【木の花のたより 】お米ができるまで〜天が与えたパーフェクトフード

  おなかの中から元気になろう!    

その2

 

天が与えたパーフェクトフード

お米の播種(種まき)をしました!


播種を終えた田んぼ隊 通称「田んぼファイブ」(←今つけた)

農の1年の始まりの一大イベント、米の播種(はしゅ)。日本の歴史は米の歴史、と言っても過言ではないくらい、お米は日本人の暮らしと深〜い関わりのある作物です。神話でも、高天原(たかまがはら)という天上世界で天照大御神(あまてらすおおみかみ)が育てているのは、大根でもじゃが芋でもなく、お米なのです。

お米、特に玄米は、ビタミン、ミネラル、食物繊維などなど、人間が生きていくために必要な栄養素がバランス良く含まれるパーフェクトフードと言われます。しかもお米は育てるのにあまり手間がかからず、面積当たりの収穫量が多く、収穫後の加工もいらずにすぐ食べられて、保存性も高い。さらに、水の中で育てるので、水が山の落ち葉などから染み出した豊富な栄養分をたえず運び、有害な成分は洗い出してくれるので、畑の作物のように連作障害(※)が起きず、同じ場所でずっと作り続けることができます。
ほかにもお米のスゴさを語り出したら切りがない!まさしく、天の恵みの象徴のような作物なのです。

※連作障害
同じ場所で同じ作物を作り続けることで、土中に特定の養分が不足したり病気が発生するなど、作物の生育が悪くなること。

と、前置きはさておき、
そんなお米の播種のようすをご紹介します( ≧▽≦ )ノ

 
お米の播種の流れ

当日、朝6時半に田んぼ隊は育苗用のビニールハウスに集合。
お米の播種は、天の恵みを地上に芽吹かせる、言わばご神事の事始め。まずは心身を整え場を清めるべく、カタカムナ第5首、第6首を奏上。


カタカムナを奏上する田んぼ隊。カタカムナについてはこちらをどうぞ。

そして播種機に、予めふるいにかけて砂利などを取り除き、PHやEC(電気伝導度)を適正値に調整した育苗用の土と、種もみを投入。

播種機。ベルトコンベアー式に、育苗のトレーが左から右へ流れます。

こちらが種もみ。小さな芽が出ているのが見えるでしょうか。

実は種もみは、播種の2週間ほど前から「温湯種子消毒」というお湯を使った消毒を行い、予め「催芽(芽出し)」をしています。これによって、農薬を使わなくても病害虫を抑え、発芽のタイミングをそろえることができるのです。

こちらが、温湯種子消毒と催芽を担ってくれる装置、湯芽工房(ゆめこうぼう)くん。年季が入ってます(`ε´ )ゞ

まずは種もみを60度のお湯に浸して10分間殺菌し、いったんお湯から取り出して流水で冷却した後、今度は13度の水に浸して、積算温度(毎日の平均温度を足していった温度)が100度になるまで、1週間以上十分に浸種させます。

積算温度が100度を越えると芽が出始めるので、水温を30度まで上げて一気に発芽をそろえます。種もみがはと胸状態になって、1mmほど芽が出たら芽出し完了!冷たい水に入れて、それ以上芽が伸びるのを抑えます。

そしてなんと、洗濯機で脱水。

その後、カビることのないように天日で乾燥させます。

こうして準備が整った種は、播種の日まで温度5度の冷蔵庫の中で出番を待つのです。脱水機にかけられたり冷蔵庫に入れられたりしてもしっかり芽を出す、あっぱれなお米の生命力!🌾
もともと自然の世界では種が芽を出すタイミングはまちまちですがひとつの田んぼで稲の生育がバラバラではどの稲に合わせて稲刈りをすれば良いのかわからない、ということで、人間がこのように智恵を使い、発芽のタイミングをそろえるようになりました。「それでもやっぱり芽が出るタイミングはいろいろだけどね〜。まあ、人間と同じだわな」と田んぼ隊のじゅんちゃん。

さて、こうして迎えた播種日。苗のトレーを用意する人、播種機に土を入れる人、種の入ったトレーを運ぶ人、運ばれてきたトレーをハウス内に並べる人、並んだトレーに水をまく人、と、連携プレーで進んでいきます。

苗のトレーに ────

 ↓
播種機が自動で種を蒔き ────

 ↓
覆土された状態でトレーが播種機から出てきます。

 ↓
種の入ったトレーを、ハウスの中に並べていきます。

木の花ファミリーの座右の銘の一つが「畝(うね)の乱れは心の乱れ」。即ち、畑で畝をたてる時に畝がゆがんでいれば、それは心のゆがみの表れである。その精神はお米の播種にも受け継がれ、育苗トレーも一糸乱れぬ並びっぷりです。

目印のピンクの紐を張り、そこに沿ってトレーを並べます

並んだトレーにたっぷり2回水をあげたら、トレーの上に遮光性と保湿効果のある太陽シート、続いて保温性のあるホットンカバーをかけます。

こんなふうに田んぼ隊が連携プレーで播種をしていた頃、育苗ハウスから車で15分の「おひさまハウスひまわり」の厨房でも、忙しくて昼食を食べに帰って来られない田んぼ隊のために、キッチンスタッフが連携プレーでお弁当を用意していました。


特製コロッケを揚げるれいちゃん。


ピビンバを作るえいこばあちゃんと材料を運ぶはるちゃん。


出来上がった料理をお弁当箱に詰めるミホさん。

こうしてみんなの愛のこもったお弁当が田んぼ隊のもとへ✨✨

いただきまーす!(๑´ڡ`๑)

今年の米作りの抱負は、田んぼ隊曰く

「やるべきことをきちんとやる」。

去年はお米の作付けを減らしたけれど、収量は過去最高となりました。
田んぼ隊のゆうくんは言います。
「一昨年まではいろいろと新しい取り組みをやってきたけれど、去年、原点に帰り、地に足をつけて当たり前のことを当たり前にやったら、それが一番結果につながることがわかった。だから今年も、特別なことは何もしません。」
種を蒔くべきタイミングで蒔き、草を取るべきタイミングで取り、稲の声を聴き、自然の仕組みに沿って必要なことを必要なように行えば、自然はその通りの答えをちゃんと返してくれる。そういうふうに、この世界はできている、と。

昼食を食べ終わったら、しばし休けい。

休けい中、すぐ横のいちごのハウスに、いちご栽培担当のかずこちゃんがやって来ました。

日が陰って少し気温が下がったので、いちごのハウスを閉めに来たんだって。農作業隊はいつも、お天気と一緒に生きてます。


かずこちゃんの育てているいちご

無農薬でいちごを育てるのは大変なこともいろいろあって、毎年試行錯誤しているかずこちゃん。いちご栽培のコツを聴くと、やっぱり「いちごの声を聴くこと」。水は足りているか、温度はどうか、いつもいちごの顔を見ながら、自分の都合ではなくいちごの都合を最優先にして、できることをやっていく。「いちごは答えが早いから」。やってみて、答えをもらって、そこから学んでまた次のことをやる。そうやっていちごに育てられていく。


いちごハウスで飼われている蜜蜂。いちごの花の受粉をしてくれます。

かずこちゃんは趣味でアボカドやパイナップルやバナナも育てていて、バナナがこんなに大きくなったよ〜と見せてくれました。

さてさて、休けいが終わって再び播種開始。
「やるべきことをきちんとやる」方針の今年は、作付けを減らした分播種も例年より早く終了。ハウスにズラリと並んだトレーに太陽シートとホットンカバーをかけて完了です。

5日ほどしたら芽が出てくることでしょう。昔から「苗半作」と言われるように、丈夫な苗ができたら米作りの半分は終わったと言えるほど、苗作りは重要なのです。どうか今年も元気な苗が育ち、美味しいお米を届けられますように。

外に出ると、隣りのじゃが芋畑でひろみちゃんが一人黙々と土寄せをしていました。

そして家に帰ると、小雨が降り始める中、おひさまハウスひまわりの壁画をひとみちゃんが黙々と描いていました。

みんながそれぞれの場所でそれぞれの役割してます。
そんな天然循環な暮らしを表す壁画の完成も、着々と近付いているようです。

(ともこ)


 

\ お米を使ったおいしいレシピ /

米 麹 の 甘 酒


「飲む点滴」または「飲む美容液」とも言われる、米麹の甘酒。
甘酒と言えば冬のイメージがあるでしょうか。ところがなんと俳句では、甘酒は夏の季語。江戸時代の人々は栄養満点の甘酒が夏バテを予防することを知っていて、夏の名物として甘酒を売り歩いていたそうです。ちなみに、ここで言う甘酒とは酒粕で作る甘酒ではなく、米麹で作る甘酒のこと。酒粕の甘酒と違ってアルコール分がなく、お砂糖も使いません。お米のデンプン由来の自然な甘さで、酒粕の甘酒が苦手でも米麹の甘酒は好き!という人も多いのです。米麹の甘酒はオリゴ糖や食物繊維を豊富に含み、腸内の善玉菌を増やして免疫力をアップ!アミノ酸やビタミンB群、ミネラルなども豊富に含み、その成分は点滴と同じとも言われます。血行や代謝を促進して美肌効果が期待できるほか、イライラを抑制したり、老化の元となる活性酸素の発生を抑える効果もあるのだとか。そして何よりも、おいしいです(^v^)木の花ファミリーの甘酒は、天然循環法で育てたお米と自家製の米麹でできています。時間はかかるけど手間はかからず。人間が環境さえ用意すれば、あとは目には見えない微生物さんたちがおいしい甘酒を作ってくれるのです。以下、甘酒のレシピをご紹介します!

材料
・ご飯 350g
・浄水 300cc
・米麹 200g
 
作り方

  1. ご飯に浄水を加えて中火で3分ほど加熱し、少しかためのおかゆを作る。
  2. 火を止めて、おかゆを60度まで冷ます。
  3. 米麹をほぐし、おかゆとやさしく混ぜ合わせる。

    米麹と混ぜ合わせたおかゆ
  4. 3を炊飯器に入れ、温度が上がりすぎないようにフタを開けたまま、布巾をかぶせて保温。温度が55〜60度に保たれるよう調整する。

    温度が上がりすぎたら布巾をめくるなどして調整します
  5. 2時間おきにかき混ぜ、6時間でできあがり。(甘みを増したい時は8時間おいてもいいです。)

    6時間たった甘酒。お米の粒がなめらかになってとても美しいです。発酵してプクプク小さな泡が立ち、やさしい香りがします。

出来上がった甘酒は、水やぬるま湯でお好みの濃度にといてお召し上がりください。お湯が熱すぎると麹菌や栄養素が損なわれてしまうので、人肌程度の温度がオススメです。

甘酒作り担当のやーちゃん。

やーちゃん曰く、
「自分で作った甘酒だけど、飲んだ時に、なんて自己主張のない、やさしい味だろうって思ったの。きっと、米麹をほぐす時にやさしくやさしく手でほぐして、おかゆと混ぜる時もやさしく混ぜるからかなぁ。やっぱり関わる人の心が大事で、目には見えないけどいろいろあるんでしょう。だからいつもできるだけね、やさしい心で作るように心がけてます。」

古くから、神様への捧げ物ともされてきた甘酒。
そんな甘酒を、おうちで作ってみませんか。

 


 

ただ今 手作り布マスク 製作中!

まりちゃんが立ち上げた木の花ファミリーオリジナルブランド「Mari-Kono」の立体麻マスクに注文が続々で、大人ミーティングにネット中継で参加しながら夜な夜なマスクを作るメンバーたち。昼は田んぼ隊のみきちゃんも夜はマスク作りに参戦!どんなに急いで作っても、品質は落としませんよ〜!(`◇´ )ゞ

 

 


【木の花のたより】自然の恵みで免疫力アップ!こころも体も、地球も健康に

みなさん、こんにちは!
新型コロナウィルスの感染拡大により、日本でもいよいよ緊急事態宣言が出されましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
世界中でかつてない状況が起きている今、木の花ファミリーではこれを地球からのメッセージと受け取り、だからこそ、地に足をつけて大地を耕し、おなかの中から元気になる生命力いっぱいの作物をお届けしていこう!!(๑˃̵ᴗ˂̵)و  ということで、日々の畑のようすや免疫力を高めてくれる様々な作物などを、メールマガジンでご紹介してまいります。
(※この記事は、メールマガジンにて発行した内容をブログに掲載しています。)

レポーターはワタクシ、この春メンバー歴10年となりましたともこです。

普段は事務仕事してますが、ときどき畑にも出ます。畑大好き♪


体を元気にする作物は地球を元気にする木の花ファミリーでは、農薬や化学肥料を使わない天然循環法で作物を育てています。天然循環法とは、カンタンに言うと「宇宙のしくみに沿う」ってことです。

★ 天然循環法の詳細は、木の花ファミリーホームページへどうぞ

★ 木の花ファミリー通信バックナンバーでも天然循環法を紹介しています。

百聞は一見に如かず、というか一食に如かず。とにかくおいしい木の花の野菜は、野菜ギライのお子さんでもいつの間にかパクパク食べちゃうくらいなのです。
宇宙の仕組みのままにのびのび育った作物は、作物本来の豊かな生命力にあふれています。「人を良くする」と書いて「食」。食べ物には本来、人を良くする力があり、私たちは食べることで健康を与えられています。

ところがいつしか水や土壌の汚染原因No.1となってしまった、現代の農業。そこで生まれる食べ物は、人を良くするよりも、人に、そして地球にも、害をもたらすものになってしまったのかもしれません。
今、新型ウィルスの拡散によってこれまでの社会を築いてきた価値観が大きく揺らぎ始めています。私たちは、根本的に生き方を見直す必要がある。そのことを、ウィルスが教えてくれているように思えるのです。
生きていく上で本当に大切なものは何か。自然はいつもそのことを私たちに教えてくれます。その自然の声に耳を傾けながら、人を良くする本物の食べ物を世の中に届けていこう。そんな思いで、日々野菜やお米を育てています。

ではでは、ただ今育苗ハウス内で次々と芽吹き始めた
元気な夏野菜の苗たちをご紹介します!
ナス


ピーマン


トマト オーケストラの指揮者のよう(๑´ㅂ`๑)


トウモロコシ


スイカ


夏野菜じゃないけど、キャベツ。6月ごろに収穫です。


リーフレタス


こちらは秋に収穫の落花生。こんなふうに芽が出て ────
⬇︎

「呼ばれてとび出てジャジャジャジャーン」というフレーズがどうしても思い浮かぶ・・・

みんなお日さまに向かってヤッホーって手を広げているみたいに見えます。ヽ( ≧▽≦ )ノ

野菜以外に、お花もいろいろあります。

ビオラ。食べられるので、お料理の飾りとしても活躍!


サボテンその他いろいろ


こちらは種取り用の菜花

この季節、育苗ハウスの中はとっても賑やかです。
温かいハウスの中で十分に育ったら、苗たちはいよいよ畑へデビュー。
その成長のようすを、これからもお届けしていきますね〜!(ともこ)

 


 

おなかの中から元気になろう! 

その1  レンコン


レンコン栽培担当のジイジ

3年前から栽培を始めて、今やすっかり木の花名物となったレンコン。その美味しさはもちろんのこと、土の中からレンコンを掘り出す作業がまたおもしろい!見えないレンコンがどのように伸びているかを想像しながら傷つけないように土を掘っていく作業は、まるで遺跡の発掘です。


新型ウィルスで学校が休みになった子どもたちにも、レンコン掘りは大人気♪

レンコンにはビタミンCや食物繊維、タンニン、カリウムなどの栄養素が含まれ、古くから薬用としても用いられてきたといいます。レンコンが豊作だった今年は木の花でもたくさんレンコンを食べましたが、それが関係あるのかどうか、今年はビックリするくらい風邪を引く人が少なかったのです。


こんなのが土の中に潜んでます (๑´ڡ`๑)

レンコンは特に皮と節に抗酸化成分が多いと言われます。
そこでっ。
この豊作のレンコンを、皮も節もまるごとパウダーにしちゃいました!

レンコンの1日の理想的な摂取量は約100gですが、パウダーなら大さじ1杯。いつものお料理やお味噌汁などに混ぜて、さっと食べられます。クセがなく、乳酸菌と相性がいいのでヨーグルトに混ぜたり、パンやお菓子作り、ハンバーグなどのつなぎとしても使える!
お湯にレンコンパウダーとはちみつをスプーン1杯ずつ溶かした「レンコンはちみつドリンク」も、手軽に楽しめてオススメです。お好みでしょうがパウダーを混ぜても美味しいですよ。


レンコンはちみつドリンク。美味しい💕 生はちみつを入れる場合は、酵素が死なないようにぬるま湯で作るといいです。

レンコンパウダーは、木の花ファミリー直営店のカフェ&ショップ ロータスランドや、富士宮市の農産物直売所・大富士さんで販売されている他、ネットショップでもご注文いただけます。豊かな自然の恵みをそのまま、皆さまへお届けします!

50g 600円
200g 2100円

 

ただ今、今年のレンコン定植が進行中です。ご好評につき、今年はさらに作付けを増やしました。秋には、イチゴ狩りならぬレンコン掘り体験ができるようになりますよ〜。どうぞお楽しみに ★


泥の中でのレンコン定植は、日頃から田んぼを歩き慣れている田んぼ隊が担当です

 


  よ り 🌱
野菜の収穫担当のゆうこちゃんが、畑のようすをお届けします

満開の花畑!!

これは何の花だと思いますか?

実はブロッコリーなんです 🥦

花畑の中ではブーンと音がして、小さなハチさんがせっせと蜜を集めています。お花は食べるとほんのり甘いので、サラダの飾りに使ってもいい感じなんです。
私たちがふだん食べているブロッコリーのつぶつぶは、このお花のつぼみなんですよ。


中心の大きなブロッコリーを収穫した後は、脇から生えてくる小さな脇芽をせっせと収穫します。これが大きくなるとお花になるのです。


お花はロータスランドメニューの飾りとしても活躍。写真は「レインボーオムライス」。ソースの赤はトマト、白は玉ねぎ、ピンクはビーツ、緑は小松菜などの青菜の色を活かしています。

以上、収穫隊のゆうこちゃんからでした(^v^)


「畑でいつもいろんなお花見してるよ」とゆうこちゃん。絹さや畑より。


 

皆さまへ

新型コロナウィルス感染拡大に伴い

木の花ファミリーでは現在

ご訪問の受付を一時的に休止させて頂いております。

けれどもこれからも元気な食べ物を作り続け、

皆さまの元へお届けしてまいります。

どうか心も体も

地球も元気になりますように ────

 

 

 


木の花ファミリー通信2020年春分号 〜 マツリとは

 

あなたはこの視点に

どこまでついてこられますか?

 

大いなる軌道修正へ突入した世界

今、もはや人間が思い通りにできない状況が、地球規模で起きています。

新型ウィルスの拡散によって世界中が混乱に陥りながら、未だ有効な手立ては見出せず、これまで当たり前であったことが当たり前ではなくなる時代が始まりました。人々は経済の停滞を憂い、社会には、これからどう生きていけば良いのかという不安が蔓延しています。しかし、どう生きたら良いかわからないのは、自らの存在の本質を見失っているからです。

文明の発祥以来、人類はその高い能力を発揮し、地球的には短期間でありながら、劇的な進歩を遂げました。不足があればそれらを超えるものを次々と生み出し、世界を都合の良いように創り変え、その歩みは今や、地球に接近する隕石を打ち砕くための核ミサイルまでも開発するほどです。けれども、本来宇宙が人間の行いについて否定しようとしていることに対し、人工の力でそれを回避すればするほど、人間は自信過剰となり、自らの行いを正しいものとして傲慢になっていくのです。その傲慢な振る舞いの結果が、問題ごとで溢れかえった今の世の中であり、宇宙はいよいよ、人間の傲慢を打ち砕くために動き始めました。なぜなら私たちはこの世界の創造主ではなく、創造主の意思によって生み出された創造物であり、創造物は創造主の意思を反映し、それを実現していくことが、唯一宇宙で生きる道だからです。

太古の昔、人間は、自然の枠組みの中で命を頂いて生きていました。厳しい自然の中で天がもたらす実りによって命をつなぎ、この世界の大いなる意思の元に自らが生かされていることへ感謝し、自ずと自然や宇宙への信仰が生まれました。人々は天が恵みをもたらしてくれますように、荒ぶる自然が鎮まりますようにと祈り、儀式を行うようになりました。自然に敬意を払い、心からの祈りを捧げ、神々と対話し、天の意向の元に地上を生きることを確認していたのです。これが祭りの始まりです。

「政」と書いて、「まつりごと」と読みます。政治とは本来、地上を生きる人間が天にお伺いを立て、その意向を受け取り、天の意思を地上に表現することです。ところが現代は、政治を司る者も、それを評価する者も、それぞれの立場を主張し、互いを打ち消し合い、際限なく膨らんでいく欲望を叶えることが目的となっています。その人々の意識には、天の存在はありません。そして今、世の中がこれほどの事態に陥っても、人々は未だ自らに都合の良いように問題の解決を図ろうとしており、その結果どこにも解決策を見出せない迷路に入り込んでいるのです。

そのような世の中にあって、富士の麓で、ある祭りが始まりました。文明の発祥から連綿とつながる6500年の人類の歩みが大いなる軌道修正の時を迎えた今、時代の意思のもと、行き先を見失った世界へ魂を吹き込むこの祭りは、名を「富士浅間木の花祭り」と言います。それでは、この祭りの誕生の背後にある時代の流れをみてみましょう。

 

富士浅間木の花祭り

愛知県の奥三河地方の山村にて

700年間受け継がれてきたと云われる

国の重要無形民俗文化財「花祭り」を

秘められた予言の通り富士の地で継承し

発展させた祭りです

 

 

光から闇へ向かう時代

私たちの生きる太陽系の中心である太陽は、銀河の中心であるセントラルサンの周りを、螺旋を描きながら周り続けています。その1螺旋のサイクルは25800年です。地球が太陽の周りを1周する間に夏至と冬至を迎えるように、太陽系もまた、1螺旋の間に夏至と冬至を迎え、最も光が強まる光のピークを「銀河の夏至」、最も光が弱まる闇のピークを「銀河の冬至」と言います。その光とは、セントラルサンから発せられる霊的な光のことです。

太陽系生命である私たちの肉体は、太陽から発せられる物理的な光が元となり、成立しています。宇宙の万物は全て、相反する性質を持つものが互いを成り立たせ合う陰陽の対向発生によって存在しており、私たち生命の物理性を陽とするならば、それに対向する陰は、霊性です。それは目には見えないセントラルサンから発せられる霊的な光のことです。セントラルサンは天の川銀河の年老いた恒星たち、即ち宇宙の叡智の集合体であり、そこから発せられる光は叡智の光なのです。

12900年前、太陽系はこの霊的な光のピークを迎え、そこから銀河の冬至へ向かうに従い光が徐々に失われ、闇が深くなっていきました。叡智の光を失うとは、宇宙の本質を感じ取る直感力が失われ、物事が観えなくなっていくということです。光から闇のピークへ向かう中間点にあたるおよそ6450年前より、地球上に現代文明の元となる文明が発祥し、人間は天の意思に沿うよりも、自らに都合の良いように世界を創り変え、天智ではなく人知によって地上を治めるようになりました。そして宇宙の本質から大きく外れていった結果、日本では、封建時代から戦国時代へと向かう流れの始まりにあたるおよそ800年前より、人々が真実を見失い混乱の中に生きる「末法の世」が始まったのです。

 

真の男性性と女性性の封印

神とは、この世界の仕組みである物理性を顕す存在を言います。太陽は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の顕れです。天の道理の柱を降ろし、太陽系の全ての存在の基軸となる太陽は、男性性のはたらきを顕します。これに対向発生する女性性のはたらきが、天照大御神の妻神、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)です。水の女神である瀬織津姫命は、天照大御神の示す天の道理を柱として横に広がる回転を起こし、世界に現象化(生命活動)を起こします。この陰陽の対向発生により、世界が創造されていくのです。

ところが時代が光から闇へと向かう中で、いつの頃からか天照大御神は女性神として祀られるようになり、天の道理で地上を治める真の男性性が封印され、力で支配する間違った男性性が世に横行することとなりました。同時に、妻神である瀬織津姫命も封印されることで真の女性性も失われ、逆さまとなった世の中では間違いが正しいこととなり、曲事(まがごと)が蔓延するようになったのです。

 

国を守護する花祭り

時代がいよいよ闇のピークへと近付いたおよそ700年前のこと。曲事が蔓延し天の道理が忘れられていく末法の世の始まりにおいて、地上世界の乱れを諫め国を守護するために、熊野の修験道たちは、熊野の艮(うしとら=北東)の方角にあたる天龍水系を鬼門とし、その地にある奥三河で、地上を生きる人々のあるべき姿を示す祭りを始めました。これが花祭りの始まりとなったのです。この世の災いは人間の犯した罪や穢れによるものであるとし、自らを正し新たな自己へと再生することの大切さを歌や踊りで表現したこの祭りは、一年で最も暗く寒い時期に行われました。大地を踏んで舞い踊り、地中に眠る生命力を呼び覚まし、穢れを祓い清め空の器となった人々へ神々が降臨し、共に舞い踊る。その奥には、自我にまみれ自らの本質を忘れた人間たちへ目覚めを促す、深いメッセージが込められていました。

地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀る熊野権現の奥の院にあたる玉置神社、太陽神・天照大御神を祀る伊勢皇大神宮、そして太陽に対して月を表す瀬織津姫命を祀る奥三河の槻(つき)神社は、坤(ひつじさる=南西)から艮へ向けて見事に一直線を描き、その延長線上には富士山があります。世の中が闇のピークへと突き進む中、国の象徴である伊勢皇大神宮をはさみ、奥三河の山村で受け継がれてきたこの祭りは、いつの日か富士の地にその真の精神が受け継がれ、花開くことが予言されていたのです。

 

 

榊鬼と翁の問答


花祭りには多くの鬼が登場します。鬼は天の仕組みを地上に顕す、神の化身です。中でも最も重要な存在である榊鬼 (さかきおに) は、祭りの中で、人間の代表である翁 (おきな) と問答を行います。



やいやい、伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給う木の花の御庭を、事どもしき姿をして舞荒らすは、何たら何者にてさむらう。

榊鬼
吾が身が事にてさむらう。


なかなか、汝が事にてさむらう。

榊鬼
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗、愛宕山の小天狗、山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは吾等がことにてさむらう。


事にてさむらうは何万歳をへたるとや。

榊鬼
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや。


法は九善、神は十善、神の位をもって十二万歳をへたるとや。神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼
まことか。


まことに。

〈榊鬼と翁は榊の枝を引き合う。〉

榊鬼
この榊と申するは、山の神は三千宮、一本は千本、千本は万本と、千枝百枝までも惜しみ給うこの榊を、だれが許しを得て切り迎えとったとや。


伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間、所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊、引き取ったならば、是より艮、木の花の富士の山が立ってまします、それを汝の褒美にとらす。

榊鬼
まことか。


まことに。

〈両者 榊の枝を引きながら共に歌う〉

榊鬼 翁
ありがたや まことの神行か 扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

〈引き合っていた榊の枝を翁が勝ち取り、祭場中央の湯釜へ投げ入れる。榊を手放した榊鬼は、艮の方位(方角)へと退く。〉


榊鬼と翁の問答

人間に地上の政を託した榊鬼

榊鬼は、遥か昔に封印された地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)の化身です。地上に天の道理の柱を立て、曲事を許さない大変厳しい存在であったこの神様は、勝手気ままな八百万の神々に疎まれ、遥か昔に艮の方角へ封印されました。それ以来、地上は荒れ放題となったのです。それでも年に一度、最も闇の深い時に、地球神は鬼の姿をして顕れては、人々に自らの心の闇と向き合い、光へ向かうことの大切さを説いてきました。しかし自らの闇と向き合うことを避ける人々は、鬼こそが災いの元であるとし、艮の方角を鬼門として恐れ「鬼は外」と豆をまいて追い払う、逆さまの世が続いてきたのでした。

榊鬼は大地に命を芽吹かせ、生命の多様性を生み出し、天の道理を降ろすことで地上に秩序をもたらします。秩序とは調和です。多種多様な生命が調和のもとに循環する豊かな命の世界を地球上に築いた榊鬼は、祭りの中で、榊の枝を手にした翁と問答を行います。翁は榊鬼に対し、自身がいかに優れたものであるかを語り、「神行のためには榊を引いて帰れ」、つまり本当に神の道を行くならばこの榊の枝を引き取ってみろ、と仕掛けるのです。

「神の木」と書く榊は、地上の支配権(政=まつりごと)の象徴です。翁は、榊の枝を引き取ることができたなら、艮の方角にある富士の山を褒美にやろうと言います。そして榊の枝を引き合った結果、翁が榊を勝ち取ります。つまり、人間が地上の支配権を手に入れたのです。

しかし榊鬼は、負けたわけではありませんでした。自らが天の創造物であることを忘れ、宇宙の法を無視し、まるで自身が創造主であるかのように都合良く世界を創り変えながら、自らを振り返る意志のない人間たちに、「ならばやってみるが良い」と地上の政を託したのです。その結果更なる曲事が横行し、闇のピークに向かって地上は混乱を極めていきました。艮の方角へ退いた榊鬼は、そんな地上の様子をずっと見守っていたのでした。

花祭りの問答には「伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間」という文言が繰り返し出てきます。2012年12月21日、太陽系は銀河の冬至を越え、闇が増していく時代から光が増していく時代へと舵を切りました。セントラルサンの霊的な光が差し始める中、「もはや曲事はならぬ」と封印を解かれた地球神が、問答の中で予言されていた富士浅間の地で復活し、新たな時代の幕開けを宣言するのです。

 


※奥三河では十以上の地区でそれぞれ独自の花祭りが行われており、問答も地区ごとに多少の違いがあります。上記は、奥三河の榊鬼と翁の問答を元にした富士浅間木の花祭り独自のものです。


 

大 和 の 御 魂 を 呼 び 覚 ま し

真 の 世 が  開 く

銀河の冬至が開けた2013年より、奥三河の花祭りの流れを受け継ぎ、富士のふもとにて富士浅間木の花祭りが始まりました。

闇のピークを越え、光が差し始めた新たな時代の幕開けを祝うこの祭りは、「ヒフミヨイムナヤコト」という数理によって顕される、「ヒ」から始まり「ト」で統合する宇宙創成の物語を、全体を通して表現しています。

祭場となる木の花ファミリーの「おひさまハウスひまわり」は、坤(南西)の方角に小高い丘があり、艮(北東)の方角に松の木があります。それは偶然にも、祭り第一日目に執り行われる神事の「高根祭り」と「辻固め」を行うのにふさわしい場所であることが、祭りを継承した後に明らかになりました。

 高根祭り 
祭場の坤の方角の小高い場所に結界を張り、上空から来る低級霊の侵入を防ぐ神事。富士浅間木の花祭りでは、国之常立尊(くにのとこたちのみこと)の妻神である豊雲野大神(とよくものおおかみ=坤の金神)を召喚する。

 辻固め 
元来は祭場の艮の方角に結界を張る神事だが、富士浅間木の花祭りでは結界を張ると同時に国之常立尊(艮の金神)を召喚する。「木」に「公」と書く松は公の心、即ち全体性を示しており、艮の金神の復活により花開く弥勒の世は、別名「松の世」とも称される。

 

四本の柱に囲まれた舞庭(まいど)と呼ばれる祭場の中央には釜戸があります。

  天照大御神のはたらき
釜戸に入れる火は、祭り第一日目の始まりに行われる「採火式」にて、太陽の光から起こされます。太陽とは、天照大御神の霊性の顕れです。封印されていた妻神・瀬織津姫命の復活と共に、天照大御神もまた封印を解かれ本来の男性神としてよみがえり、陰陽が正しく統合し、逆さまであった世の中へ真の男性性と女性性が復活します。火は祭りの間中絶えることなく燃焼し続け、祭りに天地を貫く揺るぎのない霊的な柱を通します。

  瀬織津姫命のはたらき
富士浅間木の花祭りでは、祭りの趣旨に共鳴する日本全国及び世界中から届く各地の川や滝、寺院・寺社等で汲み上げられたご清水を、舞庭の中央にある釜へ注ぎ、ひとつに融合します。そして祭りの中で、封印されていた水の女神・瀬織津姫命が復活します。水は太陽から降ろされた火(天照大御神)に焚かれることで制御され、火がもたらす縦の霊性のエネルギー(陰)を柱として、横に回転する現象化のエネルギー(陽)を起こします。

(カ)(ミ)が合わさり(カミ)となる
水は、響きを転写します。世界中の水が集まるということは、世界中の波動や、穢れも集まることになります。水は生命の発生と存続に欠かせないものであり、生命を清める存在でもありますが、その水が今、人間によって酷く汚されているのです。
祭りの中で、様々な響きを持つ世界の水はひとつに溶け合い、天から降ろされた聖なる火で焚かれます。水という現象世界の象徴(陽)に、天から降りた火の揺るぎない霊性の柱(陰)を通すことで、水は秩序ある働きを取り戻し、清められます。それは、昼の太陽である天照大御神と、夜の月を表す瀬織津姫命の統合を表し、二神が正しく対向発生することで地上に豊かな恵みがもたらされるのです。その聖なる火と水の周りを神々の依り代となった舞手と共に人々が繰り返し舞い踊ることで、柱はさらに太く力強くなり、神人和合の喜びと調和の響きが水へ転写されます。調和の響きに満たされた水は、祭事の後の「お水送り」の儀式にて川へと還され、再び地球を巡っていくのです。

 

祭事の流れ

祭り第一日目の神事にて場が整えられた後、第二日目の祭事では、朝から晩まで様々な舞手が観客と混然一体となり舞い踊ります。舞手は神々の降臨する依り代です。繰り返し繰り返し舞うことで、人々は自我から解放(マツリ)され、囚われのない天地一体の境地となるのです。

 

楽の舞(撥の舞)

祭事が宇宙創成の現象化の物語(陽)を表しているのに対し、その現象化を起こす「思い」の段階(陰)における神事の総仕上げとなる舞。神事を司る花太夫(はなだゆう)が、祭事の柱となる太鼓の撥(ばち)を手にして舞い踊り、撥に魂入れをする。


全ての始まりに響き(言葉)あり
神座の中央に位置する太鼓は、全ての舞の進行の基軸となる祭事の要。その太鼓の中心を、神の宿る撥が打つことで魂が吹き込まれ、高次の響きが発生し、宇宙創造の始まりを宣言する。この物理性により、宇宙の創造の意味を示す。


 

一の舞

万物が現象化していく始まりの「ヒ」にあたる、一人の舞。ヒとは火であり、日でもある。地球の創成では大地が生まれる以前の火の海である超原始地球の段階であり、静から動、無から有への出発点となる。

 

地固め

始まりの「ヒ」から相反する二物へと分かれた、二人の舞。海から地が生み出され、その地を踏み固め、固定する。男女が舞う「地固め・扇」は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)を表し、相反する二物が互いを成り立たせ引き合う対向発生により、地上世界が創造されていく。

 

山見鬼

固められた平坦な大地にしわを寄せて山を創り、割り開いて谷を創り、気候の変動をもたらし、自然のダイナミズムを生み出す、力強いエネルギーの象徴。その化身は須佐之男命(すさのおのみこと)と云われ、地上に生命誕生の土台を築く。

 

花の舞

稚児の舞とも呼ばれる、幼い子ども達による舞。花とは生まれ変わった新しい命のこと。幼子は穢れのない清い存在であり、土を踏んで穢れないよう大人に抱きかかえられ舞庭に入場する。

 

榊鬼

榊鬼は、遥か昔に封印された地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)。大地に眠る生命力を呼び覚まし、地上に命を芽吹かせて、生命の多様性(地球生命生態系の元)をもたらす。反閇(へんべ)という大地を踏む所作では、五芒星を描き中心に魂を入れることで天の道理を地に降ろし、多様性の表現された生命世界へ魂を吹き込む。人間の代表である翁と問答を行った榊鬼は、地上の支配権(榊)を人間に明け渡し、艮の方角へと引き下がる。これより人間の支配する地上世界が始まる。

 

三つ舞

少年少女による三人の舞で、三神の舞とも云われる。神幽顕、天地人等、物事を構成する基本要素は三位一体で表され、ヒで秘かに始まりフで震えていたエネルギーがミに至ると安定する。目には見えないが心で感じられる霊的エネルギー(電気・磁気・力)が満ちている状態。

 

四つ舞

三つ舞より熟練した舞手による、四人の舞。満ちたエネルギーが横方向へと広がり、四方が現れ、拡張と収縮の正反四相の働きにより、調和した現象(地球生命生態系の循環)が地上に顕れる。

 

岩戸開き

すりこ木やしゃもじを手にしたひょっとことおかめが、面白おかしく舞い踊り、観客の顔に味噌や米を塗り回る。味噌と米は生態系の循環がもたらす豊かな恵みの象徴であり、地上の人々が食べることに困らぬようにとの意味が込められている。こうして地上が陽気に賑わうことで、天の岩戸開きとなる。

 

天地 (あめつち) の舞

岩戸が開き、封印されていた水の神・瀬織津姫命が現れ、雨(天のしずく)を地に落とす。女神である瀬織津姫命の復活は、同じく封印されていた天照大御神の男性性の復活をも表しており、失われし真の女性性と真の男性性が世に再び現れる、新たな時代の幕開けにつながる。

 

金神の舞

人間に地上の支配権を明け渡した後も、山に籠り地上の様子を見守っていた地球神(榊鬼)は、新たな時代の幕開けを宣言するため、鬼から神へと姿を変え、光り輝く艮の金神(うしとらのこんじん)として地上に現れる。金神は再び翁と問答を行い、人間は地上を生きることが天と共にあることに目覚め、地上の支配権の象徴である榊を天へと返す。この神人和合の精神により、地上に「弥勒の世」が花開く。

 

このはな八重の舞

世界の五色人を表す五色の衣をまとった男女八人が舞い、世界の平和と調和を表す。金神の復活により真実に目覚めた人々が、命の喜びを八方宇宙へ響かせ、うれしたのしと舞い踊り、一人ひとりの「個の花」を咲かせ、飽和と安定(ヤ)を超え(コ)て転がり(コ)出ることで、弥勒の世(統合=ト)となる地上世界をダイナミックに表現する。

 

茂吉鬼

破壊と豊穣を司る大黒天の化身の茂吉鬼が、天井の湯葢(ゆぶた)に吊るされた「蜂巣(はちす)」というお宝の入った袋を払い落とす。蜂巣とは蓮の花托(かたく)、即ち天上世界を表し、地上の古い仕組みを壊すことで天の恵みが地へ降ろされ、地上天国の創造へとつながっていく。地に降り注いだ豊かな恵みを、人々は拾い集め、皆で分かち合う。

 

湯ばやし

天の仕組みが顕れた地上で、聖なる火と世界の清水が統合する釜の周りを、四人の若者が舞手となって観客と共に舞い踊る。釜の周りを繰り返し回り続けることで人々の心も融合し、水はさらに清められ、最後に舞手がその水を勢いよく場内に振りまき、清らかな響きが世界へと放たれる。人々もまた清水を浴び、新たな自らへと生まれ変わる。

 

獅子舞

清まった場内を祝いの獅子が練り歩き、場や人々を重ねて祓い清め、舞い踊ることで祭事は締めくくられ、「お仕舞い」となる。これより以降、神返しの神事となる。

 

 

艮の金神と翁の問答


岩戸開きによって現れた瀬織津姫命が、男性性を取り戻した天照大御神と正しい陰陽の統合を果たすと、地上にあるべき男女の姿が示され、豊かな実りがもたらされます。そこに、封印を解かれ鬼から神へと姿を変えた地球神・国之常立尊が、光り輝く艮の金神として現れ、人間の代表である翁と再び問答を行います。



伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間。ところは当所の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方(ほう)は、艮の金神と申す。時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世。


艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに代わりたる、新たな仕組み始まれり。縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみひと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹に真(まこと)を据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。


引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
一度は渡したその榊。天の元に供えられい。

〈翁が榊の枝を金神の腰に差し、根付きの榊を金神に渡す。金神、反閇(へんべ)を踏む。〉

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、うれしうれし、たのしたのしの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。

〈金神、カタカムナ第五首、第六首を奏上しながら、舞う。〉

ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ
ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ

金神
真(まこと)の神が現れる。神人(かみひと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

 

最も寒さの厳しい時に

生きとし生けるものはすべて、大地と共にあります。春に芽吹いた命は、夏に大きく成長し、秋に実り、冬は静かに次のサイクルへ向けての準備をする。太陽と月、そして星々の対話が地上に命のサイクルを刻み、私たち人間も、他のあらゆる生命も、その大いなる循環の中で生かされています。私たちは大地によって育まれた、地球(国之常立尊)の化身なのです。

現代を生きる人々の日々の意識は、土から遠く離れています。実体のないマネーゲームやテクノロジーの中に生き、自分たちの思い通りに地上を支配しようとした結果、今や人間は、自らの創り出したものに支配されようとしています。そのような中、富士の麓で土を耕し、星々の紡ぐサイクルに沿い、大地と共に生きることを何よりも大切にしながら日々の暮らしを送る人々のもとへ、この祭りは受け継がれました。祭りは、一年で最も寒く生命力の衰える時に開催されます。人々は命への感謝を捧げ、自然の成り立ちの背後に存在する神々と意識を共振させ、皆で歌い舞い踊り、自らの穢れを祓い清め魂を再生させることで、新たな命のサイクルの始まりである立春を迎えるのです。

 

時、いよいよ来たれり

2012年12月21日、太陽系は銀河の冬至を迎え、それまでの闇に向かうサイクルから光へ向かうサイクルへと舵が切られました。闇に向かう時代には、人々は真実が何であるのかが観えず、正しいと思ってやることが間違いを生み、地球上にたくさんの矛盾を積み重ねてきました。しかし、闇のピークを越え、かすかに光が差し始めた今、これまで行ってきたことの実態が徐々に照らし出され、現象として示される時が来たのです。この時代の大いなる転換の時、封印されていた地球神が「時、いよいよ来たれり」と艮の金神として再び世に現れたのです。

艮の金神は「地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)の始まりを宣言します。文明の発祥から6000年以上に渡り、人間たちがより豊かな国創りを目指し人知を尽くしてきた結果、自分さえよければいい「我よし」、力あるものが他をねじ伏せる「力よし」が世に逆巻き、自らを賢いと思う者が間違いを生む「あやま知」が地上を支配するようになりました。金神は、そのような人間の有様を天の意思に転換する、六千歳(6000年)のたてなおしが始まったことを宣言するのです。

「こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事」とは、このたてなおしは始まりの時から決まっていたということです。かつて榊鬼は地上の政(まつりごと)を人間に託し、艮の方角へと退きました。それは、人間が自分たちの力を過信し酔いしれている間は真実がわからないため、そのまま進むとどうなるかを身をもって体験することで、納得させる必要があったからです。その結果、地上は問題ごとで溢れかえることになりましたが、人間たちは「鬼は外、福は内」と豆をまき、問題ごとの根本原因である自らの心の闇を観ることを促す鬼を悪者として追い払い、都合の良い福だけを招き入れてきました。そのような福を招き入れてきた結果、人間は世界に何をもたらしてきたのでしょう。すべてが天意と逆さまの世となった今、その原因でありながら自らを振り返らない人間たちへ、金神は「どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくり返すぞよ」と告げるのです。

 

神の使える器となる

「マツリ」をカタカムナで紐解くと、球の中(マ)に高次限定空間の集い(ツ)が発生し、それが分離(リ)していると読み解くことができます。即ち、自我に囚われている人間が、その自我から分離して器が空となり、高次の空間で「どうぞこの器をお使いください」と天の受け皿となっている状態です。自らの中が自我の思いでいっぱいの時には天の入る余地はありませんが、空の器となった時、その中心に天が魂を入れます。魂が入るとは、自らの中に天の道理の柱が立つ、つまり、宇宙の法(神の心)を柱として地上を生きることです。

「汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ」とは、日は火(カ)、即ち男性性を表し、月は水(ミ)、即ち女性性を表しており、この正しい陰陽の統合の先にある命(神が現象化した姿)が生まれ出ることを示しています。私たちはこの神聖なる宇宙の仕組みに基づき、肉体という空の器を穢れのない状態で与えられ、そこに宇宙の法の柱を降ろし生きていくのが本来の姿なのです。宇宙にある無数の星々が遍く連鎖し世界が成り立っているように、私たちの体が多種多様な機能の集積によって命として存在しているように、宇宙はつながることによって成立しており、その大本にあるのは善意と愛、そして調和です。私たち人間がその宇宙の法を柱として地上を生きた時、天の仕組みが地に降ろされ、地上天国が実現するのです。政(まつりごと)とは本来、人間の歪んだ自我を表現し欲望を満たすことではなく、汚れのない無垢な器となった人間が天の仕組みで地上を生きることなのです。

 

魔釣りから真釣りへ

今の世の中は、天の存在を忘れ自我にまみれた人間たちが魔を釣り上げる「魔釣りの世となりました。富士浅間木の花祭りでは世界中の水を集めて清め、清まった水をまた地球へと還します。この大事を行ずるには、美しく清らかな心で臨むことが大切であり、祭りを執り行う者は常日頃からの精進が求められるのです。

金神は、宇宙の創世から消滅までの物語を48音で表したカタカムナのウタヒ第五首、第六首を奏上し、舞い踊ります。そのウタヒには、宇宙発生の大本の響きが込められています。「始めに言葉(響き)あり」と言うように、この世界は大本の言葉(思念)から発生しています。その大本の言葉を元として広がった現代の言葉は、今、とても汚れています。言葉が汚れているのは、それを発する人間の心が汚れているからです。自我の思惑や嘘で汚れた言葉が世界を創り、その汚れた世界が生命の源である水を汚し、命を汚していきます。汚れた言葉を発することは、汚れた響きを宇宙に発信することであり、その蓄積が今の世の中の矛盾の源泉となっているのです。

金神は宇宙の大本である48音の音霊(おとだま)を響かせ、現代の汚れた言葉を清めます。それは、行き過ぎた物理性を霊性をもって制御し、物理性と霊性の統合した調和の時代となることを求めているのです。その大本の心は「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」。人がこの世界に生み出された真の目的に目覚め、自我から生まれる汚れを取り去り、天と共に世界を創造していく意志を持った時、魔に代わって真(まこと)が入る「真釣り」の世が始まります。それは、人間が地上で真を生きることにより、宇宙の求める真の姿に地球を返すこととなるのです。

 

天教山より 弥勒の世が花開く

新たな時代の到来を宣言した金神は、人間の代表である翁にこう告げます。「この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ」。天教山とは天の教えが降りる山、富士山のことです。日の本とは日の当たるところ、つまり地球全体のことです。天から富士山へ降りた教えは地中に潜り、マグマ(火)を通って地球の魂の意向を乗せ、地教山(地球上の生命のあるべき姿を示す山)であるヒマラヤから地上へ噴き出します。その教えは命の水の響きとなり、ガンジスの河を下り、全世界へと広がっていくのです。末法の世の始まりに奥三河の山中で始まったこの祭りには、いつの日か富士の地へ祭りの精神が受け継がれ、その教えが世界に向けて花開いていくことが予言として込められていたのです。

金神の心を受け取った翁は、かつて榊鬼から引き取った榊の枝と共に、大きな根付きの榊を金神へ返します。それは、心の底から地上の支配権を天へ返すことを表しています。そしてそれは、天と共に地上を生きる意志に揺るぎがないことの誓いの証でもあるのです。「真(まこと)の神が現れる」とは、宇宙創造の根本原理が人間の行いに顕現すること。「神人(かみひと)共に現れる」とは、腹に真を据えた人々が神の顕れとして地上を生きることを意味し、これこそが天地一体の精神を有する人々の姿であり、真の意味での生まれ変わりなのです。花祭りは魂の再生の祭りであり、「花」とは、新たに生まれ変わった清らかで美しい命が花開くことを示しているのです。

もしも本当に人間たちが花開いたならば、人間だけでなく、そのことを待っていた動物や植物、微生物、水や土や空気や風や、太陽や宇宙の星々までも、この世界の全ての生命たちが喜び、うれしうれし、たのしたのしと舞い踊ることでしょう。そのように皆が共に喜び、笑い、愛し合う時代が到来したことを、復活した地球神・艮の金神は告げているのです。

 

 

 

命あふれる奇跡の星 地球の上で

これは地球史の、クライマックスと言える物語です。

現代は、地球の誕生から46億年、生命の発生からおよそ38億年と言われます。その間、地球上には幾度となく環境の大変化による生命の大量絶滅が起こり、その度に次の環境に適応した新たな生命が誕生してきました。破壊と再生を繰り返しながら進化し続けた生命は、長い時を経て、ある時サルに至りました。

「神」という字は、旧字体で「神」、即ち、「申(さる)に示す」と書きます。生命がサルにまで進化した時、神はそれを器として自らの魂を降ろし、天からの示しとしました。それが人間の始まりとなったのです。果てしない生命進化の物語を経て、神は人間に、自らの代理として地上を生きる役割を託しました。それまで多種多様な生命がそれぞれに相応しい位置で役割を果たし、自然の仕組みのままに循環していた生命世界へ、その仕組みの背後にある意思を理解し、その意思と共に世界を創造していく可能性を秘めた存在(人間)が降ろされたことで、世界という器に魂が吹き込まれたのです。

 

地上に降りた神の魂 ────人間

類まれなる可能性を与えられた人間は、それまで自然界には存在しなかったものを次々と生み出しました。その歩みは留まることを知らず、今や人間の判断力を超えて進化し続けるAIや生命の根幹を揺るがすゲノム編集、世界を破壊する威力を秘めた核技術など、一たびその方向性を間違えば自らを破滅へと追いやる可能性のあるものを創り出すところまで、私たち人間は到達したのです。では、その人工の世界の急速な発展は、人間だけの力によるものかと言うと、その背後には常に、天の意思が存在していました。

現代に至る人間の営みは、地球環境を悪化させ、人間のみならず他の生命にまでも害を及ぼし、世界に深刻な現実をもたらしています。ならば、その害の元となる人間の高い能力を否定するべきでしょうか。そうではありません。なぜなら天は人間に、可能性を託したのです。神の代理として地上に降りた人間が、その智恵を使い、自然に任せているだけではできなかったことを表現するために、天はあらゆる材料を与えました。ところが人間は天の存在を忘れ、それを自らの力で獲得したと思い込み、自分たちの都合の良いように使い始めたのです。自我に囚われた人々が魔を釣り上げる魔釣りの世では、どれほど優れた能力も、結果として世界に害をもたらすものとなりました。その行為を行う者の内にある精神性が、現象の性質となって顕れるのです。

富士浅間木の花祭りでは、行き詰った世を立て直すために艮の金神が「世の中ひっくり返すぞよ」と現れます。それは、天が人間に与えたものの使い方を根本的に変えるということです。使い方を変えるとは、その元となる人間の心を変えることなのです。

 

マツリとは、生きることそのもの

私たちは、地球生命です。地球生命である私たちの肉体は、太陽から届く物理的な光が元となり、命を存続させています。つまり、私たちは太陽系生命なのです。そしてその物理的生命と対向する私たちの霊的生命は、天の川銀河の中心であるセントラルサンから届く、目には見えない霊的な光によって成り立っています。つまり私たちは地球生命であり、太陽系生命であり、天の川銀河生命であり、宇宙に存在する宇宙人としての認識を持つべきなのです。

ひとつの体の中で、意思の伝達は瞬時に起こります。太陽系からセントラルサンまでの距離は2万6100光年、即ち、光の速さで2万6100年かかるということであり、その中で星々は瞬時に自らの肉体である銀河の意思を共有しています。つまり、私たちは既に、物理性をはるかに超える霊的な共時性の中に生きていることになるのです。その大いなる万物の共通点の中に、自らを一方的に優先する心が発生すれば、そこに分断が起こり、意思は共有されず、大いなるものとしての意識は失われていくことでしょう。しかし一たびその大本の存在へと意識を向け、宇宙根源の響きと共振した時、私たちは奇跡の星・地球に生命として降り立ったことの意味に目覚め、そこに存在する数多の生命の代表である人間の真の役割を果たすものとなるのです。

そのような意識レベルに到達した時、私たちの内から発せられる宇宙根源の響きは瞬時に世界を駆け巡り、地上に顕れる現象が変化していくことでしょう。他の生命にはない高い能力を与えられた人間は、自然だけでは成し得ない、世界をより豊かに創造する可能性を秘めているのです。そして人間が自らの真の役割に目覚めた時、世界という器へ真が入る、真釣りの世が始まるのです。

冬至の後、最も寒さの厳しい時期が訪れるように、宇宙的には銀河の冬至を越えた今、これまで積み上げてきた間違いの結果がいよいよ現象となって現れ出す、厳しい時代が始まります。その中で、自らに積み重ねてきた穢れを祓い清め、その奥に眠る真の生命力を呼び覚まし、この世界の大いなる意思と自らを呼応させ、共に新たな世界を創造していく。そして生まれ変わった新たな魂で、その厳しい寒さの先にある春を迎える。そのひな形として、富士浅間木の花祭りは毎年立春前の寒さ厳しい時に、新たな世の始まりを迎えるけじめの祭りとして行われます。人間は地球に生きる全ての生命の代表として、命であることの感謝を、祭りを通して天に捧げる役割を与えられているのです。

その意識に目覚めた人々は、自らが人が生きるべき姿勢のひな型となり、毎日を生きることになるでしょう。日々の積み重ねが一年となり、一年の積み重ねが一生につながり、その人生の価値として積み重ねられたものの結果が、美しい世界を創る。人生を通して真の価値を見出し、人が生きることで世界がより豊かになっていく ──── その大いなる生命の営みがマツリであり、それは生きることそのものなのです。

 

その意識にあなた達が目覚めた時

あなた達は再び

私と出会うことになるでしょう

 

 


富士浅間木の花祭りでは年間を通して各地のご清水を募集しております。ぜひ皆様のお住いの地よりご清水をお寄せください。また、祭りの開催や「花宿(はなやど)」と呼ばれる専用の祭場の建設をご支援頂く花見舞い(寄付金)も受け付けております。詳しくは下記ホームページをご覧ください。

→ 富士浅間木の花祭りのページ


 


木の花ファミリー通信2019年冬至号 〜 21世紀を生きる人類一人ひとりの皆さんへ

 

 

現代を生きる人々が陥っている

「自己中心」思考

あなたはその呪縛から

自らを解き放てますか?

 

宇宙の総意によって創られた星 地球

私たちは、宇宙を生きています。

宇宙では、すべてが連鎖し、循環し、調和しています。広大な宇宙空間を漂う無数の星々は、一つひとつどれもが他にはないオリジナルな個性を持っています。その多様性あふれる星々が互いに対話し、壮大なスケールで絶妙なバランスを保ちながら、まるで全体が一つの交響曲を奏でるかのように連鎖し、美しいハーモニーを響かせているのです。

この宇宙の総意によって、私たちの生きる地球は誕生しました。

地球は、宇宙のひな形です。火、水、土、風、空気、鉱物、微生物、植物、動物。様々な働きを持つ多彩な自然の要素が、他に代わることのできない独自の役割をそれぞれに果たしながら、互いにつながり、連鎖し、無限に循環し続ける、地球生態系という豊かな命の世界を築きました。私たちの存在する銀河の誕生から138億年、地球の誕生から46億年という進化の時を経て、地球は宇宙の中でも類いまれなる命あふれる星となったのです。

その悠久の進化の果てに、数百万種とも言われる生命の中のたった一つの種として、人類は誕生しました。

太古の昔、人間たちは、星々の命を受け、自然と対話し、他のたくさんの生命たちと共に生態系の循環の中を生きていました。当時の人々は、自らがこの大いなる宇宙の一部であり、その循環の中で命を与えられ、生かされていることを知っていたのです。ところが、長い進化の物語の最後に登場したこの生命は、それまでの歴史上に類を見ないほど、急速な勢いで進化し始めました。そして宇宙の仕組みのままに美しく循環し続けるこの星の生態系へ、多大な影響をもたらすようになったのです。

 

天変地異は私達に目覚めを促すメッセージ

人間には、他の生命と大きく違う点があります。それは、際立った自我を持っていることです。

多様性の星、地球には、実に個性豊かな数多の生命が存在しています。人間以外の生命は、同じ種の中で個体ごとの違いはそれほど大きくありません。個々の生命は、個としての目的に沿って生きているようでありながら、その前提に種としての役割を果たしており、自らの命が他の命を生かすことへつながる地球生命生態系の循環から逸脱することなく、生を全うします。ところが人間は、同じ種の中でも一人ひとりが違った個性を与えられ、違うことで自らを他と切り離して捉えるようになりました。そして「自分」という存在を特別に意識するようになり、自らが大いなる世界の一部であることを忘れ、種としての役割を果たすよりも、個の目的を叶えることを優先するようになったのです。

他の生命にはない高い創造力を持った人間は、自らの中から湧き出す願望を、その能力を使い、実現するようになりました。願いが叶うことで欲望はさらに膨らみ、自我が肥大し、いつしか人間たちは星々の存在を忘れ、自然と対話することを忘れ、他のたくさんの生命の存在を無視し、自らに都合のいい人工の世界を広げていくこととなったのです。

現代の人間たちの築いている世界は、とてもネガティブです。すべての前提として自らを中心に置き、そこから見て気に入らないもの、合わないものを異物と捉え、否定したり、差別したり、敵と見なし攻撃し、環境保護や平和を求める運動ですら、他を否定し対立することで成り立っています。自らの基準にそぐわなければ、個人であろうが国家であろうが、自然でさえも否定の対象となり、最終的には破壊の対象とさえなるのです。

それに対して、その人間たちを包むこの世界は、多様な存在が何ひとつ否定されることなく世界の中に配置され、それぞれがふさわしい役割を与えられ存在する仕組みになっています。もしも人間に地球外からの視点があれば、地球はすべてを共有する場所であり、どんなものもその共有の仕組みの中で互いに支え合う相互扶助の世界に存在していることがわかります。そしてその中で、自分の主張ばかりを押し通し周りのことを考えず、数ある生命の中で最も高い能力を与えられながら、その高い能力で環境を汚し、他の生命を傷付け、果ては同じ種の中で殺し合っている人間たちの営みが、どれほど奇妙で、どれほど滑稽であるかがわかるでしょう。それはこの世界の成り立ちにはまったくそぐわない、生態系全体へ害をもたらすものであり、本来そのような生命は淘汰されるべきなのです。

今、世界は既に、その淘汰に向けて動き始めています。地球の歴史を振り返れば、過去6億年の間に6回の生命大量絶滅があったように、地球は次のステージへ向けて、様々な天変地異を起こし始めました。絶滅と聞くと、自らに執着している人間たちは、今あるものが壊れて無くなるという恐怖を感じることでしょう。しかしそれは地球が健全になるための新陳代謝に過ぎず、宇宙的には極めて正常な働きです。そのような動きが始まっている今もなお、人間はその能力の高さゆえ、危機を表面的に修復し、地球にさらなる矛盾を積み重ね事態を悪化させ続けているのです。

 

豊かさをもたらすはずの資本主義が与えたもの

地球が宇宙の総意によって創られたとしたら、そこには地球を生み出す宇宙の意思があったはずです。ならば、宇宙はなぜこの星の上に、このような愚かで不可思議な生命を誕生させたのでしょう。

現在のように人間がネガティブになる大きな要因となったのが、資本主義です。かつて豊かさとは自然が与えてくれるものであり、人間はそれを頂き、自然と共に謳歌する立場にいました。ところが資本主義の発展と共に、豊かさとは他者と競争し、自ら勝ち取っていくものとなったのです。
勝ち取り、満たされれば幸せになるのかというと、そうではありませんでした。満たされればその満たしたものを所有し守ろうとするものです。そして「もっと満たされたい」と自我をさらに膨らませ、膨らんだ自我を常に満たしていなければ幸せだと感じられないようになりました。競争によって落ちこぼれが生まれる一方で、勝ち取った側はつかの間の優越感を味わい、その優越感にも慣れてしまえば、今度は「常に勝たなければならない」という恐怖を抱えるようになりました。

そのような社会の最先端に立ち、自然を無視し人工の世界を拡大していく人々が優秀とされ、まるで社会全体が麻薬中毒のような状態に陥りながら、一律な価値観で人工の世界を拡大し、さらに見通しの立たない方向へ突き進んでいるのです。そして優秀な人ほど自らの人工的優秀さに溺れ、それが見えないのです。
そこでは、人々は自らの願いを叶えることが自由であり、豊かさであるという、大きな勘違いに陥っています。そしてそのような、ルールを与えられないと調和できない、欲望にまみれた人々を統制するために、政府は法律を作り、それを一律に人々に当てはめるようになりました。人々は自由をはき違え、法律の枠の中で認められさえすれば何をしてもいいことになり、そういった人間たちの行いが積み重なった結果、今、地球は問題事で溢れかえっています。
しかし、現代の科学に染まった人々は、物事を細分化し、一つひとつを精度高く分析することはしても、それらをつなげて統合的に捉え、その背後を読み解く力がないため、問題事の根本的原因がわからず、本質的に解決する道筋を掴むことができないのです。マスコミは問題事の表面だけを見て騒ぎ立て、政治を司るものも民衆も他者を批判することは熱心にしても、皆で力を合わせて賢明な世界を創ろうという発想は、どこからも生まれません。

これは、自らが自然の中に組み込まれた生命であるということを、人間が忘れてしまった結果です。天体や自然によって生かされていることを忘れ、自我の主張を通すことが当たり前となり、それが対立を生み、環境を破壊し、世界を貧しくしていることが見えない。これは現代人すべてが陥っている「自己中心」思考の呪縛です。この呪縛から人類を解き放たない限り、世界が良くなることはないのです。

 

自我の暴走は、人類のもたらした地球規模のテーマ

人類はもう一度、生命としての原点に立ち返る時が来ています。

視野を再び宇宙へと広げてみましょう。今、私たちはまぎれもなく、宇宙に生きています。宇宙ではすべてが連鎖し、循環し、調和しています。この大宇宙の法のもとに銀河があり、銀河の中に太陽系があり、太陽系の中に地球があり、その地球上に表現された緻密で美しい大生命生態系の中に、私たち人類は存在しています。もしもこの宇宙の法に狂いが生じ、現在のバランスが保たれなくなれば、私たちはたちどころに存在できなくなるでしょう。人間を含めたすべての生命は、この大いなる宇宙の法のもとに生かされているのであり、その大本の法に沿って生きることは、生命として当然のことなのです。

現代人はお金や物など、目の前の形あるものに心を奪われ、物理的な意識がとても強くなっています。ですから環境が汚れればそれを浄化しようと新しい技術を開発し、争いが起きれば互いの利害を調整するために交渉するなど、物理的現象に対し物理的結果を目的とする対処で解決しようとするのです。しかし、宇宙の本質は物理性ではなく、霊性にあります。すべての現象の奥にスピリチュアリティがあり、それが元となってこの物理的世界の秩序が顕れているのです。
そのことに気付いた時、現代の人間たちの営みの奥にある姿勢は、物理性に偏りすぎていることがわかるでしょう。そして今、その偏りが矛盾を生み、現象となって現れてきているのです。それを物理的な行動によって解消しようとする前に、自らの霊的な過ちに気付き、それを正し、宇宙の本質を取り戻した時に、物理的な現象は極めてスムーズなものとなり、矛盾は自ずと解消されていくのです。なぜならば宇宙の本質とは、善意と愛と調和で成っているからです。

現代人は、世界は自分たち地上を生きる人間によって運営され、自分たちの意志が世界を動かしていると思っています。しかし真実は、地球は人類の誕生よりはるか以前に、宇宙の総意によって創られたのであり、長い進化の時を経た今も、宇宙の霊的なはたらきによって導かれ続けているのです。自分を中心にして世界を見ている現代人にとって、それは理解できないことかもしれません。しかしながら、時代が21世紀に入った今、私たち人類は、20世紀までの自己中心的な生き方を続けて淘汰されるのか、それとも30世紀に向けて、宇宙人としての認識のもとに、次の時代への進化のための新たな千年紀を歩み出すかの、大いなる岐路に立っているのです。

産業革命以降、人類の暮らしは飛躍的な発展を遂げましたが、それは人間の能力がどこまで伸びるのかという可能性を試された時代でもありました。自然はその人間の行いを受け入れてきましたが、それは他者の迷惑を顧みず自らの欲望を追求し、全体の秩序を乱すことを許可したのではなく、それをするとどうなるかを、人間が自らの行いから学びとする期間でもあったのです。もしも人間の活動が現在の地球の状況をつくっているということにメスを入れるのなら、私たちは、その人間の代表が自分自身であるということに気付かねばなりません。これは環境問題ではなく、自我の暴走という、全人類に共通のテーマなのです。

それを解決するのは、制度や仕組みを作ることではありません。過去にも、資本主義の問題点を克服しようと、人間は共産主義という新たな仕組みを作りました。ところが共産主義を理想として掲げた人々は、自らの作り出した仕組みに溺れ、資本主義の問題点を克服するどころか、人々を管理する体制によって無個性な社会を創り、その理想は有名無実なものとなっていったのです。そのように、どれだけ新たな仕組みを考え、世界を良くしようと思っても、その問題を生み出す根本にある精神にメスを入れなければ、それは良くしようとするもどきに過ぎないのです。

ではその根本原因、即ち自らの心を振り返り改善する時に、私たちは視点をどこに置くべきなのでしょうか。
それは、私たちが存在する前にまず生態系があり、地球があり、太陽系があり、銀河があり、宇宙があり、その大いなる序列のもとに私たちが存在しているという、この世界の命の仕組みに心を向けるべきなのです。その時に、現代を生きる人々にとって最も難しいのが、自らを基準とし自分の側から世界を見る視点を離れ、自らを生かす世界の側に立って物事を観ることです。自我から湧き出す思考のままに主観で生きてきた人間たちが、自我を超え、大いなる宇宙の意思と共に世界を創造していく側へと舵を切る。それは、人類史上最も大きな方向転換、即ち軌道修正です。そしてその視点は、私たち人間が地球に降ろされた真の意味を知ることにつながっていくのです。

 

 

時代は21世紀に入り、私たちは地球上に表現される長い物語の、大きな節目の時を迎えています。これから始まる3000年に向けての千年紀は、20世紀までの科学の延長線上を進化していくのではありません。そういった進化をもたらした横暴な振る舞いを改め、自然に対する認識を変える時が今、来ているのです。

地球は、人間がこの星の上に積み上げてきた矛盾を破壊しにかかりました。人間がこれまでの生き方を改め、方向転換するには、大きなエネルギーが必要です。それを天変地異で与えられれば、とてつもない痛みが発生します。しかし、地球上の生命の中で最も高い能力を与えられた私たち人間は、本当にそのような痛みを持って修正されるべきなのでしょうか。
 

生きることへの意識革命

どれほど人間がこの世界を破壊しようと、大いなる宇宙の循環のもとにある自然界は、いずれその破壊を修復し、元の健全な世界へと還していく力を持っています。しかしそれには、とても長い時間がかかります。だからこそ、その時間の代わりに、人間の叡智を使わなければならないのです。

叡智とは学習して得るものではなく、生命の本質としての私たち一人ひとりのDNAの中に眠り、本来湧き出してくるものです。大いなる宇宙生命の一部である私たちの霊的DNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っており、その中のどの部分が表現されるのかは、その人が生きている時代により、ふさわしい情報が現れてくるのです。現代が愚かしいのであれば、その愚かしさを乗り越える叡智も私たちの中には組み込まれており、私たちがそこに意識を向けることで、眠っていた叡智は湧き出してきます。なぜなら、時代(天)は既に新たなステージへと舵を切ったからです。

時代の波に翻弄されるのではなく、地上を生きる私たち人間が時代の意思に沿い、共に世界を創造していく時、そこは天の意思が地上に表現される、地上天国となるでしょう。それは資本主義や共産主義のように、人間のみに与えられる豊かさや仕組みによってもたらされるものではなく、人間の思考を根底から覆す、生きることへの意識革命なのです。
 

世界中の権力や富の上に立つ人々へ

皆さんどうか、その高い地位と優れた能力を、この世界を真の健全へと導くために使ってください。人間の真の価値とは、霊性にあります。現代のように歪んだ社会でどれだけ評価されても、それはいずれ肉体を離れ、霊的存在となり宇宙へ還るあなたの真の価値とはなりません。真に価値ある者となるためには、世界の霊性と物理性の関係を正常に戻す精神のもとに、社会を正しい方向へ導く勇気を持ってください。本来、責任ある立場に立つ者ほど全体(人間を含めた地球生命生態系)のことを真剣に考え、決断し、誇りある国(地球)創りをするべきなのです。そうすれば皆さんは、優秀な者としての存在から、尊い者としての存在になることでしょう。
 

宇宙生命交響曲の指揮者としての目覚め

地球は宇宙の奇跡です。そもそも宇宙が現象化を起こしたことも、奇跡なのです。それは人間の思考などはるかに及ばぬ、偉大なる意思からのメッセージです。ですから、この星の存在が宇宙的には奇跡であることは当然であり、それは宇宙の神秘と言えるものです。そしてその神秘は、私たちの日常の隅々にまで配置されています。しかし物理的思考に汚染された現代人は、そのことが信じられないのです。そして目の前に既に奇跡があるのに、それを奇跡と理解できないほどの愚かしさに陥っているのです。その愚かしさに気付き、そこにある神秘(神の秘密)を、秘密としてではなく、私たちの日々の生活の中に当然のものとして表現していくことが、この星から矛盾を取り除き、美しくしていく第一歩なのです。

現在地球上で最も繁栄している生命は、人間です。生命とは本来、増えれば増えるほど豊かさを表現できるものです。宇宙の本質が善意と愛と調和であるならば、より多くの存在と共有の世界に生きることで、より多くの存在とつながり支え合う多様で豊かな世界が表現できるのです。しかし、現代の人間たちがつくる世界は、増えれば増えるほど、限りない矛盾を生んでいるのはなぜなのでしょうか。私たちはそのことに気付かねばなりません。

地上天国と聞くと、人は絵に描いた世界のように感じ、不可能だと思うかもしれません。しかし今、視点を変えて観れば、地上に人間が積み上げてきた矛盾への破壊が始まり、既存の社会システムが崩壊し始めたことにより、逆に地上天国が近付いていることが観えてきています。様々な現象を通して地球が発しているメッセージの背後にある意思を感じ取れば、その意思は、人類の誕生以来ずっと夢に描かれてきた理想郷を、私たちにもたらそうとしていることが観えてくるでしょう。そしてその実現は、私たち一人ひとりの目覚めに託されているのです。

近代の人類が陥ってきた自分本位もしくは人間本位の世界観は、私たち自身に大きな矛盾をもたらすだけでなく、私たちの生命としての種がこれから地球上で栄えていくことに、大きな影を落としています。この現実から来るメッセージを私たち人類は今、受け取り、自分本位の生き方から、この宇宙の奇跡である多種多様な生命の兄弟と共に、美しい地球生命生態系を表現していくことが求められています。それは、地球生命の頂点に立つ私たち人類の使命であると言えます。今、2000年を越え、3000年に向けての新たな宇宙時代を迎え、私たちは宇宙視点の元に、宇宙の奇跡であるこの星の生命たちの奏でる宇宙交響曲の指揮者にふさわしい位置に立つ時が来ているのです。
 

人類の一人ひとりの皆さんへ

もしもあなたの中に、このメッセージに共鳴する心があるならば、どうかこのメッセージをあなたの心の通じる人々へ、国境や言語を越え、自由に広めていってください。人類がこの世界に誕生した本来の目的に目覚め、人であることの尊さを悟り、あなた自身の意思によって地上に宇宙の総意を表現してください。そして、地球を新たな星としてよみがえらせる、そのネットワークを広げていく主役に、あなた自身がなってください。このメッセージは、誰もが主役となる時代を迎えた今、地球上に生きる人類一人ひとりの皆さんへ、その目覚めを促すものです。

そして、美しくなった地球で、美しい皆さんと出会えることを、私は願っています。

 

 


木の花ファミリー通信2019年秋分号 〜 カタカムナ

現代によみがえる宇宙の叡智
混沌とした現代を生きる人々に新たな視点を贈る

カ タ カ ム ナ

 

あなたが見ている世界は 氷山の一角

近代社会は、科学の進歩によって目覚ましい発展を遂げました。より豊かに、より快適に。人間の願いは新たなテクノロジーを次々と生み出し、世界を自分たちの都合の良いように創り変え、その暮らしはとても便利で快適なものとなりました。しかし、願いを叶えれば叶えるほど、人間は自然を無視した一方的な欲望をさらに膨らませ、その欲望を満たすための営みは地球上にたくさんの矛盾をもたらすこととなりました。
莫大なエネルギー消費による地球温暖化は各地で異常気象を引き起こし、冬には豪雪、夏には巨大台風や大水害が起こることが今や当然のようになり、快適な暮らしの影で排出される様々な汚染物質が環境中に蔓延し、放射性廃棄物やマイクロプラスチックなどはもはや浄化不可能と言われています。物質的な豊かさを追い求める中で人々の絆は失われ、人と人、国と国が争い、格差や少子高齢化が進み、社会全体の不安や苛立ちを表すかのような犯罪が頻発するようになりました。これらの現象はすべて、私たち人間がこれまで行ってきたことの結果として現れてきたものなのです。そして今、そういった現象を生み出しながらその根本から目を背けてきた人類が、いよいよそれと向き合わざるを得ない時代が始まったのです。

この、生きることがとても厳しくなるこれからの時代に、もはや科学ではどうすることもできない行き詰まりへの突破口を開く視点を、私たちにもたらしてくれるものがあります。それがカタカムナです。

海に漂う氷山は、海面上に姿を現しているのは全体の1割にすぎず、残る9割は海面下に潜んでいます。私たちの生きる世界も同じことが言えます。現代人が五感で感知する「見える世界」はこの世界全体の氷山の一角に過ぎず、その奥には、「見える世界」の存在を支える「見えない世界」が広がっています。この「見える世界」と「見えない世界」を合わせて、「現象界」と言います。そしてさらに、その現象界の奥に、この世界のすべての存在の源となる根源的な世界があるのです。これを「潜象界」と言います。
氷山は、海上に吹く風の向きとは別の方向へ流れていくことがあります。それは、陸で感じられる風の向きと、海中で氷山を動かす海流の向かう方向が違っているからです。この世界は、現代の科学では解明できない、目には見えない巨大な流れによって動いています。その流れに意識を向けた時、そこに世界を動かす大いなる意思が存在することが観えてきます。長い間封印されてきたカタカムナが現代によみがえり始めたことも、その壮大な流れの中にあるのです。

それでは、この世界の全容をひも解くカタカムナの世界へご案内しましょう!

 

1万3千年前の宇宙物理文明

カタカムナは、太陽系が光のピークにあったおよそ1万3千年前に東アジアに栄えていたと云われる、高度な宇宙物理文明です。太陽系が光から闇のピークへと向かう時代の流れと共に衰退し、代わって形あるものを追い求める物質文明が台頭していく中で、長い間歴史の表舞台から姿を消していましたが、1949年、兵庫県の六甲山系にて物理学者の楢崎皐月氏が大地の電位測定調査中に出会った老人より「カタカムナ文献」を見せられたことから、その叡智が現代にひも解かれることとなりました。

カタカムを質的転換しながら無限に循環する仕組み
私たちの生きる世界は、「見える世界」と「見えない世界」から成る現象界と、現象界の奥にあって現象界を支える潜象界によって成り立っています。カタカムナの時代を生きた人々は、この潜象界の存在を直観によって感知していました。
潜象界とは、現象界に発生するあらゆる現象、生命、物質の源となる、響きの世界です。その響きは物理的な音として耳に聞こえるものではなく、すべての存在の根源として全宇宙空間に満ち満ちているものであり、そこには一切の歪みも濁りも存在しません。カタカムナの時代の人々は、この宇宙創成の響きの波動を直観によって感じ分け、その時代の人間の可能な発声に合わせて48音に分類し、後にそれを八鏡文字と呼ばれる独自の図象に表しました。そしてこの48音が、現在の日本語の元となったと云われています。

八鏡文字で表されたカタカムナのウタヒ 第5首・第6首

この48音は、1音1音が宇宙を構成する要素としての独自の意味(思念)を持っています。人々はその純粋な音の組み合わせによって80首(一説によると120首)のウタヒを創り、この世界の成り立ちを表現しました。特に「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト」で始まる第5首・第6首は、宇宙の創生、発展、消滅の物理性を表し、ものごとが現象化していく過程が数理によって示されています。また、ウタヒの多くは性の本義に関するものであり、その時代の人々は、生命発生の根源的な仕組みであり、男女の対向発生によって大宇宙生命の響きを直接感受する性の営みを本能のままに行い、宇宙根源の響きに共振することで自らの直観力を向上させ、生きることが大変厳しい環境にあった時代を、正しい生命カンを働かせることで生き抜いたのです。当時の人々は、脳で思考するのではなく全身の細胞で源の響きを感受(全身全霊)し、星々の命を受け、自然と対話し、大いなる宇宙の循環の中を生命の原理のままに生きていたのです。
この源の響きの世界、即ち潜象界を、「カム(=神)」の世界と言います。すべてがかみ合い一切の歪みのないこの純粋な響きの世界に、思い(思念)が満つり、溢れ出ると、それは美しい歪みとなって現象界に現れ、命となります。多様な命のネットワークが表現される現象界は、「カタ(=型・形)」の世界です。すべての存在はカムの世界からカタの世界へと現れ、役割を終えれば再びカムの世界へと還り、二つの世界を質的転換「ナ(=成る)」しながら無限に循環し続けています。この、カタとカムの大いなる循環の仕組みが「カタカムナ」なのです。

 

汚染の極みにある現代社会

この世界の現象は響きから成り、すべての存在はそれぞれに固有の響きを持っています。カタカムナを生きていた時代の人々は、その響きを感受して48音に分類し、一音一音を組み合わせて言葉にすることで、その存在の奥に秘められた意味を本能的に認識していました。ドレミファソラシドの7つの音階から無限のハーモニーが生まれるように、48の純粋な音の組み合わせによって多種多様な生命の個性がふさわしく表現(名付け)され、自然世界における美しいネットワークに発展していったのです。しかし現代を生きる人々は、そのものの持つ固有の響きを無視し、他の生命には見られない高い自己実現能力を使って欲望のおもむくままに行動することにより、その行いにふさわしい出来事を現象化するようになりました。そして、宇宙を創っている根本の響きとは異質な世界を生み出すこととなったのです。
近代の科学的思考に染まった現代人は、三次元の現象として捉えられるもの以外の存在を認めず、多重構造の世界の中で「見える世界」だけに意識があります。作物に虫が付けば農薬を使って殺し、病気になればただ症状を抑えるための薬を処方するように、その問題の根本と向き合わず表面的な対処を繰り返すことで、世界に矛盾を積み重ねてきたのです。その結果、現代の「見える世界」には人工の歪んだ響きがあふれ、様々な問題ごとが表面化して大きな行き詰まりを迎えているのです。
「見える世界」は、主観の世界です。人々の意識は常に「自分が」中心であり、その自分の行いが世界に何をもたらしているのかを客観的に捉えることをせず、平和や環境保護を訴える活動であってもそれぞれが自らの正しさを主張し、結果的に世界に対立をもたらしています。それに対し、その奥にある「見えない世界」は客観の世界です。自然界では水が汚れればバクテリアが浄化してくれるように、「見える世界」で歪み汚れたものは「見えない世界」までを含めた自然循環の中で浄化され、健全になっていくのが本来の仕組みです。ところが現代の人間の営みは、自然の浄化能力を超えるほどの汚染を生み出し、もはや現象界の中の循環だけでは浄化不可能なところまで来ています。この、現代人の意識では解決できないほど歪み汚れた世界を元の健全な状態へと還していく無限なる循環の仕組みが、天然循環です。

 

全身全霊で宇宙を生きる

現象界は、原因と結果の無限の連鎖から成っています。その無限の連鎖をひとつの物語として捉えた時、その奥に、物語を表現する大いなる意思の存在が観えてきます。これを客観背後と言います。それは人智をはるかに超えた、世界を存在させ、動かしている仕組みの大本です。
世界は、決して止まらぬ時の流れの中で変化・変容・変態を繰り返し、未知なる未来へと進み続けています。カタカムナの時代の人々は、その瞬間、その瞬間を全身全霊で感じ取り、刻一刻と変化していく環境の中で生きるために必要なことを瞬時に判断し、命を紡いでいました。そこに固定概念はなく、ただ世界の変化と共に自らも変化しながら、その瞬間、瞬間を生きていたのです。この変化の連続が進化であり、美しい生命の姿であり、本来の生命力なのです。
全身全霊とは、全身を構成する数十兆の細胞がパラボラアンテナとなり、脳の思考ではなく全身で響きを感受し、その響きを自らの命に染みわたらせ、言葉や姿勢を通して表現することを言います。私たち生命は、この世界を単独で生きているのではありません。まず大宇宙があり、その中に銀河があり、太陽系があり、地球生態系があり、人類がいて、私たち一人ひとりが存在しているという生命の序列のもとに生きているのであり、すべての生命は一番の大本である宇宙の根本原理に基づいて存在しているのです。自然界の動物や植物は自我による汚染がないため、細胞のDNAが純粋に宇宙と呼応しています。ですからその生命活動は、教わらずとも宇宙の仕組みを反映し、美しい表現となるのです。それに対し人間は、進化の過程において唯一、思考を持つ生きものとなりました。そしてその思考を自我によって実現する能力を与えられたことで、自らの欲望を満たす快感の虜となり、自我を肥大させ、自らが宇宙と呼応する存在であることを忘れてしまったのです。そして宇宙の根本原理から外れることで、現代人は今、生命世界を汚染し、破壊する存在にまでなっているのです。
人間が再び宇宙と呼応する存在となるために、私たちはもう一度、思考を自我から取り戻す必要があります。自我に翻弄されるのではなく自我をコントロールする立場に立つことで、思考を宇宙と呼応させるのです。その時に宇宙と対話するアンテナの役割となるのが、全身の細胞の中にあるDNAです。私たちが生命として生きる時、全身の細胞は既にその生命原理を持ち合わせ、女は女のように、男は男のように命を表現し、人生を全うします。それと同じように、宇宙生命の一部である私たちのDNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っているのです。そこには未来への設計図があり、私たちは生命として生きることで、それを体験という形で、次の時代への英知としてさらにDNAに刻んでいくのです。
その自らを自我の囚われから解放した時、私たちは本当の自由を生きることになります。「クニ」という思念をカタカムナでひも解くと、それは国境で区切られた領土のことではなく、自由「ク」が定着した場「ニ」を示しています。それが、クニを生きることの真の意味です。自らを解放し、全身全霊をもって宇宙に語りかけ、全身全霊をもって宇宙からのメッセージを受け取るのです。
その時に、宇宙根源の純粋で美しい響きがあなた自身から発せられ、この世界に響き渡ることでしょう。その響きは、世界の歪みを解き、生命に活力を与え、壊れたものは自ずと修復され、正常に戻っていくことでしょう。それが天然循環の世界であり、カタカムナを生きるということなのです。

 

 

現代を生きるカタカムナ人

私たちの存在する天の川銀河の直径は、およそ10万光年と言われています。それは、現在観測できる中で最も速く、現代物理学の基準となる光の速さで端から端まで進むのに、10万年かかるということです。つまり、科学的観測によって宇宙を解明することには限界があるのです。
しかし実際には、この世界には光の速さをはるかに超えて、宇宙を一瞬で捉えられるものがあります。それが私たちに備わっている、思念です。思念とは、魂を持っているものが発するものであり、アマハヤミ(光の速度の10の64乗倍)で瞬時に宇宙を駆け巡ります。宇宙もまた魂を持つ存在であり、科学では到底捉えることのできない広大な宇宙空間を、アマハヤミによって秩序を保っているのです。カタカムナ人は、高度な観測機器やデータを持っていたわけではありませんが、宇宙の実相を感受して生きていました。もしも宇宙と同じように思念を持つ私たち人間が、宇宙の秩序を保つ大本の意識に目覚め、その意識レベルで共振したならば、人間はその大本の意識と共に宇宙を運営する存在にもなれるのです。

宇宙とは、無限なる情報の連鎖です。そこでは必ず相反するものが同時に存在(対向発生)し、大きいが小さく、小さいが大きいのです。そこに正しいも間違いもなく、ただどの位置に立つとどうなるかという、因果応報の原理に基づく情報があるだけです。しかし人間は、文明の発祥と共に紙や文字を発明し、本来多次元であるこの世界を二次元の平面上で解釈し、良いか悪いか、正しいか間違いかという二元思考で捉えるようになりました。そして「これが正しい」と特定のものを固定し、自分は正解を知っている、という立場に立つようになったのです。
科学は、物事を細分化し、その切り取った部分をとても鋭く探求します。ですからそれを繋げていくことで、全体像を捉えることもできるのです。そこで特定のものを絶対とすれば、その中だけで答えを出すこととなり、固定概念を生むことになります。それは、変化・変容・変態していく世界の中で必ず矛盾を発生させることになるのです。特定のものを正解として固定するのは、自らが正解を知っている者でありたいという人間の性質があるからです。「自分は知っている」という立場に立つことで、人間は傲慢になり、自らがこの世界に生かされていることを忘れ、宇宙に存在する本来の意味から外れていったのです。
どんなにわかったつもりになったとしても、私たちは銀河の果てまで行くこともできなければ、たったひとつの生命すら、生み出すことはできません。この世界の存在は、すべて宇宙の叡智によって生み出されているのであり、人間が自分の力で創り出せるものは何ひとつないのです。

その昔、宇宙には、叡智が漂っていました。その叡智が時代の要請を受け、現象を引き起こす思念となりました。それがこの世界の現象化の始まりです。そして始まりが叡智であったように、私たち人間も、他のあらゆる存在も、すべての現象界の設定は、いずれまた叡智へと還っていくのです。その時に、現象のすべては空となるのです。
このことを理解するためには、人間は「自分はこの世界のことを知っている」という側に立つことをやめ、「自分はこの世界によって生かされている」という側に立たなければなりません。その時に、宇宙の叡智は自ずと自らの中に入ってくることでしょう。宇宙は変化・変容・変態し続け、時代と共に真実も移り変わります。ですから現在のカタカムナの解釈をもって、これがすべて正しいとする必要もないのです。それは知識として固定されるものではなく、それを会得することで大宇宙生命の根本の響きと共振し、この世界を動かす、目には見えない大いなる流れを感じ取るのです。これからの時代は、生きることがますます厳しくなってくることでしょう。その時代の変化の中で、瞬間瞬間を感じ取り、そこを生き抜いていく力を身に付ける、そのための情報に今、あなたは出会っているのです。
宇宙は情報です。生きるとは、こうするとこうなるという因果応報の情報の連鎖に出会うことであり、カタカムナはその根本原理を私たちに教えてくれているのです。しかし、その原理が通用しない世界が宇宙にはあります。私たちは、因果応報の原理に基づくトキとトコロの対向発生によって存在する、天の川銀河の法則のもとにあり、他の銀河へ行けば、そこにはまた別の法則があるのです。
このように宇宙を捉えていくと、これまでに使ったことのない脳の部分が働き始めます。すると、視点が変わります。視点が変わることで、人は自我から解放され、自由になるのです。

今、時代は大きく変わろうとしています。時代が変わろうとしているのに、人間が変わらないから、社会も変わらず、そのギャップがふさわしい現象となって現れているのが現代の社会です。今社会で起きている様々な現象は、私たち人間が意識を変えて生まれ変わる、即ち質的転換をする大いなる機会を与えられていることを、教えてくれています。無限の可能性を秘めた私たち人間は、どこまで到達することができるのか。その本領を試される時が今、来ています。
カタカムナ人とは、遠い昔を生きた自分とは別の人々ではありません。カタカムナは、私たちの生きる世界の原理原則であり、今この瞬間も、その仕組みによって世界が動いています。その事を理解し、それを生きた時、私たちは現代を生きるカタカムナ(宇宙)人となるのです。

 

 

 


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