4月20日、21日の二日間に渡って、第二回カタカムナ研究会が行われました。
■ 初日 『The helical model – our solar system is a vortex(通称ヴォルテックス)』 という動画を二本みました。
「今この時代にカタカムナが何故必要なのかというと、社会は今、地球規模で物の豊かさなどといった一つの方向の価値観へ固まっているところがあります。
今年2015年も、もう一年の1/3が終わろうとしていますが、これは地球が太陽を1/3まわったという捉え方もできます。1日が経つということは地球が一回転することであり、地球が365回自転して太陽の周りを一周します。太陽自体が銀河という星の集団の中で2億2600万年かけて周っているといわれ、その太陽は、螺旋を描きながら秒速19.44㎞で銀河を旅しています。螺旋を描いている太陽の周りを、地球も他の惑星も周っています。螺旋を描いて周っているものの周りを周っているのですから、コイルを描いていることになります。地球の年数で言うと25800年かけて太陽は一螺旋を描くのです。
今我々がここで学ぼうとしていることは、カタカムナという古代宇宙物理学です。これが日本列島にあったのは12000~13000年前と言われ、この数字は倍にすると26000年です。太陽が9000回弱螺旋を描くと、2億2600万年かけて銀河を一周するのですが、そのたった一螺旋、それが25800年で、その半分が12900年です。
私たちがこうして生きていることは、一日がたって、一年たつと年を取り、それに80回つきあうと寿命が来るのですが、たった80回太陽の周りを周っただけなのです。太陽が一螺旋する間に地球は太陽を25800回も周るのです。25800年に対して80年なんてほんのちょっとです。そのほんのちょっとのところで一瞬を区切って、私たちはこの世界がこうだと認識している。ものすごく長い歴史の中で、ものすごく無限の可能性の中で、この一瞬だけを区切って見ているのです。
ところが実際人間達が今の社会で感じているのは何だか生きづらいとか、変だなとか、それどころか実際人間同士が争ったり、環境が汚染されたりという問題をいっぱい引き起こしているのですから。人間が本当に尊い者として豊かさを享受しているかというと、残念ながらこのような豊かな時代にまだまだ人間の社会には実感として湧いていないというのが実情です。
昨日どこかで一日の降雨量が130ミリを超えて観測史上初めてとテレビで伝えていました。長い地球の歴史の中ではもっと激しいときがあったのでしょうが、今の時代においてこういった現象は、人間に何かのメッセージとして返ってきているのではないでしょうか。何万年、何億年というもっと長いサイクルの中で、我々は今の時代を受け継いできて次に繋げていく役割のはずなのに、人間は今だけを生きています。動物や植物は自我を持たず、そのような能力がないからこそ今を生きて次へつなぐ役割を十分に果たしているのです。それに対して人間は自我を持つがためにエゴが強くなってしまい、我さきになって天然の法を逸脱することで幸せになれるような大きな勘違いをしています。
私たちは21世紀に訪れた25800年ぶりの銀河の冬至を迎え、人類はどこへ行こうとしているのかを想い、木の花のような生活を提唱しています。それで古代カタカムナの生き方がこの時代に復活したのだと思っています。ですから、私たち人間にはカタカムナをひも解いて、私たちが個人にどのように古代の叡智を反映させ、矛盾をたくさん生み出した人間社会から人間の本当の在り方はどこにあるのかを学んで、本来の宇宙の法に繋げていくことが求められているのではないかと思います。これから少しでもカタカムナの考え方、生き方を生活に落とし、それを復活させながら、その昔に戻るということではなく、新たな時代をその叡智を使ってより健全に、真の豊かさに役立てることが大切なのではないかと思います。私たちはこの場をそういったことを探求したいという事で前回からカタカムナ研究会にしましょうという提案をしました。」
そしてヴォルテックスの映像をみんなで見てから、芳賀兄(はがにい)の講義に入っていきました。まず、芳賀兄は、人類の発祥当時から現在に至るまでの変遷について語りました。
芳賀兄 人類の発祥から進化と退化の流れ <人類の発祥> <食べることに苦労しない時代> <世界の仕組みを考察する> <楽をして生命活動を維持する方法を考えるようになった> <人間の脳の退化・直観力の退化が始まる>  <宇宙のバランスが崩れていく> 
 
物質の進化から、心の進化の時代へ 
大雑把に、人類の発祥から進化、そして脳の退化の流れを見た。
人間の中には、常に今より進化させようとする本能がある。歴史は、常に進化する流れの中にあり、物質の進化ということも当然その流れの中にあるとしたら、その弊害が出るというのも、流れであって、さらにその先へと進化する時が来たともいえる。
又、便利になるということは、仕事を効率化することでもあり、そこで空いた時間をもっと有効なことに使う事が出来る。実際、考えないものは、同じことをずっとやり続けるが、考えるものは、同じ仕事をしてももっと良い方法はないかと考え、問題があればその問題をどうやってクリアーするかと、常に考えている。大脳を使うだけではなく、働く中で「ミノナライ(身の習い)」といって、全身の細胞が磨かれていく。
人間を観察していると、人間の中には「進化しようとするもの」と、「進化するものに乗っているもの」の2種類あるように思える。「常に進化しようとする心」と、「進化しようとする者にただ乗っかっている心」には大きな違いがある。そして考え進化しようとする人の中には、「きれいな心」もあれば「悪い心」もある。
悪い心の者は、楽をして考えない者たちを使って、多くの食料を得て、ため込み、搾取する。又、動かずしてお金が入るシステムを考え出し、世界の金融を動かしているともいわれている。その少数の者たちによって、「考えない者」がさらに頭を使わなくなり洗脳しやすくなるよう、娯楽や、五感の刺激が与えられる仕組みが作られ、ほとんどの者がいつの間にか完璧に洗脳されているのが今の状況だろう。しかし、この悪い心も大局的に見れば、進化しようとしないものを目覚めさせるための刺激を与え続けているとも言える。
明治維新前の頃、人はまだ歩いて全国を回っていた。今は当たり前に自動車や電車に乗って遠くへ行くことができるし、飛行機に乗って外国へ行くこともできる。それまで手洗いしていた洗濯物を、全自動洗濯機がしてくれるようになった。それらは誰かが考え発明した結果である。考えた人が作ったものを享受していくのは良いのだが、そういった変化や進化の積み重ねの上に今現在の自分の生活が成り立っているという事実を認識する必要がある。「あることが当たり前」になっている今、便利さの上で、人は働かなくなる傾向にあり、世の中は、ニートや引きこもりが横行し、年老いていく両親と共に共倒れするかもしれないという危機も迫っている。この便利な日々が「ありがたい=有り難い」上に成り立っているという認識が無いのだ。
そう考えてゆくと、この身近な肉体という複雑な機能が自動操縦されているという事実や、地球が太陽との絶妙な距離を保つことで生命が生存することが可能になっていることの奇跡。宇宙の星々の運行と共に、時代が何か大いなる目的をもって自動操縦されているという事実。挙げればきりがないほどの生命のバランスと奇跡の上に、私たちは生きている。そういった気づきが人の心に感動を起こす。「あって当たり前」という感動のない冷めた心の人々が横行し、楽だけれど面白くない人生を生きて、多くの心の病が発生している。それが現代なのだ。
歴史の流れから言って、人間は物事を進化させてゆく流れの上にあるとしたら、物質的進化がピークに達した今こそ、やっと精神や心の進化に取り組む時代が来たということができる。だとしたら、今までの流れは否定するものではなく、「やっと心に取り組む時代が来たね」と言って、みんなでそちらの渦に乗り移っていけばいいのだ。この世界は、変化することが安定の元であり、時は常に回りて巡り、渦巻いて次々と時の渦がやって来る。その渦に乗り遅れないよう、直観力を磨く事が大切なのだ。
 
菌の話から想いの話へ 
人間の自然破壊により自然がロックされるという事例は、「風の谷のナウシカ」に表現されていると芳賀兄は言う。ナウシカの中に出てくる「腐海」と呼ばれる菌類の森は、人間たちによる最終戦争によって汚染された大地の毒が植物によって浄化されることで世界を再生するシステムである。しかし、人々は猛毒の瘴気を放つ「腐海」の浄化システムを理解できず、バランスを崩した状態でロックされた大自然の中で生きている。
前回も菌の話があった。菌に限らず、大量に出る花粉に対するアレルギー、様々なウイルスによる感染症が流行る度に、そして花粉が飛ぶ時期になる度に、マスクをし、予防接種をし、手洗いうがいをこまめにしてと、戦々恐々として物理的対処療法を行う。その結果、感染症や花粉症が減るのかというと、減るのではなく増えているのが現状だ。
医療の現場でも同じ事が起こっている。医療が発達して病気が減るのかというと、難病奇病が増えていく。病気というものがどうして発生するのかという、本当のメカニズムを知らなければ、病は増えるばかりである。
人はこの世界の仕組みを知る必要がある。人間がこの世界に無知であるがために、自分にとって都合の良いことばかりしてきた結果、自然界がバランスを崩している。自ら自然や身体のバランスを崩して、その事で困っているのだが、自然界のバランスを自分たちが狂わせたという意識も殆どの人が持っていない。
菌やウイルスは常にどこにでも存在していて、その菌・ウイルスによって発病するかどうかは、菌・ウイルスにとって都合の良い環境であるかどうかにかかっている。マスクをしても菌やウイルスはマスクを通して入ってくる。芳賀兄によると、菌は半物質なので活動する必要性のない環境では眠ってしまうのだという。その事例として光合成古細菌がある。これは非常に有効な細菌だが、長年の農薬等の激しい使用によって、現代では土の中で眠っているのだという。
菌やウイルスをシャットアウトするのではなく、菌やウイルスと共存し、意識を通わせ、必要がなければ眠らせたり、必要ならば活性化させたりする事が出来るという発想がカタカムナの発想である。菌や微生物は、人間のココロに反応している。菌やウイルスに感染して発病したら発病するようなココロの状態である事を認識する事が大切なのだ。菌やウイルスは人間のココロの状態や、そのココロ故に作られる体の状態を教えてくれている。
「コ」 九、「極限を超えて転がり出たもの」という意味。
「ロ」 水中に単細胞の藻類が発生して、時間と共にアミミドロのような多細胞多孔性生物に進化して、絽織物のような状態に発達していく思念。中空状のもの。
「ココロ」 転がり出た中空状の丸いもの。時間量、空間量の最小の粒子単位。アマの微粒子。心。
光の速さで進んでいたのでは、遅すぎてこの広い大宇宙を探究する事は出来ない。想いは一瞬で宇宙を駆け巡るほどの速さなのだ。であるならば、その心が、身近な体に大きく作用するのは当前のことなのだ。そして思いが頑なであれば、変化する自由な世界を、変化しない強固な世界に留めることもできる。
刻々と変化し続ける宇宙の中で、「自分は変わらない」と思っているその心を、変化進化させるという法則に沿って働くように、そろそろ私たちも「想いの力」を思い知って(ち~ん)、想いを浄化していくことに、重い腰を上げて(ち~ん)取り組む時代が来ている。
■ 研究会2日目  63種の意味 
まずカタカムナの80首のウタヒの中でも「世界を元気にするウタヒ」といわれる63首をみんなで三回歌いました。
へ サカル カムミ ウツシツミ
そして、カタカムナの講義に入る前に、いさどんが語りました。
「人間は自らが経験したことを自分の常識にして、いろいな物事の解釈概念として生きている。最近確信を持っていることは、私たち生命は変化、変容、変態を繰り返しているので、二度と今の自分であることは出来ないということです。
ですから、私たちが地球や宇宙に存在することは、変化、変容、変態を繰り返すということですから、その事に抵抗する固定概念や自我で生きると、矛盾に出会うという仕組みになっているのです。その事が解って新鮮な気持ちで瞬間瞬間を迎えるようになると、人間はどんどん進化し変化するようになります。この状態が生命が最も生き生きと希望に満ちあふれる状態です。
僕は33年前にインドに行って昨年もインドへ行ってきました。33年前に会ったインドの子供達は、目がきらきらしていました。1日一食も食べられない子供もいて、とても貧しかったのですが、彼らから強いエネルギーを感じました。その当時日本へ帰ってきて見た景色は、道路に人が歩いてないということ。車しかいない社会でした。そして久しぶりにインドへ行ってきましたが、インドの人々はまだ日本よりはエネルギッシュですが、今のインドの人たちは「金、金、金」とお金を追いかけていました。何だかそれはどこかで出会ったような景色でした。昔はお金の概念がなく、食べ物を得るとか生活することが目的で生きていました。豊かさを追求した結果、何かが欠如している様な偏った状態に見えました。
今、日本人は生命力を欠いているかもしれません。だから子供をつくらない、結婚する気にもならない。最近、若いひと達の中には、異性とつきあうということも面倒くさいから友達でいたいという人が出てきているといいます。僕らの若いころには考えられないことですね。(笑)
そういう意味では古代カタカムナの人たちは本当に新鮮に毎日を生きていたのでしょう。それが鋭い感性を生み出していたということだと思うのです。今の満たされた時代に何を元に新鮮に生きて行くのかというと、心の探求です。これだけ物理的に熟した社会の中で新たな概念を人類はどこへ向けていくのかです。それは物理的開発よりも、人間の内面にある未知なる可能性を探究する時代が始まったということです。カタカムナの概念で心を磨いていくと、天から受け取る直観も、内から湧き出る直観もそれこそがいろいろな行き詰まった人たちの問題を解決していく時代だと思うのです。今日はそんなことを意識しながら芳賀兄に講義をお願いします。」
 
コトダマノサキアフクニ 
カタカムナ人は「コトダマノサキアフ」生き方をしていた。言霊は人間同士という狭い範囲で通じ合うだけではなく、「万物万象、全ての事をなす」ということを彼等は実感していた。自然界の様々な音、風の音、水が流れる音、虫の声、木の葉が揺れる音・・・全てが言霊であり、固有の振動数を持ち、固有の響を発している。
みんなバラバラの感性を持ち、感じることが違うのが当たり前であって、その感じ方のメカニズムを伝えているのがカタカムナ80首のウタヒ。みんなで63首を歌ったら放射線の値が下がったのですが、放射線も色々あってそれぞれみんな周波数が違うし、ウタヒを響かせる側も音程が違ったり速さが違ったりみんな周波数が違う。そうした両方の違いが、ぴったり合えば波が打ち消し合って静まっていく。波が段々弱くなっていって休んでやがて動かなくなる。そういう状態を潜象界という。決して全部無くなるわけではない。我々も死ぬと肉体が無くなるわけではなく、肉体は元素、二酸化炭素とか、水とか、カルシウムとか、微量のミネラルに変わる。
 
「ココロが動く」ことが大切 
そのように一瞬一瞬を感じて生きていることは、今もカタカムナの時代も一緒なのですが、生死をかけた生き方をしているカタカムナ人と、十分に環境の整った我々とでは、感じた後で味わう感動が違う。我々はココロというものを持っていますが、彼等の時代は、ものを見つけたときそれが食べられるか食べられないかということが生死につながっていたので、感動があった。この世界の本当の仕組みを知ったり、木の葉と語ろうと思ってそこに意識を傾けて湧いてくるエネルギーが波を打って、思い通りに葉が揺らいだときココロが感動する。カタカムナ人はそういうことをやっていた。
 
生命カン 
今我々が生きていて、想像がつかないような所から「忍び寄ってくる恐怖」がある。例えば、食べ物の添加物の正体は誰も分からないし、誰にも伝えていない。体内に入っても影響はおよぼさないということで入っているが、例えば一つのものに0.001g入れても体には差し支えないとしているが、一つの食品に0.05gというのが10種類入っているとしたら、0.5gになってしまう。それが20種類30種類入っていたら1gとか1.5gになってしまう。私たちはそういうものを平気で食べて、身体の細胞が「変なものが入ってきたぞ」という生命に関わることを感じるかというと、今の人は感じていない。こういった「忍び寄る恐怖」、つまり「これは食べ物に入っているとまずいんじゃないか」ということをかぎ分けていく能力が生命カン。
昭和25~6年頃の食べ物は自然のままだった。昭和30年代に入って高度成長期の前になると、どんどん人口が増え、この年代が一番多く人口がいる。昭和22年~昭和25年ぐらいまでに生まれた方々が今日本で大勢いる。その人たちに食べ物を与えるためには、食べ物を大量につくり、遠くへ運ぶ、それには食べ物が腐らないようにするということが必要だった。
夏は暑いと必ず腐敗する。今なら冷蔵庫があるが、その頃は常温なので、ペニシリンを入れて菌の繁殖を防ぎ、ペニシリンが入った牛乳をみんな飲むという時代だった。ペニシリンは殺菌するもので、風邪を引くと飲む抗生物質です。それが体の中にある菌を死滅させて、体を治すという仕組みだが、ペニシリンを多用すると免疫力が落ちる。
そういうことを我々は歴史の中でやってきた。危ないものを食べているのに、誰も食べてそれを感じない。食べ物が豊かだと思っているが、殆どは毒を食べている。そういうことに気づくかどうか。木の花のように、配慮した食べ物を食べようといって集まってきた人たちも、過去にそういう食べ物に汚染されている。80歳過ぎの人たちは、子供の頃にちゃんとした食べ物を食べていたが、その下の年代は成長期にそういうものを食べているので、その影響を今も受け続けている。
初日の冒頭で述べたように、文明が進化し人の生活が便利になって行く過程の中で、化学物質が多用され、肉体も環境も汚染されていく。その中で「これはいい。これは危険」という生命カンが鈍っていった。便利さゆえに、自らが動かなくなり、全身の細胞も鈍って、頭も使わなくなっていった。ココロも動かなくなり「感動」がなくなっている。それが現代。
 
水の話 
今地球上の水は非常に疲弊している。長い年月をかけて、何種類もの岩石をくぐり抜けて水は浄水されリセットされるのだが、あまりに汚れてしまった現代の水は今では同じような年月をかけて岩石をくぐり抜けても、元には戻らなくなっているという。水の分子構造はH2Oだが、酸素から伸びるHの二本の腕が開いてしまい、戻らないのだという。
人間の身体の70%が水分だとすると、水がきれいであることは健康には欠かせない要因であるが、現代の水は伸びているので体の細胞に入っていかず、この水を細胞に取り入れることに体は非常にエネルギーを使っているというのだ。
そういった水を太古の健全な水に戻す技術が開発されているという。七種類の岩石を通して濾過すると太古の水の組成に戻るという。ここでふと疑問が湧いてくる。自分の健康のために多くの人はこういった浄水器を買い求める。しかし、肝心の水を汚さないようにするというところへは意識が行かない。「何故水が汚れたのか」というところに意識が行かない。一般家庭で日々使われて垂れ流しにされる合成洗剤の数々。如何にきれいにぴかぴかにするかというコマーシャルに乗せられて、その事が地球環境の汚染となって、自らに返ってくるというところに意識が行かないよう、操られているのだ。
ここで、「何か変だぞ?」という感覚がなくなってしまったのが現代人なのだ。こんな事を続けていたら、どうなるのかという感覚が働かないというのは生命カンの欠如だ。自然との対話が無くなってしまい、人間の欲得だけで生きているということに気がつかない状態。それでも、地球環境の汚染に関しては、いろんな情報も出ているし、小学校では授業で教えたりするが、相変わらず、殆どの人たちが生命にとって毒でしかない洗剤を使用し、地球に垂れ流している。
自然の循環の中で汚れる水は自然の循環の中で浄水されるが、人間の手が加わることで、自然循環の中で浄化されるキャパシティを超えてしまった、ということをまず人間たちは知る必要がある。人間の愚かな行為が何を地球にもたらしたのかを知って、世界に対してわびることが先なのだ。そういったことをはっきりと認識することができたら、そこから、この世界に対する感謝が自ずと湧いてくる。そして、地球のキャパを超えるような、水を汚す行為を自ずとしなくなるだろう。
人が日々生きるときに、毎日他の生命をいただいている。日々紙を使い、他国の森林伐採を助長している。日々洗剤を垂れ流しにして、水を汚している。日々肉や魚を食べることで、そのものの命だけでなく、自然破壊を担っている。「悪い事はしていない」と言うが、他の命をこんなに破壊しながら生きているのは、人間だけなのである。多くの命の犠牲の上に毎日が成り立っている事に、そろそろ気づいて、修正するときが来ている。そうでなければ、自然は修復不可能になって、ロックされる。ロックを解除するには、そのものの寿命がきて、組成が分解されて「ない世界」(カムの世界)に返る「天然循環」の仕組みが働くのを待つことになるが、その前に、自浄作用が起こって本来の寿命よりも速くカムの世界へ返ることになる。
仏教用語に、ソワカという言葉がある。その意味は
食べ物をいただくときに、まず祓い清め(ソ)、食べ物をいただいて元気であることを笑い(ワ)、自分の命のためにその命を奪うことにお詫び(ワ)して、いただいて命をつないでいくことに感謝して(カ)そしていただく。この四つの意味を含んでいるという。日々いろんな命の犠牲の上に自分の命が成り立っていることに、現代人は気づいていないので、そのことに対して詫びるということがない。そこを抜きにして、御利益的に「ありがとう」と言おうという風潮があるが、その「ありがとう」には、本来の「有り難い」というココロがないので、言葉に魂が入っていない。
日々命に注意を払い続ける中で、対象物に敏感になり、少しの違いも分かる微細な感覚が育っていく。それが、「この食べ物は危ない」といった命に関わる直感が働く事にもつながる。この生命カンは、脳とは関係なく、単細胞生物でも持っているものであり、むしろ大脳の思考はこれを邪魔するものである。
 
働いていない迷える世代を生かす 
今回のカタカムナ研究会には、木の花で長期滞在をしているあわちゃん、脩悟、北純の三人が参加してくれた。前回は、希望いっぱいの子供代表の和乃子(かのこ)ちゃんが参加してくれたが、今回は、ニート、ひきこもりが最も多いといわれている、いわゆる天秤世代(30歳~40歳)と言われる迷える世代のあわちゃん、精神性の大変革の時代といわれる蠍世代の脩悟と北純が参加してくれた。本来ならば最も精力的に社会で働く世代が、迷っている。彼等が、自らの生きる意味に目覚めていくことが、社会を変える大きな力になるのではないかと思う。
木の花ファミリーを運営する中心となる年代も実はこの天秤世代で、世間ではニートや引きこもりだったメンバーもいる。社会でしっかりと生きていたメンバーもいるが、一様にみんなが思っていたのは「現代社会って、なんか変だよ」ということ。そんな彼らが、木の花に来て水を得た魚のように、それぞれの特性を生かして、生き生きと生きている。
中でも、木の花で長期滞在しているあわちゃんの最近の変化の様子は著しい。今彼はニート・引きこもり経験のある木の花のメンバーや長期滞在者数人と共に「ニート・引きこもりも鬱も希望の光」という企画を立てているので、そちらの紹介のページも見てください。 → 「ニート・引きこもりも鬱も希望の光」  
あわちゃん「ウルルン木の花ファミリー滞在記」  → カタカムナ研究会1日目   → カタカムナ研究会2日目  
脩悟「シュークリーヌブログ」  → カタカムナ研究会  
この眠れる世代が次々と目覚めていくことを思うと、とてもワクワクする。世代が持つ特性があるとすると、現代社会を作って来た今の50代60代の時代は過ぎているが、その亡霊で社会はまだ動いている。今現在中心となるはずの30代~40代前半という世代の宙ぶらりん状態が、まさに現代の象徴なのではないかと思う。物質主義と精神主義の間で迷えるこの世代が、自らの役割に目覚める事が社会に何をもたらすのか楽しみだ。
宇宙の運行からすると、21世紀は調和の時代を迎えることになっている。渦巻き、回転しながら流れてゆく時と共に、私たちはこれから目覚めてゆくという流れの中にいる。
目覚めるためには、まずどれぐらい、自分が洗脳され、寝ぼけているのかを知ることから始まる。これから、光が強くなっていくので、人々の心の闇に益々光が当たり、その事がはっきりと見えて来るので、そこから逃げずに、むしろ楽しんで直視すると、次の景色が見えてくるのではないだろうか。そして世界観を広げたときに、この世界と自分の関係 ~ 確実に自分がこの世界の一員である ~ という事実が見えて来る。
 
イヤシロチ日本と、感受性豊かな日本人 
日本というクニは国全体が、土地の電位が高いイヤシロチであるという。火山列島・地震大国であり、さらには、毎年夏になると太平洋沖で発生するいくつもの台風が日本を狙ってやってきては日本列島をなめるように進んでいく。そして国土が小さいのに、一年を通して四季があり、自然の微妙な移り変わりがあり、水は美しく緑豊かな、奇跡のようなクニなのだ。そのようなトコロに位置している。このように、日本というクニは磁場が高い故に、常に浄化作用が起こっており、新鮮な気があふれているのである。
又、電位の高いところでつくられるものは、電位の低いところでは作ることが出来ないという。例えば、電位の高いところで精製した純度の高い鉄を、電位の低いところで同じ製法で精製しても同じ純度にはならない。このように、トキトコロが違えば、それが条件の違いになるので同じものを作ろうとしても、出来ないのである。
トキとトコロが整って初めて物質や生命は発生する。故に、日本で発生した生命がトコロを変えたら発生しないというのがカタカムナの理論であり、宇宙の法則なのである。その原理を知らなければ、均一な条件ですべてが可能であるはずだという単純な現代科学が作り出した矛盾を解決することは出来ない。スタップ細胞がその良い例である。
スタップ細胞とは、刺激(ストレス)を与えることによって、多くの細胞に変化できる「分化多能性」を持った細胞のことだ。いわゆる万能細胞のことであるが、マスコミによって徹底的に潰された。カタカムナ的には、全ての細胞が「万能細胞」である。スタップ細胞の発見者である小保方氏は、トキ・トコロのトキを変えて実験した。しかしトキという条件が違ったために、又スタップ細胞があっては困るという人達の想いを受けて、「スタップ細胞はない」という現象をもらったのだ。
このように現代の幼稚で未熟な科学は、「生命の仕組み」を捉えられない。重要な発明・発見があっても、古い仕組みで豊かさを享受している人種に操られているので、こういったものはなかなか世の中に出てこないのであるが、それもトキとトコロが整っていない、つまり、「人類の心の準備が出来ていないということ」と言えるのだろう。
カタカムナは波動物理学であり、言霊の物理学である。自然界、宇宙に響くさまざまな音を聞き分けたカタカムナ人の末裔である日本人は、電位(波動)が高い土地で暮らし、その土地でとれた食べ物を食べ、その土地で湧く水を飲んで生きてきた。一年を通して四季という微妙な自然界の変化を感受してきた民俗である。故に、他の民俗には感じ取ることが出来ない自然の様々な微妙な空気の違い、においの違い、音色の違いを観じとる特殊な能力をもともと感性として持っている。そういう真実を知って、その事に目覚め、その能力を開花し、世界に微妙な調和の響を発信するものが増えることが大切なのだ。
そして、自らが感受した宇宙の真理を、自らの意志で再び世界に向けて発信すること、それが「イノリ」(意を載せて放つ)であり、この祈りは物理的光よりも早く世界中に広がる力を持っている。自分さえ良ければという宇宙の意にそぐわないイノリには「カムの世界」は答えない。カムの世界に同調するイノリに対して答えは返ってくるのだという。大切な事は、「カムの世界」があると信じて、その扉をたたくこと。そうすれば、カムの世界から返事が返ってくる。
「ヤッホー」といったら「ヤッホー」と。
宇宙の響きと一体の祈りこそが、カムの世界に届き、弱くても最も遠くまで響き渡りこの世界を変える力を持つのだ。
 
後世へのプレゼントとしてのカタカムナ 
カタカムナは、レベルダウンして神々の神話として「ホツマ伝え」に、さらにその後は「古事記」に残すようにはかられてきた。実は、神話に残る神々の名前は、カタカムナで見るとこの宇宙が形成され運営されていく時の物理性を表現しているのである。人々がレベルダウンし宇宙の響が解らなくなっていく流れの中で、いずれカタカムナが必要とされる時代が来るまで、人類が忘れないように、音として意識に残すよう神話の神々の名前として残され親しまれてきたのだろう。
「波分け観音のようだね」といさどんが言った。ここまで津波が来るよ、だからこっちに家を建ててはダメだよ、ということを後世の人に知らせるための観音像。しかし、直観が鈍っていった人々はそういった印(しるし)を読み取ることが出来ない。中には、何だかこれが気になるといった衝動から、この観音は何を伝えているのだろうかとか、古事記の神々は何を表現しているのだろうとか、そしてその思いが通じると、様々な情報の中から、カタカムナに行き当たる、というように波動で引き合うのがこの宇宙の仕組みである。
 
世界が一つの花になるように 
この世界が今この様な状況にあるのは、流れの中で必然である事が見えて来る。そういったものの見方を客観背後という。「カムの世界」から生まれたこの「カタの世界」が進化していく大いなる物語の流れの中、最終章で人間が現れ、物質文明を築き上げて、猛スピードで進化させてきた。それは、動物では出来ないことなのだ。何回もの生命の絶滅の結果、最も進化した生命体として人間が現れたのだ。進化のプロセスの中で、その人間達がココロの伴わない未熟な力を駆使して物質文明がピークを迎えた今、今度は精神文明が台頭してくるのがこの世の摂理「満つれば欠ける世の習い」なのである。
又、人がカム(親)から分化してコ(個、子)として存在し、自我を形成していくのも流れの中の重要なポイントのひとつだ。この流れの中で、「天の理を忘れると世は乱れる」ということを、身をもって今現在体験している。乱れたからこそ、間違いに気づき、やはり天の理で生きて行くことが大切なのだという様に軌道を修正していく。そのダイナミックなプロセスを経験することが、現象界を完成させるのには必要不可欠なのだ。完成を目指す中に、多くの矛盾と、学びと進化がある様に、様々な工夫が凝らされている。そのように思考していくと、今当然のことが予定通り起こっているという風に見えて来る。
そういった状況の中で今私たち一人一人がなすべき事は、個(コ)として花開くということではないだろうか。それは個々が「カムの世界(親のココロ)に共振すること」であり、そのために、日常の中で微妙な感覚を育て、「ココロ」の動きに敏感になり、心磨きをして魂を浄化し、波動量を上げていくことが大切なのだ。波動量が上がってくれば、至る所に遍満する生命の息吹を感受する様になり、生命カンが働くようになる。そして、天の道理に目覚めるようになる。
最近の木の花のメンバー達は、物理的な香りではない霊的な香りを感じるものが出てきている。
そんな風に、個(コ)が成熟して花開いて、自ずと個々がネットワークしたときに、この世界が大きなひとつの花になる。それが「コノハナ」であり、言い換えるなら「阿吽」の世界。みんなで一つの体になる、私たちはそこを目指しているのです。
 
===========================================
5月 カタカムナ研究会のご案内 
【日時】 おひさまハウスひまわり へ直接お越し下さい解散:2015年5月19日(火)  昼食後(送迎あり)
【定員】 
【参加費】 
日帰り参加の場合:1日につき3,240円
*同性の方との相部屋をお願いする場合がございます。【お申し込み】  →「カタカムナ研究会」のお申し込み