あなたはこの視点に
どこまでついてこられますか?
大いなる軌道修正へ突入した世界
今、もはや人間が思い通りにできない状況が、地球規模で起きています。
新型ウィルスの拡散によって世界中が混乱に陥りながら、未だ有効な手立ては見出せず、これまで当たり前であったことが当たり前ではなくなる時代が始まりました。人々は経済の停滞を憂い、社会には、これからどう生きていけば良いのかという不安が蔓延しています。しかし、どう生きたら良いかわからないのは、自らの存在の本質を見失っているからです。
文明の発祥以来、人類はその高い能力を発揮し、地球的には短期間でありながら、劇的な進歩を遂げました。不足があればそれらを超えるものを次々と生み出し、世界を都合の良いように創り変え、その歩みは今や、地球に接近する隕石を打ち砕くための核ミサイルまでも開発するほどです。けれども、本来宇宙が人間の行いについて否定しようとしていることに対し、人工の力でそれを回避すればするほど、人間は自信過剰となり、自らの行いを正しいものとして傲慢になっていくのです。その傲慢な振る舞いの結果が、問題ごとで溢れかえった今の世の中であり、宇宙はいよいよ、人間の傲慢を打ち砕くために動き始めました。なぜなら私たちはこの世界の創造主ではなく、創造主の意思によって生み出された創造物であり、創造物は創造主の意思を反映し、それを実現していくことが、唯一宇宙で生きる道だからです。
太古の昔、人間は、自然の枠組みの中で命を頂いて生きていました。厳しい自然の中で天がもたらす実りによって命をつなぎ、この世界の大いなる意思の元に自らが生かされていることへ感謝し、自ずと自然や宇宙への信仰が生まれました。人々は天が恵みをもたらしてくれますように、荒ぶる自然が鎮まりますようにと祈り、儀式を行うようになりました。自然に敬意を払い、心からの祈りを捧げ、神々と対話し、天の意向の元に地上を生きることを確認していたのです。これが祭りの始まりです。
「政」と書いて、「まつりごと」と読みます。政治とは本来、地上を生きる人間が天にお伺いを立て、その意向を受け取り、天の意思を地上に表現することです。ところが現代は、政治を司る者も、それを評価する者も、それぞれの立場を主張し、互いを打ち消し合い、際限なく膨らんでいく欲望を叶えることが目的となっています。その人々の意識には、天の存在はありません。そして今、世の中がこれほどの事態に陥っても、人々は未だ自らに都合の良いように問題の解決を図ろうとしており、その結果どこにも解決策を見出せない迷路に入り込んでいるのです。
そのような世の中にあって、富士の麓で、ある祭りが始まりました。文明の発祥から連綿とつながる6500年の人類の歩みが大いなる軌道修正の時を迎えた今、時代の意思のもと、行き先を見失った世界へ魂を吹き込むこの祭りは、名を「富士浅間木の花祭り」と言います。それでは、この祭りの誕生の背後にある時代の流れをみてみましょう。
富士浅間木の花祭りは
愛知県の奥三河地方の山村にて
700年間受け継がれてきたと云われる
国の重要無形民俗文化財「花祭り」を
秘められた予言の通り富士の地で継承し
発展させた祭りです
光から闇へ向かう時代
私たちの生きる太陽系の中心である太陽は、銀河の中心であるセントラルサンの周りを、螺旋を描きながら周り続けています。その1螺旋のサイクルは25800年です。地球が太陽の周りを1周する間に夏至と冬至を迎えるように、太陽系もまた、1螺旋の間に夏至と冬至を迎え、最も光が強まる光のピークを「銀河の夏至」、最も光が弱まる闇のピークを「銀河の冬至」と言います。その光とは、セントラルサンから発せられる霊的な光のことです。
太陽系生命である私たちの肉体は、太陽から発せられる物理的な光が元となり、成立しています。宇宙の万物は全て、相反する性質を持つものが互いを成り立たせ合う陰陽の対向発生によって存在しており、私たち生命の物理性を陽とするならば、それに対向する陰は、霊性です。それは目には見えないセントラルサンから発せられる霊的な光のことです。セントラルサンは天の川銀河の年老いた恒星たち、即ち宇宙の叡智の集合体であり、そこから発せられる光は叡智の光なのです。
12900年前、太陽系はこの霊的な光のピークを迎え、そこから銀河の冬至へ向かうに従い光が徐々に失われ、闇が深くなっていきました。叡智の光を失うとは、宇宙の本質を感じ取る直感力が失われ、物事が観えなくなっていくということです。光から闇のピークへ向かう中間点にあたるおよそ6450年前より、地球上に現代文明の元となる文明が発祥し、人間は天の意思に沿うよりも、自らに都合の良いように世界を創り変え、天智ではなく人知によって地上を治めるようになりました。そして宇宙の本質から大きく外れていった結果、日本では、封建時代から戦国時代へと向かう流れの始まりにあたるおよそ800年前より、人々が真実を見失い混乱の中に生きる「末法の世」が始まったのです。
真の男性性と女性性の封印
神とは、この世界の仕組みである物理性を顕す存在を言います。太陽は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の顕れです。天の道理の柱を降ろし、太陽系の全ての存在の基軸となる太陽は、男性性のはたらきを顕します。これに対向発生する女性性のはたらきが、天照大御神の妻神、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)です。水の女神である瀬織津姫命は、天照大御神の示す天の道理を柱として横に広がる回転を起こし、世界に現象化(生命活動)を起こします。この陰陽の対向発生により、世界が創造されていくのです。
ところが時代が光から闇へと向かう中で、いつの頃からか天照大御神は女性神として祀られるようになり、天の道理で地上を治める真の男性性が封印され、力で支配する間違った男性性が世に横行することとなりました。同時に、妻神である瀬織津姫命も封印されることで真の女性性も失われ、逆さまとなった世の中では間違いが正しいこととなり、曲事(まがごと)が蔓延するようになったのです。
国を守護する花祭り
時代がいよいよ闇のピークへと近付いたおよそ700年前のこと。曲事が蔓延し天の道理が忘れられていく末法の世の始まりにおいて、地上世界の乱れを諫め国を守護するために、熊野の修験道たちは、熊野の艮(うしとら=北東)の方角にあたる天龍水系を鬼門とし、その地にある奥三河で、地上を生きる人々のあるべき姿を示す祭りを始めました。これが花祭りの始まりとなったのです。この世の災いは人間の犯した罪や穢れによるものであるとし、自らを正し新たな自己へと再生することの大切さを歌や踊りで表現したこの祭りは、一年で最も暗く寒い時期に行われました。大地を踏んで舞い踊り、地中に眠る生命力を呼び覚まし、穢れを祓い清め空の器となった人々へ神々が降臨し、共に舞い踊る。その奥には、自我にまみれ自らの本質を忘れた人間たちへ目覚めを促す、深いメッセージが込められていました。
地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀る熊野権現の奥の院にあたる玉置神社、太陽神・天照大御神を祀る伊勢皇大神宮、そして太陽に対して月を表す瀬織津姫命を祀る奥三河の槻(つき)神社は、坤(ひつじさる=南西)から艮へ向けて見事に一直線を描き、その延長線上には富士山があります。世の中が闇のピークへと突き進む中、国の象徴である伊勢皇大神宮をはさみ、奥三河の山村で受け継がれてきたこの祭りは、いつの日か富士の地にその真の精神が受け継がれ、花開くことが予言されていたのです。
榊鬼と翁の問答
花祭りには多くの鬼が登場します。鬼は天の仕組みを地上に顕す、神の化身です。中でも最も重要な存在である榊鬼 (さかきおに) は、祭りの中で、人間の代表である翁 (おきな) と問答を行います。
翁
やいやい、伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給う木の花の御庭を、事どもしき姿をして舞荒らすは、何たら何者にてさむらう。
榊鬼
吾が身が事にてさむらう。
翁
なかなか、汝が事にてさむらう。
榊鬼
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗、愛宕山の小天狗、山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは吾等がことにてさむらう。
翁
事にてさむらうは何万歳をへたるとや。
榊鬼
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや。
翁
法は九善、神は十善、神の位をもって十二万歳をへたるとや。神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。
榊鬼
まことか。
翁
まことに。
〈榊鬼と翁は榊の枝を引き合う。〉
榊鬼
この榊と申するは、山の神は三千宮、一本は千本、千本は万本と、千枝百枝までも惜しみ給うこの榊を、だれが許しを得て切り迎えとったとや。
翁
伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間、所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊、引き取ったならば、是より艮、木の花の富士の山が立ってまします、それを汝の褒美にとらす。
榊鬼
まことか。
翁
まことに。
〈両者 榊の枝を引きながら共に歌う〉
榊鬼 翁
ありがたや まことの神行か 扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊
〈引き合っていた榊の枝を翁が勝ち取り、祭場中央の湯釜へ投げ入れる。榊を手放した榊鬼は、艮の方位(方角)へと退く。〉
榊鬼と翁の問答
人間に地上の政を託した榊鬼
榊鬼は、遥か昔に封印された地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)の化身です。地上に天の道理の柱を立て、曲事を許さない大変厳しい存在であったこの神様は、勝手気ままな八百万の神々に疎まれ、遥か昔に艮の方角へ封印されました。それ以来、地上は荒れ放題となったのです。それでも年に一度、最も闇の深い時に、地球神は鬼の姿をして顕れては、人々に自らの心の闇と向き合い、光へ向かうことの大切さを説いてきました。しかし自らの闇と向き合うことを避ける人々は、鬼こそが災いの元であるとし、艮の方角を鬼門として恐れ「鬼は外」と豆をまいて追い払う、逆さまの世が続いてきたのでした。
榊鬼は大地に命を芽吹かせ、生命の多様性を生み出し、天の道理を降ろすことで地上に秩序をもたらします。秩序とは調和です。多種多様な生命が調和のもとに循環する豊かな命の世界を地球上に築いた榊鬼は、祭りの中で、榊の枝を手にした翁と問答を行います。翁は榊鬼に対し、自身がいかに優れたものであるかを語り、「神行のためには榊を引いて帰れ」、つまり本当に神の道を行くならばこの榊の枝を引き取ってみろ、と仕掛けるのです。
「神の木」と書く榊は、地上の支配権(政=まつりごと)の象徴です。翁は、榊の枝を引き取ることができたなら、艮の方角にある富士の山を褒美にやろうと言います。そして榊の枝を引き合った結果、翁が榊を勝ち取ります。つまり、人間が地上の支配権を手に入れたのです。
しかし榊鬼は、負けたわけではありませんでした。自らが天の創造物であることを忘れ、宇宙の法を無視し、まるで自身が創造主であるかのように都合良く世界を創り変えながら、自らを振り返る意志のない人間たちに、「ならばやってみるが良い」と地上の政を託したのです。その結果更なる曲事が横行し、闇のピークに向かって地上は混乱を極めていきました。艮の方角へ退いた榊鬼は、そんな地上の様子をずっと見守っていたのでした。
花祭りの問答には「伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間」という文言が繰り返し出てきます。2012年12月21日、太陽系は銀河の冬至を越え、闇が増していく時代から光が増していく時代へと舵を切りました。セントラルサンの霊的な光が差し始める中、「もはや曲事はならぬ」と封印を解かれた地球神が、問答の中で予言されていた富士浅間の地で復活し、新たな時代の幕開けを宣言するのです。
※奥三河では十以上の地区でそれぞれ独自の花祭りが行われており、問答も地区ごとに多少の違いがあります。上記は、奥三河の榊鬼と翁の問答を元にした富士浅間木の花祭り独自のものです。
大 和 の 御 魂 を 呼 び 覚 ま し
真 の 世 が 花 開 く
銀河の冬至が開けた2013年より、奥三河の花祭りの流れを受け継ぎ、富士のふもとにて富士浅間木の花祭りが始まりました。
闇のピークを越え、光が差し始めた新たな時代の幕開けを祝うこの祭りは、「ヒフミヨイムナヤコト」という数理によって顕される、「ヒ」から始まり「ト」で統合する宇宙創成の物語を、全体を通して表現しています。
祭場となる木の花ファミリーの「おひさまハウスひまわり」は、坤(南西)の方角に小高い丘があり、艮(北東)の方角に松の木があります。それは偶然にも、祭り第一日目に執り行われる神事の「高根祭り」と「辻固め」を行うのにふさわしい場所であることが、祭りを継承した後に明らかになりました。
高根祭り
祭場の坤の方角の小高い場所に結界を張り、上空から来る低級霊の侵入を防ぐ神事。富士浅間木の花祭りでは、国之常立尊(くにのとこたちのみこと)の妻神である豊雲野大神(とよくものおおかみ=坤の金神)を召喚する。
辻固め
元来は祭場の艮の方角に結界を張る神事だが、富士浅間木の花祭りでは結界を張ると同時に国之常立尊(艮の金神)を召喚する。「木」に「公」と書く松は公の心、即ち全体性を示しており、艮の金神の復活により花開く弥勒の世は、別名「松の世」とも称される。
四本の柱に囲まれた舞庭(まいど)と呼ばれる祭場の中央には釜戸があります。
火 陰 天照大御神のはたらき
釜戸に入れる火は、祭り第一日目の始まりに行われる「採火式」にて、太陽の光から起こされます。太陽とは、天照大御神の霊性の顕れです。封印されていた妻神・瀬織津姫命の復活と共に、天照大御神もまた封印を解かれ本来の男性神としてよみがえり、陰陽が正しく統合し、逆さまであった世の中へ真の男性性と女性性が復活します。火は祭りの間中絶えることなく燃焼し続け、祭りに天地を貫く揺るぎのない霊的な柱を通します。
水 陽 瀬織津姫命のはたらき
富士浅間木の花祭りでは、祭りの趣旨に共鳴する日本全国及び世界中から届く各地の川や滝、寺院・寺社等で汲み上げられたご清水を、舞庭の中央にある釜へ注ぎ、ひとつに融合します。そして祭りの中で、封印されていた水の女神・瀬織津姫命が復活します。水は太陽から降ろされた火(天照大御神)に焚かれることで制御され、火がもたらす縦の霊性のエネルギー(陰)を柱として、横に回転する現象化のエネルギー(陽)を起こします。
火(カ)と水(ミ)が合わさり神(カミ)となる
水は、響きを転写します。世界中の水が集まるということは、世界中の波動や、穢れも集まることになります。水は生命の発生と存続に欠かせないものであり、生命を清める存在でもありますが、その水が今、人間によって酷く汚されているのです。
祭りの中で、様々な響きを持つ世界の水はひとつに溶け合い、天から降ろされた聖なる火で焚かれます。水という現象世界の象徴(陽)に、天から降りた火の揺るぎない霊性の柱(陰)を通すことで、水は秩序ある働きを取り戻し、清められます。それは、昼の太陽である天照大御神と、夜の月を表す瀬織津姫命の統合を表し、二神が正しく対向発生することで地上に豊かな恵みがもたらされるのです。その聖なる火と水の周りを神々の依り代となった舞手と共に人々が繰り返し舞い踊ることで、柱はさらに太く力強くなり、神人和合の喜びと調和の響きが水へ転写されます。調和の響きに満たされた水は、祭事の後の「お水送り」の儀式にて川へと還され、再び地球を巡っていくのです。
祭事の流れ
祭り第一日目の神事にて場が整えられた後、第二日目の祭事では、朝から晩まで様々な舞手が観客と混然一体となり舞い踊ります。舞手は神々の降臨する依り代です。繰り返し繰り返し舞うことで、人々は自我から解放(マツリ)され、囚われのない天地一体の境地となるのです。
楽の舞(撥の舞)
祭事が宇宙創成の現象化の物語(陽)を表しているのに対し、その現象化を起こす「思い」の段階(陰)における神事の総仕上げとなる舞。神事を司る花太夫(はなだゆう)が、祭事の柱となる太鼓の撥(ばち)を手にして舞い踊り、撥に魂入れをする。
全ての始まりに響き(言葉)あり
神座の中央に位置する太鼓は、全ての舞の進行の基軸となる祭事の要。その太鼓の中心を、神の宿る撥が打つことで魂が吹き込まれ、高次の響きが発生し、宇宙創造の始まりを宣言する。この物理性により、宇宙の創造の意味を示す。
一の舞
万物が現象化していく始まりの「ヒ」にあたる、一人の舞。ヒとは火であり、日でもある。地球の創成では大地が生まれる以前の火の海である超原始地球の段階であり、静から動、無から有への出発点となる。
地固め
始まりの「ヒ」から相反する二物へと分かれた、二人の舞。海から地が生み出され、その地を踏み固め、固定する。男女が舞う「地固め・扇」は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)を表し、相反する二物が互いを成り立たせ引き合う対向発生により、地上世界が創造されていく。
山見鬼
固められた平坦な大地にしわを寄せて山を創り、割り開いて谷を創り、気候の変動をもたらし、自然のダイナミズムを生み出す、力強いエネルギーの象徴。その化身は須佐之男命(すさのおのみこと)と云われ、地上に生命誕生の土台を築く。
花の舞
稚児の舞とも呼ばれる、幼い子ども達による舞。花とは生まれ変わった新しい命のこと。幼子は穢れのない清い存在であり、土を踏んで穢れないよう大人に抱きかかえられ舞庭に入場する。
榊鬼
榊鬼は、遥か昔に封印された地球神・国之常立尊(くにのとこたちのみこと)。大地に眠る生命力を呼び覚まし、地上に命を芽吹かせて、生命の多様性(地球生命生態系の元)をもたらす。反閇(へんべ)という大地を踏む所作では、五芒星を描き中心に魂を入れることで天の道理を地に降ろし、多様性の表現された生命世界へ魂を吹き込む。人間の代表である翁と問答を行った榊鬼は、地上の支配権(榊)を人間に明け渡し、艮の方角へと引き下がる。これより人間の支配する地上世界が始まる。
三つ舞
少年少女による三人の舞で、三神の舞とも云われる。神幽顕、天地人等、物事を構成する基本要素は三位一体で表され、ヒで秘かに始まりフで震えていたエネルギーがミに至ると安定する。目には見えないが心で感じられる霊的エネルギー(電気・磁気・力)が満ちている状態。
四つ舞
三つ舞より熟練した舞手による、四人の舞。満ちたエネルギーが横方向へと広がり、四方が現れ、拡張と収縮の正反四相の働きにより、調和した現象(地球生命生態系の循環)が地上に顕れる。
岩戸開き
すりこ木やしゃもじを手にしたひょっとことおかめが、面白おかしく舞い踊り、観客の顔に味噌や米を塗り回る。味噌と米は生態系の循環がもたらす豊かな恵みの象徴であり、地上の人々が食べることに困らぬようにとの意味が込められている。こうして地上が陽気に賑わうことで、天の岩戸開きとなる。
天地 (あめつち) の舞
岩戸が開き、封印されていた水の神・瀬織津姫命が現れ、雨(天のしずく)を地に落とす。女神である瀬織津姫命の復活は、同じく封印されていた天照大御神の男性性の復活をも表しており、失われし真の女性性と真の男性性が世に再び現れる、新たな時代の幕開けにつながる。
金神の舞
人間に地上の支配権を明け渡した後も、山に籠り地上の様子を見守っていた地球神(榊鬼)は、新たな時代の幕開けを宣言するため、鬼から神へと姿を変え、光り輝く艮の金神(うしとらのこんじん)として地上に現れる。金神は再び翁と問答を行い、人間は地上を生きることが天と共にあることに目覚め、地上の支配権の象徴である榊を天へと返す。この神人和合の精神により、地上に「弥勒の世」が花開く。
このはな八重の舞
世界の五色人を表す五色の衣をまとった男女八人が舞い、世界の平和と調和を表す。金神の復活により真実に目覚めた人々が、命の喜びを八方宇宙へ響かせ、うれしたのしと舞い踊り、一人ひとりの「個の花」を咲かせ、飽和と安定(ヤ)を超え(コ)て転がり(コ)出ることで、弥勒の世(統合=ト)となる地上世界をダイナミックに表現する。
茂吉鬼
破壊と豊穣を司る大黒天の化身の茂吉鬼が、天井の湯葢(ゆぶた)に吊るされた「蜂巣(はちす)」というお宝の入った袋を払い落とす。蜂巣とは蓮の花托(かたく)、即ち天上世界を表し、地上の古い仕組みを壊すことで天の恵みが地へ降ろされ、地上天国の創造へとつながっていく。地に降り注いだ豊かな恵みを、人々は拾い集め、皆で分かち合う。
湯ばやし
天の仕組みが顕れた地上で、聖なる火と世界の清水が統合する釜の周りを、四人の若者が舞手となって観客と共に舞い踊る。釜の周りを繰り返し回り続けることで人々の心も融合し、水はさらに清められ、最後に舞手がその水を勢いよく場内に振りまき、清らかな響きが世界へと放たれる。人々もまた清水を浴び、新たな自らへと生まれ変わる。
獅子舞
清まった場内を祝いの獅子が練り歩き、場や人々を重ねて祓い清め、舞い踊ることで祭事は締めくくられ、「お仕舞い」となる。これより以降、神返しの神事となる。
艮の金神と翁の問答
岩戸開きによって現れた瀬織津姫命が、男性性を取り戻した天照大御神と正しい陰陽の統合を果たすと、地上にあるべき男女の姿が示され、豊かな実りがもたらされます。そこに、封印を解かれ鬼から神へと姿を変えた地球神・国之常立尊が、光り輝く艮の金神として現れ、人間の代表である翁と再び問答を行います。
翁
伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間。ところは当所の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。
金神
この方(ほう)は、艮の金神と申す。時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世。
翁
艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。
金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに代わりたる、新たな仕組み始まれり。縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。
翁
一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。
金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみひと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹に真(まこと)を据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。
翁
引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。
金神
一度は渡したその榊。天の元に供えられい。
〈翁が榊の枝を金神の腰に差し、根付きの榊を金神に渡す。金神、反閇(へんべ)を踏む。〉
金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、うれしうれし、たのしたのしの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
〈金神、カタカムナ第五首、第六首を奏上しながら、舞う。〉
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ
ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ
金神
真(まこと)の神が現れる。神人(かみひと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。
最も寒さの厳しい時に
生きとし生けるものはすべて、大地と共にあります。春に芽吹いた命は、夏に大きく成長し、秋に実り、冬は静かに次のサイクルへ向けての準備をする。太陽と月、そして星々の対話が地上に命のサイクルを刻み、私たち人間も、他のあらゆる生命も、その大いなる循環の中で生かされています。私たちは大地によって育まれた、地球(国之常立尊)の化身なのです。
現代を生きる人々の日々の意識は、土から遠く離れています。実体のないマネーゲームやテクノロジーの中に生き、自分たちの思い通りに地上を支配しようとした結果、今や人間は、自らの創り出したものに支配されようとしています。そのような中、富士の麓で土を耕し、星々の紡ぐサイクルに沿い、大地と共に生きることを何よりも大切にしながら日々の暮らしを送る人々のもとへ、この祭りは受け継がれました。祭りは、一年で最も寒く生命力の衰える時に開催されます。人々は命への感謝を捧げ、自然の成り立ちの背後に存在する神々と意識を共振させ、皆で歌い舞い踊り、自らの穢れを祓い清め魂を再生させることで、新たな命のサイクルの始まりである立春を迎えるのです。
時、いよいよ来たれり
2012年12月21日、太陽系は銀河の冬至を迎え、それまでの闇に向かうサイクルから光へ向かうサイクルへと舵が切られました。闇に向かう時代には、人々は真実が何であるのかが観えず、正しいと思ってやることが間違いを生み、地球上にたくさんの矛盾を積み重ねてきました。しかし、闇のピークを越え、かすかに光が差し始めた今、これまで行ってきたことの実態が徐々に照らし出され、現象として示される時が来たのです。この時代の大いなる転換の時、封印されていた地球神が「時、いよいよ来たれり」と艮の金神として再び世に現れたのです。
艮の金神は「地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)」の始まりを宣言します。文明の発祥から6000年以上に渡り、人間たちがより豊かな国創りを目指し人知を尽くしてきた結果、自分さえよければいい「我よし」、力あるものが他をねじ伏せる「力よし」が世に逆巻き、自らを賢いと思う者が間違いを生む「あやま知」が地上を支配するようになりました。金神は、そのような人間の有様を天の意思に転換する、六千歳(6000年)のたてなおしが始まったことを宣言するのです。
「こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事」とは、このたてなおしは始まりの時から決まっていたということです。かつて榊鬼は地上の政(まつりごと)を人間に託し、艮の方角へと退きました。それは、人間が自分たちの力を過信し酔いしれている間は真実がわからないため、そのまま進むとどうなるかを身をもって体験することで、納得させる必要があったからです。その結果、地上は問題ごとで溢れかえることになりましたが、人間たちは「鬼は外、福は内」と豆をまき、問題ごとの根本原因である自らの心の闇を観ることを促す鬼を悪者として追い払い、都合の良い福だけを招き入れてきました。そのような福を招き入れてきた結果、人間は世界に何をもたらしてきたのでしょう。すべてが天意と逆さまの世となった今、その原因でありながら自らを振り返らない人間たちへ、金神は「どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくり返すぞよ」と告げるのです。
神の使える器となる
「マツリ」をカタカムナで紐解くと、球の中(マ)に高次限定空間の集い(ツ)が発生し、それが分離(リ)していると読み解くことができます。即ち、自我に囚われている人間が、その自我から分離して器が空となり、高次の空間で「どうぞこの器をお使いください」と天の受け皿となっている状態です。自らの中が自我の思いでいっぱいの時には天の入る余地はありませんが、空の器となった時、その中心に天が魂を入れます。魂が入るとは、自らの中に天の道理の柱が立つ、つまり、宇宙の法(神の心)を柱として地上を生きることです。
「汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ」とは、日は火(カ)、即ち男性性を表し、月は水(ミ)、即ち女性性を表しており、この正しい陰陽の統合の先にある命(神が現象化した姿)が生まれ出ることを示しています。私たちはこの神聖なる宇宙の仕組みに基づき、肉体という空の器を穢れのない状態で与えられ、そこに宇宙の法の柱を降ろし生きていくのが本来の姿なのです。宇宙にある無数の星々が遍く連鎖し世界が成り立っているように、私たちの体が多種多様な機能の集積によって命として存在しているように、宇宙はつながることによって成立しており、その大本にあるのは善意と愛、そして調和です。私たち人間がその宇宙の法を柱として地上を生きた時、天の仕組みが地に降ろされ、地上天国が実現するのです。政(まつりごと)とは本来、人間の歪んだ自我を表現し欲望を満たすことではなく、汚れのない無垢な器となった人間が天の仕組みで地上を生きることなのです。
魔釣りから真釣りへ
今の世の中は、天の存在を忘れ自我にまみれた人間たちが魔を釣り上げる「魔釣り」の世となりました。富士浅間木の花祭りでは世界中の水を集めて清め、清まった水をまた地球へと還します。この大事を行ずるには、美しく清らかな心で臨むことが大切であり、祭りを執り行う者は常日頃からの精進が求められるのです。
金神は、宇宙の創世から消滅までの物語を48音で表したカタカムナのウタヒ第五首、第六首を奏上し、舞い踊ります。そのウタヒには、宇宙発生の大本の響きが込められています。「始めに言葉(響き)あり」と言うように、この世界は大本の言葉(思念)から発生しています。その大本の言葉を元として広がった現代の言葉は、今、とても汚れています。言葉が汚れているのは、それを発する人間の心が汚れているからです。自我の思惑や嘘で汚れた言葉が世界を創り、その汚れた世界が生命の源である水を汚し、命を汚していきます。汚れた言葉を発することは、汚れた響きを宇宙に発信することであり、その蓄積が今の世の中の矛盾の源泉となっているのです。
金神は宇宙の大本である48音の音霊(おとだま)を響かせ、現代の汚れた言葉を清めます。それは、行き過ぎた物理性を霊性をもって制御し、物理性と霊性の統合した調和の時代となることを求めているのです。その大本の心は「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」。人がこの世界に生み出された真の目的に目覚め、自我から生まれる汚れを取り去り、天と共に世界を創造していく意志を持った時、魔に代わって真(まこと)が入る「真釣り」の世が始まります。それは、人間が地上で真を生きることにより、宇宙の求める真の姿に地球を返すこととなるのです。
天教山より 弥勒の世が花開く
新たな時代の到来を宣言した金神は、人間の代表である翁にこう告げます。「この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ」。天教山とは天の教えが降りる山、富士山のことです。日の本とは日の当たるところ、つまり地球全体のことです。天から富士山へ降りた教えは地中に潜り、マグマ(火)を通って地球の魂の意向を乗せ、地教山(地球上の生命のあるべき姿を示す山)であるヒマラヤから地上へ噴き出します。その教えは命の水の響きとなり、ガンジスの河を下り、全世界へと広がっていくのです。末法の世の始まりに奥三河の山中で始まったこの祭りには、いつの日か富士の地へ祭りの精神が受け継がれ、その教えが世界に向けて花開いていくことが予言として込められていたのです。
金神の心を受け取った翁は、かつて榊鬼から引き取った榊の枝と共に、大きな根付きの榊を金神へ返します。それは、心の底から地上の支配権を天へ返すことを表しています。そしてそれは、天と共に地上を生きる意志に揺るぎがないことの誓いの証でもあるのです。「真(まこと)の神が現れる」とは、宇宙創造の根本原理が人間の行いに顕現すること。「神人(かみひと)共に現れる」とは、腹に真を据えた人々が神の顕れとして地上を生きることを意味し、これこそが天地一体の精神を有する人々の姿であり、真の意味での生まれ変わりなのです。花祭りは魂の再生の祭りであり、「花」とは、新たに生まれ変わった清らかで美しい命が花開くことを示しているのです。
もしも本当に人間たちが花開いたならば、人間だけでなく、そのことを待っていた動物や植物、微生物、水や土や空気や風や、太陽や宇宙の星々までも、この世界の全ての生命たちが喜び、うれしうれし、たのしたのしと舞い踊ることでしょう。そのように皆が共に喜び、笑い、愛し合う時代が到来したことを、復活した地球神・艮の金神は告げているのです。
命あふれる奇跡の星 地球の上で
これは地球史の、クライマックスと言える物語です。
現代は、地球の誕生から46億年、生命の発生からおよそ38億年と言われます。その間、地球上には幾度となく環境の大変化による生命の大量絶滅が起こり、その度に次の環境に適応した新たな生命が誕生してきました。破壊と再生を繰り返しながら進化し続けた生命は、長い時を経て、ある時サルに至りました。
「神」という字は、旧字体で「神」、即ち、「申(さる)に示す」と書きます。生命がサルにまで進化した時、神はそれを器として自らの魂を降ろし、天からの示しとしました。それが人間の始まりとなったのです。果てしない生命進化の物語を経て、神は人間に、自らの代理として地上を生きる役割を託しました。それまで多種多様な生命がそれぞれに相応しい位置で役割を果たし、自然の仕組みのままに循環していた生命世界へ、その仕組みの背後にある意思を理解し、その意思と共に世界を創造していく可能性を秘めた存在(人間)が降ろされたことで、世界という器に魂が吹き込まれたのです。
地上に降りた神の魂 ────人間
類まれなる可能性を与えられた人間は、それまで自然界には存在しなかったものを次々と生み出しました。その歩みは留まることを知らず、今や人間の判断力を超えて進化し続けるAIや生命の根幹を揺るがすゲノム編集、世界を破壊する威力を秘めた核技術など、一たびその方向性を間違えば自らを破滅へと追いやる可能性のあるものを創り出すところまで、私たち人間は到達したのです。では、その人工の世界の急速な発展は、人間だけの力によるものかと言うと、その背後には常に、天の意思が存在していました。
現代に至る人間の営みは、地球環境を悪化させ、人間のみならず他の生命にまでも害を及ぼし、世界に深刻な現実をもたらしています。ならば、その害の元となる人間の高い能力を否定するべきでしょうか。そうではありません。なぜなら天は人間に、可能性を託したのです。神の代理として地上に降りた人間が、その智恵を使い、自然に任せているだけではできなかったことを表現するために、天はあらゆる材料を与えました。ところが人間は天の存在を忘れ、それを自らの力で獲得したと思い込み、自分たちの都合の良いように使い始めたのです。自我に囚われた人々が魔を釣り上げる魔釣りの世では、どれほど優れた能力も、結果として世界に害をもたらすものとなりました。その行為を行う者の内にある精神性が、現象の性質となって顕れるのです。
富士浅間木の花祭りでは、行き詰った世を立て直すために艮の金神が「世の中ひっくり返すぞよ」と現れます。それは、天が人間に与えたものの使い方を根本的に変えるということです。使い方を変えるとは、その元となる人間の心を変えることなのです。
マツリとは、生きることそのもの
私たちは、地球生命です。地球生命である私たちの肉体は、太陽から届く物理的な光が元となり、命を存続させています。つまり、私たちは太陽系生命なのです。そしてその物理的生命と対向する私たちの霊的生命は、天の川銀河の中心であるセントラルサンから届く、目には見えない霊的な光によって成り立っています。つまり私たちは地球生命であり、太陽系生命であり、天の川銀河生命であり、宇宙に存在する宇宙人としての認識を持つべきなのです。
ひとつの体の中で、意思の伝達は瞬時に起こります。太陽系からセントラルサンまでの距離は2万6100光年、即ち、光の速さで2万6100年かかるということであり、その中で星々は瞬時に自らの肉体である銀河の意思を共有しています。つまり、私たちは既に、物理性をはるかに超える霊的な共時性の中に生きていることになるのです。その大いなる万物の共通点の中に、自らを一方的に優先する心が発生すれば、そこに分断が起こり、意思は共有されず、大いなるものとしての意識は失われていくことでしょう。しかし一たびその大本の存在へと意識を向け、宇宙根源の響きと共振した時、私たちは奇跡の星・地球に生命として降り立ったことの意味に目覚め、そこに存在する数多の生命の代表である人間の真の役割を果たすものとなるのです。
そのような意識レベルに到達した時、私たちの内から発せられる宇宙根源の響きは瞬時に世界を駆け巡り、地上に顕れる現象が変化していくことでしょう。他の生命にはない高い能力を与えられた人間は、自然だけでは成し得ない、世界をより豊かに創造する可能性を秘めているのです。そして人間が自らの真の役割に目覚めた時、世界という器へ真が入る、真釣りの世が始まるのです。
冬至の後、最も寒さの厳しい時期が訪れるように、宇宙的には銀河の冬至を越えた今、これまで積み上げてきた間違いの結果がいよいよ現象となって現れ出す、厳しい時代が始まります。その中で、自らに積み重ねてきた穢れを祓い清め、その奥に眠る真の生命力を呼び覚まし、この世界の大いなる意思と自らを呼応させ、共に新たな世界を創造していく。そして生まれ変わった新たな魂で、その厳しい寒さの先にある春を迎える。そのひな形として、富士浅間木の花祭りは毎年立春前の寒さ厳しい時に、新たな世の始まりを迎えるけじめの祭りとして行われます。人間は地球に生きる全ての生命の代表として、命であることの感謝を、祭りを通して天に捧げる役割を与えられているのです。
その意識に目覚めた人々は、自らが人が生きるべき姿勢のひな型となり、毎日を生きることになるでしょう。日々の積み重ねが一年となり、一年の積み重ねが一生につながり、その人生の価値として積み重ねられたものの結果が、美しい世界を創る。人生を通して真の価値を見出し、人が生きることで世界がより豊かになっていく ──── その大いなる生命の営みがマツリであり、それは生きることそのものなのです。
その意識にあなた達が目覚めた時
あなた達は再び
私と出会うことになるでしょう
富士浅間木の花祭りでは年間を通して各地のご清水を募集しております。ぜひ皆様のお住いの地よりご清水をお寄せください。また、祭りの開催や「花宿(はなやど)」と呼ばれる専用の祭場の建設をご支援頂く花見舞い(寄付金)も受け付けております。詳しくは下記ホームページをご覧ください。
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