木の花ファミリー通信2018年冬至号 〜 性 ー すべてのはじまり 

 

 21世紀の死生観 第四部 

す べ て の は じ ま り

「21世紀の死生観」第一部から第三部では、すべての生命が悠久の時の流れの中で無限の生死を繰り返している世界の仕組みをひも解き、私たちはなぜこの世界に生まれてくるのかについてお話ししました。その命はすべて、性の原理によって生み出されます。「21世紀の死生観」最終号では、私たちの命の根源である性について解き明かします!

 

時代をつなぐの根本原理

私たちの生きる世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。この宇宙創造の原理を、性と言います。性という字は、「忄(こころ)」が「生きる」と書きます。「忄(こころ)」は、中心に天から柱が降り、その左右に陰陽の相反するエネルギーが生まれることを表しています。それは、天(宇宙)の心です。そして中心に立つ柱は、この世界を成り立たせている天の法則です。天の柱のもとに、陰陽の対向発生によって現象化が起きる仕組みを、天の心と言います。

そもそも、私たちはなぜ生きているのでしょう。それは、私たちを生み出し存在させているこの世界が、先にあるからです。

現代の多くの人々は、自分の力で生きていると思っています。しかし真実は、この世界があるから自分が存在しているのであり、この世界に存在するありとあらゆる生命、物質、現象、そして私たち人間も、すべてはこの世界を創造する天の法則のもとに生まれ、その法則により維持され、世界が成り立っているのです。その仕組みに沿い、それを柱として生きる生命の本来あるべき姿が、性という文字に示されているのです。

ところが現代の人々は、性を大きく取り違えています。自らを生かしている世界の仕組みに沿うのではなく、内から湧き出す自我の欲望を満たすうちに、人々は法則の存在を忘れ、性をストレス解消や快楽を得る手段ともするようになりました。そのように欲のままに行うことで後ろめたい心が生まれ、性は隠し事となり、歪められ、ついには売春やレイプのように本来の姿からはほど遠いことまで起きるような、真実とはかけ離れたものとなってしまったのです。性という創造のメカニズムが狂うことで、そこから生まれる世界のすべてが狂っている ──── それが現代社会の根本にあり、そのあり方を切り替えない限り、世界が健全になることはあり得ないのです。

私たちは性を通してこの世界に生まれ、性を通して次の時代に命をつないでいきます。それは、私たちが生命として誕生し、世界を維持し、時代をつなげていくために欠かすことのできない命の根本原理であり、神聖なものです。私たちの原点は性にあり、本来、人間に備わっている本能的欲求は、人間の尊厳を高め、生命世界に寄与するためにあるのです。

それでは、私たちの根源である性の仕組みをみてみましょう!

 


 

この世界では

大きな生命も小さな生命も

すべて皆同じ

性の原理によって成り立っています

 
性の仕組み

まず、天から地に向けて、一本の柱が降りてきます。
「21世紀の死生観」第一部第二部では、私たちの生きる現象界(ある世界)の奥に、すべての生命の源である潜象界(ない世界)があり、私たちは潜象界から常に純粋な生命エネルギーを与えられる天然循環の仕組み中で生かされていることをお話ししました。潜象界とは「カム」、即ち、目に見えるものだけを認識する現代人の感性では見ることも感ずることもできない世界です。天から降りてくる柱は、このカムの純粋な響きを、現象界へと「ウツス」はたらきをします。これを「カムウツシ(現象化の元となる原理)」と言います。これにより、私たちの命の源である深遠なる天の法が現象界へと降ろされます。この縦に貫く力が、男性性のはたらきです。
それに対し、天から降りてきた柱を受け、そこから生命の種を受け取り、縦の柱を軸として横の回転となり、目に見えない天の法を現象化するはたらきを「アマウツシ(現象を引き起こす原理)」と言います。この横に回転する力が、女性性のはたらきです。目には見えない法を降ろす男性性が陰であるのに対し、その法を現象として顕わす女性性は、陽です。それは、どちらも単独では存在し得ない対等なものであり、その対向発生により、宇宙が命として現象化されていきます。縦の陰の柱をトキ軸、横の陽の回転をトコロ軸と言い、トキとトコロが整うことで、生命が誕生するのです。

 宇宙の構造

 
星の誕生

この仕組みをもとに、地球の成り立ちをみてみましょう。

 地球誕生のメカニズムと性の仕組み

まず始めに縦の柱が発生し、キタからミナミへと貫きます。そしてそれを軸として、横の回転が起こります。縦の軸は陰、横の回転は陽です。その陽の回転をキタから見るとヒタリマワリ(左回り)、ミナミから見るとミキリマワリ(右回り)になります。ヒタリマワリは拡散化していく陽のはたらき、ミキリマワリはそれを抑える抗拡散化の陰のはたらきです。つまり、陽の横回転の中に、さらにミキリマワリとヒタリマワリという陰陽のはたらきが同時に存在し、二つの力が拮抗する赤道上でもっともエネルギーが高まり、現象化が起きて多くの生命が発生するのです。そして、縦の柱を軸として磁場が発生し、全体が巨大な球状の磁石(生命体)となります。

この物理性は、地球も、太陽系も、銀河も、すべて同じ仕組みになっています。絶え間ない陰と陽の交わりが宇宙の至るところで繰り広げられ、世界に命を生み出し続けているのです。私たち人間の男女の交わりもまた、同じ仕組みによって成り立っています。

潜象界と現象界の狭間にあり、二つの世界が交わって現象化への質的転換を起こす世界を「アマ界」と言います。それは、宇宙の子宮です。アマ界に降りてくる縦の柱は、生命の交わりにおける男性器を表します。そしてその周りに発生する横の回転は、女性器を表しています。人間の男女が交わる時、男性器と女性器が結合することで、男性は聖なる天の柱を女性の中に降ろします。女性はその柱から命の種を受け取り、体内で地球生命38億年の進化の歴史をたどりながら育み、最終的に人としてこの世界へ送り出す、聖なる役割を果たすのです。このように、本来、私たち人間が営む性は、宇宙の創造と同じ仕組みによって成り立つ、とても神聖なものなのです。

 
太陽と月

男性が柱を立てることで降りてくる天の種は、光が元になっています。すべての生命のはじまりは、光です。

地球に生きる私たちを育む光は、太陽から発せられたものです。太陽は毎日昇り、地上に昼と夜をもたらし、生命のリズム、即ちトキの基本となります。人間の体の中で、太陽のサイクル(陽)によって毎日創られるのが、男性の生理、精子です。それに対し、女性の生理は、月のサイクル(陰)です。女性の体内の卵子は、月が満ちて満月となり、欠けてまた満ちるという月のサイクルで創られるのです。

地球に生命が誕生したのは、太陽の力だけによるものではありませんでした。太陽は地上に光をもたらし、地水火風空の自然循環を起こします。そして、地球の一部が分離することによって生まれた月は、地球から絶妙な距離を保ちながら、その引力によって海に満ち引きを起こし、海をかき混ぜ、太陽と共に様々な生命を誕生させました。太陽の存在だけではなく、その受け皿となる月が地球に寄り添ってあったからこそ、この星にダイナミックな生命活動が生まれ、その陰と陽の二つのはたらきによって、地球は宇宙でも稀に見る、命あふれる美しい星となったのです。

 
法から外れた世界

さてここで、男性性と女性性の陰陽が逆転していることにお気付きでしょうか。生命発生の元となる世界では、奥にある陰の柱が男性性であり、それを現象化する陽の回転が女性性のはたらきです。ところが、その命の源のエネルギーがアマ界を通って質的転換を起こし、命となって現象世界へ現れ出ると、女性性が陰で、男性性が陽となります(逆転現象)。両者は、互いに対向発生をする対等な関係です。

しかし今、人間社会の男女の関係は大きく歪んでいます。かつて、男性は柱を立てることで深遠なる天の法、即ち宇宙の叡智を降ろし、群れを統べる存在でした。そして女性は正しい智恵を持つ男性を見分ける目を持ち、その種を受け取って法にふさわしい地上を創る役割を果たしていました。この陰陽の対向発生により、天の法が治める秩序ある世界が地上に表現されていたのです。ところが時代が進むにつれ、男性は宇宙の叡智ではなく、力を用いて世の中を支配するようになりました。そしてその奥には、正しい智恵を持つ者を見抜く目を失った女性たちの存在がありました。

「陰陽」と言うように、この世界ではまず先に陰があり、それを元に形である陽が発生します。現象世界での陰は、女性です。ですから本来、まずは女性が正しいもの選び抜く智恵を持っており、男性は女性に選ばれるよう自らを磨き高めることで、両者が対等な存在となるのです。ところが、見えるものだけが大切になっていく時代の流れの中で、人々は目に見えるものの奥にある大切なものを感じ取る力を失い、女性たちは男性の本質を見抜くよりも、力を持つ者に媚びを売るようなりました。現代で言えば、その力とはお金や権力です。男性は本来の役割を忘れ、宇宙の叡智よりもお金や権力を得るために努力するようになり、こうして地上は天の法から大きく外れた、お金や権力が支配する物質優先の世界となりました。そして私たちの命の根源である性すらも、自らの欲望を満たし、力で支配したり媚びを売るための道具にしてしまったのです。

 
元へ還る

真の男女平等とは、単に制度的に平等になることではありません。それは、女性が女性であることの、男性が男性であることの意味に目覚め、天の法に則った正しい陰と陽の関係にあることです。

自分は一人でも十分に働いて一生を生きていくことができる、と思ったとします。しかしそもそも私たちは、一人では不完全なのです。はるか昔、この世界は完全なるひとつの世界でした。それがある時爆発し、空間が生まれ、多様性に分かれて現在のような生命世界が誕生しました。そして、分かれたもの同士が対向発生をするようになったのです。元の完全から分かれた私たちは、単独では偏っており、その不足感から互いに引き合い、結びつこうとします。元のひとつへ還ろうとするのです。

元へ還るとは、私たちの源である大本の叡智が湧き出すということです。個に分かれ、自我を持ったことで、自分はこの世界の中で単独で生きているかのような錯覚に陥った人間たちは、天が紡ぐ縁によって再び引き寄せられ、出会い、結びつき、本来備わる生命感を研ぎ澄ませることで、命の源である宇宙根源の美しい響きに共振するようになるのです。このように、大宇宙と響き合うことこそが、性の原点です。

その仕組みを理解し、宇宙と響き合う高い意識で行われる性の交わり(カムウツシ・アマウツシ)は、世界の秩序を正す力を持ちます。そして、より進化した未来を担う優れた魂を、人としてこの世界に送り出すのです。本来、私たちに備わる本能的欲求は、自我から湧き出す欲望を満たすためではなく、命の源の響きを感受し、自らを高め、その自らを生み出したこの世界へ貢献するためにあるのです。

 
天の心

宇宙の星々が、まるで約束されているかのように、ひとつの法則のもとに調和し、淀みなく宇宙を巡り続けているように、私たち人間もその法則によって生み出され、法則のもとに生かされています。ですから、その法則に沿って生きることは本来当然のことなのです。それがこの世界へ貢献することであり、その美しい世界の流れの中に生きることで、自らの人生もまた、とてもスムーズで豊かなものとなっていくのです。
その流れの中で今、いくつもの星々が、それぞれのサイクルのターニングポイントを迎えています。それは、時代の大いなる転換期が地上に訪れていることを示しています。私たちの肉体は、お父さんとお母さんという男女の性の交わりから始まりました。そしてその交わりの意識は、20世紀型のものでした。その20世紀型の価値観のもとに、私たちは降りてきたのです。
しかし今、時代は21世紀に入り、21世紀から30世紀にかけての千年紀が幕を開けました。それは、これまでとは違う新たな価値観の時代が始まったということです。天の柱を見失い大きく歪んできた時代から、真の柱を立て、その柱のもとに男性性と女性性が対等な存在として聖なる役割を果たす時代へ、世界は舵を切りました。天の心が地上を生きる、真実の性が表現される時代が始まったのです。
その先駆けとして今、あなたはこのメッセージに出会っています。それは、未来の地球は、あなた一人の目覚めから始まるということです。

 

 


 

男女の交わりだけが性ではない

万物とのパートナーシップ

性とは、男女の交わりだけを言うのではありません。

元の完全なるひとつから分かれ、それぞれに偏りを抱えてこの世界へ散りばめられた私たちは、不完全ながらそれぞれにふさわしいポジションを与えられ、偏りを個性として独自の役割を果たし、多様性あふれる世界を創り出しました。そしてひとつでは不完全であるがゆえに、自分とは異なるものと引き合い、対向発生をするようになりました。その対向発生の中心には、必ず天の柱が存在しています。つまり、この世界のすべての存在は天の心から生まれた神聖なものであり、姿形や働きは違っていても本質的にみな平等で、対等な関係なのです。その多様な存在の対向発生が無限に連鎖し、ダイナミックに変化しながら、私たちの生きる生命世界を未来へとつなげています。この、世界を維持する元となる多種多様なパートナーシップは、一つひとつどれもが欠かすことのできない、聖なるものなのです。

万物は、パートナーシップの仕組みによって成り立っています。私と宇宙、私と太陽、私と月、私と地球、私と土、私と空気、私と水、私と生命、私と心臓、私と手、私と足、私と動物、私と植物、私と微生物、私と誰か、そして、私とすべて。私たちはいつも、すべての存在と共に生きているのです。それぞれの関係性に、遠い近い、濃い薄いはありますが、どれも欠かすことのできない大切なものであり、それがあるからこそ、今、私たちはここに存在しています。この世界に、単独で存在しているものは何ひとつありません。なぜなら、宇宙の本質はつながることにあるからです。つながるとは、善意であり、私とすべては善意による深い絆で結ばれ、そのつながりの中で生かされているのです。

そのようにこの世界の成り立ちを捉えた時、世界に孤独は存在しないことが観えてきます。今、多くの人々が、自分と世界をつなぐ絆を見失っています。目に見えるものだけが大切になっていく時代の流れの中で、たくさんの存在とのパートナーシップによって生かされていることが観えなくなった人々は、「自分一人の力で生きている」と錯覚するようになり、自分だけの幸せを追い求めるようになりました。その結果、社会に格差をもたらし、優劣の概念を生み、私たちの命を育んできた地球生態系さえ傷付けるようになりました。地球生態系は、今も変わらず私たちの命を育んでいるにもかかわらず、その絆は人間の側から一方的に分断されています。こうして現代は、多くの人々が絆を見失った孤独な人生を生きるようになりました。

しかし真実は、私たちは宇宙根本原理の性という、天の心を顕わす仕組みを通し、それぞれにふさわしい位置と役割を与えられ、他のたくさんの存在たちと共に、この世界へと生み出されました。その無数のパートナーシップが連鎖していくことで世界は成り立っており、最終的には、すべての存在が天との対向発生の中にあるのです。そのことに気付いた時、世界にはもはや、孤独は存在しません。そしてあなたの周りに存在するすべての関係が、宇宙の深遠なる真理へと向かう、深い学びの機会を提供してくれます。良いと思えることも悪いと思えることも、すべてはあなたとのパートナーシップを通し、真実に目覚めさせるための善意の心から発生しているのであり、その対向発生の中心には必ず、天の柱があるのです。

このことを理解し、すべての現象の奥に流れる宇宙根源の美しい響きを感受するならば、誰もが自らにふさわしい役割を通し、その個性を存分に発揮して、世界の健全へと貢献することができます。そのような高い意識の調和の中に存在すること自体が性、即ち天の心を生きることであり、目には見えない天の法を現象として顕わすカムウツシ・アマウツシの目覚めは、男女の交わりだけではなく、私たちが生きる世界のどこにでも存在するのです。

性は、互いに異なるものが対向発生することで新たなものを生み出し、未知なる未来を創造していく宇宙の根本原理です。どうぞ、多くの人がその真実に目覚め、世界が美しい響きで包まれますように ────

 

 


私たちを生かしているこの世界の成り立ちをひも解いていくことは、どこまでも深く、その探求に終わりはありません。生きていることの真の意味をさらに深めたい方は、「1ヶ月間の真学校」へお越しください。
2019年は2月24日~3月23日開催!詳しくは1ヶ月間の真学校専用ブログをご覧ください。→ 「1ヶ月間の真学校」専用ブログ

 


 


木の花ファミリー通信2018年秋分号 〜 美しいとは

春分から地球がちょうど太陽を半周し、1年で再び光(昼)と闇(夜)が等分となる秋分の今日、「木の花ファミリー通信秋分号」が発行されました!
春分号から始まった「21世紀の死生観」シリーズ、第一部「死ぬってどういうこと?」第二部「ある世界とない世界」に続く第三部のテーマは、「美しいとは」。第一部・第二部では、人間が肉体を持って地上に生まれてくるのは魂を美しくするためであり、私たちは多重構造の宇宙の中を、輪廻転生をくり返しながら果てしない進化の旅を続けていることをお話ししましたが、ではそもそも「美しい」とはどういうことなのでしょう。第三部では、現代の人々が大きく捉え違いをしている「美しさ」についてひも解き、私たちがこの世界を生きる意味をさらに深めます。

 

未 知 な る 世 界 へ の 旅

私たちは、宇宙を生きています。

宇宙には無数の星々があります。星々はどれひとつとして、同じ場所に留まっているものはありません。地球が太陽の周りを周り、太陽は天の川銀河の中心を周り、天の川銀河もまたさらに大きな銀河群の中を周っているように、すべての星々が無限に連鎖しながらひとつの壮大な渦となり、果てしない宇宙の中を、常に未知なる場所へ向かって共に旅し続けているのです。

そこには、絶対なる秩序があります。その秩序とは、時の存在です。この世界に存在するものはすべて、時という決して止まらぬ乗り物に乗り、同じ方向へ向かって進んでいます。その流れに乗って地球も共に宇宙を巡っているからこそ、地上に毎日朝がきて、夜がきて、四季が生まれ、私たちの命が育まれていくのです。

地球には、実に870万種とも言われる多種多様な生命が存在しています。宇宙の星々が絶対なる秩序のもとにすべてつながっているように、地球の生命もまた、一つひとつが独自の役割を果たしながら見事に連鎖し、地球生態系というひとつらなりの命の世界を築いています。それは、とても美しい世界です。時の流れの中で、一つひとつの存在が命を与えられては生まれ、生き、死んでいくことをくり返しながら、全体が常に新しい生命力を得て、まるでひとつの生きもののように、留まることなく進化し続けるのです。

この絶え間ない流れの中でただひとつ、その流れに逆らおうとする存在がいます。それが、地球上に現れた人間です。他の生命は、時の流れゆくまま、自然の仕組みに沿って命を全うします。ところが自我を持った人間は、特定の状態を「維持したい」と願う心を持つようになりました。その心は流れの中に滞りを生み、様々な問題をもたらすようになりました。

しかし、誰も地球が周るのを止めることができないように、どんなに維持したいと思っても、この時の流れを止めることはできません。地球の歴史を振り返ってみれば、それは変化の連続でした。生命の発生から人類誕生に至るまで、それまでの在り方が根底から覆るような環境の大変化が幾度となく起こり、その度に生命は大量絶滅をくり返しながら、次の環境に適応する新たな種へと進化してきたのです。それは留まることのない未知なる世界への旅であり、その結果たどり着いたのが、現在の私たちです。

今、世界はこれまでの常識を覆す、様々な現象を起こし始めています。それは、時代が大きな転換期にあるということです。

そんな時代に、私たちは人間として、地球に降り立ちました。「人生は魂を美しくするためにある」としたら、美しくなるとは一体どういうことなのでしょう?

 


地球の生命進化の歴史については、木の花ファミリー通信vol.88「時代主義が始まった」をご覧ください。


 

こ の 世 界 は  し い

宇宙の本質は、つながること

私たち人間は一人ひとり違った個性を持ち、それぞれの人生を日々生きています。それは宇宙とは関係のないことのようですが、当然のことながら、宇宙の仕組みの中にあります。

私たちの生命の成り立ちを最も大きなスケールで表しているのは、天の川銀河です。天の川銀河の外にも宇宙は広がっていますが、それは天の川銀河の中を生きる私たちの感性では解釈し得ない別次元の世界ですから、ここでは天の川銀河を最大として、生命の構造をたどります。

銀河に散らばる無数の星々は、一つひとつどれもが個性的です。その無数の個性的な存在が、それぞれのサイクルを刻みながらひとつ残らず連携し、銀河というひとつの命を形成しています。その仕組みを凝縮し、より身近に現したのが太陽系であり、地球生態系であり、もっとも身近に現しているのが私たちの体です。

私たちの体は、数十兆個もの細胞から成る多彩で複雑な機能の集合体です。あなたの体を見てください。目、耳、鼻、口、腕、足、全身に張り巡らされた血管や神経、骨、筋肉、様々な働きの臓器から髪の毛や爪に至るまで、数え上げればきりがないほど多様な器官の一つひとつの中に、さらに複雑で緻密ないくつもの機能があり、それらがすべて連携し、奇跡のような調和のもとに、あなたというひとつの命を形成しています。もしもそれらが連携せず、バラバラに存在していたら、命はたちどころに成り立たなくなるでしょう。つまり、宇宙の本質はつながることにあるのです。つながるとは、善意によってしか成り立ちません。即ち、宇宙は善意によって創られているのです。

生命は美しい

その善意のつながりの中で、すべての存在は時という共通した乗り物に乗っています。

私たちの肉体は、母親の胎内で受精後、わずか1mmにも満たないほどの小さな生命から、魚類、両生類、爬虫類を経て哺乳類へと至る38億年の生命進化の歴史を胎内でたどり、280日でこの世に誕生します。そして日々、地・水・火・風・空という自然の五大要素の循環の中で、細胞レベルでの生死をくり返しながら、赤ん坊から子どもへ、そして大人へと成長していきます。年月とともに肌にはしわが刻まれ、髪は白くなり、やがて寿命を迎えれば、魂の抜けた肉体は原子レベルへ解体し、次の生命を構成する材料となります。死は、それまでの縁から解き放たれて、生態系の循環の中へと還っていく美しい瞬間です。

このように個々の存在は時の流れと共に変化し続け、その個々の集合体である全体もまた、新陳代謝をくり返しながら、常に新しく生まれ変わり続けています。この、淀みなく変化していく姿が、この世界の美しさです。

美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくことです。それは、宇宙の姿そのものです。宇宙は常に未知なる場所へと進みながら、変化・変容・変態をくり返しています。それは宇宙が生命だからです。生命とは留まることなく変化し続けるものであり、私たちの体は、その仕組みをもっとも身近に現しながら、命とは何か、美しいとは何であるかを、教えてくれているのです。

一緒に新たな世界へ進もう

この美しい世界の中で、人間は極めて特殊な能力を与えられました。

すべてがつながり、循環していく仕組みの中で、自我を持った人間は「自分」というものを特別に意識するようになりました。そしてその高い能力を使い、世界の流れに沿って自らを変化させていくよりも、自分を保ち、世界の側を自らに都合のいいように変化させようと考えるようになったのです。その心は、すべてが変化し続ける流れの中に滞りを生み、様々な矛盾を発生させました。ウソ、かけ引き、争い、孤立。それはつながることが基本である宇宙の本質とは、対極にあるものです。

人は誰しも、美しい世界を求めています。ところが現代社会は、人間の都合を優先した、とても美しいとは言えない世界になってしまいました。美しく整備されて見える都市は、その陰で莫大な量のゴミを出し、美しく装った人々の奥には、争いや孤独、病気や犯罪など、自己中心の心が蔓延しています。流れに逆らい、力ずくで世界を思い通りにしようとすれば、たくさんのエネルギーが必要です。人々はもっともっととかき集め、傷付け、奪い合い、多くの無駄を発生させ、地球や、自分たちの命さえ蝕むようになりました。ところが、世界中がこれほどの問題ごとで溢れかえりながら、人々は問題のあることが当たり前になり、それを自らが創り出していることさえわからなくなってしまったのです。

多くの人は目に見える形を見て「美しい」と言います。しかし真の美しさとは、その奥の「心」にあります。どんなに形を美しく取り繕っても、奥にある心が汚れていれば、それは必ず問題となって自らに返ってきます。ところが自分が汚れているという認識がなければ、自らが出会った問題を他人や世の中のせいにするのです。それどころか、その問題をなかったことにしてしまうのです。

すべてが淀みなく変化していく流れがこの世界の美しさなら、汚れとは、その流れを滞らせ、宇宙の本質から外れる働きです。現代の人々はこれほどの問題を生み出しながら、その問題の元となる自らの心の汚れを見ることを避けてきました。しかし、宇宙の根本は善意です。体の成り立ちを無視して心が暴走し、暴飲暴食をすれば、体は病気になってそのことを教えてくれるように、人々の心が分離し、自分勝手に生きるようになれば、世界は大きな災害を起こして一人では生きられないことを教え、つながることを促します。つながるとは、命を紡ぐことです。

宇宙はいつでも、私たちがこの大いなる流れから外れ、世界に矛盾をもたらせば、再びその流れへと戻るように導いています。その流れに逆らい、同じ場所に留まろうとする限り、宇宙はあなたに問題ごとを与え続けるでしょう。なぜなら、宇宙はあなたを「一緒に新たな世界へ進もう」といざなっているからです。

奇跡のような世界の中で

人生を歩むとは、今のままの自分が歩み続けて未来に新しい景色を見るのではなく、瞬間瞬間新しい景色に出会うことで、自分自身が変化し、新しくなっていくことです。人は新しいものに出会うと、それまでの歩みをベースとしてその物事を見て、それが自らの理解を超えれば抵抗しようとします。今の自分を守り、自らの納得できる範囲内に世界を収めようとするのです。しかし、私たちがこの世界を生きるとは、本来そのような立場に立つものではありません。

地球は宇宙の中でもまれに見る、命あふれる星です。そこには、多種多様な生命を育んでくれる奇跡のような世界があります。地球は太陽の周りを周り、その地球の周りを月が周っています。月と太陽は、地球に対して絶妙なる位置で陰と陽の役割を果たしながら、この星の生命を育んでいます。太陽から届く光と熱は、大地、水、風、空気の循環を起こし、月の引力は海に満ち引きを起こして、水をかき混ぜます。地球を卵の大きさに例えると、わずか卵の殻ほどの厚さと言われる大気圏の中で生命たちは呼吸をし、その生命を、地球の磁場が有害な太陽風から守り、さらに太陽の磁場が有害な宇宙線から守っています。そして地球を含む太陽系の惑星たちが、太陽を中心として寸分の狂いもないサイクルを刻んでいるからこそ、地上にくり返し朝と夜が訪れ、四季が巡るのであり、その太陽系の関係は、銀河の無数の星々が創る調和のネットワークの中で成り立っています。どれかひとつでも狂えばたちまち生命は存在できなくなるほど絶妙なバランスの関係がいくつも連鎖して、初めて私たちの生きる世界が成り立っているのであり、そこに人間によって創られたものは何ひとつないのです。

現代の多くの人々は、自分の力でこの世界を生きていると思っています。しかし真実は、私たちの理解をはるかに超える壮大な宇宙の仕組みによって、生かされているのです。自分という小さな囚われを捨て、今この瞬間もあなたを生かし続けている宇宙の仕組みを理解した時、あなたの中に、美しい世界が蘇ってくるでしょう。その時に、宇宙の意思は、あなた自身の意思となるのです。

永遠に続く物語

宇宙は、事実に基づいてのみ、事が進むようになっています。人間が宇宙と一体となり、ウソやかけ引きのない純粋な意思を地上に表した時、ものごとは驚くほどスムーズに現象化していくようになります。他の生命が自然の仕組みのままに生を全うするのに対し、人間は自らが意思を持ち、宇宙と共にこの世界を創造していく能力を持ち合わせているのです。

人間の意識と宇宙が合一した時、そこには無限のフリーエネルギーの世界が表現されることでしょう。銀河の誕生から138億年間、星々は広大な宇宙を巡り続けながら、一度も燃料補給をしたことはありません。宇宙はもともと完全なるフリーエネルギーの世界であり、その仕組みに沿えば、とても少ないエネルギーで、すべてが無駄なく、美しく流れていくのです。それはとても穏やかで、心地のよい世界です。

そういったフリーエネルギーの世界で流れに逆らった結果、人々は争い、疲れ、傷付いてきました。しかし、私たちがどれほど抵抗しようと、宇宙は確実に進んでいます。自我を持った人間にとって、自分という存在はとても重要です。しかし宇宙から見れば、それは時代を表現するコマの一つにしか過ぎないのです。

人間の一人ひとりが地上でどのように生きようと、時代は確実に、意思を持って進んでいます。その時に、これまでの地球の歴史がそうであったように、その流れにそぐわない存在は淘汰されるだけなのです。そして時代は、それに代わる新たな生命を生み出します。こうして宇宙の物語は、永遠に続いていくのです。

宇宙の根本の心

自我を持った人間は、すべてが流れ移ろいゆくこの世界で、「自分」というものを特別に意識し、流れに滞りをもたらしました。それは、このように捉えることもできます。淀みなく流れているだけでは、それが何であるか本当にはわからない。流れに逆らい、滞りを体験することにより、その対比から、流れとは何であるかを知るのです。そして、滞りの原因となった囚われを手放し、淀みのない心で、宇宙の流れのままに生きたなら、人生はどんなに美しいことでしょう。

自我とは、言い換えれば個性です。人間は一人ひとりがオリジナルな個性を持っています。地球上に存在する多種多様な生命の中でも、たったひとつの種の中でこれほどの多様性に満ちた種は、他にないでしょう。人類は美しさに憧れ、過去には経典やモデルを作り、「これが正しい生き方だ」としてみんなが一律にそれに倣おうとしてきました。けれどもそれは、借り物の世界です。事実に基づいてのみ事が進んでいくのが宇宙の仕組みならば、真実は経典に書かれた借り物の世界ではなく、あなただけのオリジナルな歩みの中にあるのです。

美しいことにはもうひとつ、大切な要素があります。それは多様性です。複雑で多彩な機能が私たちの体を形成しているように、870万種もの生命が地球生態系を紡いでいるように、無数の星々が渦となり宇宙を旅しているように、多種多様な存在がつながり、それぞれの響きを響かせながらひとつの生きもののようになるからこそ、まるで交響曲のような、豊かで、ダイナミックな、美しい世界が表現されるのです。

世界は私たち人間に多様性を与え、時という共通の乗り物の上で、宇宙を表現することを託しました。さて、今世を生きる間に、私たちはこの真実に、どこまで辿り着くことができるでしょうか。自分は健全な人生を生きている、と思っているあなた自身の日々の営みが、今も地球を、そしてあなた自身を汚し続けています。その事実に気付き、もしも本当に美しい世界を願うなら、まずはあなたから始めてください。それは決して難しいことではなく、誰の中にも眠る、私たちがこの世界に生まれてきた本当の目的に向かうことです。その目的に向かい精一杯生ききった時、あなたは、あなたがこの世界にもたらしたものが何であるかを知ることでしょう。そしてそれが、肉体を離れ魂として本住の地へと還っていく、あなた自身の価値となるのです。

もしも私たちが目的を見失ったとしても、宇宙は常に様々な現象を起こし、私たちを目覚めへと導いています。これこそ、宇宙が私たちに示している意思 ────── その根本の心は、愛なのです。

 

ー 生命は留まることなく変化し続け、宇宙の物語は永遠に続いていく ー

 


 

 

ある日、富士山ろくの宇宙おじさん・ジイジのもとに、韓国から7人の子どもたちが遊びにやって来ました。子どもたちの中には、よくウソをつく子がいました。その子の親から「どうしてウソをついたらいけないのかを話してほしい」と言われたジイジは、韓国と日本の子どもたちへ向けて、こんなお話をしました。

どうぞ ウソをついてください

まず、みんなはウソをついてもいいと思いますか?それともいけないと思いますか?
ジイジはね、ウソをついてもいいと思います。だって、ウソをついたらどうなるかを経験するためには、ウソをつかないとわからないでしょう?

ウソというのは、本当のことと違うことを言うことです。本当のことは、ひとつしかありません。でもウソはたくさんあります。だから、ウソをつくと頭が良くなります。本当のことがわかると困るから、それを隠し続けるためにたくさん考えるのです。でもその考えは、悪い考えです。そして、悪い考えが頭の中にいっぱい増えると、悪い人になります。
子どもというのは、ウソをつくものです。だからウソをつきたい時には、どうぞついてください。ただし、その時にひとつ、大事なことがあります。それは、「自分は今ウソをついている」ということをわかっていることです。ウソは本当のことと違いますから、ウソをつくと必ず後で困ったことになります。その時に、自分がウソをついたことがわかっていれば「ああ、自分がウソをついたからこうなったんだ」と気付くことができます。そうするとそれは、ウソをつくのをやめよう、と思う機会になります。
自分がウソをついたことがわかっていないと、困ったことが起きた時に、自分に原因があるのではなく、人のせいだと思うようになります。これは本当に困った人です。子どもの時にウソをつくのは、ウソつきになるためではなく、ウソをつくとどうなるかを勉強するためです。でも自分がウソをついたことをわかっていなければ、ウソから勉強することができません。そしてウソをついていることに気付かないままウソをつく、本物のウソつきになります。ジイジはそういう大人にたくさん出会ってきました。大人は子どもに「ウソをつくな」と言いますね。でも実は、大人の方がもっとウソつきです。つまり、人間というのはウソつきなのです。

畑で作物を育てていると、いろんなものに出会います。まず一番に太陽、そして植物、動物、土、雨、風 ──── みんな正直です。もしも作物の出来が悪ければ、それは土のバランスが崩れていたり、気候が合わなかったりと、どこに原因があるのかを正直に教えてくれます。肥料をやりすぎれば、作物は病気になって、人間の間違いを教えてくれます。人間がいつも自然から学ぼうと思っていれば、自然は決してウソをつかずに、正直にいろいろなことを教えてくれるのです。だから自然の中にいると、感謝の気持ちが湧いてきて、とても心が穏やかになります。
ところがそこに人間が来ると、ウソが生まれます。人間たちは、何に対しても自分に都合のいいようにものを考えるからです。でもそれは本当のことと違いますから、必ず問題につながります。ということは、人間たちが生きていると問題が起きるということです。
人はウソをつく時に、それを言うことでいいことがあると思っています。だからウソをつくんでしょう?でもウソをつくと、必ず自分の思っていたこととは反対の、都合の悪いことが起きます。人生の途中では得をしたと思っても、必ず生きている間に、そのウソの分だけの困ったことを受け取らないと死んではいけないようになっています。そしてウソつきのままで人生を終わると、次にまた生まれてくる時には、ウソつきとして人生がスタートするのです。

ウソをつき続けると、心が悪い人になります。そうすると、人生を生きていてもいいことが起きないようになっています。そうやってこの世界は「ウソをつくのはよくないよ」ということを教えてくれているのです。
だから、子どものうちには勉強として、どうぞたくさんウソをついてください。そしてたくさん困ってください。どうして困ったのかといったら、自分がウソをついたからだということに気付いてください。そうしたら、きっとウソをつかない人になるでしょう。
そしてどうぞ、美しい人生を歩んでください。

以上、ジイジのウソつき講座でした♪

 


美しく生きるとは、生命のありのままの姿を表現すること。その生命は、性から始まります。21世紀の死生観・第四部(2018年冬至発行)では、私たち生命の源である性の真実を解き明かします!


美しい生き方についてさらに実践的に学びたい方は、毎年2月から3月に木の花ファミリーにて開催される「1ヶ月間の真学校」にご参加ください。→「1ヶ月間の真学校」専用ブログ

*1ヶ月間の真学校は、1ヶ月間木の花ファミリーに滞在しながら、「自分」という囚われを外し、既存の価値観を超えて世界観を大きく広げ、様々な切り口から21世紀の人類の生き方を実践的に学ぶプログラムです。ただ今、2019年受講生を募集しています。詳しくはこちら

 

 

→ 21世紀の死生観第四部「性 ー すべてのはじまり」へ

 


木の花ファミリー通信2018年夏至号 〜 ある世界とない世界

シリーズでお届けしている「21世紀の死生観」、第一部『死ぬってどういうこと?』に続く第二部のテーマは、『ある世界とない世界』。
私たちは宇宙を生きています。しかしまだまだ、宇宙を生きているという認識を持っていません。第二部では、この宇宙の構造をひも解き、私たち生命に必ず訪れる死について深めます。


 

 

陰と陽

私たちは日々、目に見える世界を生きています。自分自身の体を始め、あらゆるものの姿かたちを目で捉えることによって、その存在を認識します。科学に代表される現代人の思考回路は、この「見える世界」だけをすべてと捉えています。目に見える現象が起きて初めてその存在を認識し、そこに問題を感じれば、また目に見える形で解決しようとするのです。
しかし目に見えるものの奥には必ず、目には見えない存在があります。心、思い、魂 ──── それらは目で見ることはできませんが、その見えないものが、表面に現れた見えるものの本質を成しています。形のある「見える世界」を陽とするなら、形のない「見えない世界」は陰です。この「見える世界」と「見えない世界」を合わせて、ある世界(現象界=現象の起きる世界)」と言います。目に見える私たちの体も、その奥にある目には見えない魂も、どちらも「ある世界」を形成しているのです。

 
宇宙は呼吸をしている

宇宙は対向発生と言い、常に相反する二つのものによって成り立っています。天があれば地があるように、男がいれば女がいるように、必ず対となる陰陽の存在があり、互いを成り立たせ合っています。では、「ある世界」を陽とするならば、必ずそれと対になる陰の存在があるはずです。それを「ない世界(潜象界=すべての現象の源の世界)」と言います。「ある」ことが前提となっている現代の私たちの思考で、この「ない」世界を捉えることはできません。それは、あるとかないという概念すら存在しない、響きだけの世界なのです。

〈図1: 発生と消滅を繰り返す宇宙の仕組み〉 

この世界(宇宙)はもともと、何も「ない世界」でした。ところがある時、「無」から「有」が発生しました。何もなかった世界に時空が生まれ、それがどんどん膨らんで多様性が広がり、現在のような現象世界となったのです。やがてその膨らみがピークに達すると、今度は徐々に収縮していき、いずれ無へと収束します。即ち、「ない世界」へ還るのです。
この発生から消滅までのプロセスを、宇宙は無限にくり返しています。それは宇宙の大いなる呼吸です。気の遠くなるような壮大なスケールで、宇宙は悠々と呼吸をし、すべての生命はその中を生きています。そして私たち自身の命もまた、宇宙と同じ仕組みによって成り立っているのです。

私たちのDNAの中に、宇宙の始まりから終わりまでのすべての情報が眠っています。そこに、これから人類が宇宙的進化を遂げる大いなるヒントが秘められているのです。

 


 
宇 宙 の の 物 語  

もしも私たちが、目に見える世界だけをこの世界のすべてと捉えたら、誕生は始まりであり、死は終わりであると思うことでしょう。しかし事実、この世界はそのような単純な仕組みにはなっていません。「見える世界」と「見えない世界」を合わせた「ある世界」、そしてそれらの源である「ない世界」が立体的に折り重なる多重構造の世界を、私たちは時の流れと共に、ある時は肉体を持ち、ある時は魂だけの存在として、そしてまたある時には宇宙の最極小微粒子へと姿を変えながら、永遠の旅を続けています。それは、大いなる宇宙の呼吸の中で紡がれていく、命の物語です。

 
ある魂の変遷を見てみよう

ある魂が、肉体を持ち、人間として地球に生まれました。そこは「見える世界」です。魂は、魂だけの状態では自分がどのようなものであるかを認識することはできませんが、ひとたび肉体を持って地球に降り立つと、様々な現象に出会います。そこでは、姿かたちや生まれる環境の設定から、日常の中で出会う出来事の一つひとつまでが自分自身にふさわしく起こり、魂はそれらの現象を通して、自身がどのようなものであるのかを知っていきます。人生とは、まるで鏡のように自身の姿を正確に映し出してくれる「見える世界」の中で自らを知り、その自らを進化させていくことなのです。

やがて人生のサイクルが終わりを迎えると、魂は肉体を離れます。これが死です。それまで魂によって束ねられていた肉体の構成物質は原子レベルに解体し、地球生態系の循環の中で次なるものの原料となっていきます。一方魂は、自らの精神レベルにふさわしい異次元宇宙へと還っていきます。そこは、「見えない世界」です。地上を生きている間にどれだけ成長したかによって、「見えない世界」の高次の位置に還るものもいれば、地獄のような低次の位置に陥るものもいます。そしてどれだけかの期間が過ぎると、また肉体を持って地上に降り立ち、「見える世界」で次の人生をスタートさせるのです。

過去から未来へと一方通行に向かう時の流れに沿い、魂は「見える」「見えない」「見える」「見えない」と二つの世界の中をらせんを描いて進みながら、輪廻転生をくり返します。それは例えるなら、食べ物が体の中に入るようなものです。食べ物は、目に見えます。それを私たちが食べ、体の中に入れば見えなくなります。しかしその見えなくなった食べ物は、エネルギーとして目に見える私たちの体を動かします。やがて体から排せつされれば、形を変えて再び目に見えるようになります。見えても見えなくても、それは確実に存在し続け、「ある世界」の中を循環しているのです。

〈図2: 魂の輪廻転生の仕組み〉
宇宙(図1)の中に、無数の魂(図2)が発生と消滅をくり返しながら存在している
魂が「ある世界」の中を循環している間も、命の源のエネルギーは常に「ある世界」と「ない世界」を循環し、新鮮な生命力を与え続けている。*詳しくは「21世紀の死生観・第一部」をご覧ください。

 
巨大な生命の中のひとつの軌跡

肉体を持った一つひとつの人生に寿命があるように、魂にもまた寿命があります。それは言わば、魂の賞味期限です。たくさんの人生を通して進化し、十分に学んだ魂は、賞味期限が来て寿命を迎えると、宇宙最極小微粒子となり、「ある世界」の源である「ない世界」へと還っていきます。宇宙最極小微粒子とは、原子よりも素粒子よりもはるかに微細な、現代の科学では感知することのできない宇宙の最小単位であり、この世界のあらゆる存在の原料となるものです。
宇宙の最小単位となって「ない世界」へ還ることで、その魂の物語は終焉を迎えます。しかし、宇宙が発生、消滅、また発生というプロセスを無限にくり返しているように、ある魂の物語の終焉は、次の物語の始まりでもあるのです。この終わりと始まりの重なる地点は時の流れの上のほんの一点でもあり、「ない世界」ですから永遠であるとも言えます。そして、それら一つひとつの魂の物語の軌跡が、宇宙という巨大な生命に刻まれていくのです。

           

 
「思い」は「重い」

では、魂はどのように進化の道をたどるのでしょう。
魂が進化できるのは、肉体を持って「見える世界」を生きる、人生の間だけです。しかしそこで目に見えるものばかりに囚われていると、地上に降りてきた真の目的に目覚めることはできません。一生懸命勉強をして優秀な成績を取り、社会的地位のある職に就いてたくさんお金を稼ぎ立派な家や車を買い、欲しいものは何でも手に入れて大満足の人生だと思ったとします。それが現代の多くの人間にとってのステータスです。ところがそれを霊的な目で観れば、自我が膨らんだだけなのです。
魂は、肉体を持って生きている間は肉体の重みによって地上につなぎとめられています。しかし肉体を離れれば質量を失い、何も地上に執着がなければスーッと上へ昇り、本住の地である異次元宇宙、即ち天へと還るのです。ところが、これは自分のもの、あれも自分のものと自我を膨らませてたくさんのものを抱えていると、その囚われの思いが重りとなり、肉体を離れても上へ上がることができません。極端になると輪廻もできなくなり、思いがどんどん重くなって地中のマグマまで堕ちていき、火に焼かれて宇宙の最極小微粒子へと解体され、存在そのものをリセットされる場合もあるのです。

 
あなたを裁くのはあなた自身

生きている間にどれだけ自分自身を磨いたか。人間として地上にいる間は様々なレベルの魂たちが一堂に会していますが、肉体を離れるとそれぞれにふさわしい異次元宇宙に分類され、異なるレベルの魂同士が交流することはありません。逆に言うと、地球はそれだけ多様性に富んだ場所だということです。
地上での学びを終え、ふさわしい位置へ還った魂たちは、前世での結果を元に次の人生のプログラムを組みます。例えば前世で戦争をしたとしたら、次の人生では相手の国に生まれることもあります。今自分が敵として憎み戦っている相手は、実は前世の自分の子孫だということもあり得るのです。
プログラムにはそれぞれに固有の寿命も組み込まれますが、地上に生まれる時にはその記憶の一切を消されます。なぜなら、先に答えを知ってしまっては時を越えて思考するようになり、生きる意味を悟る機会がなくなるからです。現象界を生きるとは、時と共に旅をしているということです。過去に囚われるでも未来を決めつけるでもなく、瞬間、瞬間の「今」を生き、その時々に出会う出来事を頂きながら、自らがどのような響きを発しているかを知り、変化していく。それが生きる意味です。
そして、たとえ過去の記憶が消されても、その履歴はすべて魂に刻まれています。肉体の解体と共に物理的DNAは消滅しますが、その瞬間、瞬間、自分が何をしたかということはすべて霊的DNAに刻まれ、その集積が今現在のあなたを創っているのです。生きている間にどれほど美しく着飾り、高い地位を得て世の中から評価されたとしても、死んで肉体から抜け出したとたん、あなたの魂の真の実態が明らかになります。その時にあなたを裁くのは、他でもない、あなた自身です。なぜならあなたは、あなたの人生に寄り添いすべてを確認してきた存在であり、だからこそごまかすことができないからです。そしてそこに汚れが刻まれていれば、来世のプログラムは、その汚れを反映してスタートするのです。

 
宇宙の総意に沿う、大樹の   

地上に生まれる時、魂は単独でプログラムを組むのではありません。魂たちは常に、この世界と協議をしています。
長い長い時の流れの中で、無数の魂たちが地上に降り立ち、その時代、その時代にふさわしい役割を果たしては旅立っていきました。魂たちは輪廻転生をくり返して自らの歩みを刻みながら、同時に世界の側から、時代を表現することを託されているのです。無数の魂たちの一つひとつに、後にも先にも二つとない、オリジナルな役割が託されています。魂たちは時代という巨大な生命の一部として、今この瞬間も、はるか昔からずっと続いてきた宇宙物語を紡ぎ続けているのです。
時の流れをさかのぼっていけば、宇宙の始まり(=終わり)に行きつきます。反対に、先へ進んでいけば宇宙の終わり(=始まり)に行きつきます。この、宇宙の始まりから終わりまでのすべての情報が、私たちの魂の霊的DNAの中に眠っているのです。
それを目覚めさせるのに、思考する必要はありません。ただ「自分」という囚われ、即ち自我を手放せば、その気付きは自ずと湧き出してくるのです。なぜなら私たちはもともと、宇宙の一部だからです。人間の体の細胞一つひとつに全身の情報がインプットされているように、私たちの魂にも全宇宙の情報が刻まれています。そして、私たちが自らの歩みを魂に刻んでいくことは、宇宙に刻んでいくことであり、私たちの魂が進化することは、宇宙そのものを進化させることなのです。
魂が進化した時、そこには美しい生命の花が咲くことでしょう。それは、ただ一輪の花ではありません。それは無数のつぼみを持つ、巨大な生命の大樹の花です。あなたがその中の一つであることを感じながら、あなただけのオリジナルな花を存分に咲かせ、他のたくさんの花々とネットワークした時、それは巨大で美しい、宇宙の総意に沿った満開の大樹となるでしょう。

 

 


 

死んだらまっすぐに

の方へ向かいなさい

今、地球上にはたくさんの問題が起きています。その原因は、人々の心の汚れにあります。輪廻を通して魂を磨くことを忘れ、汚れを積み重ねてきた結果、人間は様々な問題を地上にもたらすようになりました。そこで今回は皆さんへ、死ぬ時の心構えについてお伝えします。

 
地球のカルマ

魂は、肉体が死を迎えると昇天します。昇天とは、天に昇ることです。死を迎え、魂と肉体が離れると、肉体という質量がなくなり、魂は自ずと天へ昇っていきます。この時、汚れた魂はたくさんの執着を抱えており、それが重りとなって上へ昇ることができません。そして霧のように地上に漂うことになるのです。
それでも実際には肉体がありませんから、徐々に上へ上がっていきます。ところが上へ上がったとしても、執着の多い魂は物質世界に留まり続けることになり、天へ還れないまま大気圏の外側を漂い続けるのです。地球は物理的には青くて白い雲が漂う美しい星ですが、霊的に現在の地球を観ると、肉体を失いながらも三次元世界を離れられない魂たちに覆われ、灰色になっています。そしてその囚われた魂たちの響きが、地球に降りてくるのです。それが今の地球上の人間たちの目覚めを遅らせています。

では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

 
暗闇の中のひとすじの

地球の周りを覆っているのは、人間たちの魂だけではありません。人間によって命を奪われた動物たちの魂もまた、灰色の霊的なもやとなり地球を覆っています。私たち人間が食べるための肉として、日々おびただしい数の動物たちが殺されています。殺される瞬間の動物たちの恐怖は、大変なものです。動物たちは悲鳴を上げ、恐怖の響きを響かせながら命を奪われ、その響きの入った肉を私たちは日々食べています。

自然界でライオンがシマウマを食べるのは、命の循環です。シマウマの命はライオンに受け継がれ、その魂は何の未練もなく昇天します。しかし人間が欲望のまま貪り食うために殺された動物たちの魂は、昇天できずに地球を覆い、今も恐怖の響きを響かせています。その響きは地上の霊的汚染に大きな影響をもたらし、現代は人間が目覚めることがとても難しい時代になりました。だからこそ、そのような迷える魂を出さない生き方を日々心がけていくことが大切です。その積み重ねの結果、いつか自らが死を迎えた時にも、地上に囚われることなく潔く旅立てるのです。

今の地球は、霊的には闇の時代です。人々はまだ、目を覚ましていません。しかしその中で、ほんの一握りでも目覚め始める人たちがいれば、それは暗闇の一筋の光となるのです。闇の中では、ほんの少しの光でも、とてもよく見えます。それはどこか遠くにいる人々にとっても、きっと道しるべとなるでしょう。

目覚めた人から、自分一人分この世界をきれいにする。その動きが広がり、地球がその美しいハーモニーに包まれたなら、世界はたちどころに美しくなり、地球も本来の輝きを取り戻すのです。

 

 

 


人生は、魂を美しくするためにある ──────
では、「美しい」とはどういうことなのでしょう? 21世紀の死生観・第三部(2018年秋分発行)では、生命の真の美しさとは何かをひも解きます!


 

21世紀の死生観についてさらに深く知りたい方は、1ヶ月間の真学校ブログをご覧ください。→ 1ヶ月間の真学校ブログ『21世紀の死生観』

 *1ヶ月間の真学校は、1ヶ月間木の花ファミリーに滞在しながら、「自分」という囚われを外し、既存の価値観を超えて世界観を大きく広げ、様々な切り口から21世紀の人類の生き方を実践的に学ぶプログラムです。ただ今、2019年受講生を募集しています。詳しくはちら

 

 


木の花ファミリー通信2018年春分号 〜 死ぬってどういうこと?

一年で、光(昼)と闇(夜)がちょうど等分となる春分の今日、木の花ファミリー通信最新号が発行されました。今号より、「21世紀の死生観」をシリーズでお届けします。どうぞご覧ください!


 

21世紀の死生観 第一部

 
「21世紀の死生観」をシリーズでお届けします

「21世紀の死生観」と言いますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生まれて生きて死んで終わりではなく、悠久の時の中で、生まれて生きて死に、また生まれて生きて死ぬことをくり返しているのです。

ところが、現代の多くの人は死を恐怖に感じています。ある調査によると、日本人の半数以上が死を「怖い」と感じています。また別の調査では、20代から70代までの全世代を通じて、9割以上が死を「悲しい」と捉え、6割以上が「どことなく不安」と答えています。

*朝日新聞全国世論調査より

しかし、どんなに怖いと思っても、悲しいと思っても、確実に死はやって来ます。なぜなら明日が来るからです。「死にたくない」と思って今日一日を生きると、今日一日分、確実に死が近付いてくるのです。

 
時は生き物

この時の流れを止めたいと思っても、止めることはできません。それは、時が生き物だからです。時は、決して留まることなく変化変容し続ける宇宙の基盤であり、常に循環し続けています。私たちはこの時という生命の一部であり、それに乗って宇宙を旅し続けているのです。
この時という乗り物に乗らない存在に、この世界で出会うことはできません。すべてのものは固有のサイクルを持ち、時の上でそれぞれのサイクルを刻みながら、互いに連動し、ひとつらなりの壮大な生命を構成しているのです。
その大きな生命の中の一つのサイクルが終わりを迎えた時、私たちはそれを「死」と呼びます。命あるものは皆、必ず死を迎えます。けれども、私たちは死を恐れ、目を背け、死とは一体何であるかを曖昧にしたまま毎日を生きています。死が曖昧であるということは、生きることの意味もまた曖昧だということです。私たちが出会う問題ごとのすべては、私たちが生きていることから生まれます。私たちは生きることの意味を曖昧にしたまま、ずっとその問題を抱え続けているのです。

人はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。死生観は人類の根源的なテーマです。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。その壮大なる生命の仕組みを理解した時、私たちは初めて、真に充実した人生を生き、喜びを持って死の向こうへと旅立てるのです。

 
シリーズでお届けする「21世紀の死生観」。
第一部は、この世界の命の仕組みをひも解きます!

 


 

肉体は循環の中で変化し続ける
それをつなぎとめるものが  

宇宙はすべて、陰陽から成り立っています。私たちの肉体を目に見える陽とすると、その奥には目に見えない陰の存在があります。それが魂です。

「陰陽」と言うように、この世界の元の仕組みは、まず最初に陰があり、そしてそれを元に陽が発生します。私たちの生命は、まず魂があり、その魂が宇宙に遍満する様々な物質を縁によって引き寄せ、肉体を形成します。この、魂と肉体がセットになった状態が「生きている」ということです。姿かたちや性質から、どのような家族を持ち、どのような場所に生まれるかまで、すべてその魂独自の縁によって紡がれていきます。そしてそれぞれの魂と肉体の縁は、独自のサイクルを持っています。これが寿命です。
寿命が来ると、魂は肉体を離れます。すると、それまで魂によってつなぎ止められていた肉体の構成要素は、その縁から解き放たれて、三次元生態系へと還る旅を始めます。そして、また次の生命を形成する材料となります。一方魂は、それぞれにふさわしい異次元宇宙へと還っていきます。

ふさわしい異次元宇宙とは、地獄から多次元構造の高次元宇宙まで幅広く存在します。その幅広い異次元宇宙の中で、様々な段階の魂がひとつの時間と空間のもとに一堂に会して存在しているのが、地球生命世界です。つまり、地球に生きるということは、多種多様な存在に同時に出会うことができる生態体験ツアーのようなものなのです。魂たちは、それぞれの段階のサイクルにふさわしい人生を生き、その人生にふさわしい死を迎え、宇宙へと還り、またふさわしい縁のもとに地上に降りて、新たなサイクルを刻んでいくのです。

 
命のリレー

何も増えず、何も減らない。ただ形を変えながら循環し、すべての存在が変化変容し続けているのが宇宙の実体です。この大いなる宇宙の循環の中で、私たちの肉体もまた、変化しながら生態系を巡っています。

地球生態系を構成する五大要素は、地水火風空です。人間は、地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。地に育まれた作物を食べ、水を飲み、排せつしたものがまた次の生命を育む元となり、陽の光を取り込んではエネルギーに変え、そのエネルギーを放出し、風を受け、呼吸をし、吐き出された二酸化炭素もまた、植物の成長の糧となります。それは、常に他から自分へと生命が流れ、必要なものを取り込んでは、また形を変えて他へと受け継がれていく、命のリレーです。その流れはひとつではなく、幾重にも重なって連鎖しています。私たちはこの自然生態系の循環の中で、多種多様な存在から常に新鮮な命を与えられ、生かされながら、自らもまたその循環の一翼を担っています。逆に捉えると、この循環の中にいなければ私たちの生命は成り立たないのです。そしてこの循環を支えているのは、自らの存在が他を生かしていく「利他」の仕組みです。

この、絶えず変化変容し続ける肉体の様々な機能を束ね、ひとつの生命体として維持しているのが魂です。そして人間は、一瞬として同じ状態にはないこの生命体を、過去から未来まで継続して「自分」と認識するようになりました。そしてその自分という認識に囚われるようになりました。これが、自我です。

 
自我に囚われ
この世界の大きな仕組みを忘れた現代の人々

人間は、動物と大きな違いがあります。それは自我に目覚めることができるということです。動物にも自我はありますが、それは本能的なものであり、囚われるものではありません。ところが人間の自我は、自分というものの側に立ち、そこに執着するのです。
常に変化変容し続けるのが、私たちの生きる宇宙の実体です。しかし自我を持った人間は、宇宙の法のままに変化していくことよりも、自分というものを固定し、その状態を維持しようとするようになりました。枠の中に人が入ると「囚われ」という字になるように、まさに、自分という枠の中に自らを閉じ込めたのです。そして、この世界はすべてが連鎖し支え合うひとつらなりの命であり、自らもその一部であることを忘れてしまったのです。

この世界は、個々に独立したものが利他の仕組みによってつながる、命のネットワークです。私たち人間の魂は、一つひとつどれもがオリジナルな個性を持っています。そしてそれらがつながり、一つの集合体となることで、多様性あふれる豊かな世界を築いています。しかし個性とはまた、それ単独で見た時に「偏っている」ということでもあるのです。
偏ったものが、他と連携することを忘れ独りよがりに生きると、世界は必ずその偏りにふさわしい問題ごとを与え、行き詰まるようになっています。そして世界は、その行き詰まりを通して人間に自らの偏りを体験させ、つながることの大切さを学べるようにしているのです。ところが「自分」に意識が向けば向くほど、人間は自我が強くなり、この仕組みが見えなくなっていきました。目に見えるものだけの価値観に囚われ、全体が一つの集合体であることを忘れて個々の幸せを追い求め、その結果、多様であるからこそ互いに補い合い世界を豊かにするはずの個性が、多様であるがために対立し、世界に不調和を生むようになりました。そして世界にも、私たち自身にも、様々な問題をもたらすようになったのです。

 
あなたの奥に、永遠のあなたがいる

私たちは、生まれてすぐの赤ん坊の時から泣くことで意思表示をし、食べることや眠ることを求めます。それは生きるための本能的な行動ですが、ではそれが生きることの目的なのかというと、そうではありません。
この世界は、云わば生命の織物です。地水火風空の元に無数の生命たちが織り成す命の循環は、自然生態系(現象界)の広がりを表す、横糸です。そしてそこに、目には見えない縦の糸の働きがあります。それは、私たちすべての生命の源である、魂のふるさと(潜象界)との循環です。そこからやってくる命の源のエネルギー、即ち元の気(=元気)が、私たちに常に新鮮な生命力を与え続けてくれているのです。

この世界では、まず始めに陰があり、それを元に陽が発生します。この命の織物の、陰は縦糸、陽は横糸です。ところが現代の人々は目に見えるものばかりに囚われ、この縦糸の存在を忘れてしまいました。縦糸を見失った世界は秩序を失い、軸を失ったコマのように、ゆらゆらと不安定な状態であり続けることになってしまったのです。しかし、どんなにその存在を認識していなくとも、私たちは絶えずこの縦と横の循環の中で命を与えられ、生かされています。そして私たちがこの世界に生まれてくる真の目的は、肉体を持って現象界を生き、そこで出会う様々な現象を通して、目に見える肉体の奥にある、魂そのものを磨いていくことなのです。それが、私たちが生きていく上で根本的な軸となる役割を果たすのです。

私たちは絶えず呼吸をし、食べることや排せつすることをしなければ、生きることができません。生きるとは、肉体に縛られている状態であるとも言えます。水や土や空気に縛られているとも言えます。しかし本来、魂とは無限の存在なのです。
今あなたが「自分」だと思っているその姿の奥に、永遠の存在としてのあなたがいます。自分という囚われを外した時、そこには未だ出会わぬ、未知の世界が広がっています。人間には、無限の可能性が秘められているのです。

 

 


 

 
遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。
光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」
そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。

 
地球という学校への入学

宇宙に漂う無数の魂たちは、どれもとてもユニークです。完全なるひとつから分かれてきたため、一つひとつは不完全で、偏っており、それぞれが他にはない個性を持っています。ところが魂たちは、魂のままでは自らの姿が見えないのです。「どうしたら自分のことがわかるだろう。」そこで、宇宙の総意によって、地球という星が創られました。魂たちはこぞって地球に降り立ち、それぞれの個性にぴったりの姿かたちや性質を持って、地球生態体験ツアーをスタートさせました。

地球では毎日、それはそれはたくさんのことが起こります。肉体を持った魂たちは、人生を通して様々な体験をし、その体験から自らがいったい何者であるかを知るようになりました。自分がどんな響きを発しているかによって、出会う出来事が変わっていくのです。「そうか、自分とはこういうものなのか。」

宇宙の時の流れは壮大で、変化もとてもゆっくりですが、ここ地球では、変化変容変態をくり返す仕組みの中で、次々と現象が起こります。そんな中、魂たちの歩みはそれぞれです。出会う出来事から次々と学び、どんどん進化していく者。目に見えるものに囚われて、地球に来た目的を忘れてしまい、何度も同じことをくり返す者。それは、地球という学校に入学したようなものでした。やがて、学びの期限が訪れると、魂たちは「死」という形で卒業を迎えます。そして、人生を通してどれだけ学んだかによって、それぞれの段階にふさわしい異次元宇宙へと還っていくのです。

魂たちにとって、地球は唯一、自分が何者であるかを知り、進化できる場所です。学びを終えた魂たちは地球学校の成績表と共に宇宙へ還り、またいくらかすると「よし、今度こそ!」と地球へ学びにやって来るのです。

 
宇宙全体が美しくなるために

この地球での魂たちの進化のようすを、宇宙の星々はとても興味深く観ています。肉体を持ち、人間として地球に降り立った魂が、自らを高め真理に目覚めると、星々が反応し、銀河の中心がザワザワと波打つのです。たった一つでも、優れた魂は、宇宙に対してそれほどの影響力を持っているのです。

今、地球上に人間として降り立った魂たちは、とても狭い世界観の中で生きています。自我に囚われ、生まれてきた目的を見失い、死ぬことへの恐怖を紛らわせるかのように、目の前の欲望を満たすことに一生懸命になっています。そして世界は問題ごとであふれかえるようになりました。

しかし時代は確実に、光の方向へと進んでいます。神様が自分からもっとも遠いところに闇を置かれてから、私たちは闇とは何であるかを体験し、何度も何度も生まれては死に、生まれては死ぬことをくり返しながら、もとの光の世界へと還っていく道を歩んでいるのです。

時代は21世紀を迎え、2000年から3000年への新たなサイクルに入りました。これは、地上を生きる人間たちが、生きることの真の意味を悟る時代を迎えたということです。それは今までの宗教のように、誰か一人の聖者が現れて教えを説き、救いを求める人々がその教えに群がることとは違います。一人ひとり誰もが、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり、生きる時代がやってきたのです。

私たち人間は、自我に囚われ世界に混乱をもたらす存在から、本当の人としての価値を地球上に表現し、すべての生命のために、この世界に正しい秩序をもたらす存在へと進化する時を迎えています。私たち一人ひとりの魂が美しくなることが、地球を、そして宇宙全体を美しくするのです。

そのためにはまず、「自分」という囚われを、外すことなのです。

 

 

 

21世紀の死生観についてさらに深く知りたい方は、「1ヶ月間の真学校ブログ」をどうぞご覧ください。
 → 1ヶ月間の真学校ブログ『死生観~死と一体となって、生きる』

*1ヶ月間の真学校は、1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、様々な切り口から21世紀の世界観を学ぶプログラムです。

 

 

21世紀の死生観第二部「ある世界とない世界」

 


「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~ きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語

去年の4月、子宮頸がんであることがわかったきょうこちゃん。その後がんが進行し、今年の10月26日、大量出血のため市立病院へ急遽入院することになりました。きょうこちゃんのパートナーのこうちゃんは、きょうこちゃんが入院中、病室で寝泊りしながらずっときょうこちゃんに付き添っていました。生死の境を何度もさまよいながら、入院してから48日後の12月12日、きょうこちゃんは市立病院を退院し、今後は沼津のがんセンターでの治療を視野に入れて体力の回復を図っています。以下は、きょうこちゃんの入院中、お見舞いに行ったときのいさどんとの会話をようこがまとめた「きょうこちゃん物語」です。

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10月26日。あっちゃんから連絡があり、お昼にいさどん、まりちゃん、ちなっぴと一緒に重篤状態のきょうこちゃんのところへ向かった。処置室にいたきょうこちゃんは「やりきっていないことがたくさんある」と言って涙を浮かべていた。でもいさどんに「あなたは正直なところ、自分でどう思うのか?」と聞かれたきょうこちゃんは「まだ死ぬ気はしない」と答え、いさどんは「そうだろう?それはあかんわ」と言った。また、きょうこちゃんは、「わたしの生き様を観て、皆のお手本になったらいいね。そういう役割をしていくね」とも言っていた。

その翌日の10月27日。いさどんとわたしは再びきょうこちゃんのところへ行った。きょうこちゃんは、「わたしとしては、生きる方向に心を向けていくだけだなと思っている」と言い、いさどんは「それはそうだ。それにしても、わざわざ波が高いほうを選んだ」と伝えると、きょうこちゃんは「大分高いほうを選んだね。今は過去がどうだったかというよりも、ここまでいただいてきた道だから、ここから先をどう生きていくかだと思っている」と答えた。それに対しいさどんは、「あなたがいないところでいろいろ考えると、あまり希望が湧いてこないのだけど、あなたを観ると希望が湧く。本人が一番元気だ」と伝えた。また、「わたしたちは時代人です」の最新版メッセージを途中まで読んでいたきょうこちゃんは、「時代人・時代主義なんて、新しい言葉だね。これは世界初の言葉かもしれないね。今、わたしはこんなに狭い部屋にいるけど、そういう心で時代と共にあるのだと思っている」と言っていた。

その後、面会に来ていたきょうこちゃんの両親にいさどんは涙を流しながら次のように話した。
「彼女のことを思うと、前向きに考えられないのですが、そうかといって人に前向きに生きるように伝えてきた立場として、どのように言葉をかけたらいいのかと思うのです。意外と本人のほうが一番元気ですよ。まだ早いでしょう?と本人も言うのです。昨日、きよちゃん(きょうこちゃんの娘)と話したのですが、あの子はここのような環境で育ったこともあって、しっかりしている子です。『わたしはきょうこちゃんのことを思って、別に毎日泣いているわけではないけど、そういうことがあるかなと思うと、時々泣くこともある。でも小さい頃からね、生きるのは死ぬためにあるんじゃないのと思っていた。だから、死ぬことは嫌だけど、人はいつか死ぬことを知っているよ』と言うのです。『僕はきよが元気がなかったらいけないと思って、きよがどのように考えているのかなと思って呼んだんだよ』と伝えると、『大丈夫だよ』と言うのです。そのようにきよは育ったのだと思いました。きょうこちゃんには、『これから世界に向けてのプロジェクトがたくさんあるのだから、あなたもそれを一緒にやっていく仲間だよ。未来の答えはわからないのだから、精一杯やっていこう』と伝えました。まだ、触るとあたたかいですからね。未来はまだあるわけです。結論は出さずに付き合っていこうと思っています。木の花には外で緩和ケアの所長をしている看護師もいて、『やっぱり病院にいるのは変だと思う』という話をするものですから、今きょうこちゃんにも『もしあなたが望むのなら、木の花に戻って皆の顔を見ながら過ごすこともできるよ』と伝えたのですが、『それは先に考えるかもしれないけど、今はわたしはまだ先があることを考えているから』と言うのです。それで僕も、『そっちのほうがいいね』と伝えました。だから、本人が一番元気なのです。僕も、人を元気にさせるのが自分の役割なのに、ついつい望まないことを思ってしまうのです。」

いさどんの話を聞いていたきょうこちゃんのご両親は、「本人は意外と元気なもので、我々も安心しました。今日はひとまずこれで帰ろうと思っています」と話されていた。

そして10月30日の夕方。明日きょうこちゃんは沼津のがんセンターに移動になるかもしれないということで、いさどん・みかちゃん・ちなっぴと一緒にきょうこちゃんのところへ行った。きょうこちゃんは「いつも眠りから目覚めると、『まだ生きている』と思う。いつも死と隣り合わせなんだよね。いつもこういう気持ちで生きていられたらといいと思う」と言い、いさどんは「それを必死と言うんだよ。必死は必ず死ぬと書く」と伝えた。それに対しきょうこちゃんは「いさどんがインドへ行ったときのことを思い出しちゃった。いさどんがインドへ行く前に逆流性食道炎と胃潰瘍、十二指腸潰瘍になって、人生で初めてのステロイドも服薬したら結構顔もはれちゃって、でも『負けへんで!』という気概というか、いさどんの気合を思い出した。あれは気迫があったね。あの気迫をもって生きていくことだよね」と言った。

それからきょうこちゃんは、「この前は皆にも引き戻してもらったし、いさどんにも会いたいなと思っていたら、夢で会えた」と話し、いさどんは「この世界では愛が大事で、情が絡むと毒になる。しかし、旅立つ人を引き戻すには情が引き戻す。その執着が引き戻すんだよ。愛ではだめなんだよ。愛ではそのままを受け入れてしまうからね。だから、情が引き戻す。情が深い人ほど、引き戻す」と言い、わたしが「いさどんは情が深いからね(笑)」と言うと、いさどんは「愛と情を使い分けないといけないんだよ」と言い、みかちゃんは「すごいね!愛と愛情を使い分ける!」と言っていた。

きょうこちゃんはまた、「こんなにスリルにあふれる毎日を送れるなんて。昨日はさくやがつねちゃんたちと一緒に来てくれて、その後れいかから電話があって、それからせいたろうからも電話がかかってきてね。木の花で育った子どもたちはいい子たちだなと思った。家庭教師時代があったな、なつかしいなと思って、せいたろう物語があったなあと。それこそ、皆の力だね。」と言っていた。

その後、「花よ天まで」をみかちゃんが歌い、それを聞いたきょうこちゃんは「皆で桃源郷を創ろう!本当に役に立つ者に生まれ変わって生きる!今、歌を聞いていたら、皆で本当に桃源郷を創るんだ、と思って・・・生きるぞと思っても、わたしもどうなるのかなと思って、気持ちがつい弱気になったりもするけれど、皆と一緒にやるぞ。そうだ!」と泣きながら言い、わたしたちが来たときは顔色が黄色く、熱があったきょうこちゃんの顔色が変わってきて、熱も下がったようだった。そして、皆で笑いながらばか話をしているのを聞いていたきょうこちゃんは、「いつも笑いがあっていいねえ」と言っていた。

翌日の10月31日の朝、3年前にいさどんが夢の中で天に問われて、それに対して答えた文章のことを久しぶりに思い出した。「少しでも光のほうへ」という文章をきょうこちゃんと一緒に読みたいという想いが湧き、プリントアウトして持っていって、いさどん・きょうこちゃん・こうちゃんの前で読み上げた。

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「闇からの卒業にあたって」

卒業式にあたって、自分の歩む道の方向性をつけるのに、どのような心構えをしたらいいでしょうか、という質問があったので答えます。まず、自分が歩む方向についてですが、自分が思う方向に進めばいいと思います。もし、思う方向が定まらなければ、自分に近い人が教えてくれる方向に進めばいいと思います。その自分が進む方向が決まったら、今度は、それがより健全で正しい道を選ぶことです。この世界にある物事はすべて、必ず善と悪に仕分けることができます。それを比べたときに、必ず片一方が少し劣っており、もう一方が少し優れているというように仕分けられます。それがあまりにも同じようでわからないときには、それを細かく捉えていって観れば、必ずそこでは優劣があるものです。そうしたら、ほんの少しでもいいから優れている方向へ進めばいいわけです。そして、選んでいった結果、最後に残ったところ、それが自分の進むべき道です。

これは「闇からの卒業」であり、「愚かからの卒業」であり、「神様へ進む道」です。

次に、この道を歩む縁をもらったものは、その道には道にふさわしい色々な困難があるものです。そして、それを歩む人には人にふさわしい迷いがあるものですが、この道を歩むものはまず、この道に縁があったことを歓びとして感じていくことが大切です。善いとか悪いとか、そういう判断をするのではなく、この道を歩めることを最大の歓びにすれば、どんなことがあっても、この道を歩むことから外れることはありません。そして、その選び方は、消去法でほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ道を歩めば、必ずその道は最後には人の行くべき最終到達地点につながっていることでしょう。

道は、人の目には観えないものですが、心の眼があるものには、その眼が愚かしいを避けて、正しいほうへ導いてくれるでしょう。心の眼を開けるためには、自らの内側にある本当の想いが天のほうへ眼を向けて、天のほうへ向かっていく。まっすぐに向かっていく道を意識したときに、眼はより良く観えるようになります。誰の中にもあるその眼は、全く揺るがないものであるのです。その眼が自らの中にあることを信じ、歩んでいけば、迷うことは全くなくなるのです。そして、過去に自らが迷ったことを思い出して、その迷いの愚かしさ、辛さを思えば、なおさらその真理への道を歩むエネルギーと追い風になってくれるはずです。

迷っているときは、あなたの我が自らをたったひとりにして、まわりのものから遠ざけてしまうものですが、真理への道は必ずまわりのものをしっかりと見出し、助け合い、調和し、歩むように眼を開いてくれます。それは、楽しく希望ある豊かなものになるでしょう。

――

この文章を聞いたきょうこちゃんは以下のように語った。

ようこちゃんたちが来るちょっと前に夢を見ていてね。そうしたらお釈迦様の手が上から現れてね。『さあ、立ちなさい』と言って、立たせてくれたの。顔は見えないのよ。『おまえはな、肉の眼は見えるかもしれないが、心の眼は盲目であったな』と言われて、『心の眼が見えるにはどうしたらいいのですか?』と聞いたときに眼が覚めたんだけど、すごいね。この話がすぐに出てくるとはね。ついさっきだよ。

昨日の(フェイスタイムで聞いていた)子どもミーティングでのいさどんの話もすごく良かったよ。うそつきは病気になるんだよって。わたしはうそつきだったな。本当にそうだったなって思うと、楽なんだよね。改めて楽になってさ。それにしても、ようこちゃんの文章はすごいタイミングだね。びっくりしちゃった。『どうしたらいいのですか?』と聞いて夢が終わっちゃったから、『ああ、続きが見たいなあ。もう一回見られないかなあ』と思っていた。それが現実となってすごいね。

そして、いさどんは次のように語った。

「僕の正直な気持ちは、早く行きたい。早く行きたいけど、率先して行くものでもない。物事の本質やことの成り行きがわかってしまうと、繰り返しの出来事に出会って毎日が退屈なんだよ。からくりがわかってしまうとね。やることがあればいなければいけないと思うけれど、生きることに囚われることはない。それこそ、長生きすることが良いことのように思われてきたけれど、世の中のものたちがそういうことをわかってしまえば、長生きすることだけが大切ということはなくなる。逆に、それならこの世界がむなしいわけではないから、別に長生きしてもいいわけだ。要はどちらでもいいんだよ。今は世の中がわずらわしいから、その矛盾のところと付き合っていることから早く離れたいと思う心もあり、そんなに早く行ってはいけないと思う心もあって、結局どうでもいいことになる。」

そこできょうこちゃんは「皆はわたしを見て、早く気が付いてほしい」と言い、いさどんは「そういう意味ではあなたがその学びを皆にもたらしてくれた。こんなことがなくても、皆が目覚めればいいのだけど、それは役割というものでもあるのかもしれない。でも、そこで気合が入りすぎてはいけない。気合が入りすぎると力が入りすぎるから、それはまた間違う。揺るぎのない自覚を持っていくだけだ」と伝えて、わたしたちは病院を後にした。

翌日の11月2日。白光のニコルやカタリナたちが来ていて昼にコンサートがあった。コンサートが終わり、ニコルたちと湧泉閣で話していたとき、いさどんから「今、僕たちは銀河のテーブルを真ん中に置いて、そこを囲んで銀河を眺めながら話をしているようだね。宇宙を旅する乗り物は「ユニバス」だ(チーン♪ みんな笑)!皆でいつか宇宙会議をしましょう」という話が出た。そこでジェニーが「そこには白光の五井先生や孟子たちもいるね」と言い、いさどんは「そうなのです!そのときにはトキを刻んでいる時代の枠を取り払いますから、トキを超えて高い魂が集まることになるのです」という話をしていた。

翌日の11月3日。朝、こうちゃんから電話があり、きょうこちゃんが結構出血しているということを聞き、いさどん、まりちゃん、みかちゃん、ちなっぴ、ともちゃん、ひとみちゃん、まりねえ、あさちゃん、きよ、すまと一緒に病院へ向かった。こうちゃんから電話があったとき、後ろできょうこちゃんが「ああ、ああ」とうめいている声が聞こえ、「まるでお産のようだ」とわたしが思っていたら、きょうこちゃんも、「出血すると、本当にお産のときのように子宮がぐわっと開いた感じになってね、思わず声を出しちゃうのよ。声を出すと楽なのよ」と言い、こうちゃんは「ああ、と言うんだよ。カタカムナでアは高次の響きだよね。人は苦しいときに、ああ、なんだと思ってすごいなあと思った。だいたい出血があると寒気と痛みが来るのだけど、その痛みはお産の痛みを10とすると6~7ぐらいなんだって」と言っていた。

それからきょうこちゃんは、「10月26日、29日、今日とあれから3回も大量出血をして、『もう1回大量出血したら』って言われていたけれど、まだ生きている。びっくりしたあ!もう3回だよ(笑)そのたびに覚悟はするけど、こうして生かしてもらっている」と言い、いさどんは「じゃあ、何回行けるか挑戦してみよう!どっちにいてもホームレスにはならへんぞ。居場所がある。今、ホームレスは病室のソファがベッド代わりのこうちゃんだと思ってさ(笑)」と言って、皆が笑った。

 病室にはいつも笑いがあった
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その後みかちゃんとちなっぴが「太陽の導き」を歌い、いさどんはこう語った。

「昨日ジュラシックワールドという映画を皆で観たけれど、DNAというのは何を刻んでいるのかというと、過去の経験を刻んでいる。経験の情報がすべて図書館のようにして刻まれている。
我々は大きな世界の中の小さなものだけど、大きなものは小さなものによって成り立っていて、小さなものは大きなものを支えている。小さなものにはここからここまでという枠があって、ロックがかかっている。そのロックをはずすと、実は宇宙の物質は消えることはないことが観えてくる。はじまりから今まで消えることなく、ただ変化しながらそのサイクルを経験しているだけだ。そのサイクルの経験をDNAがすべて記憶している。そうすると、ロックをはずしてやれば、我々の中にある物質的DNAと霊的DNAは解放される。自らの枠を超えて、自分自身のルーツでも巨大な宇宙原理でも、自らの中から湧き出てくるようになる。
だから、『太陽の導き』の歌の中に出てくる『あなたという小宇宙がもっと大きな大宇宙の中で』というのは、これはまったくの真理だ。自分という自我のロックをはずしてやれば、大きなところへ行って自分が消えたように観えてもいいんだよ。そして自分にそれが返ってきて、自分の小さな枠の中に戻してやれば、また元の自分がそこにいる。だから、自由自在だということ。微細な宇宙も巨大な宇宙も、実は探究は同じで、それは大きく拡大するか小さく拡大するかというだけのこと。タガがはずれると、そのような発想が湧いてきて、それが真実になっていく。
だから、我々は現象界で生死に縛られているようで、死ぬことを恐れたりするけれど、行ったり来たりしているだけなのだ。タガがはずれればどうってことはない。昨日もニコルたちと三次元の話をしていたけれど、心は異次元だった。そして、トキを超越していた。」

きょうこちゃんは「やっぱり皆と話すと、世界が大きくなって、宇宙にまで意識が飛ぶね。生きているとか死んでいるとか、そこにこだわる必要もないし、だけど希望を失わないということなんだけどさ。そういうところにこだわる必要はない。いつも皆と一緒なんだと思っている」と言い、いさどんは「それはお互いさまだよ。電話が来るとそれはいかんわと思うけれど、こうやって話していれば、やはりロックをはずすべきだと思う」と伝えた。

最後に、きょうこちゃんが放射線治療の二択についてどうしたらいいか、いさどんに尋ねると、いさどんは、「どっちでもいいんだよ。だいたい変だと思ったのは、これがいいと思っている医者の案があるのに、二つも選択肢を提示すること自体間違っている。それでこちらが伝えたことに対してクレームをつけるくらいなら、最初から一つだけを言えばいい。さっきの話をまとめていくと、何でもいいんだよ。行ったところが道だから。とても複雑そうに観えても、実は当たり前にこっちだな、こっちだなと進んでいくだけのこと。最初からその道だけを言われると強制されて難しそうに感じるけれど、今を観て、こっちだな、こっちだなと進んでいけば、どんなに不可思議な道でもちゃんと行けるものだ」と言い、きょうこちゃんは「昨日の判断状況と今朝の判断する状況が違うからね」と言うと、いさどんは「そういう意味でいったら、『まだ自分で選ぶか?』ということだ。」と言った。
こうちゃんも、「僕もそう思った。結局選んだものの反対、反対の現象がずっと来る。だから、選ぶこと自体がいただいていないと思って、もうやめようと思った」と言い、きょうこちゃんが「ここまで来ても、常にいただく心がやりきれてないね。まだ自分の我が勝っている」と言うと、いさどんは「選択肢がないのなら、もしくは選択肢を捨てなさいというプログラムなら、最初から選択肢なんか与えなければいいのに、と天に言うと、天は『そういうものはあそこにおるぞ。植物や動物は選択肢がない状態でおるぞ』と言われる。だから、天は人間だけに選択肢を与えたんだよ。なぜなら、その意志を共有したいからだ」と言った。それできょうこちゃんは「どこまでもいただく精神だね」と言い、わたしたちは病院を後にした。

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11月6日の朝9時過ぎ。3日ぶりにいさどん、みかちゃんと一緒にきょうこちゃんのところへ行った。きょうこちゃんは「いさどんが『人が変わると景色が変わってきた。きょうこちゃんからみほさんに担当が変わって、倉庫まわりが整理されてきた』と言っていた話をこうちゃんから聞いて、いろいろと振り返ることがある」と言うと、いさどんは「先にそういったことをすべて振り返って整理しておくと、もし向こうに行ってもやることがないから、来なくてもいいよ、ということになる(みんな、笑)。だいたい、ほとんどの人々はそういったことに気が付かずに向こうへ行って、向こうで振り返ることになるのだから。だから、生きている間に本当は振り返らないといけない」と言い、わたしは「それが心磨きだよね」と言った。
それからきょうこちゃんは、「昨日の夢にみかちゃんが出てきて、振り返りが足りないよねって言われたんだ。自分が過去にしてきたいろいろなことの映像が浮かんできたり、中神倉庫で作業をしている夢を見たりね。久しぶりに中神で作業をしちゃった。こうやって生きているうちにいろいろと振り返らないといけない。入院してからのこともそうだし、これ以前のこともそうだし、親に対しても生意気だったなって」と言い、いさどんが「それだけ振り返って復活したら、使い物になるぞ!僕はそれを楽しみにしている」と言うと、きょうこちゃんは「これだけのことがあったら多少使い物にならないとねえ」と言い、皆で笑った。それからいさどんは「今、世の中は面白くなってきたぞ!」と言い、それから30分くらい話をして病院を後にした。

しかしその後、午後2時前にこうちゃんから電話がかかってきて、きょうこちゃんの意識が遠のいているということを聞き、いさどんとわたしは再度病院へ向かった。わたしたちが到着したときはまだ意識が遠いところにいたきょうこちゃんだったが、意識が戻ってきたときに「皆、ありがとうね」と言い、「意識がある・・・ああ、自分はまだ生きているんだって。今度こそ行っちゃうのかなって・・・皆に出会えたことに、この生き方に出会えたことがありがたい。後悔は何もないし、ありがたいなあという想いだけ。皆に出会えて良かった。いろんなことに出会ってきたけれど、全部感謝だな。いろんな人に出会ってきたけれど、感謝だな。ありがたい」と言い、いさどんは「そういう気持ちになれるのが目標だからね。生きているということは、なんでもありがたい。不満を言っているうちは、まだ本当がわかっていない。また来てほしかったら、また緊急の状態になればすぐ来るから(笑)」と言い、皆で笑った。

翌日の11月7日。いさどんと楽団の皆と一緒にきょうこちゃんのところへ行った。午前中に輸血を行い、午後には初めての放射線治療を受けたきょうこちゃんは昨日とは打って変わり、生命力にあふれていた。いさどんは開口一番、「また会えたね。昨日は緊急事態にならないと来ないぞと言ったのに、今日は運転手として雇われてきた。日当なしで来たぞ(笑)」と言い、皆で笑った。みちよんが昨晩大人会議の冒頭に皆で輪になってカタカムナの63首を歌ったことを伝えると、きょうこちゃんは「いつもは結構しんどいのだけど、今日は珍しく一日落ち着いていた。夕方ゆみちゃんが来て、みかちゃんのメールを読んでくれてね。自分の中に奇跡を起こす力があることを信じることだね」と言った。

みかちゃんのメールには、昨晩のいさどんの言葉が書かれていた。「きょうこちゃんを復活させるのに奇跡があるとしたら、それは医者が『なぜ復活したのかわかりません』という奇跡だ。しかし、今の流れだと医者の力なんだよ。それは奇跡とは言わない。あれは医者が話している可能性と医者が話している奇跡の話だ。奇跡を見せないと、人間はその奇跡の方へ、天の方へ心を向けない。でも、今までそれをやってきたから間違いも起きた。昔はそういう奇跡があって、それを信じたものたちが天をあがめて、信者と化した。結局、根本的に人間の心を変えたわけではない。その見苦しい亡者の姿が再発して今ピークを迎えている。」そこでわたしは「その奇跡こそがカタカムナの現象化だものね。でも、それは奇跡というか道理であり、いのちの仕組みだから」と言い、いさどんは「それが神秘として隠されているんだよ。それをその通りだと思えば通っていくのだが、その通りを悪くしている思考回路がある」と言った。

そこからいさどんはチャイナブルーという中国のある社長のドキュメンタリーの話やフランスの人口学者の話、アメリカ大統領選、フィリピンのドゥテルテ大統領の話、パククネ大統領の話、福島原発の話など多岐に渡る話をして、「もう、世の中のどこを観ても世紀末だ。今、新たな世紀が始まり、新たな価値観が湧いてきている。人口学者のエマニュエル・トッドさんは現状を分析し近未来を予測して『価値観の大転換が必要です』と言っているが、どうしたら価値観が大転換できるのか、その回答はない。今までは分析する人はいなかったけれど、今、分析する人は現れるようになった。しかし、実際にどうしたらいいのだろう?というと、その回答はここにしかないんだよ。この間の『時代人』の話がその答えだ。(そしてきょうこちゃんに向かって)死んでいる場合じゃないぞ!(みんな、笑)」と言い、きょうこちゃんは「本当だねえ(笑)。復活しないとねえ。いろいろな意味で本当にここには回答がある。ここにしかない」と言った。さらにいさどんは、「死んでいる場合じゃないぞ!」と言い、きょうこちゃんは「本当に死ぬかと思ったわ(笑)」と言うと、いさどんは「昨日はだいぶ呪いの呪文を唱えたよ(笑)。行かせん、行かせん、おまえのいいようには行かせん♪」と言い、皆で笑った。
最後にいさどんが「今は世の中が混乱の極みだ。だから、死んでいる場合じゃないぞ!安定している時代ならば、まあ別にそう大して変わらないから、さよなら~って行ってもいいけど、これぐらい激動だったらちょっと眺めていたほうが面白いぞ」と言うと、きょうこちゃんは、「これからますます世の中が面白くなっていくね!今日は激動の世界を駆け巡ったわ。また元気になった!」と言い、わたしたちは病院を後にした。

その2日後の11月9日。夜中に大量出血があったということで、いさどん、みかちゃん、ちなっぴと一緒に午前中、病院へ向かった。実は昨日、「久しぶりに木の花ファミリーブログとして掲載されているきょうこちゃんの心のシェアを読んでみたい」と閃き、今日そのブログを2つプリントアウトして持っていった。そこには、「すべては善への旅である」も引用されていた。

病院へ着くと、いさどんは「今から勉強会をやるからね」と言い、まず、きょうこちゃんブログを読み上げた。その後いさどんは「短くても長くても充実していることが大事だ。あなたの人生は充実はしていたね」と言い、きょうこちゃんは「良い人生だったよ」と言うと、いさどんは「過去形にするな(笑)」と言って皆で笑った。きょうこちゃんは「今、わたしは医療の技術によって生かされているけれど、最終の最終地点では結局わたしの信じる力がすべてを左右するということを感じている。そこのみ」と言い、いさどんは「結論は出して出せないものだから。最終的には自らの寿命と出会うということと、その答えはいただくものだということ。それをいただく心になったときに、ふさわしく善意で物事が与えられていたことに気付く。企めば企むほど、裏が来るからね(笑)。想いは勝手にいくらでもまわるから」と言い、きょうこちゃんは「たとえいのちが短く終わっちゃったとしても、それでも善意だなと思う」と言った。

みかちゃんは「この前ね、ハワイのネイティブの人のマナカードを引いてみたの。とかく人間は白か黒かをはっきりさせたいものだけど、グレーというのが大切で、先を決めないで常に瞬間瞬間の白でもなく黒でもないところを感じていき、瞬間の波に乗っていくことの大切さというカードだったの。それはいつもいさどんが言っていることだと思った」と言うと、いさどんは「その立ち位置に立つからこそ、いただくことができる」と言い、わたしは「今回、奇跡って何だろう?と思ったときに、『奇跡』はその人の『軌跡』・その人の歩いた跡だから、奇跡をその人にとっての最高の境地だとするならば、奇跡とはそこに至るまでのその人の歩みにしかすぎないんだよね」と言い、いさどんは「それはDNAだからね。DNAは体験したことが記憶してある情報にしかすぎない。だから、自分がぶれなくてもいいんだよ。自分を観て、ぶれていたら、揺れている自分がいるなと思うだけだ。そしてそこをどうしていくかという歩みが一つの生きるエネルギー源になっていく。そのままでいいなら、皆あっさりと向こうに行っているはず。そこにもだえ、苦しみ、抵抗し、そこで何かを掴んで人は成長していく。世の中にはもだえ、苦しみ、抵抗しただけで終わり、学びが一切なく、転げ落ちていく者もいるから、いろいろだ。今日はもうひとつプロジェクトがあるけど、大丈夫か?」と言い、昨晩出発(たびだち)プロジェクトチームが仕上げた出発アンケートをきょうこちゃんにシェアした。

いさどんは、「我々がこの道を生きることにおいて、極めて重要なことの掘り起こしやそれを考えるきっかけをつくっているのは、あなただ。これも、あなたのような往生際の悪い者だからこそ、そうなれた。見本みたいな人がそうなったって、『あれは当たり前だよね』という話になるだけだ。それを超えるとき、人は見本になれる。それで、あなたもメンバーなのだから、こうやって語り合えるうちに出発アンケートを共有しておこうと思っているわけだ。まだ過去形にはなっていない(みんな、笑)。
こういったものがすべて共有できるようになると、奇跡の下地はできる。さっきのグレーの話ではないけれど、結論は出さなくてもいただく精神によって、我々が出したがる右か左というものではないものが出てくる可能性がそこにある。そこは無所有の境地。そこは何かの枠を取っ払って、死生観でいう生死を越えたところで観ないといけない。どこにも恐ろしいと思うことなしに、ただ現状を情報として観て、淡々とその流れに沿っていく」と言うと、きょうこちゃんは「つい結果を想像していろいろ考えちゃうけど、まっさらに、ただただいただくということを今は学ばせてもらっているなとすごく思う」と言った。
こうちゃんは「覚悟がないと、奇跡を起こそうという今までと同じ欲の延長になっちゃう。でも覚悟があって、いつでもいただきますという精神に至って初めて、奇跡を起こす側の立場になるのかなと昨日から思っていた。自分はどうかな?と思いながら」と言い、いさどんは「自分の想いを行動に移してみると、すべてつぶされていくでしょ(笑)。それでもう一回振り返ってみると、想っても仕方がなかったことがわかる」と言うと、こうちゃんは「輸血のことでも、輸血は1回だけだと言われて、僕としたら当然前回と同量くらい輸血するのだと思っていたら、前回の3分の1の500ccだけで、そこでひとつ外れたなと思ってさ。そうすると、自分の中に『あと1リットルくらい輸血してくれるだろうな』とか『なんでそんな話になったのだろうか』という想いが湧く。それで今日の夜中に500cc以上出血したものだから、どんどん手放していけということだと思った。自分では手放しているつもりでも、想いは湧いてくる。だから、一つ一つ現象が教えてくれている」と言い、わたしは「きょうこちゃんの魂が、きょうこちゃんが言葉では一時『すべてがありがたい』と言っても、『本当にあなたはすべてをありがたいと思っているのですか?』と問うてくれたのだと思った。だから昨日、『何かが違う』と伝えてきた。単に輸血して放射線治療を受けて、物理的に一時安定してそれでよかった、という浅いところではなく、魂の価値のことを教えてくれていた。ありがたいにしても、どんどん深みが増していく」と言った。
きょうこちゃんは「さらに自分の想いを本当になしにしていくというかね。いただいているつもりでも、まだいただいていなかったり、そういうことを日々学んでいると思う」と言い、こうちゃんは「本当に不思議だよな。だからといって、考えなくていいというわけではない」と言うと、いさどんは「それが生きているということだ。だから、生きているということは、あるものとコミュニケーションをとっているということ。この世界にはあるものというものがあるんだよ。秩序として、厳然たる不動のものがね」と言った。

さらにこうちゃんは「数日前から思っていたのは、どこまで行っても深くなる一方だから、どこまで行ったらということはとりあえず肉体を持っている限り、ない。感謝でもいただくでも、どんどん奥がある」と言うと、いさどんは「ということだ!わかったか(笑)。結論は何もわからん」と言い、わたしが「それがこの世界の実体だものね。人間にわかっちゃいけないんだよ」と言うと、こうちゃんは「生まれたときから死ぬときまでぜんぜんわからないことの連続だから」と言い、わたしが「生きているということはわからないことがわかるということ」と言うと、いさどんは「わかるを自分の側に置こうとするからいかんのだ。やはりいただいていく精神だ」と言った。
こうちゃんは「深いね。だって、探求してわかろうと思う想いがなかったら、ここには至らないしさ、けど・・・」と言うと、いさどんは「わかろうと思って、わかったら違うんだよ」と言い、もう言葉では表現できず、どうでもよくなる、という結論に至った。きょうこちゃんも「深いね!」と言い、いさどんは「生きていても死んでいてもいいんだよ。この間ここへ来たときは『死んでいる場合じゃないぞ!』と言ったけど、そんなことはどうでもいいんだよ」と言い、こうちゃんは「もしかしたら次の計画を先に練りだしているかもしれないし(笑)」と言い、いさどんは「『おまえ、こっちで手が足らんから早く来い!』と言われているかもしれない(笑)。それで行ってみたら、なんてことはない、こっちよりももっと親しい人たちがいたりしてな。『あっちに囚われている場合じゃなかった!これがわかっていたら早く来たかった!』ということになるかもしれない」と言い、皆で笑った。

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最後にこうちゃんは「なかなか病院で笑っている人たちはいないよ(笑)」と言い、きょうこちゃんは「ほんと、ほんと!死ぬかもわからないけれど、面白い人生をもらっているなと思ってね。だって、この間せっかく血が入ったのに、もう全部出ちゃったもの!」と言うと、みかちゃんが「木花咲耶姫様のモットーは潔く生きて潔く散るということだからね」と言い、いさどんは「その散り際の美しさが木花咲耶姫の個性だ」と言い、皆で病室の窓から雪の王冠をかぶった美しい富士山を見た。きょうこちゃんは「一言では言えないけれど、良い時間だった!どこまで覚悟ができているかはわからないけれど、もう何度もそういう場面が来ているから、ある意味覚悟はできているなと思う。そこまで腹をくくっちゃうと、面白いな。ありがたいとかいただくことの深みを日々学ばせてもらっているな」と言い、いさどんは「ありがたいも深みがあるんだよ。『いただきます』だから、いただき(頂き)・・・頂上まである」と言うと、みかちゃんは「頂き増す!どこまで行っても頂きが増していくんだよ」と言い、こうちゃんは「登山に終わりはないってことだ」と言い、皆で拍手して病院を後にした♪

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その翌日の11月10日。朝、きょうこちゃんが大量出血し、意識が遠のきそうだという連絡がこうちゃんから入り、いさどん、みかちゃん、まりちゃん、ちなっぴ、ともちゃん、きよ、すまと一緒に病院へ向かった。病院へ到着すると、きょうこちゃんは「いろいろあるねえ」と言い、いさどんは「それにしても、もうこれ以上血液が減ってはいけないと言われているのにさ」と言うと、こうちゃんは「落ち着いているでしょ(みんな、笑)。今までになくすごく穏やか。血色も良いし(笑)」と言い、わたしは「血液がなくても生きていける境地になった。新種が木の花に現れた(笑)」と言うと、いさどんは「マイナスだったりしてな(笑)」と言い、皆で笑った。

きょうこちゃんは「夢の中であうんの会があってね。今、やじーが毎日そばを打ってくれるのだけど、『このそばは命を蘇らせる本当のそばですよ』って皆で泣きながら食べているの・・・今、わたしは生きているなって。元気になったんだって・・・そう思いきや、朝になったらドバーッと(笑)」と言い、こうちゃんは「本当に面白いよ(笑)。今までは子宮がぐちゃぐちゃしている感じがあったんだって。だけど、放射線のせいかそういう感覚がなくなったんだって。良い感じかなときょうこちゃんが言っていたら、その直後に出血(笑)!面白いね。本当にどこまで行っても、いただきますだ」と言い、きょうこちゃんも「もうびっくりしたよ!今までで一番出血の量が多いよ。でも、意識が切れないじゃんって(笑)」と言い、こうちゃんも「意識が行きそうだと言うからいさどんに電話したけど、1回も意識が飛ばないね(笑)」と言った。わたしが「きょうこちゃんの中でそばが生きているから(笑)」と言い、いさどんは「つなぎが良かった(チーン♪笑)」と言って、皆で笑った。

それからいさどんは「今、アメリカで起きていることは、皆、今までを基準にしてものを考えるだろう?まさか、『こういうふうになるとは』とか『もうこれ以上は』と言うけれど、行けば行くほど、その次の世界がある。結局、所有しているだけなんだよ。自分の枠の中で限定しているから、『これ以上行ったら考えられない』というものが皆あるんだよ。次から次へとある。ただそれに自分の思考が追いつかないだけ。だから、思考しないでいただいていく姿勢になれば、自由自在になれる。限定する自分に囚われがあると、『いやだ!』とか『考えられない!』となるけれど、どちらにしても考えられるわけがないんだよ(みんな、笑)」と言った。

きょうこちゃんは「この生をいただいている。本当に皆に出会えてよかった」と言い、いさどんが「昨日の話で、もしここで別れて向こうへ行ったら、『なんだ!こちらのほうが近かった!』という話は面白いと思ってね。『向こうも近いと思ったけど、なんだ、こっちのほうがもっと近い!』と僕は思うんだよ。なぜここへ来てこのような生き方をしているのかと思うと、そこに出会うわけがある。それで戻っていったら、戻っていったで、『向こうのわけはこちらに元があったんだ!なんだ、ばかばかしい。あっちのほうが大本だった』ということになる。すべてあちらで操作している」と言うと、こうちゃんは「向こうで操作するのも面白そうだし、こっちでアップダウンしながら操られているのも結構面白い(笑)」と言った。

それからいさどんは窓から富士山を見ながら、「窓の外の景色を見ると、昨日の景色も今日の景色も天気が違うから多少違うように見えるけど、同じように見えるだろう?あれをじっと観ていると、ドーッと何かが流れている。移り変わっている。移り変わっているということは、今この部屋の中では毎日いろいろな出来事があって一喜一憂するわけだ。そこで気持ちは一喜一憂しながら、『まだ生きていたよ』などと言っているけれど、この世界全体がドーッと動いている。自分が意識したところはダイナミックで過激なように見えるけれど、実はそこら中ダイナミックで過激で、すべて同じなんだよ」と言い、こうちゃんも「本当に流れているだけだな。流れがそこにあるだけだなって思っていた」と言い、きょうこちゃんは「世界は面白くなるねえ。フリーな立場でいれば本当に面白いね」と言った。

その後、看護師さんが何度か部屋に来たときにいさどんは「あの人たちが入ってきてさ、僕を見て、『トランプさんがなぜここにいるのだろう?』となぜ聞かないのか(笑)。ヘアスタイルが違うからか(笑)」と言い、皆で笑って、わたしたちは病院を後にした。

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11月14日。いさどんとわたしは4日ぶりにきょうこちゃんのところへ行った。きょうこちゃんの顔を見るやいさどんは、「えらい良い色になったな!この世のものとも思えんような(笑)。悪くならないものだから、見に来なかったぞ(笑)。毎日来てほしかったら、毎日危篤状態になればいいんだよ(笑)」と言い、皆で笑った。

その後わたしは、「せっかく久しぶりにきょうこちゃんのところへ行くのだから、何かプレゼントを持っていきたい」と思ってプリントアウトしていった「胸突き八丁」の話をきょうこちゃんにシェアした。

――

 「胸突き八丁」

いさどん:
富士登山では九合目を超えたところに、胸突き八丁(約872m)が来る。胸突き八丁は九合目の上にあるんだよ。気持ち的にはもう一息どころか、二息いかないと、頂上へは行けない。「もう九割来たのだから」といって、もう行けたと思ったら、それで断念することになる。ダンネンでした(チーン♪)。そこを行き切るのは、心で行ける。そのときに、心で行ける見本となれるし、物理性が伴わなくても、人間は精神というもので究めることができる。これは人間以外のものには与えられていない。心で生き切るということは、植物や動物には与えられていない。他のものは心は関係ないのだから。

ともこ:
胸突き八丁を超えることは、今までと質が違う感じがする。

いさどん:
そう。富士登山でいう胸突き八丁というのは、物理的な辛さとの戦いだ。しかし、この胸突き八丁は目覚めるか、目覚めないか。真理を観るか、観ないかの差だから、だいぶ違う。

ともこ:
それまではわりとストイックな世界だったけれど、ある意味自分と向き合ってきた者がその延長線上だと、そこは登れないのだろうなと思う。

いさどん:
なぜかというと、それは「人智」だからだよ。胸突き八丁の向こうはすべてを捨ててしまって、すべてをお任せという境地。そういった精神状態になれば自分も何もありません、という心境だ。きょうこの言う、「わたしって囚われていた。いのちというものはもっと必死にならないといけない」ということだ。生きることに真剣になって、がむしゃらにあがくことが生きることの証だよ。だから、瞬間瞬間生きることは真剣だ。そのことに気が付くと、生命力が湧いてくる。胸突き八丁は、ただ生命力に任せて、ただ前に出る足に従って行く境地だ。

人には人智を超えた生命力に出会える可能性がある、と僕は考えている。

――

文章を聞き終えたいさどんは、「胸突き八丁の胸は胸板のことだからね。だから、心のことだ」と言い、きょうこちゃんは「人智を越えたところに湧き出してくる。富士山を登ると、本当にあとちょっとというその最後が苦しいんだよね。もう目の前に上が見えているのにさ。よく行ったもんだねえ」と言った。いさどんは「初めて登ったときは配分がわからなかったから、最後のところは死んでもいいから登ろうと思った。死んだら登れんというのに(みんな、笑)。ご来光登山だったから、上が渋滞して亡者のようになってしまった登山者たちが動けずにいて、その間を踏んでいくような感じだった。途中であいこさんとはぐれてしまい、必死になって上がったら、あいこさんは上にいた(みんな、笑)!あんなに必死になって来たのに(笑)。『ちょっと大変だったろう?』と言って迎えてあげようと思っていたら、あいこさんのほうが『来れたねえ』と言うんだよ。僕が120%の力を出しても、草取りではあいこさんに絶対負ける!」と言い、こうちゃんが「負けるよね(笑)。競争するのが馬鹿らしくなっちゃう」と言い、さらにいさどんが「まりこと蕎麦刈りしてみろ!腹が立ってくるに(笑)」と言い、皆で笑った。

それからいさどんは、「新しい宇宙の分析をしたから、それをフランス人の人口学者のエマニュエル・トッドとヨーロッパの最高頭脳と言われているジャック・アタリに送ってあげないといけないと思ってね。エマニュエル・トッドにはようこちゃんがすでにメールしたよ」と言い、わたしは「彼に時代人のメッセージを送りたいと思ってね。『日本であなたが特集されている番組を観て、あなたが気に入ると思いましたので、時代主義のメッセージを送ります。もっと知りたければ、ぜひ富士山麓の木の花ファミリーに来ていただき、前人未到のディスカッションを地球と全人類のために行いましょう♪』というメールを送った(笑)。本当に来たら、彼にプレゼンしてあげないとね」と言った。

また、いさどんは、「結構良い色になってきたな。血がないはずなのに(笑)」ときょうこちゃんに向かって言い、こうちゃんは「どこかでスイッチが入ったのか。何かが起きているのだろうか(笑)」と言い、きょうこちゃんが「これから先も本当わからないなと思って」と言うと、いさどんは「覚悟しすぎて損しただろう?」と言って、皆で笑った。さらにいさどんは「人間が想定できるうちは、奇跡ではない。人間がダメだと判断したところから奇跡が起きる」と言い、こうちゃんは「胸突き八丁の話と同じで、本当に一線があるんだなと思ったよ。手放すということはこういうことかなって」と言った。きょうこちゃんは「やろう、やろうとしているときはダメだけど、手放したときに何かが起こる」と言い、いさどんは「妥協しているうちはダメだ。こういうふうだから、今度はこうと妥協しているうちはね。妥協も何もなくなってしまわないといけない」と言った。

そしていさどんは、「また来るから。次は3年後(笑)!来てもらいたかったら、危篤になること(みんな、笑)!こうちゃんから連絡があってここに来るときには、これで終わりかと覚悟して来るのだから」と言い、こうちゃんは「帰るときは皆で笑っているもんな(笑)。もう7回くらいそういうことがあったよ」と言い、皆で笑って、わたしたちは病院を後にした。

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――

その後、きょうこちゃんの状態が安定してきたため、いさどんは一週間に一度きょうこちゃんのところへ行って雑談をしては、きょうこちゃんがよく笑い、11月28日に15回の放射線治療の最終日を迎え、12月12日の退院に至ったのでした。きょうこちゃんの退院にあたり、「こんな日が来るとは思えませんでした」とこうちゃんは言っていました。

 退院して、みんなと再会。
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 こうちゃんに付き添われ、2ヶ月ぶりに畑へ。
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木の花ファミリーに戻って2週間が経った今、きょうこちゃんは現在の想いを次のように語ります。

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この48日間のことを思うと、ものすごく貴重な体験をさせてもらったと思います。生死を彷徨うような状態であったけれど、振り返れば面白い体験でした。もうあちらの世界に行ってしまうかも知れないというのに、病室にはいつも笑いがありました。生きていても、死んでも、どちらでもいい。もともと大本はあちらの世界にいたのだから。そんな、囚われのない心になれると、いつも笑っていられるのだと思うのです。

とにかく、どこまでいっても「いただく」ということを学ばせてもらいました。手放すことで、奇跡が起きることも見せてもらったのです。

自分の今までの心は間違っていたことにやっと気付き、自分の心の眼が見えていなかったことにも気づかされました。やっていきます、と宣言はたくさんしてきたけれど、本当のところは、自分の心を見ることから、逃げてばかりいました。けれど、間違っていた自分を認めてしまうと、すごく楽なのです。ものが見えるようになるには、まず見えていないことに気づかないと始まらない。バカだと気が付かないと、バカも治らない。当たり前のことだけれど、その当たり前が、自分が強いばっかりに、やれなかったのです。

血も入れ替わりました。通常私の体の大きさだと、約3200ccの血液が体にあるそうですが、今回2160ccも輸血したのにそれ以上の出血があったのです。体が緊急事態を察知して、普段とは違う方法で血を作ってくれたとしか思えません。放射線治療の副作用で、腸炎を起こして、10日間何も食べられず、胃も腸も空っぽになりました。下痢がひどく、オムツをし、液状のものから始めて、だんだんと柔らかい離乳食のようなものになり、徐々に普通に食べられるようになっていきました。そして、一カ月以上も寝ていると、歩くこともできないのです。まずは座ることから、次は立つこと、そして少しずつ歩けるようになりました。つまり、肉体的には死ななかったけれど、体は、まるで赤ちゃんからスタートして、一から始めているのです。

心も一からスタート。そんな気持ちでいます。

だから、今の私は、私であって、私でないもの。不思議な感覚です。もともと、自分が生きている要素なんてどこにもないのですが、頭で分かっていただけで、本当には分かっていませんでした。知れば知るほど、「分からない」ということが分かる。本当にこの世界は奥深い。

まだ、みんなには話していないけれど、放射線治療をするとき、汽車が走るような音がします。まるで、銀河鉄道に乗っているような感覚になるのです。そして、宇宙空間に、蓮の花の上に横たわる私の姿が見えるのです。最初は妄想かな、と思ったけれど、何度も何度もその映像は出てきて、出血で苦しいときも、熱が出てしんどい時も、うつらうつらと眠っているときも、やっぱりこの映像が出てくるのです。何か大きな存在が、私が生きるべく、体を癒し、いつも見守ってくれている・・・。けれど、それは、私に限らず、全てのものがそうやって生かされている存在なのです。

そう感じました。

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これから、次の治療が始まりますが、いつまで生きられるか、それこそ分かりません。だから、今、私がやれることを精一杯やっていこうと思っています。体はまだ思うように動かすことが出来ないけれど、私がやれること、私にしかできないことがあるはず。こんな私でも何か役に立ちたい。そんな風に思って日々過ごしています。

今は、ゆっくりと療養させてもらって、本当にありがたいです。神様の愛と、みんなの愛をいっぱい感じている毎日です。ありがとうございます。

そして、今日はクリスマス。イエス・キリスト様のお誕生日ですね。私たちはいつもいつも、神様からたくさんプレゼントを頂いているのだけれど、今回のことは本当に大きなプレゼントをいただきました。頂いてばっかりなのですが、私に何か出来るとしたら、「病気」は決して不幸なことではなく、「神様からのプレゼント」だということを多くの人に伝えられたらいいなと思っています。

そして、シリア、イエメンなど未だに内戦が続いています。破壊しつくされた町や栄養失調でやせ細った赤ちゃんの映像を見ると、本当に心が痛みます。彼らがこの日をどう過ごしているのか、想いを馳せてみるのです・・・。本当に世界が平和になる日が来るように祈るとともに、その暗闇の元が自分の中にもあることを見詰め続けていくことだと思っています。

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――

そして、きょうこちゃんをずっと見守ってきたいさどんは、次のように語りました。

――

「きょうこちゃんが市立病院に入院しているときは、『あなたの枠を取りなさい。いただきなさい』と伝えてきょうこちゃんはここまで来たのですが、きょうこちゃんがここに戻ってきたときには、『これから沼津のがんセンターに行く前に、健康な心になりなさい。そして体に残っている病気に対処しなさい』と伝えました。そうしたら、病気は格段に早く改善されることでしょう。

今はきょうこちゃんに会うたびに、『生きていたね』と改めて思うのです。何度か手放してきましたからね。そうすると、きょうこちゃんがただそこにいるだけで奇跡が起きていると思うのです。実は奇跡とは、当たり前のことなのです。奇跡が起きるのは、神秘が現れたのです。神秘とは、神の秘密です。それを秘密と捉えず、観えるようになってくれば、この世界は奇跡だらけなのです。そして、『奇跡』だらけで生きると、それがその人の生きた『軌跡』となるのです。

本当は、このような現象をもらわなくても、生きていることの意味を深く感じられたらいいのですが、人は滞りがない毎日を送っていると、日常に当たり前にあることがありがたく思えないものです。そう思えない人は当たり前にあることに対して意識しないので、想いが叶わないことに対して不満を言うようになります。きょうこちゃんからのメッセージにシリアやイエメンのことが書いてありましたが、昔のきょうこちゃんだったらそのようなことに想いを馳せることもなかったことでしょう。病気になることは歓迎することではありませんが、どこからでも学ぶ気になれば、良い体験になるのです。しかし、ならないほうがいいものはならないで学べることが一番良いですね。日々起きる出来事がわたしたち自身を教えてくれているのですから、いかに小さなことで気付けるか――、それが、日々どのような姿勢で生きているのかの証です。

しかし、小さな滞りで自らを振り返らなければ、出会う現象はどんどん大きくなっていきます。そして、最終的には命が懸かっている段階にまで至るのです。そこで、必死という境地に至るのですが、そのように必死になったときに、必ず死が訪れることを教えてもらうのです。わたしたちは必ず死ぬのです。ですから、丁寧に自らの心の在り様や出来事の意味を見つめ、常に理解する必死さがあれば、大きな現象をいただいて慌てなくてもいいのです。そして人に不満を言わなくてもいいのです。

最近きょうこちゃんの顔を観ると、顔つきには癌の相はなく、表情は健康体です。きょうこちゃんが癌になり、医者もダメだろうというところにまで行って、こうちゃんは7回もダメだとあきらめました。7というのは、カタカムナで質的転換を表しますから、良い数字ですね。体にはまだそれだけの現象の余韻が残っていますが、きょうこちゃんの心はもはや癌ではありません。昔は、きょうこちゃんの体は健康に見えましたが、心が癌をつくる響きを発していました。

木の花の自然療法プログラムを受けるために面談に来た人に、僕はこう伝えることがあります。『あなたは病気ではありません。あなたの心が病気を引き寄せる心をしているだけであって、実際は病気ではないのです。ですから、病気ではない心の姿勢を保っていけば、霊主体従といって健全な精神に健全な肉体が宿るのです。つまり、心が先にあって、それにならって現象が起きるのです。』そこで、そう思えるかどうかです。自分は運が悪いのだとか、自分は病気だから仕方がないのだと言っているようではダメですね。その心が自分の中に病気をつくり、病気を引き寄せるのですから。ある意味、病気になっている人はかわいそうでもあるのですが、冷静に客観的に観れば自業自得なのです。そこで、客観的に自分を観て、それを引き寄せた自分自身に気付けるかどうか。

きょうこちゃんは次のように書いています。

ものが見えるようになるには、まず見えていないことに気づかないと始まらない。バカだと気が付かないと、バカも治らない。 

そこで、何がバカだったのか。大切なことはそこなのです。人からそれを伝えられるときには、まだわからないものです。しかし、人と自分の区別がなくなると、人の言葉がそのまま自分の中に入ってきます。それが、我が小さくなるということです。そのようになってくると、人の言葉が直接入ってくるので、人からの目線が自らの目線となり、客観視点ができて、それを取り入れられるのです。そうすると、他者と共有し合う豊かな世界ができます。そしてそれが、イエス・キリストをはじめ、過去の聖人たちが説いてきた境地なのです。

あなたも別人になれますよ♪別人といっても、別の人になるわけではありません。あなたがあなたではなくなるということはないのですから。ただ、あなたを存分に活かすことはできます。その道は万人に与えられています。そのことに気付き歩み始めた人々は、人としての最高の喜びを知ることでしょう。そういったことを、わたしたちはこの世界からクリスマスプレゼントとして約束されているのです。

 
 12月24日 クリスマス会
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 木の花楽団に復帰し、新曲「花よ天まで」を弾くきょうこちゃん
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きょうこちゃんの物語は、続く!

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