同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【後編】

2024年1月のよく晴れた日、「散骨式~自然へ還るセレモニー」が行われました。

*この散骨式の意味については、同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【前編】をご覧ください。

大晦日に粉骨された六柱のご遺骨が、参列者一人ひとりの手によって、自然の循環の中へ還されていきました。

生前の面識がある人もない人も、皆で少しずつご遺骨を受け取り、自然の中へお還しします

昨年親類が旅立ったメンバー達も、皆と一緒に散骨をしました。

お母さんの骨をまくのりちゃんとれいちゃん
きたじゅんはお祖母さんの骨を木の根元に還しました
お姉さんの骨をまきながら「姉も喜んでいると思います」とありりん

ありがたいことに、散骨式の日は毎年、澄み切った青空が広がるとても暖かい日となります。今年は特に風が強く、時には遺骨が風に乗って、空高く舞い上がっていきました。

みんなで「せ〜の!」で遺骨をまいたら、あっという間に風に運ばれていきました
風に手を振ってお見送り

小さな子ども達も、一緒に散骨します。

みんなが自然に笑顔になって、「私も早くこんなふうに見送られたい」という声も。

散骨後は、「太陽の導き」と「カタカムナ63首」の舞と歌が奉納されました。

六柱を代表として、同じ時に旅立ったたくさんの魂に思いを馳せながら、皆で共に見送る散骨式。最後に、ジイジは以下のように挨拶をしました。

毎年、ナイジェリアの研修生から贈られた民族衣装で散骨式に臨むジイジ

新しい時代への出発(たびだち)

今、皆さんに挨拶をしようとしましたら、急に風が強く吹いてきました。

今日は、空の青がとてもきれいですね。この散骨式に臨みながら、時代は変わった、ということを思っていました。時代の動きというのは、人間の歴史だけではなく、地球ができてから、もっとさかのぼれば、宇宙の始まりまで想いが飛んでいきます。そして、そこからずっと繋がって、今この場所があります。私たちが日々ものごとを考え、こういった世界を創って生きていることの結果として、この場所があるのです。
現代には、豊かそうに見えて、実際は幸せでない人がたくさんいます。お金がないとか、日常の中で悩み、生きることに行き詰まっている人々が多いのです。2024年の今年は、年が明けたら大地震があり、翌日には飛行機事故があり、昨日は九州の小倉で大きな火事がありました。それだけではなく、ウクライナやガザでは、今も毎日多くの人々が殺されています。人類が誕生してからこれまでの結果を見てみると、なぜ人間は、地球上の生命として生まれてきながら、こんなに悩まなければならないような世界を創ったのか、なぜそんな生き物になってしまったのだろうかと、私は疑問に思うことがあります。
どうですか?もしもこの世界から、パッと人間を取り除いたら、他に生活に困る生き物はいるでしょうか?鳥や猿や植物が、明日の暮らしのことで悩んではいないでしょう?みんな自然の仕組みの中に組み込まれ、その仕組みの中で植物は植物のように、動物は動物のように自らの位置を生きている結果、誰も明日の心配をしていません。未来の心配もしなければ、過去のことに悩むこともない。しかし、どうして人間は、こんなにも高度な世界を創り、まるで地球が人間のものであるかのように振舞いながら、実際の一人ひとりは毎日生きることに悩み、明日どころか今日食べるもののことすら心配するような世界を創っているのでしょう。

過ぎたるは及ばざるが如しと言いますが、何かが足りなさ過ぎる。そしてもう一つ。何かが多すぎる。何かをたくさん求めすぎている。自らが頂いていることへの感謝が足りなさ過ぎるのです。
それで、ふと思いました。この高度な生き物が、本当の意味でそれに相応しい高度な世界を達成するとしたら、どうしたら良いのか。たぶん、一人ひとりが与えられている「自分」という個性を、自分のものだけにするのではなく、みんなのために使うようになったら、きっと高度な完成された世界ができるのではないでしょうか。
人間以外の生命は、この大いなる自然の循環の中で、みんなそのように生きています。この芝生も、そこに生えている木も、落ち葉も、みんなそうです。この銀杏の落ち葉は、ついこの間までは見事な黄色で、銀杏の木を黄金色に彩っていました。それが落ちて、このように茶色くなって姿が変わっても、そのことに悩んでいないでしょう?「ああ、落ちちゃった」とは言わないでしょう?髪の毛も、「ああ、抜けちゃった」とは言わないでしょう?(みんな:笑)
葉が落ちた銀杏の木には、このままずっとそうなのかと言ったら、春になるとまた新しい葉が芽吹いてきます。それは、銀杏が自分の力で一生懸命やるのではありません。自然に委ね、その循環の中に、自らの立ち位置や、変化の姿も頂いているのです。そのような意識になって、人間がこの高度な能力を全体のために使い、それぞれの役割を果たす助け合いの世界ができたら、誰も、明日のことにも明後日のことにも、未来のことに悩む必要はなくなり、過去のことにくよくよすることもなくなるのです。

こういった心境で生きることは、とても難しいことのように思えます。実際、現代の人々には本当に難しいでしょう。テレビを見ると、いかにもこんな風になったらいいというように、いろいろな世界がこれでもかとばかりに迫ってきますが、その番組に出ている人が自分の普段の生活に戻ったら、テレビで見せていたのとは違う心をしているのです。テレビ番組は、そこで意図的に特定の世界を表現し、実際にある日常のいろいろなことを隠して放送されています。そしてそれを見る側は、ものを観る目がないと、世の中がみんなそういう風であると受け取るのです。だから、ぼーっと見ていると、騙されていることに気付かない。しかし実際には、テレビの向こうの人々にも、テレビのこちら側で見ている自分と同じように、毎日の暮らしがあるのです。

今日は1月の4日です。なかなか世の中に、縁ある人々がこのように賑やかに、亡くなった人を見送る場所はないでしょう。今日は風まで手伝ってくれて、ご遺骨を土の上にまくつもりだったのに、風が運んでくれて、空高く飛んでいったご遺骨もありました。(みんな:笑)
生きるということは、生き物にとって絶対のことです。そして約束通り、死ぬことになっています。ところが、人間だけが死ぬことを暗いことと捉え、それを避けたい、そこから逃げたいと思うのです。ですから、お葬式もお墓も暗いイメージです。しかし、この散骨式は明るくて、空は真っ青です。そして風が吹いて、もう未練も何も吹き飛ばしてくれたようです。とても良い日です。そんなふうに、人を見送ることができる。骨を自然に還すということは、最後の物理的要素を還すということです。最後のものをとうとう手放し、新たなスタートを切る出発(たびだち)です。

そういった軽い心になったら、自分に近いものだけに囚われなくても、みんなと本当に助け合って生きる、自然の大循環の仕組みのような世界が創れます。今、テレビの向こうにはテレビの向こうの世界があり、道沿いの家々の窓明かりの向こうにも、それぞれの家庭生活があります。それは1軒1軒の家の話ですが、そのたくさんの家が集まって創られている国では、良い国を創ろうと言っていろいろと策を練り、他の国と争ったり、争うための兵器をどのように作ろうかと画策しています。それは、平和で豊かな世界では不要なことです。
これは、とても素朴な話です。だから、それが最終的に人間が求めるべき世界であり、そのような時代が始まったということを今年に入って実感しています。それは、より高度に、より便利にということばかりを求め続けてきた人間にとっては、なかなか気付けないことですが、実は、自然と共に素朴に生きてきた生命としての延長に、そのような世界ができそうな気がしています。それを今僕は語っていますが、みんなはそれをイメージとしてわかるかな?これからの時代は、それをわかる人にならなければいけません。

おそらく、これは現代の人々にはわからないでしょう。しかし実際に、この自然の世界では、悩んでいるものはいないのです。
(ここで、さらに風が強く吹いてきて)風が、そうだと言っています。生命として生きる上で、余計な争いをして悩みを作って生きていくことは、もうやめましょう。それが可能だという見本を創らなければいけないと思っています。それには、みんなの協力が必要です。みんな、協力してくれますか?(拍手)
それが達成されたなら、人が生きる上でそんな素晴らしい場所を創れたなら、それが生きることの一番の目的であります。

現代では、このような散骨式は普通ではやりません。やらないからこそ、そのようなことをやれている価値観の下で生きていることを、誇りにしていきましょう。今までになかったことをやり、今までにいなかった人になり、これまでになかった生活をしていく。それが、新しい時代への出発(旅立ち)をする人々の姿勢だと思います。漠然としていますが、何かが観えてきました。誰もやらなかったことを、これからやっていく。そのためには、気持ちに縛りがあってはいけません。これから始まる新しい時代を楽しみに、軽い気持ちで、今はまだ気付かないたくさんの人々へのヒントとなる暮らしをしていきましょう。
みんな、よろしく!

 

セレモニーを終え、みんなの表情は最初よりもずっと晴れやかになっていました

 


同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【前編】

木の花ファミリーでは、お墓を持たずに、旅立った魂の遺骨を自然の循環の中に還すということで、毎年大晦日に粉骨式を行い、年が明けると「散骨式~自然へ還るセレモニー」を開催しています。
この取り組みは2021年の暮れから始まり、今年で3回目を迎えました。粉骨式では、木の花ファミリーのメンバーのみならず、メンバーの家族や友人、また、縁あって寄せられた様々な方々のご遺骨を、心を込め、人の手で丁寧に砕いていきます。そうすることで、そこに刻まれてきた人生の軌跡もまた、小さな粒子となっていくのです。

旅立った魂に想いを馳せながら、丁寧に骨を砕きます

そして年が明けた散骨式では、生前に出会ったことのある方もない方も分け隔てることなく、参列者皆で自然の中にお還しし、魂の旅立ちを見送ります。それは、小さな子ども達からお年寄りまであらゆる世代の人々が、旅立った方々の生きた軌跡が生命のふるさとである自然の循環の中へ還っていくことを感じ、命とは何かを共に確認する、とても温かい時間です。

富士山麓の自然の中で、思い思いの場所に遺骨を還します

今年は、年明け早々に能登半島で大きな地震がありました。そして、ガザやウクライナを始め世界各地で終わりの見えない紛争が続き、多くの魂が不遇な死を迎えています。
そのような世界の現状を振り返り、散骨式前日に、ジイジは以下のように語りました。


骨を残すということは、形に執着する原因にもなります。形に執着せず、地球生命生態系の大循環の中に還すことで、物理性もまた大いなる流れの中へと還っていくのです。私たちはこの大循環の中で命を頂き、日々循環を繰り返すことで命をつないでいます。そして、最終的にその命を返上しリセットする段階において、肉体という魂の器を自然に還すことで、一切の形への執着を解きます。それは即ち、魂が宇宙の大循環へ還るという、人が存在することの最終目的に到達するルートを創るということです。遺骨を粉骨して撒くということは、その悟りへの第一段階であり、最も身近にできることです。

旅立つ魂がどこに還っていくのかは、それぞれの魂の修行の結果である精神の位置によって決まります。その一方で、形の世界を生きた証として、私たちはこれまで、形の世界にその痕跡を残してきました。しかし、お釈迦様の旅立ちには、墓もなく、戒名もありませんでした。
人間以外の生き物は、そもそも執着を持たないため、どのような死に方をしても美しいものです。しかし、人間の魂は複雑にできており、執着が多いため、器と魂の存在した痕跡をきれいにしていく必要があります。その後押しを、生き残ったものたちがするのです。その仕組みを知ったものたちが送ることによって、未熟であったものたちにも昇天する機会を与えるのです。

今年は、ご縁のあった六柱のご遺骨が集まりました。その中には、生前の姿を見たことはなく、接したことのない方々もいます。しかし、同じ時を生きたものとしてのご縁によって、そのご遺骨を粉骨、散骨させて頂くことになりました。
そして、視野を広げれば、同じ時を生きて、この物理的世界を卒業した魂は世界中にたくさんいます。そこには、直接出会ったことはなくとも、同じ時に旅立つというご縁があります。世の中がこのように混沌とした時代には、良い旅立ちをするものばかりではなく、不遇な旅立ち方をした魂もたくさんいるのです。
その魂の旅立ちの役割の意味を深く受け止め、現世を生きるものたちがより良い歩みに繋げていくことができたなら、その魂の旅立ちもまた、より善きことへ向かうための意味を表すものに変換されるのです。この物理的現象世界には様々な次元の旅立ちがありますが、その一つひとつを、より善きことへ向かう学びとして受け取っていくこと。現世を生きるものたちの心次第で、旅立ったものの歩みを無駄にしない。そのような自覚のもとに、この散骨式を執り行っています。

こういったことを宗教と見る人々がいますが、これは宗教ではありません。これは、粛々とした時空との付き合いである現象界の、最終段階でのお手伝いです。それを美しくしていくことは、原因と結果により成り立っているこの現象世界において、現在の結果をより良い原因として、次の結果をより良きものへとしていくための当然の行いであり、賢明な者にとっては当たり前のことなのです。そして、なぜそれが要るのかと言うと、人々が未だ悟れていないからです。
これから、まったく新しい人の意識の在り方を開拓していかなければなりません。そういった想いが、考えて出てくるのではなく、自らの中から湧き出してくる。その時に、「本当にそうだ」と思えることが湧き出してくる。これまで一般社会では受け入れられなかったことを理解できる人々が、たくさん現れてきます。なぜなら、私たちは今、そのような時代を迎えたからです。

今回ここでお送りするのは六柱ですが、その方々を代表として、同じ時を生き、旅立ったすべての魂に思いを馳せて送る。そのような自覚をもって、この散骨式に臨みましょう。

 

同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【後編】

 


木の花ファミリー通信2020年秋分号『生命 〜 私たちはなぜ生きている?』

 

 

私たちはなぜ
生きている?

生きているとは、どういうことでしょう?
肉体があること、呼吸をしていること、心臓が動いていること ——— 目に見える世界を生きる私たちは、生きていることも、目に見える形を通して認識します。しかし生命は、見える世界の中だけで成り立っているのではありません。
私たちの肉体が生命として存在しているのは、魂と連動しているからです。見えない存在である魂は、肉体という器を得て見える世界へ生まれ、生き、寿命を迎えれば肉体を離れ、再び見えない世界へと還っていきます。魂の抜けた肉体は原子レベルに解体され、次の生命を構成する材料として自然の循環の中を巡ります。そしてどれだけかの時が経つと、魂はまた、自然界を循環していた物質の中から縁あるものを引き寄せて新たな肉体を構成し、見える世界へと生まれてくるのです。このように、生命は見える世界と見えない世界を行き来しながら、生まれては死に、死んでは生まれることを繰り返し、時の流れと共に変化し続けます。そして大小さまざまな生命が集まって命のかたまりとなり、全体がひとつの生き物として、未来へ向かい進化していくのです。
この見える世界と見えない世界を合わせた物質生命の世界を、「ある世界(現象界=現象の起こる世界)」と言います。それは、時空に乗ってすべてが変化し続ける世界です。ではこの「ある世界」だけで私たちの生命世界が成り立っているのかというと、そうではありません。

「ある」を支える「ない」世界

私たちの生きる宇宙は、陰と陽の相反するものが同時に発生して互いを成立させる「対向発生」という仕組みによって成り立っています。男と女が対となり、光と闇が対となるように、「ある世界」と対になるもの ——— それが「ない世界(潜象界=すべての現象の源の世界)」です。
「ない世界」には、時間も空間もありません。それは「ある世界」と互いに入り組んで同時に存在しながら、時空に囚われた「ある世界」を生きる現代の私たちの思考回路では、認識することのできない世界です。しかし宇宙の実体は、この「ない世界」によって「ある世界」が支えられ、そこからすべての現象の源が供給され続け、世界が維持されているのです。
現代を生きる人々は、形を優先することで命の本質を忘れ、生きることをとても窮屈に捉えるようになりました。そして今、新型ウィルスや相次ぐ自然災害、経済の崩壊など、人間の営みを否定するかのような現象が世界中で噴出し、生きることが現実に厳しくなる時代を迎え、人々は混乱し、どこにも突破口を見出せずにいます。しかし突破口は今ここ、即ち、あなた自身の視点の転換にあります。
あなたを現在の囚われから解き放ち、自身の中に眠る生命としての無限の可能性に目覚めるために ——— どうぞ次の項へお進みください。

 

 

私たちはどこへ
向かうのか?

生命は循環する

「ある世界」は、時空に乗って進む世界です。そこには、過去から未来へ向かい決して留まることなく進み続ける、時という絶対の軸があります。時が進むから空間が生まれ、現象が起こり、世界が変化していくのです。
この時の軸に沿い、魂は見える世界と見えない世界を行き来しながら変化し続け、時が進んだ分だけ古くなっていきます。魂だけではなく、水や空気さえも、この世界に現象として現れたものにはすべて、その存在の寿命があります。寿命を迎えたものは、原子よりも素粒子よりもさらに微細な、現代の科学では感知することのできない宇宙の最極小微粒子「カ」となり、「ない世界」へ還っていくのです。
「ない世界」は時空の存在しない世界です。時がないから、空間も生まれず、現象も起こりません。そこにあるのは、響きです。それは音として耳に聞こえる響きではなく、この世界のあらゆる現象の源となる、宇宙根源の響きだけの世界です。この一切の動きのない世界から、何かのはずみで、現象化の種が「ある世界」へと転がり出ると、それは時空に乗って様々な現象を起こし、世界に動きをもたらします。生命を構成する物質の中で一番初めに現象化するのは、水です。そして生命は、最も小さなもの、即ち微生物から現象化します。その小さなものから、より大きなものへと多種多様な変化が生まれ、数千万種とも言われるほどの生命が無限に連鎖し、ひとつの星の上で共に生きる、地球生命生態系というとても豊かな生命世界が生まれたのです。
この生命世界には、「ない世界」から絶えず命の源が供給されています。それは限りなく「ない」に等しいものでありながら、それによって豊かでダイナミックな「ある」が表現されていくのです。この「ある世界」の中で、私たちの肉体は食べることや排せつ、呼吸などを通して、他のあらゆる生命や自然の要素と共に、見える世界の中を循環しています。そして魂は、生死を通して見える世界と見えない世界を循環します。その大本には、現代を生きる私たちの意識を超越する「ない世界」と「ある世界」の循環があり、その大いなる仕組みの中で私たちは生かされているのです。

生命は螺旋を描いて進む

この多重構造の循環の中で、私たちが生まれては死に、死んでは生まれることを繰り返すように、すべての生命はサイクルを刻んでいます。そのサイクルは何と連動しているのかというと、地球の自転であり、公転であり、さらに大きな銀河のサイクルと連動しています。そしてそのサイクルは、同じ場所を延々と回り続ける円運動ではなく、絶えず新たな場所へ進み続ける螺旋運動によって刻まれていきます。地球は太陽の周りを、太陽は銀河の中心であるセントラルサンの周りを、そして銀河はさらに大いなるものの周りを回りながら、螺旋軌道を描いてサイクルを刻み、広大な宇宙空間を未知なる場所へと進み続けているのです。
人間は朝に目を覚まし、昼に活動し、夜に眠ります。それは地球と月と太陽のリズムが刻む、陰陽のサイクルです。太陽が姿を現す朝は、活動の始まりの時です。夜の間に眠っていた体を目覚めさせ、自然のリズムに沿って思考を働かせ、一日を通して、その時々に必要な生きるための活動を行います。そしてまた夜が来れば、眠りにつきます。眠っている間に必要な思考と不要な思考が整理され、次の活動のための充電をし、新たな日の出を新鮮な状態で迎えるのです。
このように、生命は常に、充電と放電、発生と消滅といった陰陽のサイクルを刻んでいます。そのサイクルとは、私たちの一日、一年、一生といったものだけでなく、細胞の一つひとつが刻む微細なものから、時代や宇宙の星々が紡ぐ壮大なものまで、大小様々なサイクルが無数に折り重なり、全体が常に新陳代謝しながら未来へ向かって進み続けているのです。それは、無数の天体たちがそれぞれに螺旋を描きながら、見事に連携し、広大な宇宙空間を未知なる場所へと旅し続けるのと同じ仕組みです。
宇宙は成住壊空と言い、私たち人間の感覚では及びもつかない果てしないスケールで、誕生、維持、破壊、空(無=ない世界)、そしてまた誕生というサイクルを無限に繰り返しています。その宇宙創造の根本原理を明快に顕しているのが、私たちが住む地球です。宇宙の中の奇跡と言えるほど多種多様な生命で溢れるこの星は、無数の生命たちが生まれては消え、消えては生まれ無限に連鎖していく生態系の姿を通し、気が遠くなるほど巨大な宇宙の実体を、身近なスケールで見事に表現しています。生命が時の流れと共にサイクルを刻んでいるからこそ、あるものが途絶えたとしても、それはまた形を変えて新たなものへと受け継がれ、世界が維持されていくのです。
この、すべてが宇宙の創造原理のままに、時空に乗って自在に進化していく世界の中で、たったひとつ、変化していくことを恐れ、移り行く世界の流れに逆らってでも今あるものを維持しようとする、特殊な存在が現れました。それが人間です。

宇宙の創造と自我の誕生

遠い昔、地球も、宇宙すらも存在しなかった遥か昔、世界には何もありませんでした。そこへある時、その世界を認識する存在が発生しました。宇宙自我の誕生です。それを、神と呼びましょう。
神様は、退屈でした。なぜならそこは、神様ただ一人の世界だったからです。すべてがぴたりとかみ合い、一切の動きのない、永遠なる完全の世界。光だけの中にいては光が何であるかを見ることができないように、完全である神様は、完全であるがゆえに、自らを理解することができなかったのです。
そこで神様は、その完全なる体を二つに分けられました。光とは何かを知るために闇を、天とは何かを知るために地を創られたのです。そして、その創られた世界を、自らと対面する遠いところへ置かれました。その時、そこに距離が生まれ、元のひとつへ還ろうとする流れが生まれ、その流れが時となったのです。そして世界は、時に沿って動き始めたのです。
神様は、世界に多種多様な存在を生み出しました。そしてそのどれもが、ひとつでは成立せず、必ず相反するものと対になり存在が成り立つようにしたことで、宇宙に対向発生の原理が生まれました。太陽と月、雄と雌といった陰陽の対向発生の無限の連鎖が世界に動きをもたらし、新たな命が次々と誕生しました。こうして、神の意思のままにすべてが循環していく美しい生命世界が生まれたのです。それは、多様な存在がそれぞれにふさわしい位置を与えられ、大いなる流れのままに役割を全うし、決してそこから外れることのない、完璧な秩序の下にある世界です。
「ない世界」から「ある世界」を生み出した神様は、そこに自らの姿を表現しました。しかし、それでもまだ不十分でした。「すべてが私の意思のままに存在するだけでは、私自身の体であるこの世界を理解することはできない。」
私たちの肉体が、様々な役割を持つ器官が連携することで構成されながら、その構成物の一つひとつが全体を理解しているわけではないように、この世界を理解するためには、ただその一部としての機能を果たすだけではなく、そこから独立した意識を持ち、全体を客観的に眺めて捉えることのできる存在が必要でした。そこで神様は、自らの代理としての目を持ち、対向発生する存在として、人間を地上に降ろしたのです。そして、神の意思から独立した自己を認識する能力、即ち、自我を与え、神の体である宇宙全体を俯瞰し、理解できる位置に立つ自由を与えました。人間がこの世界の実体を認識することで、神様はその認識を自らの映し鏡とし、この世界を理解できるようにしたのです。
他の生命にはない特殊な能力を与えられた人間は、神様の意思から独立し、独自に思考するようになりました。それは本来、宇宙に遍満する神の実体と対向し、その成り立ちを解明することのできる優れた能力です。ところが人間はその能力故に、物理的には神様の仕組みの中に在りながら、意識だけがそこから離れ、世界の流れを無視した自我の願望を優先するようになりました。そしてその優れた能力を、自らの願望を満たすために使い始めたのです。

流れはひとつの方向へ向かう

生命とは、どれもひとつでは不完全です。だからこそ他とつながり、協同することで、多種多様な生命の大循環を引き起こすことができる。そのようにして、神様は自らの実体をこの世界に顕しました。
しかし人間は、その生命の大循環を無視して自我から湧き出す願望を一方的に満たし、満たせば満たすほどその快感の虜となってさらに欲望を膨らませ、協同するどころか争い、傷つけ合い、生態系を破壊していくものとなりました。これは、調和を前提とする生命としては極めて異常な状態であり、今や人間は、地球にとってのガン細胞のような存在となっています。
これに対し、正常に戻るための働きとして、世界はその存在を淘汰しにかかりました。新型ウィルスの登場も相次ぐ自然災害も経済の崩壊も、人々は異常事態が発生していると捉え、これまで築いてきたものを必死に維持しようとしています。しかし、それを築き上げてきた人間の営みこそが、世界の側から見れば異常なのであり、その異常な存在を取り除くことは、世界にとって正常な働きと言えます。今あるものに執着し、変化していく世界の流れに抵抗すればするほど、人間はさらに異物となり、世界は淘汰の動きを加速させることでしょう。
この世界は、変化・変容・変態を繰り返しながら、未来へ向かって進み続けます。その大いなる流れの中で今、天体たちが刻むいくつものサイクルが、宇宙のひな型である星、地球に、大転換の時が訪れていることを告げています。そしてその流れは、遥か昔、神様がその完全なる体を分けられて世界を創造し、時空が発生した瞬間から、決して止まることなく向かい続けてきたひとつの方向 ——— 即ち、もとのひとつに還ることへと向かっています。
では、神と対向発生するものとしてこの世界に生み出された私たち人間は、その流れに逆らい、淘汰されていくのでしょうか。そうでなければ、私たちはここから何を学び、未来に向けてどのように進化していくべきなのでしょうか。

 

 

魂のふるさとへ

現代人は、脳の10%しか使っていないと言われます。その10%によって人類は様々なテクノロジーを生み出し、今日の文明を築きました。人類史上最高の頭脳の持ち主の一人と称されるアインシュタインは、そこから未だ使われていない90%の領域へと踏み込み、脳全体の15%を使用したと言われます。そして通常の人が考えないことを考え、私たち生命の根源である太陽の仕組みを解明する公式を発見しました。

90%の可能性

氷山は、海面上に姿を現しているのは全体の1割であり、海面下に潜む見えない9割が、表に現れている1割を支えています。同じように、私たちの認識する目に見える世界の奥には、見えない世界、更には「ない世界」が広がっています。しかし自我に囚われた現代の人々は、脳の10%だけを使って見える世界を全てとし、善か悪か、損か得かといった二元的発想で、目先の利益ばかりを追い求めるようになりました。
その現代人の思考範囲から5%を踏み出したアインシュタインは、特殊相対性理論に基づき、太陽のメカニズムを解明する公式、即ち、私たちの命の根本となる原理を発見しました。それは、時代の流れの中で人類が新たなステージへ進むための役割として、90%の領域へ踏み込み、宇宙の叡智を引き出したのです。ところが10%の枠の中で思考する人々は、その命の原理を用いて原子爆弾を開発し、戦争に利用しました。今もなお、地上に降ろされた太陽のメカニズムから生まれるテクノロジーは、コントロール不能のまま放射性廃棄物となって山積し、核兵器となって世界の平和バランスを保つという、異常な状態を生み出しています。
この現状を突破するには、二元思考の囚われを超え、海面下に潜む氷山のようなこの世界の全容を捉える、立体的な発想が必要です。そこに通ずる可能性を秘めているのが、私たち人間に備わっている、今は眠れる90%の脳です。

変わらないひとつの道

ガン細胞は元々、正常細胞です。それがガン細胞となるには、そこにそうなるべき理由があるからです。つまり視野を広げてみれば、ガン細胞も宇宙の仕組みのままに働いていると言えるのです。
現在、人間は生命として極めて異常な存在となっています。しかしそれは、大いなる多様性の中での、可能性の表現とも言えます。異常が起きれば、そこに苦痛が発生します。だからこそ、正常に進むだけでは出会わなかったものを発見することもあれば、苦痛を乗り越えることで新たな進化を遂げることもある。その変化の連続の結果、人間は今日の文明を築いたのです。人間が生を尊び死を忌み嫌うのは、より大きなサイクルの視点を失っているからであるのと同じように、視野を広げれば、正常と見えることも異常と見えることも、すべてが大いなる流れの中に在ることがわかります。
神様は、自らと対向発生する存在として人間を地上に降ろし、自我を与えました。自我故に異常な状態を表現してきたことに対し、今、世界は人間を正常に戻すために動き始めました。そこに抗えば抗うほど、苦痛を与えてまでも元のひとつの方向へ向かうように導くこの大いなる流れは、私たちが生命として地球に降り立った真の目的に立ち返ることを促しています。
自我は取り除くのではなく、拡大していくものです。どんなに自分を大切にし、思い通りに生きようとしても、私たちは自身の体すら思い通りにはできません。心臓を思い通りにはできない。呼吸も思い通りにできない。生きることで自らの思い通りになるものは何ひとつない。そのようにひとつずつ自分という囚われを外し、視野を広げていくと、自分は空気によって生かされていることがみえてきます。大地によって、水によって、光によって生かされていることがみえてきます。地球と共に宇宙を旅し、何億光年という果てしないスケールで広がる無数の星々と共に、時空に乗り未来へ進んでいることがみえてきます。そして、「ある世界」の源である「ない世界」から溢れ出し、この世界にあらゆる現象を起こして再び「ない世界」へと還っていく、神の響きの循環の中で、自らが生かされていることがみえてきます。
その境地に至った時、あなた自身の中から、その源の響きが湧き出してくることでしょう。そしてその響きは、矛盾に溢れ、どこにも突破口の見えない世界の現状を、正常な状態へと還していくことでしょう。それは、元のひとつから散りばめられ、それぞれの位置に配置されることで生命の大循環を起こし、この世界を成り立たせている私たちが、その始まりの時より変わることなく続くひとつの道を、今も歩み続けている証です。大いなる宇宙生命として無限の可能性を託されながら、そのことを忘れてきた私たち人間は、今も自らがその道の上に在ることの自覚を持ち、この世界に降ろされた真の目的に目覚めるべきなのです。

 

 

 


木の花ファミリー通信2020年夏至号『コロナウィルス はメッセージ 〜 世界は人間の思い通りになるか』

 

世界は人間の思い通りになるか

新型コロナウィルスの登場によって世界は大きな転換の時を迎え、「新しい生活様式」が求められるようになりました。けれども、人との距離を保ち、会話や接触を避け、マスクや消毒を欠かさずに暮らすことが、本当に人のあるべき「新しい生活様式」なのでしょうか。

このウィルスの登場は、私たちにあることを教えてくれました。それは、人間はいつの間にか、お金がないと生きていけなくなっていた、ということです。

今、人々の最大の関心事は、経済です。人々は経済が回らなくなることで自分たちの生活が成り立たなくなることを心配し、政府はその心配を一時的にしのぐため、赤字財政に更なる借金を重ねて莫大な補正予算を組み、様々な給付金を打ち出しました。ほんの数か月経済が停滞しただけでこれほどの給付金が必要になるということは、コロナウィルスが発生しなくとも、もともと日常をギリギリの状態で生活している人々が今の時代にいかに多いかを物語っています。

すべての生命は、生きている限り生命活動の中にあり続けます。例えば小鳥は生きるために、体の大きさに対してたくさんのエネルギーを必要としますから、常に食物を探し、食べることに追われています。他の動物も、種によって必要とするエネルギー量に違いはあるものの、生きるために食べ続け、植物なら養分や水分を求めて根を伸ばし、葉を広げて光を求めます。何より、常に呼吸を続けています。生命とは、命ある限り自らの存在を維持する活動に追われるものであり、その活動はすべて、生きることに直結しています。

ところがコロナウィルスが教えてくれたのは、人間だけはお金に追われているということです。お金とは、原価二十数円の紙切れ、或いはコンピューター上の数字です。それは本来、自らの命を維持する生命活動とは何の関係もないものですが、現代の人々は、お金の有無によって生きることが大きく左右されているのです。

生命とは、太陽や土、水、空気、風の織りなす大いなる自然の循環の中でそれぞれにふさわしい位置を与えられ、瞬間瞬間を精一杯生き、命をつないでいくものです。その中で唯一人間だけが、その類い稀なる高い能力を使い、楽をして生きることを求めるようになりました。そして自然の中で生かされていながら、自然を無視し、生命の原理原則から大きく外れた経済システムを創り出したのです。人々は豊かさを求めて地位や財産を築き、築いたら今度はそれを維持することに囚われ、太陽や土と共にではなく、預金通帳の残高に追われて生きるようになりました。楽になりたいと願いながら、自ら築いたものに縛られ、結果としてまったく楽ではない、窮屈な世界を生きることとなってしまったのです。

これは生命としては異常な状態と言えるでしょう。ところがそれが当たり前になってしまった現代の人々は、その異常な状態を正常だと思っています。そこへ今、地球生命史の大転換の時を迎え、時代は新型コロナウィルスという刺客を人間社会へ送り込みました。肉眼では見えないほど小さな存在でありながら世界を大きく揺り動かすこの刺客は、果たして世界の何を浮き彫りにし、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。

 

 


「経済で生きている」という幻想

 

他の生命にはない世界

私たち生命が生きているのは、お金があるからではなく、命が生きているからです。しかし、生命の原理原則から外れ、生きることがお金を稼ぐことになってしまった現代の人々は、常にお金に追われるようになりました。それは他の生命にはない異常な世界ですから、生きていく上でたくさんのストレスが発生します。そのストレスを解消するためにお酒を飲み、レジャーに出かけ、物を買い次々と消費しては大量のゴミを出し、生きるために必要のないことをたくさんやることで、経済はさらに大きくなりました。まるで子どもがゲーム中毒になるように、世界中の人々がお金の魔力に取りつかれ、そこから抜け出せなくなっているのです。

その手を休めて立ち止まり、空を見上げ、風を感じ、土に触れ、木々の囁きに耳を澄ませば、自然はなんと大らかで、動物も植物も、豊かな命の循環の中に生きていることが感じられるでしょう。生命とはとても大らかなものでありながら、いつから人間だけが、これほど窮屈な生き方に自らを追い込んでしまったのでしょうか。

新型コロナウィルスの感染拡大によって経済活動が停滞している間、地球上の二酸化炭素排出量が一時的に下がりました。世界各地で空気や川の水がきれいになったという報告もあります。IPCCは、2030年に地球の気温が産業革命前に比べて1.5度上昇することを予測し、多くの科学者たちが、気温上昇に伴う巨大台風の増加や豪雨、干ばつ、海面上昇、生態系の崩壊や食料難などを最小限に食い止めるためには、今後10年間に人類がどれだけライフスタイルを転換できるかが勝負であると警告しています()。新型コロナウィルスによって人間の経済活動に歯止めがかかったことは、見方を変えれば、地球の自浄作用とも言えるでしょう。ところが今なお人々は経済のV字回復を願い、必死になって世界を元の異常な状態へ戻そうとしています。それは、生命の原理原則から外れて自然の中に取り返しのつかないツケを蓄積していくことよりも、自らが築いた経済という人工のシステムが崩壊することの方が恐ろしいからです。現代は、本来命とは何の関係もない経済が止まることで、自らの命をつなぐことができなくなる、大いなる矛盾の世界となってしまったのです。

 


※IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)は気温上昇を1.5度に留めるには、世界のCO2排出量を2030年までに45%削減し、2050年までに実質ゼロにする必要があると警告。科学者たちは、気温上昇が1.5度を上回れば、北極の氷の融解による海水温の上昇、シベリアの永久凍土融解による地中のメタンガス(温室効果がCO2の25倍)の放出、アマゾンの森林火災増加による更なるCO2の排出等の悪循環に陥り、気温上昇が自動的に進む「灼熱地球」へのスイッチが入り、止めることができなくなると訴えています。


 

給付金は問題を解決する?

こうした状況の中、日本政府は1人一律10万円の特別定額給付金を始め、様々な給付金を打ち出しました。しかしそれで現状の問題が解決されるでしょうか。

新型コロナウィルスの影響で外出を控えた結果、家庭の不仲や虐待が増加したと言われています。多くの人はそれを「コロナウィルスのせいでそうなった」と捉えていますが、それは元々そうなる種があったということであり、コロナウィルスはそれが浮き出るきっかけとなったに過ぎません。問題ごとが起きた時、人はとかく自分の中に原因があるとは見ずに、外からその問題がやってきたとして、自らを改めることなく他を悪者にします。それが大きくなって国家間の争いとなり、戦争となっていくのです。そのような盲目の人々に支持された政府が指揮を執り、現代の社会は創られています。

問題の根本原因と向き合うことなく、ただ表面的に解決しようと一律な対策を練ったとしても、例えば、家庭によって給付金は一時的にストレスを発散するためのお酒や道楽に消え、場合によっては家族の分まで使い込んで争いの種となる等、元々あった問題をさらに難しくすることでしょう。数か月の経済停滞で生活が立ち行かなくなるなら元々が不安定であったということですが、それを一時的な給付金で賄えば、次に何か起きた時にまたもらえばいいという発想になり、自らの裁量で生活を成り立たせることを忘れていくのです。そのように生命力を失った人々も皆等しく1票を持っており、支持を集めたい政治家たちは、与党も野党もこぞってお金をばらまき、国民のご機嫌取りをしています。それはコロナ禍の問題を解決するためではなく、自らの政権を維持するための施策です。そして1000兆円という世界でも突出した債務残高を抱え、個人であればとうに自己破産しているほどの赤字財政に、更なる借金を重ねています。そのツケは確実に将来にのしかかりながら、目先の利益ばかりを考える国民によってその意識にふさわしい政治家が選ばれ、それにふさわしい政治が行われるのが、民主主義という仕組みを選んだ私たちに与えられた結果なのです。

どんなに良い国を創ろうと思っても、その手段がお金である限り、良い国にはなりません。それは生命としての根本から外れているからです。人々は何とかコロナウィルスを封じ込め、問題の解決を図ろうとしていますが、その中で忘れられている事実があります。それは、コロナウィルスに出会わなくとも、人は必ずその生き方にふさわしい死を迎えるということです。

 

「ほんの瞬間」への執着

この世界には、時という万物に共通する絶対の軸があります。それは決して止まらず、後戻りせず、宇宙の創成から消滅までを貫いています。時とは、言わば柱です。この柱を中心としてエネルギーの回転が起こり、宇宙の響きが現象化します。そこから生み出されるのが生命です。生命は、時という絶対の柱に沿って誕生と消滅を繰り返し、過去から未来へと旅を続けます。生まれ、生き、死に、また生まれてくることを繰り返しながら、地球上のあらゆる生命たちと共に、太陽や月や、無数の天体たちと共に、大いなる命の循環の中で、果てしない宇宙生命物語を紡いでいるのです。

それは、人間の一生をはるかに超えたスケールの物語です。私たちはこの壮大な生命物語の一部分を担う存在であり、「今回生まれてから死ぬまでが自分である」という認識を超え、視野を拡大してみれば、自らの存在は人類の歴史であり、生命の歴史であり、肉体を持った一人の人間としての存在など、ほんの瞬間のものであることがわかるでしょう。ところが、その無限の可能性を秘めた魂が一たび肉体に封じ込められると、自らが大いなる生命の一部であることを忘れ、自らに執着するようになったのです。

肉体を持ち、命として生きることは、自意識があるということです。例えば、植物にも自意識はあります。雨が降らなければ水を求め、根を伸ばし、まだ実を付ける前の花の状態の時には、動物に食べられないよう強い薬効成分を出し、自らの命をつなごうとします。しかしそれは、食べられそうになったら走って逃げるほどの強いものではありません。動物の自意識は植物より強く、シマウマはライオンに捕まりそうになれば逃げますが、捕まって食べられればそこに未練を残すことはなく、シマウマの命はライオンに受け継がれていきます。動物も植物も、個としての命を維持しながら、より大きな生命の一部として、生態系の大いなる循環の役割を果たしているのです。

かつて人間も、大いなるものの一部として自然の中を生きていました。ところが時代が進むにつれ、文明が発祥し、モノや権力を持つようになると、人間はその魅力に囚われ、生きることに執着するようになりました。

ことに産業革命以降、それは顕著になります。科学技術を発展させた人間は、自らの力によって次々と願望が叶うことの虜となり、自我を肥大させ、自然に沿って生きるよりも、自然を自らの思い通りに支配しようとするようになりました。

 

医療が進んだ「豊かな国」

私たち生命は、決して止まらぬ時の流れの中で生と死を繰り返し、永遠の物語を紡いでいます。生まれるとは言わば入学であり、死は卒業です。生まれれば必ず元の世界へ還るのが定めであり、それが多少早いか遅いかということも、それぞれにふさわしい定めとして与えられます。大切なのはどれだけ長く生きるかではなく、その生を通して自らが何を学び、どのような精神状態で卒業を迎えるかということです。生きることの真の意味を知るには、死ぬことの真の意味を知ることが不可欠であり、生と死のどちらの側にも囚われない視点に立った時、私たちは初めて、この世界を生きることの真実に出会うのです。

欲望の虜となり、生きることばかりが重要になった現代社会では、医療が極度に発達し、人間の高い能力の証である複雑で高度な技術を駆使し、ただ命を引き延ばすことが最優先となりました。人工透析や臓器移植など、自然界には絶対にない形で延命を図り、莫大な医療費とエネルギーをかけ、必死に生にしがみついているのです。

新型コロナウィルスは、喫煙者や糖尿病などの基礎疾患を持つ人が重症化しやすいと言われます。人々は感染を恐れ、コロナウィルスを問題視していますが、ではそもそも何故そのようなリスクの高い状態になっているのかを振り返ることはありません。本来ならば、そういった疾患に至る自らの生活習慣を見直し、その元となる心を改めるべきなのです。しかし現代医療は、物理的な症状だけを一律に治療する姿勢を前提とし、ただ症状が治まれば良しとするため、いつまで経っても人間が生き方を改めることには繋がらないのです。そしてその莫大な医療費によって膨らんだ経済が、皮肉にも「豊かな国」を支えているのです。

病気を治せば治すほど、高度な技術が発達すればするほど、何でも自分たちの思い通りになるかの如く生きてきた人間たちは今、新型コロナウィルスの登場によって思い通りにならない事態に直面し、大きく困惑しています。そして自分たちのこれまでの生き方を阻害するコロナウィルスを悪としています。しかしそもそも、この世界は私たちの思い通りになるのでしょうか。

 

宇宙から人類へのメッセージ

私たちは、地上に光を注いだり、雨を降らせることができるでしょうか。毎日朝が来ることを、四季が巡ることを、地球が回ることをコントロールすることができるでしょうか。

産業革命以降、人間はまるで自分たちの力で世界を動かしているかのように振舞ってきました。しかしよく見てみれば、世界は人間の力で動いてはいません。毎日が来るのは私たちがカレンダーをめくりスケジュールをこなしていくからではなく、地球が回っているからです。地球も月も太陽も、他のあらゆる星々も、私たちの日常をはるかに超越したスケールで宇宙を巡り、それによって世界が動き、その中で私たちは生かされています。

その巨大な世界に秩序をもたらしているのが、時です。宇宙の万物はこの絶対の柱に沿い、過去から未来へと進み続けます。もしも時をさかのぼって地球が逆回りをしたり、死者が生き返るようなことがあれば、世界は秩序を失うでしょう。決して例外なく万物が絶対の約束のもとにあるからこそ、秩序が保たれているのです。

そもそも、この世界を生きることに、自由などないのです。誰も地球をコントロールできない。では自分のものだからと心臓をコントロールできるかと言えば、それもできない。眠ることを、呼吸することを、歳を取ることを、誰が思い通りにできるでしょう。私たちは決して抗うことのできない絶対の法則の中で命を与えられ、生かされているのであり、生きることで自らの手の内にあるものは何もないのです。それなのに、人間はすべてを自らの思い通りにしようとし、他者の思い通りになることは否定するのです。その結果、他者との共通点を見出すことのできない人々は、自らの創り出したものに支配されていくことになるです。

生命とは、生態系の循環の中でそれぞれの個性にふさわしい位置を与えられ役割を果たすものであり、本来自由でもなければ、平等でもありません。しかし人間社会は、民主主義という見せかけの自由・平等の世界を創り、自我から生まれる願望を一人ひとりが際限なく自己主張することが権利であり、進歩した世界であると思い込み、それが麻薬のように広まって、生命の本質からどんどん外れていきました。本来、生きることには優先順位があり、第一優先事項を第一番目として、二番目や三番目を一番に持ってきてはいけないのです。現代の人々は、自我の欲望から生まれる五番目や六番目を第一として生きています。だから世の中が狂うのです。新型コロナウィルスは、その狂った世の中の実態を暴き出し始めたのです。

そのメッセージに気付かず、人間がこのまま進み続ければ、世界はより過激な第二、第三の刺客を送り込んでくることでしょう。人々はコロナウィルスを、抑えても抑えても増殖して自分たちの生活を脅かす脅威と捉えています。しかし地球の側の視点から見れば、人間こそ、抑えても抑えても増殖し、地球の資源を貪り、他の生命を傷付け、生態系を破壊していく極めて有害な存在であると言えるのです。その人間の在り方に対し時代がNOを出し始めた今、私たち人間は、欲望のままに生きる自我の側から、その自我をはるかに超越し、私たちを生かし続ける世界の側へと視点を転換させ、自らの生き方を根底からひっくり返す必要があるのです。

 

 


*この世界の生と死の仕組みについては、木の花ファミリー通信第93号〜96号「21世紀の死生観第一部・死ぬってどういうこと?」「21世紀の死生観第四部・性 ー すべての始まり」をご覧ください。


 

私たち地球生命は、生きていく上で必要なものをすべて、この世界から与えられています。そしてそれは、共有することが前提となっています。太陽に然り、空気に然り、水に然り、そして大地に然り。生命とは、世界に動きを起こすものです。太陽は太陽のように、空気は空気のように存在していたこの世界へ、生命が現れることでダイナミックな命の循環が起こり、太陽や空気から草へ、花へ、虫へ、鳥へ、獣へと無限に連鎖し、すべてがひとつの命として循環していく、絶対共有の自然世界が生まれてきたのです。

その共有の世界にあって、文明の発祥以来人間が表現してきたものは、貪り、奪い合い、他の生命に害を及ぼすどころか同じ種の中でさえ傷つけ合う、この世界の実体とはかけ離れたものでした。世界中が待ち望む新型コロナウィルスのワクチンですら、各国が情報を共有して協力し合うのではなく、他国に先駆け新薬を開発しビジネスチャンスにしようと競い合っているのです。

しかし、人間が新たな薬を開発すればするほど、ウィルスや細菌もまた、進化します。今、人間が自然の摂理を無視し、抗生物質等の薬を医療や畜産にまで乱用してきた結果、様々な所で耐性菌が広がり、近い将来、抗生物質が効かなくなる時代が来ると言われています。抗生物質が使えなくなるということは、現代医療の大部分が機能しなくなることを意味します。だからこそ今、私たちは、ただ生き永らえることばかりを求めるのではなく、生きるとは何であるかを見つめ直し、命の原点に立ち返る時が来ているのです。

 
あなたの尺度を手放しなさい

人間がどれだけこの世界の本質から外れようと、世界は決してぶれることなく未来へ進み続けます。

私たちの生きる天の川銀河は、広大な宇宙空間に直径10万光年という果てしないスケールで広がり、セントラルサンを中心として無数の天体たちがそれぞれのサイクルを刻みながら、全体が秒速約200㎞という速度で回り続けています。それは人間の尺度などはるかに及ばないスケールです。これほど巨大なものが100億年以上にわたりぶれることなく、秩序を保ち続けてきたということは、そこに決して揺るぎのない、人智を超越する絶対的な軸があるということです。その絶対的な安定の中を太陽系が巡り、太陽系の秩序の下に地球が巡り、その中に私たちの毎日の秩序があるべきなのです。それは言い換えれば、人間がどれほど外れようとも、決してぶれることのないこの世界の本質へ、戻ろうと思えばいつでも戻れる世界に私たちはいる、ということです。

秒速200㎞は、地球上の尺度からすれば驚くべき速さです。しかし、直径10万光年の銀河からしたら、動いているかいないかわからないほどゆっくりなものです。この世界には、人智を超えた絶対の秩序の下に無数の尺度が存在し、それを現代人の思考回路で解釈することは到底できないのです。その解釈不能な世界の中で、自らの尺度だけを基準として生きているから、自分が外れていても、それを正常だと思ってしまうのです。自らの尺度だけで生きているから、本来はすべてが共有され循環していく大調和の世界の中で、貪り、奪い合い、獲得したものを手放すことを恐れ、自らの心が生み出した不安や恐怖でがんじがらめになっているのです。

その小さな囚われを手放しなさい。

そして、自身から自由になりなさい。

手放せば、私たちはいつでも、多様な存在がひとつらなりの命として大調和の下に永遠に循環し続ける、大いなる宇宙の尺度で生きることができるのです。

その精神の位置に立つ時、人は不安や恐怖から解放され、貪り争う必要がなくなり、穏やかな響きの世界を創ることでしょう。そして自らにも、地球にも、健全な生き方をするでしょう。
人間は本来、群れて生きるものです。それが今、いかに分断して生き延びるかという、生命の原理原則とは真逆の方向へ向かっています。世界中が混迷を極める中、新たな時代のリーダーシップは政治にあるのではありません。学問の中にもありません。それはこの絶対不変の宇宙法則の中にあり、自らの尺度を手放し、大いなる仕組みの中に存在していることに目覚めた時、あなた自身の中に湧き出してくるものが次の時代の指針となるのです。

その時に大切なのは、土に近く生きること。なぜなら私たちは皆、大地の子どもだからです。大地は私たちの命の源であり、土と共に生きることは、私たちを生かすこの世界の大いなる存在 ——— 太陽や月や、宇宙の天体たちのサイクルで生きることなのです。それが地上を生きる生命の本来の姿であり、私たちの中に眠る真の生命力を呼び覚ますのです。

人間は、自我から生まれる欲望のまま破滅へと向かう愚かな存在にもなれば、その体験から学び、宇宙の仕組みを地上に顕し、天地一体の世界を表現する尊い存在ともなれるのです。今、このメッセージに出会ったあなた自身が、その意識に目覚め、この大いなるターニングポイントを機に歩み出すならば、文明の発祥以来追い求められながら実現されずにきた、人類の命題である理想郷への道が、開かれることでしょう。

 

 

 

 

 


ひろみちゃんと木の花菌の物語 〜 世界を変えることはできなくても、自分は変えられる

木の花ファミリーでは、EM菌(Effective Microorganisms:有用微生物群)を種菌として独自に培養した「木の花菌」を、農業や日常生活の様々な場面で活用しています。この木の花菌の培養を担当しているのが、畑のエース・ひろみちゃんです。
ベビーフェイスでダンプカーを乗り回し、畑隊随一の仕事師であるひろみちゃんは、今から14年前にメンバーになり、ほどなくしてジイジ(当時はいさどん)から木の花菌の培養を引き継ぎました。木の花菌は、仕込みから三日おきに微生物たちに餌を与え(三三九度)、十日目で完成します。今日は、その十日目に仕上がった木の花菌を絞りながら、ひろみちゃんが語ってくれた話をご紹介します。

絞り機を使って木の花菌を絞るひろみちゃん

—— ひろみちゃんは、どうして木の花に来たの?

学生時代に、花や木の勉強をしていてね。花や木は食べるものではないから、野菜よりもさらにたくさんの薬が使われてたの。公園でも、たくさん薬を使って木を管理してた。それで「何か他にないのかな」って思った。こんなに薬漬けでイヤじゃん、て。その時に、EM菌というものがあることを知ったんだ。
当時は庭とか木に興味を持っていたから、こういうものでいろんなところを管理できるようになったらいいなって思った。それで調べてみて、卒業研究でもEM菌に関わることを取り上げて、ますますこれは大事なものだと思った。でも当時は店舗の設計や庭の施工の仕事をしていて、別に農業をしようとは思ってなかったから、それはそれで仕事に使うとか、お家で生ごみ処理をするとか、そういうことに使ってたよ。

結婚して子供ができて、ちょうどその頃、地域にEMの勉強会のようなものができて、そこに参加するようになったら、そこで「富士山麓でEMを使って有機農業をしてる団体があります」ということを聞いたの。へぇーと思って、どんなところか調べてみると、自給自足をしていると書かれてた。それで、おもしろそう、と思ってね。

木の花に来たばかりのひろみちゃんと、ジイジ

当時子供も生まれて、自給自足とか、自然に沿った生き方とか、健康な食事とかに興味を持ち始めていたところで、「私が見たいものがみんなあるかも」と思って、まあけっこうミーハーな気持ちでここに来たんだよね。当時はみちよちゃんとか、エコビレッジ運動に関わる人たちがどんどんやって来てた頃で、私はそれよりもちょっと先だったけど、彼らと同期。でも私は共同生活がどうとか精神性なんて全く考えてなくて、ただちょっと面白そうだな、とここにやって来たんだ。
そうしたら、ここには木の花菌というものがあった。それで、当時木の花菌を担当していたジイジの助手をすることになって、昔勉強していたEM菌を種菌にして培養する木の花菌に関わるようになったんだ。

木の花菌を絞りながら、ひろみちゃんは当時を振り返りました

—— 実際に来てみてどうだった?

最初は、EMの勉強会のツアーで50人くらいの人と一緒に来て、ご飯食べて見学してコンサートを聴いて帰るというものだったけど、実際に来てみて、「なんかおもしろそう」って思った。それで、当時旦那さんも子供もいたけど、「私ここに滞在したい」っていきなり言い出してね。それで旦那さんを置いて、1歳の娘を連れてここで生活体験をすることにした。その後旦那さんもここに来て、ひと月という時間を木の花で過ごすことになったの。そのひと月の間に、なんかいいな、なんか大事だな、という気持ちを持って、また元の生活に戻ったんだけど、元の生活に戻った時は、別にここに移住しようなんてことは全く考えてなくて、月に1回ぐらいの感じで遊びに行けたらいいなって思ってた。
だけどその後なぜか、とんとん拍子に離婚する話になってね。旦那さんは「あなたが木の花が好きなら、そっちに行ったらいいじゃないか」って言い出して。だけどね、それは本心じゃなかったと思う。だって私がいた方がご飯も作ってもらえるし、可愛い子供もいるしさ。そんなこと本心じゃなかったんだろうけど、旦那さんという人はそんなこと言っちゃって、それで私という人は「じゃあ行く!」と言っちゃって。なんかほんとにトントン拍子にそんな話になった。木の花にひと月滞在したのは、11月から12月にかけてだったかな。その後確か3月くらいに離婚することになって、5月には木の花に移住して、ここに住み始めたね。

—— 住んでみてどうだった?

(少し笑って)自分はね、ここに住めると思ってた。だってこの生き方は大事だ、ここで生きていくんだ、と思ってたから、簡単に住めると思ってた。それで最初はご機嫌で過ごしてたんだけど、そのうちにだんだん自分のエゴというか、ボロがどんどん出てきてね。住んでみて非常に大変だ、という時期が長く続きました。自分のことをいいものだと思ってたからね。みんなから自分の心のクセを伝えてもらっても、「責められてる」って思ったり、そんな非常に性格の悪い人でした。
でも、みんなにたくさん心をかけてもらって、時間をかけてもらって、ようやくみんなが言っていることが、だんだんだんだん、ちょっとずつちょっとずつ、わかってきた。自分がどれだけ大バカものなのか、ということが、ちょっとずつちょっとずつわかってきて、自分は本当にものが見えない人なんだ、ってことが、ここにいたからわかった。自分の実態を知って、さらには世の中のこととかこの世界の仕組みとか、もっと広い世界観を教えてもらって・・・・・ありがたいね。ありがたいというか、奇跡というかね、そんな生き方に出会ったことが「すごい!」って、いつも思ってる。

ここに来なかったら、本当にちっちゃな自分の家庭の枠の中で生きてた。それを思うと本当に「ありえない人生を生きているな」と思う。でもそれが、本当の人の生きる道なんだけどね。ここに来なかったら、きっと気付かなかったろうね。だから大事、というか、当たり前のプロセスの中にいるな、って思う。

—— 辛いと思った時に、何でやめなかったの?

確かその当時の世界の人口が60億人で、ジイジがこう言ったの。「世界を変えることはできなくても、自分は変えられるんだぞ。60億分の1、地球がきれいになるんだぞ」って。それを聞いて、そうか!って思った。
もうひとつはね、その自分の悪いクセは死ぬまで続くんだぞ、って言われて、「そうなんだっΣ(´Д`; )」って思ったの。さらにはね、死んでも魂として残るんだぞ(※)、って言われて、「えーーーっっΣ(`Д´;ノ)ノ」て思って、そうか、じゃあ今やるしかないんだ、って(笑)。逃げられるものなら絶対逃げ出してたと思うけど、どこに行ってもその自分からは逃げられないんだってことがわかって、じゃあここでちゃんと心を磨くことが一番大事なんだって思ってね、ここに居続けた。その時には、世の中を良くしようとかそんな思いはなくてさ、実は。最初はね、世の中を良くしようと思ってここに来たけど、どうやら自分はそんな器のものではないということを知ってからは、もう逃げ出したいーーやだーーって思ったりもしたけど、でもここにいることが大事なんだーー、って、必死でしがみついてた。そんな感じだった。本当に、人の言うことがわからなかったからね。

※人間の一生と魂の仕組みについては、全4回シリーズの「21世紀の死生観」をご覧ください。

—— 木の花菌を仕込む時に何か心がけていることはある?

この世界はもともと美しいものだから、自分が余計なものを入れちゃいけないって思ってる。ただこの世界の仕組みのままにこれが作られれば、必ずきれいなものができる。自分はそのお手伝いをするだけで、できるだけそれそのものの、美しいまんまで仕上がるといいなって思ってる。そこに、自分は無し!

仕込みから十日目の、完成した木の花菌

これができるまでの物語もおもしろくてね。
木の花菌を作り始めたのはジイジで、その時のことをよく語ってくれるんだけど、ジイジは40歳の時にそれまでの仕事をやめて、最初は慣行農法を勉強し始めたんだよね。だけど慣行農法にはいろいろ問題があったから、有機農法に進んで、化学肥料ではなく堆肥を使うようになった。そこからさらに、もっと何か良いものはないだろうかって探していった時に、新聞の片隅に、EM菌を使ってスイカを育てている人の記事を見付けた。それで、そこに出かけて行ったところからジイジとEM菌の出会いが始まるんだけど、そこの家の近くの、何でもない道沿いの川とか、野の草とかが、キラキラして見えたんだって。これから出会うものの何かを感じて、そんなふうに世界がキラキラして見えた。何かが開かれる。そう感じたんだって。
私、そのキラキラして見えたっていうのがすごく印象深かったの。EM菌との出会いは、とても大事なものだったんだと思う。何か大事なことに出会う時に、そんなふうに世界がキラキラして見えるって、すごいよね。

そこでちょっとEM菌をもらってきて、実際に使ってみたところからいろいろ研究が始まるんだけど、とにかくいろいろ試行錯誤して、最終的に今の木の花菌ができた。私がジイジから木の花菌仕込みを引き継いでから、余計なこともいろいろやったけど、それもそぎ落とされて、結局シンプルな形に戻ったなって思う。
今年は、木の花菌を仕込むタンクを新しいものに作り変えた。木の花菌の培養には、30度72時間という温度をかける必要があるから、当初は仕込み用のお風呂場で風呂釜にお湯を張り、その中にタンクを入れて培養してたの。でも3年くらい前に専用のタンクを作ってもらって、タンクの中に加温装置を入れて培養するようになったんだ。だけどそれだとタンクの中全体が均一に温まらなくて、加温装置の周りに焦げたようなものがくっついたりしてね。それでも「せっかく作ってもらったんだから、これでやらなきゃ」と思って続けてたけど、やっぱりうまくいかなかった。

お風呂を使って培養していた初代木の花菌タンク
中に加温装置を入れた2代目木の花菌タンク

それで、もう一度前のやり方に戻そうと思って、お風呂場のやり方を再現しようとしたら、ジイジからクレームがついたの。あの頃はお風呂でやるのがその時できる最良の方法だったからそれを使っていたけど、別にそれがベストなわけじゃないんだぞ、って。お風呂では、タンクの上半分がお湯から出ていたから、温度が均一にならなかった。それで今度はタンク全体がすっぽり入るくらいの大きな容器を探してきて、それにお湯を張り、その中でタンクを温めるようにしたら、すごくうまくいくようになった。液をすくい取るのも、最後に洗うのも、前よりずっとやりやすい。

全体が均一に温まるようになった現在の木の花菌タンク

私はただ昔のお風呂と同じものを作ろうとしていたけど、そうしたらそこに進化は何もなかった。うまくいかなかった前回の装置だって、お風呂でやっていたところから進化させたということで意味があるんだってジイジが言ってた。やっぱりいろいろ考えて、試してみて、ダメだったらまた次のやり方を考えるというシンプルなことなんだよね。状況なんてどんどん変わっていくから。木の花菌は木の花菌で確立されているから、仕込む内容を変えるとかいう余計なことはしなくていいことがわかったけど、物事に対して進化させていくのはすごく大事だと思った。いつまでも同じじゃなくて、常に考えて新しいことをやってみて、結果をもらって、また考えていく。ずっと同じでもいいというものもあるんだろうけれど、今はよいものでも、いつかは賞味期限が来る。だから、何にあたるにしても、常に進化させていく姿勢が絶対に必要だって思う。今は原理原則に沿っていても、明日は違うかもしれない。

いろいろ試行錯誤があったけど、やっぱりこういう技術って、この先ますます必要になってくることだから、世の中により広がっていくようにって意識で関わっていくことが大事だと思ってるよ。

私ね、人間は愚かしいものだって思ってたの。バカなことばっかりしてさ。でも、人間を愚かしいと思いながら、その中に自分が入ってなかった。自分もその中の一員で、同じように環境を汚染したり、地球を汚してるってことはわかってなかった。
ここに来て、人間は愚かなこともするけれど、その智恵をいい方に使っていけば、いい世界を創っていくことができるってことがわかった。自分の心の向け方次第で、世界を変えることができる。それは人間にしか与えられていない能力だよね。
作物にしても、これからきっと環境はどんどん厳しくなるだろうけど、そういう厳しい時代であっても、人間の叡智を使って、いろんな作物がある中でふさわしいものを選んでいったら、うまくいくものは絶対にあって、みんなで健康に幸せに生きていくことはきっとできる。本当に、神様はいつも共にあって、みんな与えてくれていて、こういった厳しい時代でも、私たちが生きていくためのヒントは必ず常に与えられている。だから心をきれいにして、直感でそれを感じ取って、うまく利用していくだけのことだよな、って思う。これから環境がどんどん変化していくから、ますます自然から「いただく」ということをやっていかないと、人間の力で作物を育てるのもだんだん厳しくなる時代がやって来るよ。

—— ひろみちゃんにとって、農業のだいご味って何?

やっぱり土を踏んで、お日様を浴びて、作物に触れて、この世界の仕組みを感じられること。その中に生きてるんだー、って思えること。
私たちはひとつの太陽、ひとつの大地、ひとつの水、ひとつの空気、ひとつの風、ひとつの命・地球のもとに生きています ————— そう、いつも言葉で語られていることが、本当なんだって思える。土に触れているから、それが本当だって、全身で感じられる。

ここに来た時には、よくわからないけどこの生き方が大事なんだって、ただ信じる心でやってきた。でも今、その意味をわかって、確信を持って生きていくことが大事なんだって言われ始めた時から、自分なんかがここにいるのはちょっと信じられないとかそんな気持ちもあったけど、ここからいいものを世界に発信していくんだって意識を持って日々を生きていこう、って思うようになった。本当に、みんなの手を煩わせて、心をかけてもらって、今でもまだいろいろあるけど、本当にちっちゃな自分が、ちょっとずつ周りが観えてきて、人が本来生きる道が今、明快に観えてきてる。だからそこに向かっていくんだって、今は思ってるよ。

 

畑のエースの心磨きの道のりは続く!