思惑があり、そのことで思い通りでない時のストレスがある。それから、そのストレスの中で次々と進んでいく話を処理しないといけない脳の負荷の大きさ。自分の思惑がストレスを生んでいる。いさどんの指摘の通りです。

大人サミットの中で昨日の日記をシェアしようと思っていた。サミットのどこかで、サミット中に思ったことがあればそれも一緒に自分から発言するつもりだった。タイミングを見計らっていたら、いさどんが途中で自分の話を止めて僕の発言の場をつくってくれた。自分のタイミングでと思っていて、急にその場が与えられたので、「ええっ!」となり、どうしていいかわからず固まってしまった。それでいさどんにフォローしてもらってシェアした。自分のタイミングでと思っていたけど、促してもらえて助かったという反面、自分で場をつくろうと思っていたのに~という不満があった。最後に参加者で輪になって座談会をした。そこで聞きたいことや言いたいことがあったのだけど、みんなの流れについていけなくて、なかなか発言できなかった。最後にいさどんが僕に話を振ってくれたので、一つだけ言いたかったことが言えた。この時、まわりの目はほとんど気になっていなかった。後でこの出来事を振り返った時に、あの時いさどんがシェアの場をつくってくれて良かったと思った。サミットの空気を壊さず、しかも僕の話をみんなに受け取ってもらいやすいように場をつくってもらえたおかげで、全体としても僕個人としても、とても良い感じにできたと思った。不満に思うことは一つもなかったのだと思った。

~いさどんからのコメント~

(後でいさどんに聞く)

 

2015年1月12日 ケア滞在8日目

朝、大人サミット主催者のじゅんぞう君と話す。昨日一緒にいて思ったことを伝える。じゅんぞう君の意見を聞き、自分の中に支配したい心があると気付く。

~いさどんからのコメント~

どのような場面でそう思うのですか。

今日は大人サミット最終日。サミット中、自意識にとらわれる。そのたびに意識をサミット全体まで広げてみる。そうすると、今、全体が良い感じだと捉えられたり、思い通りにしたい気持ちが少なくなったりする。自意識とサミット全体の意識を行ったり来たり。そうしている中で、正直に出すことも取り組んでみる。できるだけ思ったことを言う、やる。前よりは良くなってきている。

~いさどんからのコメント~

大きな進歩です。

~慶晃くんのコメント~

言われた通りにやってみた結果です。一歩一歩みんなの話を参考にして進めていきます。

いさどんに言葉に力が出てきたと言われた。内容は無いとも言われた。言葉に力が出てきたのは、不安の心が少なくなってきたからだと思う。言葉を形として表していくことがこれからの課題。

~いさどんからのコメント~

そうですね。

正直を意識する。ウソをつかないということを意識する。一つの行動の中に沢山のウソを言う、言わない、言い方、言う時の態度、表情、時。正直を意識すると、自分のウソが何重にも出てくる。色々考える。思考で収めることを卒業しよう。

~いさどんからのコメント~

やっていって下さい。

 

2015年1月13日 ケア滞在9日目

大人サミットも終わり、昨晩のいさどんとの一週間面談の結果、今日から作業に出て学んだことを日々の中で定着させていくことになった。今日の畑作業はカトケンと一緒だった。カトケンが僕のことを嫌だと思っているように見えた。そう思っている?とカトケンに聞いた。心の癖が出たのだとわかった。おやつの時、カトケンがみんなにこの話をした。不思議と僕自身の個性に興味を持つ人が多い。自分の個性も悪くないのだと思うようになってきた。

~いさどんからのコメント~

どのようなことでも、まずは正直から始めれば、最後は好感を持たれるものです。

~慶晃くんからのコメント~

信じるしかないですね。努めます。

カトケンと作業をする。カトケンの動きがゆっくりではっきりしていなくて、どんよりという感じに思えた。何も言わずに姿が見えなくなったり、説明がよくわからなかったりで、そのことを不満に思った。不満が出るのはケアの意識が低いからだと思った。

~いさどんからのコメント~

そんなことはありません。いつでも正直を出して下さい。

午後の作業は伝えてもらっていなかったから、どうするかはみんなの作業の割り振りをするひろみちゃんに任せようと思った。それでカトケン以外の人と作業になったらいいなと思った。食堂で座っていると、正面でともちゃんが話をしていた。「いただくものだよ」「流れに任せて」という言葉が聞こえた。カトケンから学ぼうとする気持ち、主体的に続ける意志と、流れに任せることの両方を大切にしたかったので、カトケンと作業を続けるという思いを持って、ひろみちゃんに「作業はこの後どうなっていますか?」と聞いた。気持ちは晴れていた。「カトケンとの作業だよ」と言われた。その時カトケンが前に来た。「午後も一緒なのでよろしくお願いします」と伝えた。作業中、自分が自分が・・・という心になる。そうなると、心が嫌な感じになり、意識をみんなでとか、相手も自分というふうにすると楽しく、楽な感じになる経験をした。ゆがみが少しずつ正されてきつつあるのかなと思った。

~いさどんからのコメント~

良い振り返りと捉え方ができています。

昨日のノートのコメントで、私の支配したい心があるという話に対して、「どのような場面でそう思うのですか」とありました。人と話をする時も都合の良いように思われるようにとか、都合の良いように話や出来事が流れるようにと思います。何もしていない時も何かしている時も、自分の都合の良いような出来事を空想し、都合の悪いようなことが起きたら嫌だと空想します。現実では無理なので、空想の中で処理しているのだと思います。自分の理想の扱われ方があり、そうなるようにコントロールしたい心がウソをつき、自他を責めるという行動につながっていると思います。昨日の大人サミットで「明日もみんな、一緒に頑張りましょう」と言って場を良くしようとか、参加者の気持ちを上げようと思ったことも、自分の思う「良い」というものにコントロールしようとしていると思います。

~いさどんからのコメント~

どちらにしても、この世界に存在していることは思うようになりません。それは全てについてです。特に自分自身の思惑については手放すことが大切です。

 

2015年1月14日 ケア滞在10日目

午前中は大勢で落ち葉集めに行った。何を大切にして作業にあたるか色々迷った。生活のリズム、けじめをつける、エネルギーを行動へ向ける、正直に出す、意識を広げる。落ち葉を集めながらゴミが気になればゴミを拾い、小道をきれいにしておきたかったらそれをして、自分の思考が気になればチェックしたり、立ち止まって全体をチェックしたり、意識を広げようとしてみたり、思ったことを口に出して手を止めてしばらく話をしたり、その時その時で色々やってみた。くにさんと心のシェアもできたし、人目を気にせずに色々やれたし、楽しくそこそこ懸命に作業ができた。

~いさどんからのコメント~

良い時間を過ごしていますね。

午後も落ち葉集めだった。午前中より早く丁寧に集中して作業をすることを心がけた。行動としてはそうできたけど、頑張っていると思われているのではないかとか、あの人に話しかけられたらこんなことを言おうとか、午前中よりもいっぱい余計な思考・心の癖が出た。持続的に作業ができたのは良かったけど、心の癖をコントロールできなかった。これをどうするかは次の課題です。

~いさどんからのコメント~

心をコントロールする方向は色々あります。それをつなげて流れを創っていくことも面白いと思います。

詳しくは書きませんが、被害妄想、人を悪く思う心、正直を出さない、自分だけのことを考える、無駄に思考をまわす、思い上がる、ケアを取り組む姿勢が崩れる、まだまだいっぱいしょっちゅう出ています。

~いさどんからのコメント~

内にあるものは出てきます。それを早く正直に出して、新しい自分にリニューアルしていく楽しみを味わっていくことも有意義な人生になります。

~慶晃くんからのコメント~

体験してみます。

 

2015年1月15日 ケア滞在11日目

自分と他人、自分とまわり、全てにはギャップがあり、そのギャップを無くす作業をしている。そして、そのギャップが豊かさを生んでいる。いさどんが説明していたことに少しずつ納得し始めてきた。

~いさどんからのコメント~

難しいところに気付きましたね。

ケアを卒業し、今ヘルパー滞在中のたかちゃんから自分を好きになれないという話を聞いた。僕は少しずつ自分が好きになってきている。それは正直を出してまわりからフィードバックをもらえた結果だと思っている、と伝えた。でも、まだまだそれほどはできていない。

~いさどんからのコメント~

良い役割を果たしてくれています。

こういった出来事も一つの情報なのだと思った。今までは経験を情報として意識的に積み上げる人生を送って来なかった。これからは・・・と言いたい所だけど、先を思うと不安が襲う。意識を自分からまわりや今に向ける。怖くなくなる。今のことだけ考えられたら・・・。良くそう思う。

~いさどんからのコメント~

そこがポイントです。

昨日のコメントで、「心をコントロールする方向は色々あります。それをつなげて流れを創っていくことも面白いと思います」とありました。意味が全くわかりません。

~いさどんからのコメント~

それは大人サミットで僕が話した、一止(いっし)の話ではないですか。

 

2015年1月16日 ケア滞在12日目

今日はひろみちゃんと作業だった。一日、全体的に楽しく作業ができた。しかし、スムーズに楽しく作業を続けたい気持ちがあり、相手の顔色を伺うことが度々あった。嫌われたくない気持ちも出る。表面上はうまくいっているようで、深い所ではうまく関われていない。信頼できていない。正直でないことも度々。まだまだ浅い所にいる。この壁は自分にとっては今まで越えたことがないので、大きな課題。

~いさどんからのコメント~

今までの自分を所有していなければ、難しいことではありませんね。

毎日少しずつ精神的にも体力的にも余裕が出てきている。その余裕の使い道に気をつける。昨日のノートで僕が「今のことだけ考えられたら・・・」と書いたら、コメントで「そこがポイントです」とありました。今の取り組みと今のことだけ考えるということに大きなズレを感じます。そう感じた後で、今のこと=自分の今のことではなく、今=自分+まわり全部のことなのか?と思いました。それでも、今の取り組みとのズレを感じます。

~いさどんからのコメント~

それをつかむには、その奥にある流れをつかむ(感じ取る)ことですね。

一止の話をもう一度してもらえませんか?自分の進んできた道を止まって振り返ってみる。それで、間違った方向に進んでいたら、正しい道へ向き直す、ということで合っていますか?

~いさどんからのコメント~

人は未来(前)に向かっている時は、可能性(選択肢)は沢山あるものです。しかし、後を振り返って観ると、一本道を歩んできているものです。そこで前ばかりを観ていないで、時々ポイントの時に後を振り返り、一本道に歩んできた今までを振り返って、未来に向かっていく道の指針にしていくと良いのです。それを一度止まって振り返る「一止」と言って、正しい道を行くために生かしていくということです。

 

2015年1月17日 ケア滞在13日目

毎日少しずつこなすこと、考えることが増えていっている。そのことにとまどいながらも、こなせていっていると思う。お誕生日会の出し物があり、一つの山だったけど、無事にこなせた。良かった。自分壊しというものは、できないことをできるようにするというより、私はあなた、あなたは私ということに少しずつ近づけていくことだと思うようになった。そう思うようになって取り組むことがずいぶんと楽になった。今の環境だからこそ、ということはあるけれど。ここは人間の再生にはとても良い所だと思う。

~いさどんからのコメント~

良い意味でそれを利用して、あなたの人生に生かして下さい。

今日のお誕生日会、そして1月31日に行われる富士浅間木の花祭り、今まではこういう豊かさを受け入れる余裕は無かったけど、受け入れる余裕が出てきた。ただ、感謝の心がとても少ないことがとても心配です。

~いさどんからのコメント~

これから、少しずつ身につけていけば良いのです。それには世界観を広げていくことが大切です。

 

2015年1月18日 ケア滞在14日目

お風呂でカトケンに今まで思っていたことを話した。カトケンは「自分にはない考えを聞けて良かった。言ってもらえて良かった」と言った。その後、まこっちゃんも加わって3人で話をした。自分もカトケンと同じような所があると思った。カトケンは自分にない心を持っていて、自分にもある心の癖も持っている。先生でもあるし、鏡でもある。

~いさどんからのコメント~

そのような人間関係は一つのモデルのようなものですね。

昨日のお誕生日会の出し物のことを子供達がまねしたり、色々聞いてきたりした。大人のメンバー達も良かったと言ってくれた。ああいう機会を与えてもらえてよかった。客観的に見たり、自分を手放したり、まわりを信じたり、色々と取り組めた。

~いさどんからのコメント~

積極的な姿勢が評価できます。

昨日のコメントで、「世界観を広げていくことが大切です」とありましたが、世界観を広げていくとは自分の枠を広げていくということですか?それとも世界や宇宙がどういうものか、それがどのように創られているのかという事実を知っていくことですか?どういうことなのでしょうか?

~いさどんからのコメント~

正確に言うとその両方ですが、どちらか理解しやすいほうから進めていくことです。

一昨日のコメントで、「それをつかむにはその奥の流れをつかむ(感じ取る)ことですね」とありましたが、それは客観背後や時代の流れを感じ取るということですか?

~いさどんからのコメント~

客観背後までは行かなくても、客観的視点や時代の流れをつかむことです。

以前に、子供達に怖さを感じると伝えましたが、子供達に対する怖さは自己否定、子供に対してこう接しないといけないという勝手な考え方、自分自身が子供の時に同年代とうまく関われなかったことのトラウマから来ていると思います。一昨日のコメントで、「今までの自分を所有していなければ、難しいことではありませんね」とありましたが、勝手な考え方やトラウマにとらわれていることから離れることが、今までの自分を所有しないということなのかと思ったのですが、そうですか?

~いさどんからのコメント~

その通りです。それも世界観を広げる出発点になります。そして、子供の頃のトラウマを卒業して大人になっていく近道です。

 

2015年1月19日 ケア滞在15日目

作業中とおやつの時間に日和ちゃんと一緒だった。日和ちゃんは中学校を卒業してからそのまま木の花に就職した、16歳の大人最年少メンバーだ。主体性があって自分にとらわれていない感じにとても刺激を受けた。正直な態度の見本を見せてもらえた。受け入れられない、嫌われたくない等々、色々な思いが出てきたけど、自分を所有しないことを意識して、できるだけ正直に関わってみた。そのおかけで、日和ちゃんの年代に対する怖さはだいぶ少なくなったと思う。

~いさどんからのコメント~

この感情は、あなたの一人よがりのものです。それを持つこと自体、空想なのです。

~慶晃くんからのコメント~

そうなのですね。わかりました。

この一週間、前回の面談で課題として与えられたリズム良く一日を送ることはできたと思う。でも、作業への集中度はいまいちだと思う。思考を無駄に使うことも少なくなった。体力的な問題と疲れが溜まってきていて、動きが悪くなっている。回復のサイクルがもっとできてきたらと思う。次々と出来事がある中で、基本的なことや一度つかんだことを忘れがちになっている気がする。不安が出る。焦りすぎだと思った。客観的に見れば、何でもないことだと思える。

~いさどんからのコメント~

アンダーラインの所は、もっとしっかり振り返って下さい。細かな振り返りはできています。

夕食後にたかちゃんと話した。たかちゃんと話をすることで、自分自身がこれまで何を経験したか、その経験を通して今どのように考えているのか、何をしているのかを振り返る良い機会になった。それから、作業中のたかちゃんの集中力と集中することへの意識は、僕には足りていないと思うので良い刺激になった。

~いさどんからのコメント~

具体的にどのような内容だったのですか。

 

後編に続く!〉

 


今というトキ 木の花ファミリーというトコロ

みなさん、こんにちは、まりねえです。久しぶりのブログ投稿となります。

今、あわちゃんやしゅうくんなど、木の花ファミリーの自然療法プログラムの卒業生で精神的な病を克服した後、メンバーとなったり、長期滞在してファミリー同様の生活をしている人達が中心となって、こんなイベントを企画してくれています。

題して,『ニート・引きこもりも鬱も希望の光』~初めの一歩が未来を創る~https://www.npo-greengrass.org/?p=49

ということで、様々な行き詰まりを乗り越えてきた企画者達の経験を交えながら、「こんな考え方があるんだ!?こんな生き方もあるんだ!?」というような、今まで知らなかったような視点や生き方を提示していくことで生き生きできる生き方を探っていくという趣旨のイベントです。

これは、木の花ファミリーが母体となり14年前から活動しているNPO法人「ぐりーんぐらす」(旧「青草の会」)で企画運営されるものですが、企画の中心となる彼らは、実際に精神的な病と診断されましたが、自分の内面と向き合うことで、自らの進むべき道を自らの意志で切り開いていこうとするエネルギーに変え、企画者の先頭に立って活動しています。

さぁ、飛ぶぞ~

さぁ、飛ぶぞ~
あれれ~?
あれれ~?

また他のイベントとして、【鬱も統合失調症もプレゼント】ということで、ファミリー同様の親しい関係にあるけいご君が主催している「出張木の花塾」が、5月17日に千葉県の船橋で開催されます。これも今回のテーマは「自然療法プログラム」で、現在生きづらさを抱えている人達が生き生きと暮らせるための仕組みについて語り合うものです。(詳細はhttp://khfm.us/ib150420や、フェイスブックのhttps://www.facebook.com/events/882502535120641/をご覧ください。)

 

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先日いさどんが、「世の中に行き詰っている人達のニーズを知るには、ここに来た経緯を各自が探っていくことにヒントがある」と言っていたので、私の場合はどうだったかを振り返ってみようと思いました。そして、メンバーとなった私のような事例も見知らぬ誰かの参考になるかもしれないと考え、ブログとして書くことにしました。

私は教育大学を卒業してすぐに公立中学校の教諭となりました。教師になって1年目の冬に、風邪をきっかけに原因不明の病気(診断書に記載された病名は、「不明熱」)を発病し、意識不明の危篤状態にまで至りました。その時両親は医者から、「死ぬか頭が狂うかです」と伝えられ、父は、意識を失った私の枕元で大泣きし、当時信仰していた宗教団体の人から、禍の元になっているから燃やすようにと言われたものを全て燃やしたそうです。ICUに移され、40度を超えていた熱も数日後には突然下がり、その後転院し、1か月の検査入院をして、原因不明のまま退院しました。主治医に「何が原因かを教えてほしい」と尋ねたところ、「逆にこちらが教えてほしい」と言われたことが今も記憶に残っています。

これが勤めて1年目の24歳の時で、以来同じ症状で病院はいろいろ変わりましたが、4、5回の入退院を繰り返し、全て病名は「不明熱」でした。こんな病名があること自体驚きで笑ってしまいますが、どの医者もお手上げということだったのでしょう。

これはストレスから来ているのではないかというのが全ての人に共通の認識でしたが、今から考えると、概ね生徒たちとは信頼関係で結ばれ、学級経営も良好であったので、大人(同僚教師や保護者)との人間関係に違和感を感じたことと、元来持っていた性格とものの捉え方の癖により起こった現象だったと思っています。

このように捉えられるようになったのは、ここ木の花ファミリーというところで、ありのままの自分というものがどんなものかを知っていったからです。そして、全てが善意であり、どんな出来事も、学び成長していく為に与えられた愛によるものだということを、ここでの偽りのない生活を通して確信していったことによります。

そのことを具体的な事例として以下のように整理してみました。

 

私がメンバーになる前、木の花ファミリーに惹かれたのは・・・

1)幼少期からずっと「明朗活発」「明るくておもしろい」と言われていた自分が、「森の中の洞窟」といわれるほど実は暗い性質であると言われ、それをそのまま受け取って考えてみると、なるほど思考の方向性が全てネガティブで暗いということに気付いたこと。
(これはメンバーになる前だったので、帰ってしばらく経ってから腑に落ちたことです。)

このようなことは名前から読み取れると知り、質問して、メモをして帰ったくらい興味を持った。そして、自分は変わり者だから理解されないのだと知ってとても納得し、安心した。
(これは今では名前講座として体系化され、誰でも学ぶことができます。因みに近々では、全3回シリーズ『宇宙おじさんの人生講座1』(こころのかたちを知る)が、5月2日から4日まで開催されます。定員に達したためキャンセル待ちになりましたが、第2回目以降も開催されますので、詳細については、http://khfm.us/nw150426 をご覧ください。)

宇宙おじさん

2)ここの人達は正直で100%信じられる人達だと確信したこと。社会の『本音と建前』という常識に疲れていたので、メンバーから言われる言葉一つ一つが新鮮であり、何の利害関係もないのだから、言われていることは全部その人が実際に思っていることだろうと信じられた。そしてこれは、メンバーになる前に大阪から通っていた10年以上の間、どんな光景を見ても、聞いても、揺るがず信じ続けられた。

3)ミーティングが終わってからいさどんに個人的に聞いた宇宙の話や目に見えない波動の話などにより、今までにない感覚を覚え、何かが目覚めた気がする。例えば、帰りの電車で、なぜか人の足に目が行き、突然個々の魂とその背後の想いを感じたことがあった。

4)自分の思考パターンの分析を、いさどんに手伝ってもらいながら進めていった。加えて、言語の背後にあるいさどんの真意を探ったり、感じたりすることもおもしろかった。特にいつも自宅に帰る間際に伝えられた「お土産の言葉」がピンポイントの的を射たもので、帰ってからの自分の指針となった。今から考えると、それが自分の寄る辺の「柱」になっていた気がする。

5)全てが善意と愛からなる神様ゲームであるということを信じることで楽になっていった。

6)いろいろ不思議な事が起こった。そして、それはその時の自分の状態に相応しい形で体現され、今も今の段階に相応しく不思議な事は起こり続けている。けれど、これは宇宙原理であり、誰にでも相応しく起こるべくして起こる必然の出来事であり、奇跡などではないことを知った。

7)自分の日常では出会うことはないであろう人達とも出会えた。また、いろいろな人達の真の姿を見られたことで、「人って実体はこんな風なんだ!」ということを知れるのはおもしろかった。

8)「カルマ」という存在を知れたことや、人との深いかかわりや現象を通して、自分が変化していくことを実感していくことができた。もともと自分は成長欲が強く、変化できないことが不安であったことにも気付いていった。

9)「正直、素直、信じる」ことさえできればいいと言われて自分の目指す方向が明確になったことで、ファミリーメンバーのような気持ちになり、より居心地よくなった。

・・・・・・・う~ん、他にも伝えたいことは山ほどあって、とても書ききれません。
私はそんな欲深な人間なので、直接会ってお話ししましょう。

う~ん
う~ん

 

私は、ここで自然療法プログラムを受けた訳ではないけれど、このように自分の心の癖や思考の傾向を知っていくことによって、どうして自分が原因不明の病気になっていったのかの構造がほぼ解明できました。逆に言えば、思考の進め方次第で以前の病気になることもできるということです。

24歳という年齢で危篤になったことで、人はストレスというような漠然としたもので、命を落とすこともあるのだということを知りました。死はそれ以後私にとって身近なものとなり、いつ死んでもおかしくないという実感が持てたこと、だからこそいつ死んでも悔いのない生き方をしたいと思えたことは、今でも大きな財産となっています。

このような経験をさせてもらったことの意味はまだわかりきれていません。けれども、今の自分があることの意味を、自分の為だけでなく、誰かの為に役立てたいと思っています。私は6年前に教師を早期退職し、ファミリーメンバーとなったのですが、退職前から、よく知る教師が鬱やストレスによって死亡するケースを少なからず見てきました。それには現代の社会背景が大きな起因としてあるでしょうが、全ての出来事は個人に与えられた人生のテーマなのです。一人でも多くの人達がその意味を知り、人生を生き生きと生ききれることを願っています。

また、そんな心の学びや成長は、誰しもが感動したことの一番に挙げる「美味しい食事」(「1ケ月間の真学校」にある、台湾から受講したぶんちゃんのコメント「木の花ファミリーの問題点」http://konohana.sixcore.jp/shingakko/?p=571も参考にご覧ください)と、個性的でかわいい子供達の存在によっても支えられています。

美味しい食事と子供達とともに
美味しい食事と子供達とともに

けれども、何より私がファミリーメンバーになったのは、心を徹底的に観て、人と関わり繋がりあうことを私自身子どもの頃からずっと望んでおり、おそらくそれは生まれる前からそうだったからだと思っているからです。それは、誰しもが心の奥底に真の目的として持っているものなのではないでしょうか。そこに気付いた者達が、自分の癖や汚れを、他のものに向けるのではなく、自らの内側に観て、それと正面から向き合っていくことで調和が生まれ、世の為人の為になっていくのだということを感じられることは、魂が震えるような喜びであり、それは、おそらく木の花を知らなければ、感じられなかった幸福感だと確信しています。

この社会に矛盾を感じているのがむしろ正常だと私は思っていて、その矛盾がなくなる時代がもうそこまで来ていることを実感しています。少数派が一気に多数派になり、価値観も変わり、逆転現象が起こるのだ!! そんなふうに考えると、先が楽しみで仕方がありません。

誰が理解してくれなくても、この生き方を誇れる気持ちに揺るぎはありません。死は必ずやってきて、その時に後悔しない美しい生き方や心を、これからも自己責任で選択して進んでいきます。瞬間瞬間が選択の連続です。「今を生きる」というのはそういうことだと思うのです。
謙虚さをすぐに忘れてしまう自分ですが、一歩一歩自己と向き合っていきます。

私達はいろんな意味で自分達のことを「変態集団」と称しているのですが、それがいよいよ時代の潮流になるのです。

嬉し嬉し、楽し楽しの幕開けじゃ~
嬉し嬉し、楽し楽しの時代の幕開けじゃ~