自然療法プログラムは地球健全化プログラム 〜 7人の人々の体験記

木の花ファミリーを母体として様々な社会貢献活動を行うNPO法人ぐりーんぐらすでは、心身の不調を抱える人々を受け入れ、本来の健康を取り戻すお手伝いをする「自然療法プログラム」を提供しています。
四半期に一度の理事会では、毎回その期間の内に提供された同プログラムの活動報告書が共有されます。以下は、令和七年度第三四半期(2025年11月17日〜2026年2月15日)の活動報告書です。


自然療法プログラム 報告書
2025年11月17日〜2026年2月15日

今期は、自然療法プログラム(通称ケア滞在)が5件、同プログラムに関連する相談が3件ありました。特筆すべきは、そのうち6件が台湾の方であったことです。

10月29日より2ヶ月半の滞在予定で来訪した18歳の台湾人女性、Sさんは、2024年に当法人の「パウロ基金」の支援によるインターンとして来訪した、当時17歳の台湾人女性、Aさんの同級生です。高校在学中ながら不登校が続いていたAさんは、当時19歳でギャップイヤー(高校から大学へ入るまでの猶予期間)中であった兄と共に、持続可能な暮らしを学ぶインターンとして木の花ファミリーへ来訪しましたが、滞在を始めて間もなく、Aさんは精神的に不安定な状態であることがわかり、自然療法プログラムを受けることになりました。主治医であるジイジとAさんとの面談には、Aさんの母親も毎回リモートで参加し、Aさんが自らの情緒不安定をどのように乗り越えていくかを学ぶと同時に、母親もまた、Aさんの不安定さが母親との関係にも起因していることを理解し、自らの姿勢を見直すきっかけとなりました。同年秋には母親自身も来訪し、主治医との面談をはじめ様々な体験を通して同プログラムの有効性を実感した彼女は、台湾に帰国後、周囲の人々に娘と自らの体験を共有しました。その中の一人が、Sさんです。

AさんとAさんの母親から話を聞いて関心を持ったSさんは、ギャップイヤーを利用して木の花ファミリーへ来訪し、当初はヘルパーとして滞在しながら様子を見ていましたが、ファミリーメンバー達が集う大人ミーティングを始め、木の花ファミリーの日常を体験していく中で、やはりもっと深く自分のことを知って変化したいという思いが募り、11月23日より自然療法プログラムをスタートさせることとなりました。ただし、Sさんは病気だったわけではありません。Sさんは学校などではそれなりの評価をされる生徒でしたが、心の中では常に虚無感を感じ、いろいろなことをやってみるものの本当にやりたいことが何なのかわからず、自分がどこにも所属しないように感じて将来への漠然とした不安を抱えていました。それは病気ではなくSさんの心の性質(及び社会的環境)から来るものですが、それを正しく認識せずに歳を重ねていくと、やがては病気にも発展し得るものです。そこで、18歳という年齢で経済的にもまだ親の庇護のもとにあるSさんに適した滞在形態として、半日はヘルパーとしてコミュニティの作業を手伝い、半日は日記を書くなど自らを振り返る時間を過ごすことでプログラム費を半額にする「ハーフケア」という形でプログラムはスタートしました。

プログラムを始める以前から毎日日記を書いていたというSさんは、早速翌日から日記を提出し始めました。日記には、物事をネガティブに捉え、解決策の見えない思考を延々と回し続けるSさんの性質が表れており、その思考回路がこれまでの晴れない人生をつくってきたのだから、それを変化させるためには、そのような自分の性質をよく理解して、思考回路を切り替えていく必要があることが主治医から伝えられました。主治医はSさんの性格分析を行い、それが日常の中でどのような思考や感情を引き起こし、その結果が現在の人生にどう繋がっているのかを、日記へのコメントを通して繰り返し解説しました。Sさんは表面的にはその言葉を受け取っているようでありながら、実際は自身の主観的見解にこだわり他からの視点を受け入れられず、それが主観であることにも無自覚なまま、日記には同じ思考パターンが綴られ続けていきました。このまま続けていてもSさんに変化は起きないと判断した主治医は、プログラム開始から10日が過ぎた12月4日、このプログラムを休止することをSさんに提案しました。この投げかけを受け、それまでの主治医との日記のやり取りを全て見直したSさんは、自分が一方的に同じパターンの内容を書き連ね、主治医からのアドバイスが、本人曰く「水に投げ込まれた石のように消え去っていた」ことに気付きます。それは、それまでずっと主観で物事を捉え続けてきたSさんが、初めて客観的に自分を認識した瞬間でした。これを機に、Sさんの物事の捉え方に変化が起こり、自らのどのような性質が人生を行き詰まらせてきたのかを理解し始めます。そしてこのSさんの変化が、その後の台湾人ケア滞在の連鎖につながっていきました。

Sさんの変化と前後して、33歳の台湾人女性Mさんが、2週間の滞在予定でヘルパーとして来訪しました。Mさんはもともと台湾のシュタイナー学校の教員として働いていましたが、人生に充実感を見出すことができず、大学院に通い直したり、世界各地を旅したりする中で、以前から関心のあったという木の花ファミリーに立ち寄ったのでした。Mさんの来訪後すぐに、大人ミーティングでSさんが自らの変化を綴った日記を発表し、MさんはSさんの大きな変化の体験を目の当たりにします。そして、12月10日、日本での滞在期間を延長するため一時帰国することになったSさんは、皆の前で滞在を振り返っての挨拶をすることになり、その通訳を、日本語の堪能なMさんが引き受けることになりました。自分はいつも人からどう思われるかを気にして人前で話すことができなかったけれど、今は心の底から湧いてきたことを自然に話せます、と生き生きと語るSさんの言葉を通訳しながら、Mさんの中にも「自分のことをもっと知りたい」という思いが湧き上がり、3日後、Mさんは自然療法プログラムに申し込みました。Mさんもまた病気ではなかったため、Sさんと同じ「ハーフケア滞在」をすることになりました。

自分は特に人生に問題を感じていない、ただ自分のことを知りたい、と当初語っていたMさんですが、実際にプログラムを開始してみると、学業は優秀でもどこか精度が悪く達成感を得られずに生きてきたMさんの人生が浮き彫りとなり、その原因が本人の人間性にあることを主治医が分析すると、Mさんはその分析内容を理解する前に「ではどうしたらよいですか」とマニュアル的に解決策を求めるやり取りが続きました。学業優秀な人が陥りやすい、「正しい答え」をもらってそれを記憶すれば合格できるという現代教育の弊害がMさんにも根付いており、最初の1週間はなかなかそこから抜け出すことができませんでした。しかし、人生に「正しい答え」はありません。主治医との日記のやり取りを通し、必死に正解を求めようとしたMさんでしたが、正解を求めれば求めるほど、主治医からは「そうではない」という答えが返ってきて、Mさんは完全に行き詰まることとなりました。
しかし、その行き詰まりの結果、大切なのは「どうしたら良いか」という正解を得ようとすることではなく「なぜそうなるのか」という仕組みを理解することだ、ということにMさんは気付きます。それ以降、自分の人生を改善してくれる手法を他力本願的に追い求めていたMさんの意識が、自らの内側を探求することに向かい始めました。この方向転換が起きたことで、あとはその方向性に沿って探求を続けていけば「どうしたら良いか」は自らの中から自ずと湧き出してくるようになるのだから、Mさんはプログラム開始から9日目にして「もう卒業してよい」と主治医から伝えられました。
しかし、卒業が伝えられた直後の日記の中で、現実から乖離した願望的思考が膨らむ様子が見られたことから、ただ思考の中で理想を描くだけでなく、地に足のついた実践として変化を確実なものにするために、プログラムを続行することとなりました。Mさん自身もまだ学びが不十分であることを実感してプログラムの続行を望み、結果として1月7日まで滞在を延長することとなりました。
自身のことをもっと知りたいという理由から始まったMさんのプログラムは、日が経つにつれ、ただ自身を探究するにとどまらず、自らを深く理解することを通して人間とは何であるのかを探り、人類が地球上に生まれた真の意味への探究へと向かい始めます。それはMさんの中に眠っていた鋭い分析力を花開かせ、周囲にも大いに刺激をもたらすものでした。

Mさんの滞在中に、41歳の台湾人男性Cさんが、妻と6歳の息子と共に年末年始の休暇を過ごすために木の花ファミリーへ来訪しました。Cさんはエンジニアとして働き、一見問題なく社会生活を送っているように見えましたが、実際は子どもが生まれて以降抑うつ状態が続いており、現在も月に1回精神科を受診しているとのことでした。精神科でうつ病と診断されるまで、妻はCさんがうつ病だとは思わなかったほど、表面的には普通の日常生活を送っているCさんですが、滞在中にMさんから自然療法プログラムの体験談を聞いて強い関心を持ち、主治医との面談を申し込みました。面談ではCさんの性質や家族関係の分析が行われ、自分がなぜうつ状態になっているのか納得したCさんは、台湾に帰国後、プログラムを受けるために長期休暇が取れるかを確認することとなりました。

年が明け、台湾に一時帰国していたSさんが再び来訪し、さらに世界観を広げることに取り組むため、ハーフケア滞在を再開しました。この時、Sさんから体験談を聞いて興味を持ったSさんの友人である19歳の台湾人女性Yさんも、2週間の予定でSさんと共に来訪しました。大学1年生で一見明るく見えるYさんも、大学入学以降無気力状態が続き、人生の方向性が見えずに「心が空っぽな感じがする」と悩んでいました。
ちょうど同時期に、24歳のインド人女性、Rさんが滞在しており、Rさんはケア滞在ではありませんでしたが、社会生活不適応の側面が強く、主治医の厚意で複数回面談の場が持たれていました。面談の場で、地球暦の読み解きを通し自らの性質を伝えられたRさんは、「もっと地球暦への理解を深めたい」と希望し、Rさんのリクエストにより2日間にわたる地球暦講座が開催され、Rさん、Sさん、Yさん、Mさん、Cさんが参加しました。それまで各々の性格分析のみを聞いていた参加者たちは、講座の場で他の人も交えた読み解きに立ち会うことで、人にはそれぞれ違った個性があることを知り、そこに優劣はなく、違ったもの同士がつながり支え合うことで、ひとつの完全な世界になるということを、もうひとつ大きな世界観から理解するきっかけとなりました。
講座後、Yさんもまた自らの性格分析を受けることを希望し、主治医との面談の場が持たれました。人生の方向性が見えずやる気が起きないことを悩んでいたYさんですが、主治医より、Yさんには人と違う個性があること、それを無理やり既存社会の枠に当てはめようとするよりも、従来の価値観とは違う新しい何かが湧いてくる可能性に意識を向けていくと良い、ということが伝えられ、これを機に、Yさんは持ち前の明るさをより発揮するようになります。Yさんはプログラムを受けたわけではありませんが、この面談と、Sさんや後に来訪するOさん、Eさんなど他者の面談にも立ち会う中で、様々なことを吸収し、出発前日の1月15日の大人ミーティングでは「これまで、本当にやりたいことが見つからなくてずっと焦っていたけれど、それは時が来れば相応しく出会うものであり、焦って掴もうとするものではないことを知りました。今は人生に希望を感じています」と自らの変化を皆の前で語りました。

Yさん来訪の1週間後に到着したOさんは、Yさんと同じくSさんから木の花ファミリーのことを聞き、なぜかそこに行きたいという強い衝動を感じて、初めての一人旅を決行し、来訪しました。Sさん、Yさん、Oさんは、元々同じシュタイナー学校に通い、学校近くの家で共同生活をしていた友人同士です。Oさんは始めから自然療法プログラムを受けるつもりで来訪しており、到着早々に主治医との面談の場が持たれました。Oさんは、幼少期に父親から体罰を受けたことのトラウマや、正体不明の抑圧感、何も打ち込めるものが見つからない無力感を解消したいと思っており、1月13日から、同じくハーフケア滞在をスタートしました。

Sさん、Oさん、Yさん、さらにはMさんやCさんも含め共通して見られるのが、人生の明確な目標が見出せず、皆表面的にはそれなりに社会生活を送っているようでありながら、心の中では空虚感を感じているということです。主治医はこれを、中国との強い緊張関係にある台湾の現在の状況が影響していると観ました。Sさん、Oさん、Yさんの10代3人に、今の社会情勢に関心を持っているかを聞くと、最初は皆首を横に振りましたが、さらに話を聞いていくと、関心がないというよりも、関心を持ったところで自分たちにはどうすることもできないという諦めがあることを話し始めました。さらにMさんからは、他国と比べて、台湾全体がかなり強い金銭的不安に包まれている、という台湾社会の現状が共有されました。祖父母の時代と比べてお金を稼ぐことが大変になっており、物価も上がり続け、人々が将来に希望を見出せない状況になっているというのです。
さらに主治医は、シュタイナー教育の影響にも言及しました。Sさん、Oさん、Yさん、さらには2年前に同プログラムを受けたAさんとその兄もシュタイナー学校出身であり、Mさんもシュタイナー学校の元教員です。本来シュタイナー理論とは宇宙哲学であり、それは変化変容する宇宙の実態に即するもので、マニュアルのように一律に捉えられるものではありません。ところが、それが現代の教育現場へ持ち込まれた時にマニュアル化され、シュタイナーの精神を真に理解していない教師たちによって魂の抜けた状態で教育として提供されるようになり、その結果がそこに関わる人々の状態に顕れていることが窺えました。共通点の一つとして見られたのが、日記を書く際に、非常に論理的かつ美しい文章で理論を展開するのですが、それが現実に反映されず、思考の中だけで展開していく傾向が強いことです。彼らは物事について深く思考することを教えられますが、柱のない状態で深掘りしていくため方向性を見失い、かえってうつ状態になったり、自らの思考のクセを理解せぬまま考えを回し続けるため、現実から外れた思考を暴走させることにもなります。
Sさんからは、学校では文章の美しさや文字数が重視され、現実の探究よりも文章を書くこと自体が目的になってしまっていることや、学力競争の厳しい台湾社会の中でシュタイナー教育でいいのかという不安が生徒たち自身の中から上がり、教師たちが困惑して中途半端な状態になっているという現状も伝えられました。主治医からも、そのような台湾社会の中でシュタイナー学校という特殊な学校に子どもを通わせる親の側も「子どもにこうなってほしい」という理想を抱いており、そういった親の思惑が子どもに良い影響をもたらさない可能性が指摘されました。

そのような中、プログラムを通して主治医が一貫して伝えていたのが「人生に教科書はなく、教師もいない」ということです。
シュタイナー教育に限らない現代教育の弊害として、正解を得て問題に対処しようとする傾向が共通して見られましたが、主治医からは常に以下のことが伝えられました。「僕は先生ではありません。もし僕が正解を伝えて問題が解決したとしても、次にまた何か問題が起きれば、あなたはまた僕に頼らなければいけなくなる。そうではなく、あなた自身の中から答えが湧き出す人になることです。人生とは、その都度その都度新鮮な生の出来事を通して、そこから何を感じ取り、どう行動に繋げていくかという、生きることの根底にある実力を育てることです。それは現代教育のように記憶力に頼って評価を積み上げるのではなく、学習をしなくても自らの中から湧き出してくるものです。そういう人に、あなた達になってもらいたい。そうすれば、あなたはいつも誰かに助けてもらおうとするのではなく、人を助けられる人になります。」

Oさん来訪の翌1月10日には、24歳の台湾人女性Eさんが、母親に連れられてやって来ました。Eさんの母親はSさんの母親の会社で働いており、Sさんの体験談を聞いた母親が、「双極性障害」と診断された娘のEさんに自然療法プログラムを受けさせることが目的でした。Eさんは、日常的に手の震えやパニック発作などの症状があり、病院から約10種類の薬を処方され、日常的に服用していました。薬の副作用でぼんやりすることも多く、その日の気分によってベッドから出てこない等、まともな社会生活が送れていない状態でした。Eさんは英語を話せないため、ちょうど同時期に居合わせたSさん、Oさん、Yさんが通訳を務めることとなり、それは3人にとって、他者の病的症状の原因を客観的に観察する良い機会となりました。
初回面談でEさんの人間性を見抜いた主治医は、Eさんに「あなたは病気ではない」と伝え、Eさんにとって病気が現実逃避の手段となっていることが話されました。それから3日後の1月13日、Eさんは夕食中にパニック発作を起こしましたが、それも人の注目を集めるための一種のパフォーマンスであることが主治医から伝えられると、翌日からEさんは、自主的に薬を摂取することをやめました。その後今日に至るまで、一度も発作は起きていません。これは、Eさんは元々薬を必要とするような状態ではないことを物語っており、そこには、そういった人をも病気と診断し、薬を処方して利益を上げる現代医療の問題点が観えてきます。
Eさんの症状は病気ではなく、本人の人間性によるものであり、問題の原因を周りのせいにして愚痴を言い続けるのではなく、問題の原因である自らの性格を改める必要性が伝えられ、本人にそこに取り組む意志があるかが問われました。Eさんは取り組む意志があることを表明し、まずは社会人として当たり前の暮らしができるよう、規則正しい毎日を送ることを目標として、現在も滞在を続けています。
(後日談:この報告書が作成された2月16日以降も、Eさんは主治医からのアドバイスを素直に受け入れながら自己改善に取り組み続け、ひとつ課題をクリアするごとに違った景色が見えるようになっていくことを体験します。病的症状に浸り部屋にこもって不満を言い続けていた過去の生活よりも、自らの癖を理解してそれを律し、規則正しい生活を送って皆と共に過ごす日々の方がずっと心地よいことを実感し、自分にそれが可能であることに自信を持ったEさんは、3月6日に無事プログラムを卒業し、台湾に帰国しました。後日Eさんの母親より、帰国後Eさんは規則正しい生活を送って仕事にも行けるようになり、薬は全く服用せずに生き生きとした日々を送っていることが報告されました。)

2月1日にOさん、2日にRさん、6日にSさんが、それぞれにオリジナルな滞在プログラムを終了し、人生の新たな段階へ向けて旅立っていきました。
3週間でプログラムを卒業したOさんは、短い滞在の間に様々なアップダウンを体験し、その度に大きく感情が揺れ動いて落ち込むこともありました。それを何とか理屈で解釈して解決しようとするのですが、その理屈自体が自身の主観的感情に囚われた視点に基づいているため、考えれば考えるほど視野が狭まり行き詰まっていくOさんに、主治医は、囚われた視点から一歩引いて眺めてみる心の余裕を持つことの大切さを伝えました。実際にそうしてみると、何とかしようと必死にもがいていた時には見えなかった景色が見えてきて心がずっと軽くなることを体感したOさんは、自分がそれまでいかに自滅型の思考を回し続けていたかを自覚し、新しい世界はどこか遠いところではなく、すぐ隣りにあるのだと気づいたのでした。
行き詰まりがあったからこそ、新しい世界に出会うことができた ──── その体験を経て、Oさんは、それまでシュタイナー学校で教えられてきた「全ては善きことのためにある」とはどういうことなのかがずっとわからなかったけれど、今は以前よりもその意味がわかるようになったと、出発前日に皆の前で語りました。自分はここに来たことで想像以上に成長したこと、そしてこれからは学んだことを日常の中で実践する日々が始まること、道のりは長いけれど、ここで得た教訓を胸に前進し続け、いつか「人生の真の意味」を掴みたい、と語ったOさん。当初はSさんやMさんと同じように正解を求めて主治医に質問をし続けていましたが、自らの足で歩むことの大切さに気づき、滞在最終日の主治医との面談では、もう質問が湧くことはありませんでした。そんなOさんに、主治医は「こうすれば良いというマニュアルはないけれど、もしも一つだけ、どうしたらよいかということを伝えるとしたら」と前置きした上で、以下のことを伝えました。
「どんな時も、逃げずに、人生の中で出会う一つひとつの現象と向き合うこと。それを正確に観て、そこから学んで、恐れずに進み続けること。教科書という固定された枠の中ではなく、一瞬一瞬の現象を新鮮に体験しながら自分オリジナルの学びを続けることが、生きることの意味なのです。」

出発を翌日に控え、寂しさを感じてもいたOさんでしたが、帰国後も行き詰まったり或いは成長を感じたりすることがあったら、これからも日記を書いて送ってきても良いことを伝えられて安心し、最後はとても晴れやかな笑顔でした。面談後に書かれた滞在最後の日記は、以下の言葉で締めくくられていました。
「家に帰ってからの生活はこことは全く違うものになるけれど、この短い3週間と、そこで築いたすべての繋がりを、心から大切に思っています。これからそれがどれほどの影響をもたらすのかはまだ分かりませんが、きっと小さくはないはずです。ここへ来て、皆さんと出会えたことに感謝します。このプロジェクトに一緒に取り組んでくれた主治医とサポーターに感謝します。迷わずこのプロジェクトを選んだ過去の自分に、そしてここに来る機会を与えてくれた宇宙に感謝します。
そして、木の花ファミリーとのこの絆を永遠に保ち続けたいと願っています。またね!」

現代は、一見何事もないかのように見える人々の多くが、心を病んでいます。そしてその病んだ心が、社会の闇に繋がっています。そのような中で本プログラムを提供することの意義について、主治医は以下のように語りました。
「私が人々に伝えているのは、人間が本来の地球的役割に目覚めるということです。人間が地球に現れるずっと以前より、この地球物語は始まっています。では、宇宙はなぜ、地球という星を誕生させたのか。そしてそこになぜ、人類というひとつの種を降ろしたのか。その物語の中の出来事を通して、この星に今このような形で存在する人間は、被創造物として何を求められているのか。それを紐解いていくことが、これから人間が地球上に存在していく上で、重要になると思います。現代の世界情勢を観ると、人間はその回答を差し迫られていると思うのです。
人間が地球生命としての本来の生き方に目覚めることは、人々が流れよく無駄のない、そして争わない人生を生きることに繋がります。一人ひとりが真に健全な人生を生きることが、地球を健全にするのです。自然療法プログラムとは、一人ひとりを健康にすることで地球全体が健康になる、地球健全化プログラムなのです。」

 


同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【後編】

2024年1月のよく晴れた日、「散骨式~自然へ還るセレモニー」が行われました。

*この散骨式の意味については、同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【前編】をご覧ください。

大晦日に粉骨された六柱のご遺骨が、参列者一人ひとりの手によって、自然の循環の中へ還されていきました。

生前の面識がある人もない人も、皆で少しずつご遺骨を受け取り、自然の中へお還しします

昨年親類が旅立ったメンバー達も、皆と一緒に散骨をしました。

お母さんの骨をまくのりちゃんとれいちゃん
きたじゅんはお祖母さんの骨を木の根元に還しました
お姉さんの骨をまきながら「姉も喜んでいると思います」とありりん

ありがたいことに、散骨式の日は毎年、澄み切った青空が広がるとても暖かい日となります。今年は特に風が強く、時には遺骨が風に乗って、空高く舞い上がっていきました。

みんなで「せ〜の!」で遺骨をまいたら、あっという間に風に運ばれていきました
風に手を振ってお見送り

小さな子ども達も、一緒に散骨します。

みんなが自然に笑顔になって、「私も早くこんなふうに見送られたい」という声も。

散骨後は、「太陽の導き」と「カタカムナ63首」の舞と歌が奉納されました。

六柱を代表として、同じ時に旅立ったたくさんの魂に思いを馳せながら、皆で共に見送る散骨式。最後に、ジイジは以下のように挨拶をしました。

毎年、ナイジェリアの研修生から贈られた民族衣装で散骨式に臨むジイジ

新しい時代への出発(たびだち)

今、皆さんに挨拶をしようとしましたら、急に風が強く吹いてきました。

今日は、空の青がとてもきれいですね。この散骨式に臨みながら、時代は変わった、ということを思っていました。時代の動きというのは、人間の歴史だけではなく、地球ができてから、もっとさかのぼれば、宇宙の始まりまで想いが飛んでいきます。そして、そこからずっと繋がって、今この場所があります。私たちが日々ものごとを考え、こういった世界を創って生きていることの結果として、この場所があるのです。
現代には、豊かそうに見えて、実際は幸せでない人がたくさんいます。お金がないとか、日常の中で悩み、生きることに行き詰まっている人々が多いのです。2024年の今年は、年が明けたら大地震があり、翌日には飛行機事故があり、昨日は九州の小倉で大きな火事がありました。それだけではなく、ウクライナやガザでは、今も毎日多くの人々が殺されています。人類が誕生してからこれまでの結果を見てみると、なぜ人間は、地球上の生命として生まれてきながら、こんなに悩まなければならないような世界を創ったのか、なぜそんな生き物になってしまったのだろうかと、私は疑問に思うことがあります。
どうですか?もしもこの世界から、パッと人間を取り除いたら、他に生活に困る生き物はいるでしょうか?鳥や猿や植物が、明日の暮らしのことで悩んではいないでしょう?みんな自然の仕組みの中に組み込まれ、その仕組みの中で植物は植物のように、動物は動物のように自らの位置を生きている結果、誰も明日の心配をしていません。未来の心配もしなければ、過去のことに悩むこともない。しかし、どうして人間は、こんなにも高度な世界を創り、まるで地球が人間のものであるかのように振舞いながら、実際の一人ひとりは毎日生きることに悩み、明日どころか今日食べるもののことすら心配するような世界を創っているのでしょう。

過ぎたるは及ばざるが如しと言いますが、何かが足りなさ過ぎる。そしてもう一つ。何かが多すぎる。何かをたくさん求めすぎている。自らが頂いていることへの感謝が足りなさ過ぎるのです。
それで、ふと思いました。この高度な生き物が、本当の意味でそれに相応しい高度な世界を達成するとしたら、どうしたら良いのか。たぶん、一人ひとりが与えられている「自分」という個性を、自分のものだけにするのではなく、みんなのために使うようになったら、きっと高度な完成された世界ができるのではないでしょうか。
人間以外の生命は、この大いなる自然の循環の中で、みんなそのように生きています。この芝生も、そこに生えている木も、落ち葉も、みんなそうです。この銀杏の落ち葉は、ついこの間までは見事な黄色で、銀杏の木を黄金色に彩っていました。それが落ちて、このように茶色くなって姿が変わっても、そのことに悩んでいないでしょう?「ああ、落ちちゃった」とは言わないでしょう?髪の毛も、「ああ、抜けちゃった」とは言わないでしょう?(みんな:笑)
葉が落ちた銀杏の木には、このままずっとそうなのかと言ったら、春になるとまた新しい葉が芽吹いてきます。それは、銀杏が自分の力で一生懸命やるのではありません。自然に委ね、その循環の中に、自らの立ち位置や、変化の姿も頂いているのです。そのような意識になって、人間がこの高度な能力を全体のために使い、それぞれの役割を果たす助け合いの世界ができたら、誰も、明日のことにも明後日のことにも、未来のことに悩む必要はなくなり、過去のことにくよくよすることもなくなるのです。

こういった心境で生きることは、とても難しいことのように思えます。実際、現代の人々には本当に難しいでしょう。テレビを見ると、いかにもこんな風になったらいいというように、いろいろな世界がこれでもかとばかりに迫ってきますが、その番組に出ている人が自分の普段の生活に戻ったら、テレビで見せていたのとは違う心をしているのです。テレビ番組は、そこで意図的に特定の世界を表現し、実際にある日常のいろいろなことを隠して放送されています。そしてそれを見る側は、ものを観る目がないと、世の中がみんなそういう風であると受け取るのです。だから、ぼーっと見ていると、騙されていることに気付かない。しかし実際には、テレビの向こうの人々にも、テレビのこちら側で見ている自分と同じように、毎日の暮らしがあるのです。

今日は1月の4日です。なかなか世の中に、縁ある人々がこのように賑やかに、亡くなった人を見送る場所はないでしょう。今日は風まで手伝ってくれて、ご遺骨を土の上にまくつもりだったのに、風が運んでくれて、空高く飛んでいったご遺骨もありました。(みんな:笑)
生きるということは、生き物にとって絶対のことです。そして約束通り、死ぬことになっています。ところが、人間だけが死ぬことを暗いことと捉え、それを避けたい、そこから逃げたいと思うのです。ですから、お葬式もお墓も暗いイメージです。しかし、この散骨式は明るくて、空は真っ青です。そして風が吹いて、もう未練も何も吹き飛ばしてくれたようです。とても良い日です。そんなふうに、人を見送ることができる。骨を自然に還すということは、最後の物理的要素を還すということです。最後のものをとうとう手放し、新たなスタートを切る出発(たびだち)です。

そういった軽い心になったら、自分に近いものだけに囚われなくても、みんなと本当に助け合って生きる、自然の大循環の仕組みのような世界が創れます。今、テレビの向こうにはテレビの向こうの世界があり、道沿いの家々の窓明かりの向こうにも、それぞれの家庭生活があります。それは1軒1軒の家の話ですが、そのたくさんの家が集まって創られている国では、良い国を創ろうと言っていろいろと策を練り、他の国と争ったり、争うための兵器をどのように作ろうかと画策しています。それは、平和で豊かな世界では不要なことです。
これは、とても素朴な話です。だから、それが最終的に人間が求めるべき世界であり、そのような時代が始まったということを今年に入って実感しています。それは、より高度に、より便利にということばかりを求め続けてきた人間にとっては、なかなか気付けないことですが、実は、自然と共に素朴に生きてきた生命としての延長に、そのような世界ができそうな気がしています。それを今僕は語っていますが、みんなはそれをイメージとしてわかるかな?これからの時代は、それをわかる人にならなければいけません。

おそらく、これは現代の人々にはわからないでしょう。しかし実際に、この自然の世界では、悩んでいるものはいないのです。
(ここで、さらに風が強く吹いてきて)風が、そうだと言っています。生命として生きる上で、余計な争いをして悩みを作って生きていくことは、もうやめましょう。それが可能だという見本を創らなければいけないと思っています。それには、みんなの協力が必要です。みんな、協力してくれますか?(拍手)
それが達成されたなら、人が生きる上でそんな素晴らしい場所を創れたなら、それが生きることの一番の目的であります。

現代では、このような散骨式は普通ではやりません。やらないからこそ、そのようなことをやれている価値観の下で生きていることを、誇りにしていきましょう。今までになかったことをやり、今までにいなかった人になり、これまでになかった生活をしていく。それが、新しい時代への出発(旅立ち)をする人々の姿勢だと思います。漠然としていますが、何かが観えてきました。誰もやらなかったことを、これからやっていく。そのためには、気持ちに縛りがあってはいけません。これから始まる新しい時代を楽しみに、軽い気持ちで、今はまだ気付かないたくさんの人々へのヒントとなる暮らしをしていきましょう。
みんな、よろしく!

 

セレモニーを終え、みんなの表情は最初よりもずっと晴れやかになっていました

 


同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【前編】

木の花ファミリーでは、お墓を持たずに、旅立った魂の遺骨を自然の循環の中に還すということで、毎年大晦日に粉骨式を行い、年が明けると「散骨式~自然へ還るセレモニー」を開催しています。
この取り組みは2021年の暮れから始まり、今年で3回目を迎えました。粉骨式では、木の花ファミリーのメンバーのみならず、メンバーの家族や友人、また、縁あって寄せられた様々な方々のご遺骨を、心を込め、人の手で丁寧に砕いていきます。そうすることで、そこに刻まれてきた人生の軌跡もまた、小さな粒子となっていくのです。

旅立った魂に想いを馳せながら、丁寧に骨を砕きます

そして年が明けた散骨式では、生前に出会ったことのある方もない方も分け隔てることなく、参列者皆で自然の中にお還しし、魂の旅立ちを見送ります。それは、小さな子ども達からお年寄りまであらゆる世代の人々が、旅立った方々の生きた軌跡が生命のふるさとである自然の循環の中へ還っていくことを感じ、命とは何かを共に確認する、とても温かい時間です。

富士山麓の自然の中で、思い思いの場所に遺骨を還します

今年は、年明け早々に能登半島で大きな地震がありました。そして、ガザやウクライナを始め世界各地で終わりの見えない紛争が続き、多くの魂が不遇な死を迎えています。
そのような世界の現状を振り返り、散骨式前日に、ジイジは以下のように語りました。


骨を残すということは、形に執着する原因にもなります。形に執着せず、地球生命生態系の大循環の中に還すことで、物理性もまた大いなる流れの中へと還っていくのです。私たちはこの大循環の中で命を頂き、日々循環を繰り返すことで命をつないでいます。そして、最終的にその命を返上しリセットする段階において、肉体という魂の器を自然に還すことで、一切の形への執着を解きます。それは即ち、魂が宇宙の大循環へ還るという、人が存在することの最終目的に到達するルートを創るということです。遺骨を粉骨して撒くということは、その悟りへの第一段階であり、最も身近にできることです。

旅立つ魂がどこに還っていくのかは、それぞれの魂の修行の結果である精神の位置によって決まります。その一方で、形の世界を生きた証として、私たちはこれまで、形の世界にその痕跡を残してきました。しかし、お釈迦様の旅立ちには、墓もなく、戒名もありませんでした。
人間以外の生き物は、そもそも執着を持たないため、どのような死に方をしても美しいものです。しかし、人間の魂は複雑にできており、執着が多いため、器と魂の存在した痕跡をきれいにしていく必要があります。その後押しを、生き残ったものたちがするのです。その仕組みを知ったものたちが送ることによって、未熟であったものたちにも昇天する機会を与えるのです。

今年は、ご縁のあった六柱のご遺骨が集まりました。その中には、生前の姿を見たことはなく、接したことのない方々もいます。しかし、同じ時を生きたものとしてのご縁によって、そのご遺骨を粉骨、散骨させて頂くことになりました。
そして、視野を広げれば、同じ時を生きて、この物理的世界を卒業した魂は世界中にたくさんいます。そこには、直接出会ったことはなくとも、同じ時に旅立つというご縁があります。世の中がこのように混沌とした時代には、良い旅立ちをするものばかりではなく、不遇な旅立ち方をした魂もたくさんいるのです。
その魂の旅立ちの役割の意味を深く受け止め、現世を生きるものたちがより良い歩みに繋げていくことができたなら、その魂の旅立ちもまた、より善きことへ向かうための意味を表すものに変換されるのです。この物理的現象世界には様々な次元の旅立ちがありますが、その一つひとつを、より善きことへ向かう学びとして受け取っていくこと。現世を生きるものたちの心次第で、旅立ったものの歩みを無駄にしない。そのような自覚のもとに、この散骨式を執り行っています。

こういったことを宗教と見る人々がいますが、これは宗教ではありません。これは、粛々とした時空との付き合いである現象界の、最終段階でのお手伝いです。それを美しくしていくことは、原因と結果により成り立っているこの現象世界において、現在の結果をより良い原因として、次の結果をより良きものへとしていくための当然の行いであり、賢明な者にとっては当たり前のことなのです。そして、なぜそれが要るのかと言うと、人々が未だ悟れていないからです。
これから、まったく新しい人の意識の在り方を開拓していかなければなりません。そういった想いが、考えて出てくるのではなく、自らの中から湧き出してくる。その時に、「本当にそうだ」と思えることが湧き出してくる。これまで一般社会では受け入れられなかったことを理解できる人々が、たくさん現れてきます。なぜなら、私たちは今、そのような時代を迎えたからです。

今回ここでお送りするのは六柱ですが、その方々を代表として、同じ時を生き、旅立ったすべての魂に思いを馳せて送る。そのような自覚をもって、この散骨式に臨みましょう。

 

同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【後編】

 


みんなでこの星を良い星にしていきましょう 〜 中国からのゲストとの座談会

2023年5月から6月にかけて、ある中国人のグループが木の花ファミリーを訪れました。
中国のコミュニティで共に活動している彼らは、人が心を磨いて真我に目覚めることを活動の基盤としており、「木の花ファミリーの世界観を学びたい」と、滞在中に繰り返しジイジと話し合う場が持たれました。
以下は、滞在最終日に行われた座談会の記録です。座談会には、自然療法プログラム卒業生のワンホーも通訳として参加しました。

 


 

Eさん:
昨夜の大人ミーティング(木の花ファミリーでは毎晩、大人メンバー全員が参加する「大人ミーティング」があります)で話し合われていたことにも関連しますが、人々が地球にとって良いことをするために、どうしたら心をひとつにすることが出来るのだろう、と思いました。どうしたら、同じ目的に向かって意思をひとつにすることが出来るのでしょう?

ジイジ:
それは、手法を考えても難しいですね。例えばアメリカ発祥の自己啓発セミナーのように、人の意識を高めるためのトレーニング方法というものが現代社会には色々とありますが、そういったものは、人々の「このようになりたい」という思惑をくすぐるようになっています。それは自らの欲を満たすためのものであり、欲を満たすことでさらに自我が増幅されますから、その延長線上でいくら「心をひとつにしよう」と思っても、結局そのようにはなりません。
あなた方はこういった考え方をよく理解できるだろうと思うのですが、人間の「ああしたい」「こうなりたい」という欲の心をくすぐるのではなく、もうひとつ別の視点からこの世界を観て、現代につながる地球上の歴史が、いったい何によって動かされているのかに気付くことだと思うのです。

例えば、人の中には、自らの自我を超越した精神状態を発揮できるスイッチがあります。
それは全ての人にありますが、そのスイッチを入れる段階というのは、人間の思惑によってあるのではなく、何ものかが推進する大いなる時代の物語のプロセスの中にある、と僕は観ています。そういったプロセスは、地球に起きる歴史が創る地球物語であり、それがあることの証として、今人類は、未来に向かってより良い社会を築いていくための方向性を見失っています。その状況は、より強く欲に翻弄される方向へシフトしています。それは何を意味しているのかと言うと、欲のままに進み続ける人類にはまだその方向は観えていませんが、その歴史を動かしている物語にとっては、諸刃の剣である人間の能力がもたらすネガティブな状況がピークを迎えることによって、未だ目覚めない多くの人間たちのスイッチを入れようとしているのです。
僕の年代(70代)の人たちが引き受けている役割と、その中でも僕が引き受けている役割は、その扉を開くための土台を築くことです。そして皆さんは、その土台の上で次の時代を担い、さらにその先の世代へ繋げていく役割です。つまり、年代によって物語が紡がれていくのであり、それは今この時代だけで完結するのではなく、過去から未来まですべて繋がって、地球の歴史として表現されていくのです。その中で今、僕たちの年代が役割としてすることと、あなた方が役割としてすること、そしてそのさらに先の世代が役割としてすることを、繋げて捉える視点が人類には必要です。過去から受け取り、それを未来へ繋ぐのだという意識の下に、今現在の位置を確認し、それを認識して生きるのです。

Iさん:
人間は、本当に自らの中にある真実に目覚めたら、自ずと全体とつながってくると思います。先ほどジイジがおっしゃったように、自らのスイッチを入れることが、その鍵となるでしょう。

ジイジ:
そのスイッチが、個人のためだけのスイッチなのか、或いは、本来の生命としての意識が伴っているのか。生命というのは、単独で完結していません。地球で言えば、地球生態系は多種多様な生命の連鎖によって成り立っており、その中のひとつの個体にスイッチが入るということは、全体の中のその部分にスイッチが入るということです。つまり、それは全体を運営するためのスイッチであって、単独のためのものではないのです。それは視野を広げれば、自分と地球、さらに広げると自分と宇宙との関係のスイッチとも言えます。
しかし現代の人々は、ほとんどが自我のスイッチを入れている状態です。ですから、自分と地球の関係どころか、個人個人ですら繋がらない状態になっています。簡単に言えば、宇宙にいながらにして宇宙の迷い人になっているとも言えます。そこで求められることは、視野を広げ、自らの視点のスケールを大きくしていくスイッチを入れることです。そうすると、現状の様々な矛盾が自動的に改善され、物理性だけの世界ではなく、それを超越した世界ができるはずなのです。

Iさん:
人々が繋がっていくための目覚めのスイッチを入れるには、たくさんのプロセスがあるということですか?

ジイジ:
それは、プロセスとは違うものです。例えば10段階の意識レベルがあるとして、その人の意識がどの段階にいるかによって、その人の霊的な位置が決まります。それを気軽に上の段階に引き上げられるかというと、そう簡単にはいきません。なぜなら、そこにいるということは、意味があってそこにいるからです。
そこから次の段階へ行こうとする者であれば、何かのきっかけを与えれば次のレベルへ行くことができます。しかし、その段階にいる必要がある者については、そこから引き揚げようといくら働きかけても、働きかけた成果は上がらないのです。誰に対しても引き上げればよいかというと、そうとは限りません。それを闇雲に引き上げようとすればエネルギーが無駄になる可能性もありますから、そこを見極めることが必要です。そこには、旬があるということです。
ただし、今の人間社会の状態を観ると、様々なことで悪化が進んでいます。それは、今のままの価値観で進むと世の中全体が壊れる方向に向かっているのですから、私たちは今こそ、その問題が解決されるための次の段階のことを考える必要があります。僕はそのように思っていますし、それは皆さんも同じだろうと思います。

Oさん:
どうやったらスイッチをいれることが出来るのですか?

ジイジ:
まず、自分にスイッチがあるということを認識する必要があります。まったく認識していなかったら、そこに自らの意識がアクセスすることはないわけですから、まずはそれがあるということを認識することから始まります。

Oさん:
木の花ファミリーのメンバーは皆、それを認識しているということですか?

ジイジ:
認識はしていますが、日々の最優先事項がどこを優先しているかは、個々の意識の段階によって異なります。皆さんは、人間が真我に目覚めることを最優先事項にしていますね。ただそこで、真我に依存してはダメなのです。
「真我」と「自我」は対向発生の関係ですから、常に互いに刺激し合っている状態でなければなりません。そこで自我だけが優先しているのが現代の人々の状態です。真我のスイッチが入るということは、それと対向発生している自我も引き上げられるということですから、真我のレベルが自我に反映され、その人の日常は真我のレベルになるのです。
木の花ファミリーのメンバーが、皆一律にその状態になっているかというと、歩みは人それぞれです。全体の歩みを形で表すと、細長い楕円形のような形で進んでいます。先端を行く者もいれば、後ろの方を付いて来る者もいて、その間が一番多く真ん中が膨らんでいる。後ろの者が遅れ過ぎて外れそうになればぐっと引っ張って全体の中に入れ、先端の者が行き過ぎればやはり戻って全体の中に入る。そのように、それぞれの歩みは違って楕円のようになりながら、全体がひとつのものとして進んでいる絵を浮かべてください。

Iさん:
今、中国に、目覚めようとする人々がたくさん現れてきています。自分は何者で、どこから来たのか、ということを問う段階にいる人々が出てきて、そういった人達はスイッチをオンにする段階にあると観ています。

ジイジ:
そのスイッチの入れ方が、ゲームであってはいけません。もっと物理的かつ現実的な意味で、自分はどこにいるのかを探求していく必要があります。瞑想のように非日常的な取り組みで目覚めたかのように感じるのは、ゲーム的手法になります。結局、その延長には、現実にある人格に変化をもたらすことは難しいでしょう。服装を変えたり、化粧をしたりして、変わったかのように見せているようなものです。

Iさん:
確かに、私が知っている人々の中にも、瞑想やヨガなどに傾倒する人たちがいます。歪んだ気付きを得て、それに傾倒し、日常にそれが何も活かされていないというケースもあります。同時に、その取り組みを日常の中で実践し、日々起きる出来事の背後を感じ取って、それを日常に活かそうとする人々もいます。

ジイジ:
それらの現代的事象、人々の意識をすべてトータルして、ひとつの物語だということです。木の花ファミリーも、メンバー一人ひとりの歩みは違いますが、その異なるもの同士が一緒になって動いている。つまり、全体がひとつの生き物のように動いているのです。
そのひとつの生き物の体の中で、それぞれに異なるポジションをみんなが認め合って、全体が進んでいく。それが、時代が表現していることです。その中のどれかを否定するということではなく、それぞれに相応しい位置があるのだから、そのすべての立ち位置を認める。そして視点をぐっと引いて全体を俯瞰して観た時に、それがひとつの生き物として生きていることがわかるのです。私たち人間一人ひとりも、それと同じ構造であることがわかりますか?
これは、言わば船です。前方の乗組員もいれば、後方の乗組員もいる。ポジションは様々ですが、全体は時代と共に進んでいるのです。

Eさん:
まず、ジイジがこうして船の土台を築いてくれたことに感謝します。
木の花ファミリーのメンバーは皆、ある一定の精神レベルに達していると思いますが、目覚めへの動きを加速化するにはどうしたら良いのかを知りたいです。

ジイジ:
加速化は、してはいけません。なぜなら、それは人間の手の内にはないからです。そして、それを思った時点で、自我は増幅します。我々人類は、この世界の時空を創っている宇宙と対向発生する存在であり、宇宙から頂く側にいます。そして主役は、我々の背後にいて、すべてを動かしている大いなる存在です。
この世界のすべては、善きことのためにあります。そこで、いかに自らの自我を挟まずに、宇宙が我々にもたらすものを常に頂いて生きていけるかどうかが、豊かな世界を表現するための鍵なのです。豊かな世界とは、自我の思惑で「ああしよう」「こうしよう」と目論んで築かれるものではなく、そういった思惑をすべて手放した「頂く精神」の上に表現されるものなのです。

Eさん:
加速化しようという意志はないのですが、思ったのは、人間の中には誰しも真我があり、真我はすべてがひとつであり、私たちは宇宙そのものであるということを知っているということです。ですから、「頂く精神」で宇宙の流れに沿っていくと、然るべき方向に自ずと進化していくのだろうと、話を聞いていて思いました。

ジイジ:
みなさん、素晴らしいですね。このような対話が出来る段階にいるのですから。この話し合いは、自分のためのものではないですね。

Iさん:
ジイジに感謝します。中国にも道教や仏教やキリスト教など様々な宗教がありますが、ジイジが話してくれたことは真理です。すべての人は、目に見える世界の奥にある真理に目覚める可能性を秘めており、私たちも、自分たちの中に真我に目覚めるスイッチがあることを自覚しています。それを認識することで、スイッチを入れることができる。
ジイジは、真理の種をこの世界に蒔いているようです。その種がこれから芽吹いていくのでしょう。

ワンホー:
僕もその種を受けた一人です。ジイジがここで種を蒔き、それを受けた文ちゃんが台湾でその種を蒔いて、僕はそれを受けてここに来ました。(みんな拍手!)

ジイジ:
人間は気が短いのだよね。人間の時間に対する感覚は、例えば1年でもとても長いものと感じるけれど、宇宙から言えばほんの一瞬です。だから、ちょっと視点を引いて、過去も現在も未来も含めて全体像を俯瞰できるようになるといいですね。
国境を意識して生きている生き物は、人間だけです。現実の世界では、人々がまだ自我の延長線上でどれほど対立していたとしても、スイッチが入った人々は、その先にある高い意識を目指す時代がやって来ました。これは個人の悟りではなく、地球レベルの悟りに至る道です。いずれこの精神は、何千年かの後に、人類を宇宙に貢献するものとして成長させるでしょう。
皆さんにお会いできてよかった。この出会いは、まだほんの始まりだけどね。

Iさん:
私たちも、人々が真我に気付くための取り組みをしていますが、私が木の花ファミリーで見たのは、人々が他者を思いやり、日常生活の中で自らを美しくすることに取り組んでいるということでした。中国でも、自分を磨くために様々な手法を行っている人々がいますが、やり方は様々でも目覚めの道に共通しているのは、心です。

ジイジ:
真我は、カルマに影響される心と多層構造になっています。そこで、未だ真我に目覚め切っていない人々にとっては、どちらが優勢になり影響を与えているかが重要になります。

ともこ:
心と真我は別のものなのですか?

ワンホー:
僕も同じ質問をしようと思っていました。

ジイジ:
真我というのは、人間を創る時の設計図のようなもので、それは光のペンで描かれています。その設計図に問題はありません。ところがその設計図に基づいて現象化する時には、様々な不具合が発生するものです。家を建てる時に、設計図は完璧でも、例えば予算が足りなくて何かを削ったり、建てる人の腕が悪かったり、手抜き工事があったりして、設計図通りではないものが出来上がったりするでしょう?もしも本当に設計図の通りに心があれば、物理性もとても美しくなるはずです。
心は、真我の設計図を基にして、その人の履歴によって創られるものです。その履歴とは、例えば前世やその前の人生をどう生きたかというように、今に至るまでに魂がどのような歩みをしてきたかということです。私たちを創っている無数の細胞にはDNAが配置されていますが、そこには宇宙の始まりから終わりまでのすべての情報が入っています。同じように、心の中にも、魂の成立からこれまでの履歴、そして未来への履歴が同じようにあるはずです。なぜなら、ここは宇宙だから。すべての行為は宇宙で発生しており、そのすべての履歴が私たちの中に刻まれているのです。
その過程の中の今の段階で成立しているのが、私たちの今の心です。それは、真我である設計図の意識レベルと対向発生しながら、自らの履歴から来るカルマにまみれています。その心が真我を意識し、真我に則った精神状態を心がけていればいいのですが、真我の存在を忘れてカルマの方を優先していると、現代人のような状態になるのです。
現代人は、非常に高度に発展した物理性が飛躍してしまい、アンバランスな状態になっています。テクノロジーが進化した分だけ、心がより真我を意識して精神性を高め、バランスを取ることができれば、この人間によって発展したテクノロジーは、人間だけでなく、他の生命や地球、宇宙にまで貢献するものになるのです。

Iさん:
完全に同意します。ありのままで存在することが、心を開くことに繋がります。そこには、正しいとか正しくないということはありません。ありのままに存在することは創造であり、輪廻やその履歴も、創造の現象なのです。そういったことに人類が気付くことが重要です。それそのものとして存在することができたなら、違いや葛藤、アンバランスさを意識して注目する必要もなくなるでしょう。そのようになったら素晴らしいです。

ジイジ:
そのためには、思考を回してはいけません。思考を回すと、そのものとして生きられないのです。思考を回したら、必ず自我がそこにカルマを反映させます。そうではなく、本来言葉とは、湧き出てくるものなのです。泉のように。
例えば瞑想をする時でも、多くの人は「もっと良くなりたい」というカルマ的な目的をもって瞑想するでしょう。それが問題なのです。その瞑想が、自らの思考回路のスイッチを切り、宇宙の受け皿となってそのメッセージのスピーカーとなるトレーニングであれば有効かもしれませんが、まぁ我々は生命ですから、そんな暇があるなら生きるための作業をした方が良いですね(笑)。自らが生きることが他の命を生かすことに繋がるのがこの世界の命の仕組みだとしたら、瞑想はある意味自己満足の世界ですから、何ら他の生命に貢献するものではありません。木の花ファミリーでは、作業そのものが瞑想です。それは無心でやるからです。

国が違うから仕方ありませんが、僕には少し不満があります。それは、なぜ我々はみんなで一緒に暮らしていないのだろう、ということです。でも今そう思ったら、上からメッセージが下りてきました。「同じ地球の上に暮らしているではないですか」と。同じ時間を生きて、一緒に宇宙を旅している。そうですね。だからこの場があるんですね。

Iさん:
みんながジイジのように、宇宙からのメッセージを受け取って生きられるようになったらいいですね。

ジイジ:
そういった世界は、木の花楽団の歌の中にも表現されています。

Iさん:
大切なのは、誰もが自分自身の中にその大いなる可能性を秘めていることに、気付くことです。ジイジは皆がその能力を開花させるのをサポートしてくれるのであり、誰もが宇宙に直接アクセスできる力を持っています。

ジイジ:
そうですね。私たちは、現代人として、そこに向かうプロセスにいるのです。皆さんは、僕の後を継ぐのではなく、この大いなる物語の中で、僕のポジションはここ、皆さんのポジションはここ、さらにその次の世代の人たちはここ、というように、それぞれの役割を果たしながら、全体がひとつの宇宙物語として繋がっているのですから、同じ船に乗っているのですね。あとはよろしくお願いします。

宇宙は生命です。時代も生命です。私たちも生命です。
常に変化しながら進化し続けていくのが生命であり、それがこの世界の実態です。ですから、今現在の状態を正しいものとして、そこに留まっていてはいけないのです。

(ワンホーに対して)僕は先ほどから、あなたが通訳をしているのを見ながら、知的な顔をしているなと思っていました。ここに来た時には病んでいたけれど、今は知的でいい男になりましたね。

ワンホー:
(日本語で)ちょっと。(みんな:笑)
ちょっとだけ知的になりました。

ジイジ:
ちょっとではなく、たくさんです。この会話も、すべて通訳であるあなたを経由しています。僕は彼らの表情から、こちらが話したことが彼らに伝わっていることを感じています。つまり、あなたはケーブルとしてのレベルがとても高くなっているということです。

ワンホー:
(日本語で)ありがとうございます。(みんな:笑)

ジイジ:
あなたの中にその素質があったからこうなったのであり、僕はそのきっかけをつくっただけです。その目覚めの旬が来ていたから、あなたはここへ来たのでしょう。その縁は、この世界によってもたらされたものです。「ありがとうございます」はそちらへ言うべきですね。

人間は、物事をすべて地上の考えだけで行おうとします。しかし、大切なのは、常に天に心を向け、天と繋がった上で地上の結論を出すことです。地上だけで結論を出せばそれは平面上の二元思考ですが、天と繋がることで三次元の立体思考になり、地上に柱が立つのです。柱が立たないまま人間の思考だけを回せば、思考は邪に流れ、どこへ行くかわかりません。天との繋がりを忘れ、人間の解釈だけで答えを出そうとするから、間違いが起きるのです。

我々は、この星を良い星にする役割を託されています。それは、誰もが本当に良い世界に生きていると実感できる場所です。

(皆が顔を見合わせ、笑顔で拍手しました。)

Iさん:
また会いましょう。宇宙の中で。

ジイジ:
我々が会いたいと思っていれば、天がその時を用意します。時代の扉は、既に開いています。

みんなで、この星を良い星にしていきましょう。

 

 

 


木の花ファミリー通信2021年夏至号「狂った現代経済〜お金がないと生きていけない」

現代を生きる人々が最も関心のあるもの ──── お金。
しかし、その最も関心を持ち、最も頼っているお金が、どれほど社会を狂わせているかを認識している人々が、どれだけいるでしょう。

現代を生きる人々は、「お金がないと生きていけない」という強烈なマインドコントロールにかかっています。文明の発祥以来、より良い暮らしを追い求めてきた人類は、何十億年という時をかけて育まれた豊かな地球生態系の大循環の中に、地球史上に類を見ない、「人工」という特殊な世界を展開するようになりました。その原点にあるのが、経済です。

人々が、より豊かで、より便利な暮らしを求め、経済活動という人間だけに特有の営みを発展させてきた結果、今やその人工の世界は生態系の循環から大きく外れ、生態系そのものを崩壊寸前に追いやるところまで来ています。ところが、生きることが純粋な生命活動ではなく、お金を稼ぐことが最優先になってしまった現代の人々は、お金を得るために更に経済を発展させることに没頭し、自らの営みが他の生命を傷付け、多種多様な生命を絶滅に追いやり深刻な被害をもたらしているという事実に、驚くほど鈍感です。

そのような破壊活動の上に築かれてきた人間社会は、今、大混乱の前夜を迎えています。それは、視点を変えてみれば、予定通りのことであるとも言えます。

私たちは、広大無辺な宇宙の中の奇跡と言える命あふれる星、地球の大生命生態系を母体とし、誕生しました。その中で、元々生態系に存在しなかったものを生み出し、そのなかったものを拡大して自らの母体である絶対的な存在を傷付ければ、いずれそこに問題が発生します。そして、その問題の発生源を淘汰する動きが起きるのは、当然のことなのです。

いよいよ世界中で大混乱の兆候が現れ始め、人々は「大変なことが起こる」と不安に駆られています。しかし、それは来るべき時が来たということであり、大局的に捉えれば、すべてがシナリオ通りに進んでいるとも言えるのです。そうだとしたら ────

 

そのシナリオを書いているのは

誰ですか?

 

 

 

私たちが生きているのは、地球があるからです。

地球があるのは、宇宙があるからです。

この当たり前の事実から、現代を生きる人々の日常は、遠く離れています。
 

私たちはなぜ、生きている?

私たちが生きるために、決して欠かすことのできないものを挙げてみましょう。土、水、光、風、空気 ──── その中に、ひとつとして人間が自らの力で創り出せるものがあるでしょうか。

私たちは、地水火風空という自然の五大要素が循環する地球の生態系の中で育まれたものを食べ、自らもその循環の一部となり、多種多様な生命と無限に連鎖しながら、命をつないでいます。その生態系の循環は、まるで約束されているかのように毎日朝が来て、夜が来て、春、夏、秋、冬と季節が巡り、決して留まることのない、地球のサイクルによってもたらされます。その地球のサイクルは、太陽を中心に、九つの惑星を始めとする数千個の星々が絶妙なバランスを保ちながら巡り続ける、太陽系のサイクルに基づいています。その太陽系のサイクルは、「セントラルサン」を中心に、太陽系を含む数千兆個もの星々が直径10万光年という巨大なスケールで巡り続ける、銀河系のサイクルに基づいています。その銀河系のサイクルは、更に大いなる何ものかを中心として無数の銀河が巡り続ける、大宇宙のサイクルに基づいています。

このように、私たちの生きる宇宙には数多のサイクルが幾重にも存在し、そのすべてが、大本の大宇宙の法に沿い、見事な秩序の下にあまねく連鎖し循環する、大調和の世界を築いています。この絶対の秩序の下に銀河があり、太陽系があり、地球があるからこそ、そこに豊かな生態系が生まれ、私たちもまた、命を与えられているのです。その多様なサイクルの連鎖に狂いが生じれば、絶妙なバランスによって保たれている繊細な生命秩序が崩れ、私たちはたちどころに存在できなくなるでしょう。今この瞬間も、人間の意志や思考など一切与り知らぬ壮大な力によって宇宙は維持されており、その秩序無くして、私たちはただひとつの命も存在させることはできないのです。

生態系を破壊する「お金がないと生きられない」

さて、視点を私たちの身近なところへ向けてみましょう。現代の多くの人々が「生きるために欠かせない」と思っているのは、お金です。

お金とは、中央銀行が発行する紙切れ、或いはコンピューター上の数字です。それは私たちの空腹を満たすことも、風雨から身を守ることもない、生命の維持とは本来何の関りもないものです。自然界の生命は、生きるための活動がすべて、自らの命を維持することに直結しています。そしてその活動は、自らの存在が他の生命を生かすことへとつながる生態系の大循環の中にあります。かつて人間も、大いなる宇宙の法のままに、その循環の中を生きていました。しかし、文明の発祥と共に社会を発展させてきた人類は、次第にその大いなる循環の中で生かされていることを忘れ、人間の都合ばかりを優先した人工の世界を拡大するようになりました。そしていつしか、生きることの最優先事項が、お金を稼ぐことへとすり替わっていったのです。

18世紀半ばの産業革命以降、その傾向は特に顕著となります。人々は、生きる糧を得るために大地を耕すよりも、工場で大量の工業製品を生産するようになり、更には、工業製品を作るよりも、コンピューター上の数字を操作して莫大な利益を得るようになりました。その結果、実際に物を生産するのではなく、お金そのものを商品として更にお金を増やしていくゲームのようなマネー経済が異常に膨らみ、実体経済からかけ離れてお金が独り歩きをするようになったのです。

地球が誕生してから現在までの46億年の歴史を1年に例えると、およそ250年前の産業革命は、12月31日の午後11時59分58秒、つまり、現在からたったの2秒前に起きたことになります。その僅か2秒の間に広まった経済最優先の価値観は、永い地球の歴史から見ればほんの一瞬のものでありながら、現代を生きる人々は、まるでそれが永遠に続く絶対の価値観であるかのように、そこから離れて物事を捉えることができなくなっています。経済が停滞して景気が落ちれば、その解決策として更に経済を成長させることを考え、医療や福祉、環境問題までもが新しいビジネスのネタとなり、平和の祭典と謳うオリンピックさえ、スポーツよりも経済効果が目的となり、利権まみれの状態です。

今、パンデミックによってこれまで通りの経済活動ができなくなったことで、多くの人々が自らの先行きに不安を感じています。それは、現代人が生きるための本当の手段を失っているからです。土から離れ、お金を求めて人工の世界を拡大してきた私たちは、自然の摂理から逸脱し、本来の生命活動とはかけ離れた暮らしを営むようになりました。その脆弱さを、新型コロナウィルスが突いたのです。

お金に縛られない大地との絆のもとに生きていく手段があり、衣食住が足りていると、世の中を冷静に観ることができます。しかし、生態系の循環から外れ、自らが生きるすべを持たない人々は、社会に少しの変動が起きただけでも動揺し、不安に駆られて更にお金をかき集めようとすることで、ますます生命としての本来の在り方から離れていくのです。その結果、「2030年問題」として前号でお伝えしたように、地球は今、危機的な状況を迎えています。

痛みの奥にあるやさしい投げかけ

私たちはこれまでも、そういった視点から繰り返し発信をしてきました。しかし、その意味を心から受け止め、自らを変化させようとする人々は、ごく少数です。それは、人間は痛みをもらうことでしか気付けない生き物だということなのかもしれません。

痛みとは、生物が生きていく上で最も重要なセンサーです。もしも体に不具合が生じた時に痛みがなければ、そのまま気付かずに突き進み、最終的には体を壊してしまうでしょう。痛みがあるからこそ、私たちはその原因を振り返り、修正し、健全に立ち還ることができるのであり、それは物理的にも霊的にも、生命を存続させる大切な働きなのです。ところが、文明の発展と共にテクノロジーを進化させてきた人類は、痛みから学習してその根源を正すよりも、テクノロジーによって痛みを表面的に解消して先へ進むようになり、問題を更に深刻化させてしまっていることに鈍感になっています。

パンデミックや異常気象など、人間がこれまで通りに暮らせなくなるような現象が世界中で起こり、人々はそれを「異常事態」と捉えています。しかし、それは異常なことが起きているのではなく、生命循環の秩序を乱す異常な人間の活動を排除し、生態系を健全に戻す、ごく正常な働きと言えるです。すべてが大いなる宇宙の法の下にある大調和の中にあって、不調和なものは排除されるのがこの世界の仕組みです。人間の営みは、その大調和の中に不要なものを作り過ぎてきました。不要どころか、あってはならないものまで作り、それによって経済を膨らませ、その状態に執着するようになりました。そうして社会全体が狂いながら、狂っていることすらわからなくなっているのです。

政治家も学者も起業家も、現在の社会で優秀とされる人々は、その優れたと評される能力を使い、今起きている問題に対処するための更に高度な技術や仕組みを考案し、人々もまた、それが問題を解決すると信じています。しかし、そのような人間の思考によって築かれてきたのが現代社会であり、その延長線上に世界が健全になることはないという事実に、私たちはもう、気付かなければならないのです。

今、そのような人間の営みの結果年々増大してきた「異常事態」による、地球規模の破壊が始まっています。目先の利益を追い求め、問題の根本的解決を先送りして矛盾を積み重ねてきた分、破壊に伴う痛みは大きなものとなるでしょう。そしてその流れに抗えば抗うほど、痛みは更に大きくなります。しかし、それを痛みと感じるのは、人々が産業革命以降のたった2秒間に築いた現在の暮らしを絶対のものとし、それを維持し続けることに囚われているからです。

痛みは生きていく上で最も重要なものでありながら、同時に、最も不要なものでもあります。痛みはなぜ起きるかというと、それを不要にするために起きています。なぜその痛みを受けることになったのかを振り返り、理解することで、それを受ける必要がなくなるための智恵が湧いてくるのです。痛みの通り道は神経、即ち「神の経路」と書きます。人知を超える大いなる存在が、痛みを通して私たちに何かを示しているとしたら、今世界にもたらされ始めた大きな痛みの背後にも、メッセージが観えてくるはずです。

私たちの中に、大いなる意思がある

もう一度、視野を宇宙へと広げてみましょう。

宇宙は、人知を遥かに凌駕する大いなる力によって運営され、悠久の時の中で時代を紡いできました。宇宙創世から銀河の誕生、太陽系と地球の誕生、そして地球に原始生命が生まれ、永い進化の旅の果てに誕生した人類が数多の文明史を刻んで現在へと至る、連綿たる時代の変遷を辿っていくと、そこにひとつの方向性が観えてきます。方向性があるということは、そこに意志(意思)があるということです。宇宙は、大いなる何ものかの意思(意志)によって運営されており、その宇宙の創造物であるということは、私たち一人ひとりの中にもまた、その見えない意思が反映され、宇宙と呼応しているのです。

この壮大なる進化の旅の中で、地球には数千万種とも言われる多種多様な生命が誕生しました。その一つひとつは、言わば地味な存在です。例えばメダカは田んぼの水の中に、ミミズは土の中にいるように、暑い所にいるもの、寒い所にいるもの、地上を歩くもの、空を飛ぶものなど、種としては多彩でありながら、一つひとつの個体は自らに適した特定の環境のみに生息し、生きるためにひたすら同じ活動をくり返しており、生命としての振れ幅はとても小さなものです。ところが、その無数の地味な存在が、それぞれの位置で独自の役割を果たしながら、互いに連鎖し、循環すると、とてもダイナミックな生態系の大循環を創るのです。そしてその一つひとつすべてが、宇宙を運営する大いなる意思と連動しています。

それに対し、現代の人間の生き方は非常に派手です。芸能人やスポーツ選手のように、特殊な能力を持つ人々が華々しく活躍して多額のお金を稼ぎ、多くの人々がそういった存在に憧れ、様々な分野ごとの頂点を目指して競い合っています。しかし、そのような特殊な存在は、生命としての人間の姿からはかけ離れた状態であるとも言えます。皆がオリンピックの金メダリストのように特殊な存在になっては、生態系は成り立たないということです。

生命の本質は、多様性です。とりわけ人間は、ひとつの種でありながら、一人ひとりがまったく違った独自の個性を持っています。その誰もが、それぞれの位置で、自らの個性にふさわしいオリジナルな役割を果たしながら全体に貢献し、他のすべての生命に歓迎される生き方をする。人間は本来、そういった尊さを持ち合わせているものであり、そこを目指すべきなのです。他の生命が宇宙の法のままに生態系の循環の中を生きるのに対し、自らの欲望を追求してその循環から外れ、生態系を破壊してきた人間は、言い換えれば、それだけの高い能力と、自らの意志によって全体を俯瞰できる力を持っているということです。だからこそ、人間には数多の生命の代表として、地球生態系の指揮者となる役割が託されています。それは、多様な存在のどれもが充実し、誇り高く在れるようなタクトの振り方をするということです。そしてその結果、地球が健全になっていくということです。金メダリストがどれだけタクトを振っても、地球は健全にはならないでしょう。

健全な地球上で表現されるのは、大循環を回すための大共有経済です。そして、そこに配置される一人ひとりの人間の意識は高く、それ故に地味です。なぜなら、自分だけを特別視することがないからです。人間は、もっと地味に生きる必要があります。それは、自らの欲望や思惑を表現するのではなく、宇宙の法のままに役割を果たし、大生命循環の一員として生きることです。既存の価値観や経験に縛られた思考を手放し、大いなる宇宙の流れに身を任せた時、人知を遥かに超えて大宇宙を運営する何ものかの意思が私たち自身の中から湧き出します。その時、私たちはその大いなる意思の表現者として、変化・変容・変態を繰り返し果てしなく進化し続ける、ダイナミックな宇宙物語を生きるものとなるのです。それこそが、人が目指すべき自由を謳歌(サトリ)する姿です。

宇宙が人間に託したものとは

宇宙は果てしなく広大で、時の流れは永遠であるかのようです。その宇宙の成り立ちを、より身近に、ダイナミックに表現する場として、宇宙は永い時をかけ、地球という命あふれる奇跡の星を誕生させました。そして多様な存在が連鎖し循環する宇宙の大調和のひな型として、地球に大生命生態系を創造し、その生命進化の最後に登場した人間に、自我という、絶対的な秩序の下にある自由を与えました。それは、その自由意志によって、人間が地球上で何を表現するのかを託したのです。

これは、言わば宇宙劇場地球物語です。宇宙は地球上に様々な現象を起こし、時代を刻み、その中で人間はそれぞれの時代にふさわしい役割を果たしてきました。そして今、時代が大きく転換する時を迎え、人間がこれから地球上で何を表現するのかに、全宇宙が注目しています。

そこには、シナリオがあります。そしてそのシナリオは、宇宙創世から変わることなくひとつの方向に向かってきた、大いなる意思の下に進んでいます。その意思は果たして、私たち人間が何を表現することを求めているのか。それは、自我の囚われを手放し、自らの奥深くに眠る大いなる意思を目覚めさせた時、きっと観えてくるでしょう。

人間には、それが可能なのです。

 

 

木の花ファミリーでは、メンバー一人ひとりが個性を活かし、「医」「農」「食」など様々な分野で役割を果たしながら、全体が連携して循環する、調和の暮らしを築いています。多彩な活動を通して得られた収入は「お財布ひとつの経済」として皆で共有し、全体のために使われます。

6500年の人類の歩みをひっくりかえす

私たちは、空気を共有しています。水を共有しています。太陽を共有しています。すべてが共有の下にあるこの世界の成り立ちが、木の花ファミリーの暮らしの原点です。

この共有の世界の中で、私たちの健康はつながることによって保たれています。すべてがつながり、循環しているからこそ、私たちのもとに食べ物がもたらされ、排せつされたものがまた次の生命の元となり、多様な存在がそれぞれの位置で役割を果たしながらバトンをつないで、全体の健康が保たれていくのです。そこに、ゴミが発生することはありません。
この無駄のない美しい循環の仕組みが、本来の経済の姿です。お金は、その循環をよりスムーズで便利にするために生まれた、言わば社会の血液です。私たちの体を巡る血液は、必要なものを隅々にまで運んで全身をつなぎ、健康を保ちます。現代の社会は、お金に人間の欲を乗せて運ぶようになったために、隅々まで行きわたるはずの循環に至る所で滞りが生じ、社会全体が病むこととなりました。

木の花ファミリーでは、すべてを共有し、分かち合います。そこで循環するのは、自分たちの欲ではなく、天の恵みです。天の恵みとは、雨が天から降ることも、食べ物が大地から採れることもそうですが、その大本は大宇宙の法であり、法の下にあるこの世界のサイクルです。私たちが存在する上で、絶対に欠かすことのできないもの。欠かすことができないものとは、決して欠けることのないもの。それが天の恵みです。
みんなでつながり、その大いなる天の恵みが地上に表現されると、物事は不思議なほどスムーズに進み、少しのエネルギーでとても豊かになる大循環の世界が実現します。すると、欲や不安から必要以上にかき集めることもなくなり、必要なものが必要な分だけ、必要な時に巡って来る好循環が生まれます。

そんな木の花ファミリーの暮らしの中心にあるのは、創立からずっと変わることなく続いてきた「菩薩の里」の精神です。菩薩とは、他者や世の中の喜びを自らの喜びとする存在を言います。人間は、自らの願いを叶えるためではなく、大いなる宇宙の意思を地上に表現するために生まれました。その目的は、多種多様な存在が無限に連鎖し、絶対的な調和のもとに美しく循環していく、宇宙の根本原理である愛を表現することです。

文明の発祥以来、自我の願望を叶えることに喜びを感じてきた人類が、自我を手放し、すべての存在と共に喜びあえる大調和の世界を築くため、自らの精神性を高めていくことに喜びを感じる時代が、これから始まります。それは、文明発祥から6500年間の歩みを根底から覆す生き方です。その先に、どんな世界が待っているのか ────────

それは、あなたの意思と決断に託されていることであり、未来に行って、あなた自身が確認することなのです。