ひろっちの「出家」

ひろっちです。

昨日、頭を丸めました。
今までも時々丸刈りにすることはあったけど
ここまで短く丸めたのは生まれて初めて。
気持ちの上では「出家」の気分。

これまでの古い自分におさらばして
新しい自分へと向かうことへの
「決意」の現われ。

僕は「我が強い」。
それも相当に強い。

「我が強い」を国語辞典で調べてみる。
…自分の考えを押し通そうとする気持ちが強い。他人と協調する気持ちに欠ける。

その通りだろう。正にそれは僕のこと。

コレまでの人生、丁度中学に入って間もない頃より
僕は反骨精神むき出しで今日まで生きてきた。

常識といわれるものへの反抗
ルールといわれるものへの反抗
スタンダードといわれるものへの反抗
現代社会・大人社会に対しての反抗

常に疑問を持ち、反抗し、逆らうかのようにして生きてきた。
そんな13歳からの17年間だったように思う。
そうしていつしか、僕の中で
大きく、そして強い強い「我」というものが出来ていった。

しかしまた「我」は、自分を守る為のものでもあった。
自分のことしか考えないような
弱肉強食とも思えるこの時代。
社会には自己愛が溢れ
欲望が渦巻き
怠惰で満たされている。

生きる意味を見出せないのか、ただただ
「その日その日を楽して生きる」
「己がよければそれで良し」
というような生き方で溢れかえっている。

そんな時代にあって、それらに流され染まってしまうのを拒むため
そして、誰が決めたのかも知れないものに従い
骨抜きの操り人形のようになることを
どこかで強烈に拒んだ結果育った「我の強さ」だった。

何か現代社会に存在する現象の裏にある
大きな大きな「闇」の部分に対して
強烈に反抗して生きてきたように思う。

そうやって生きてきたからこその
今の自分があるとも言える。
こんな時代にあって、人の道を外すことなく
周りに流されることなく
真っ直ぐに、そして自分の人生に
100%責任を持って生きてきたと思う。

僕は、ただ正々堂々と、胸を張って生きていきたかっただけだった。
己に恥じることなく
自尊心を持って生きていきたかった。
ただただ人として真っ直ぐに生きていきたかった。

それを周りがなんと言おうと
自分が正しいと思ったことや己の信念に従うこと
自分の中から湧き上がってくるものなどに従うという事へと繋がっていった。
確かにこれまではそれでもよかったんだろう。

そんな中、最近一緒に暮らす家族からこんな手紙を貰った。
「ひろっちの個性が100%活かされるといいなと思い
いつもひろっちのことを見ているのだけれど
今現在30%か、もしくはまだ10%ぐらいしか
ひろっちの良さが表現されていないと思っています。

裏を返せば、将来ひろっちがどう化けるか!?
凄く楽しみでもあり、逆に言えば、もっと自分のためにも
皆のためにも活かされる人材なのにもったいないとも言えるかな。
(今はまだ十分に活かされていいないから)

皆と共に、心の底の底から信頼しきって
互いに委ねあい、真に想い合える世界を表現できることを
楽しみにしています」
というものだった。

「心の底の底から、自分ではない他の存在を信頼しきって、それに100%委ねきる」
それは今まで一度だってしたことのない生き方。

この世界を創造し、今もこの世界の営みを司っている
「絶対で、無限で、永遠なる存在」に対しては
完璧なる、1000%の信頼と、完璧に委ねられる心がある。
ほんの芥子粒(けしつぶ)ほどの疑いも持たず
そこに己の全てを委ねられる自分が在る。
この大自然に対してもその心は同じである。

しかしこと対象が人間になると
どうしても信じられない気持ち
疑う気持ち、逆らおうとする気持ち
汚いものをそこに見出してしまう自分がある。

だからこそ
「心の底の底から、自分ではない他の誰かを信頼しきって、100%委ねきって生きる」
それは今まで一度だってしたことのない生き方。

ところがその心が、真の自分を活かしきれていない現実を創り出している。
「もっと自分のためにも
皆のためにも活かされる人材」
になることから遠ざけている。

その手紙を貰った時から
この数日間、沢山のことを考え、想いを馳せた。

そうすると沢山、今までの生き方を変えることに
「抗う気持ち・抵抗感」が湧き上がってきた。

まだまだ未熟者であることはわかりながらも
しかしながら現時点の自分に対する自負心もある。
今まで命に変えても真っ直ぐに生きることを貫いてきた自尊心もある。
己の信念に対する信頼もある。
己に対する誇りもある。

でも、これまでの自分・今の自分を超える
さらに外側に広がる
「もう一つ高次元の自分」
が在ることもわかる。

しかしそこに行くことが
どこかそれまでの自分を否定するように感じてしまい
すんなりそっちに行くことに対し
抗う気持ちがこの数日間、自分の中で蠢いて(うごめいて)いた。

二つの想いの狭間で行ったり来たり・・・・・・
行っては戻り・・・・・・
戻ってはまた反対側に戻り・・・・・・
果てしない葛藤と苦悩・・・・・・

グルグル グルグル・・・・・・
色んな思考が入り乱れ悶々とする日々。
ハッとして、そんなグルグル状態の自分になっていることに気が付いた。
そうしてその時、再び神に問うた

頂いた想いは
「己に仕えるのではなく
神に仕えよ」
だった。

その通りだ
俺は自分が強い。そして謙虚さに欠ける。
俺が仕えていたのは、自分だったかもしれない。
もっと自我をときほぐし
神気で内を満たすことが大切だ。

随分昔と比べて柔らかくなってきたとは思っていたが
この数日の葛藤している自分を振り返ると
まだまだ「強烈な我」が内側にあることに気付き
その強さに愕然とした。
まざまざとそれを見せ付けられてうなだれた。

「我」によって己を守るのではなく
「我」によって自らの可能性を己の中だけに留めるのではなく
「我」という鎧を脱ぎ、己をドンドンと外に拡げ
可能性も無限大に拡げていく。
それは「真我」への目覚めなのかもしれない。
「成長」でもあろうし、もしかしたら「覚醒」とも言えるのかもしれない。

そんな葛藤を繰り返す数日の末、ようやく僕は
過去の古い自分におさらばする決意をした。
というより本当は進むべき道は最初から分かっていたのだが・・・・

そう、今年の目標は
「脱皮と創造」
だった。

これまでの延長線上の自分ではなく
全く新しい自分になること。
勇気を持ってそっちに進むことだった。

青虫が、茶色い硬い殻に閉じこもってさなぎになるように
そんなさなぎが、色とりどりの羽を背負い
自由に空を羽ばたく蝶の姿になるように
それまでと全く違う自分になること。
既存のものをぶち壊し、新たなるものを一から創造すること。
それが年初に自分自身で立てた目標だった。

「委ねるしかない」
それが、天から与えられた今生の役目を勤め上げることにおいて
必要不可欠なことであると分かっているから。

己としての役割もあるが
今いる家族に与えられた、この時代における役割もある。
そこにも神の意思が込められている。

最近自分にとって大きなテーマのひとつであった「統合」も
「心を開く事」と
「100%の信頼と委ねる心」で
達成されていくことであろう。

というわけで今回頭を丸めました。
丸めたからといって
パッと全く変った自分になれるわけではないけれど
変っていくことに対する決意をしたってことです。

気持ちの上では「出家」です。
侍魂も在り続けるけれど
なんだか僧侶にもなった気持ちです(笑)
会ったときには1回300円で触らせてあげましょう(爆笑)


3 thoughts on “ひろっちの「出家」”

  1. ひょうゆうさん>

    そうですね。
    求道者として、いつまでも宜しくお願いいたしますm(__)m

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