先日このブログでも紹介した中国の美術教師ファンちゃんが書いたブログを、現在木の花ファミリーに滞在中のはすみちゃんが日本語に訳してくれました。
以下、ブログの全文をご紹介します。
中国語の原文、または英訳をご覧になりたい方は、下記のファンちゃんのサイトをご覧ください。
→ ファンちゃんのサイト
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富士山の麓での75日間
幸運なことに、成都芸術学校校長と学生たちとその父兄のみなさんから休暇の許可、そして木の花ファミリーからビザの支援を含むさまざまなサポートをいただいて、こんな長い期間木の花ファミリーのみなさんと一緒に生活することができた。
これは私が出発する前に描いた絵。その時はこれからいったい何を体験し何を学ぶのかわからなかったけど、心の中にひとつだけわかっていたことがあった。それは、天がこのチャンスをくれたということ。そしてこのことはいろんな方々のサポートがあって初めて実現したんだから、それを忘れてはいけない、そのご好意を無にすることがあってはならない、初心を忘れずにこの75日間をちゃんと大切にしなきゃいけないと思った。
この日々の中で、私はたくさんの経験をした。そしてまた心の中に確かな変化が起きた。
私はこの過程をシェアすることで、読んでいるみなさんにヒントや啓発を提供できたらいいなと思う。感じたことや心の変化の過程をできるだけ思い出し描写して、私がどんな日々を体験したのかゆっくりみなさんにお伝えしたい。ひとつの同じストーリを見ても、ひとりひとり見るところや得るところは違うかもしれない。
今年の初め、私はネット上でひとりの友人と知り合った。その人を通して私は富士山の麓で暮らす木の花ファミリーを知ることになった。
当初知っていたのは、木の花ファミリーは自然と調和し共生するという理念の元、持続可能なライフスタイルで暮らしているコミュニティーで、100人近い人たちが生活も仕事も共にして、収入もその他の物も分け合っているということ。さらに彼らは自然な農法で自給自足していて、自然療法プログラムというもので心身の疾患に悩む人たちを助けているということだった。
(以下の文章を書いた方にたいへん感謝しています。彼女のおかげで木の花ファミリーについての最初の印象をもつことができました。)
http://www.newsmarket.com.tw/blog/21444/
それから木の花ファミリーのホームページを見てみると、「菩薩の里」という文字に目がとまった。この言葉はここに暮らす人たちの精神性を表現しているんだなと思った。ホームページを読んで木の花ファミリーの理念の様々な面に共感したし、さきほど書いた友人の提案もあって、私はここに行って実際の生活を体験してみることにした。
木の花ファミリーのメンバーの方々は日本語が話せない私たちを受け入れるという前例にないことをしてくださり、ビザを取得する際にもたいへん大きな助けをしてくださった。心から感謝している。そうして、ついに5月19日の午後、東京からバスに乗って木の花ファミリーに到着した。
新たにつながる/ Reconnection
到着した当日からヘルパーとしての仕事を始めた。配送センターに行ってきょうこちゃんが落花生を植えたりトマトの苗を移植したりするのを手伝った。私は自然とふれあうのが好きで、登山などのアウトドアに参加したこともあった。でも都市で育った私にとって、本当に種や苗や土とふれあったのはこれが初めてだった。
初めの頃は現実感みたいなものは持てなかった。手の中の落花生が土から芽を出し葉を広げていく様子が、実は想像できなかった。それはとても遠いことのような気がした。私はとても慎重に落花生の成長をさまたげないようにひやひやしながら作業をした。
それからもしばらくは心細かった。その時は種を土に埋めただけで他のことは何もしなかったので、「これでホントに芽が出るの?」って感じた。畑で落花生の苗の移植をしている時、この前私が撒いた種が芽を出し、今は10cmくらいの高さまでになってつやつやした葉を広げているとメンバーの人が知らせてくれた。それを聞いた時、心の中に急に喜びと、地に足がつくような落ち着いた感じが湧いてきた。大地と太陽につながったような気持ちになった。
それからこんなことがあった。ある日畑へにんにくを収穫に行く時、私は靴を持っていくのを忘れた。考えた末、靴下だけで作業することにした。
その日は暑く、土は少し湿っていて柔らかく、少し粘土質で、足を入れるととても気持ちがよかった。ふだんの生活を考えてみると、こんなふうに直接自分の足で大地を感じる機会はめったにない。土を踏みしめていると、土は厚く暖かかった。小さい頃はだしで遊んだ時以来、もうずいぶん長いことこんなふうに直接大地の暖かさと豊かさを感じたことはなかった。
それから夏に向けて気温がだんだん上がってくると、みんなもはだしになり始めた。ジャガイモを掘り出す時、みんなはだしで作業した。とてもウキウキして楽しかった。(みんな、大地の中からエネルギーを感じると言う。)
こうちゃんは畑隊で仕事をしている農業歴20年のメンバーだ。こうちゃんは「いつどんな作物を収穫するべきか知ることができる」と言う。木の花のメンバーはいつもよく植物の成長や状況を観察していて、「この中にたくさんの情報が隠れている」と言う。経験ある農民は敏感にこれらの情報を感じとり、そして植物の状態に呼応して成長がさらに良くなるための適切な処置をできるそうだ。
こうちゃんは私にこう教えてくれた。
「植物たちと一緒に作業をする時、どんな技術を使うかはそんなに重要じゃない。いちばん大切なのは、一緒に成長するという信念なんだよ。」
農作物たちは、こうちゃんにとって子どものようなものだ。毎日彼らのことを想い、顔を見て、彼らのためになすべきことをする。こうちゃんは木の花ファミリーの中で、仕事を愛する人として有名だ。あだ名は「ぼろ雑巾」。つまり、テーブルを拭くあれのように疲れるまで仕事をするという意味。。^ ^。
こうちゃんはどうやって植物たちから見えない情報を受け取るんだろう。植物たちとの密接な関係をどうやって築いたんだろう。
私は小さい頃から聞きなれたことわざを思い出した。「天地人。天と地の間に人は立ち、大地に足を下ろし、頭は天空へ向く。」(*易の言葉。同じように植物も大地に根をはり、空へ向かって伸びる。こうして大地のエネルギーと天のエネルギーが流動する。天は陽で、地は陰。陰と陽の交わりである。人も同じ。)
これは世界の本来の運行方式だ。もちろん小さい頃から土から野菜や果物や穀類が生えることは知っていた。でもそれは私にとっては教科書の上から、他人の言葉や文字を通して私の大脳を経て吸収した「概念」だった。そう、私の脳はこの概念を知っていた。でも私の心や手足や体はいったいそれがどういうことなのか知っているわけではなかった。体が知る方法は、実際に一回一回見て触れて、ある程度の時間共に過ごすことによって感覚の経験を積み重ねていくものだ。
私は突然気づいてしまった。この長い人生の中でひとつの大切なつながりが断たれていたことを。自分が食べている食べ物がどんなふうにだんだんと成長するのかを知らなかった。大自然の偉大な創造がどのように現れてくるのかを知らなかった。このプロセスに参加したことがなかった。
現代人はスーパーや市場に行って、野菜や果物を買い、直接結果を得ることができる。このプロセスの中で、人が大地と日の光と雨露の一日一日の変化を感じる機会はない。そしてこの変化によって農作物たちの状態が変化することや、彼らが成長していくのにさまざまな困難を克服しなければならないことを、知ることはない。
直接買いものをするこのプロセスの中には、食べ物と金銭の関係しかない。人々の心が天地と農作物の関係につながることはない。だからありがたいと思ったりもったいないと思ったりする、食べ物を大切にする心を持ちにくい。
木の花ファミリーでは食事の前と後に感謝とお祈りをする。とても敬虔な時間だ。ある日畑に入り、ゴマのための除草をしたことがあった。その時ゴマはまだ低くて雑草もわりと多くて、しかも雑草はゴマに似ていた。慎重に見極めなければいけなかった。左側を見たら右、右側を見たらまた左と見ていたら、まもなく腰が痛くなった。それから私はいろんなふうに姿勢を変えつつあまり疲れないように気をつけた。心のなかで「楽じゃないな」と思った。その日のお昼ごはん、お茶碗の中の食べ物を見て、この背後にある数々の仕事と困難に思いが至り本当にありがたいと思った。
植物が大地に根を下ろさなかったら枯れてしまうのと同じように、大都市の人々は自然とのつながりを失い、程度はさまざまだけど心のバランスを失っている。人というのは、心地よい謳い文句やイメージで作られたいい雰囲気に心を奪われるもので、実際にやるべきことをおろそかにして、そこに酔いしれたりする。この心地よい物事も、植物と同じで大きくなる。このプロセスの背後には往々にしてたくさんの努力と苦労がある。都市の人々はたくさんの華やかな情報に囲まれ、仕事で疲労した感覚と心を絶えず刺激されている。つかの間に心を満たした後、さらに多くの欲望をかきたてられる。これら全てが大自然の豊かさと健康から人々を遠ざけていく。
ある日、茄子の苗の間引きの仕事をした。その時は30~40cmくらいで茎も細かった。二週間ほど経った頃、その畑の前を通りかかって、驚いた。茄子はもう人の半分くらいの高さにまで成長し、茎も太く強そうになっていた。植物の成長がこんなに早いなんて思ってもみなかった!私は自然の力に深く感動してしまった。どんなに驚いたかみんなに言いたいくらいだった。
驚いたと同時に喜びが湧きあがってきた。まるで自然の力が私にも移ってきて、素朴だけど力強い信念が注入されたみたいだった。いちばん純粋で直接的な生命力。天と地とつながった安心感。日に日に彼らが大きくなっていくのを見て、心の奥底から真実のポジティブなエネルギーを体感した。彼らはあんなに真剣に大きくなる努力をする。ひまわりが太陽の方を向くように純粋に、他のことは考えずに、投げ出さずに。
植物と一緒に仕事をしている時、彼らからたくさん教わった。「朴実」(朴は素朴の朴。実は真実の実。)植物と比べて人間はどんなに頭がいいだろう。思考することができ、発明し、たくさんの物を作り出せる。このため人間はよく自分の思考を過信する。その思考でたくさんの問題を解決できると思い込む。けれども実際は、現在の地球の各種の汚染、気候変動、各国間の資源の奪い合いという状況がある。人間が設計し製造したさまざま事物は、自然の創造物と比べるとかなり粗雑だ。
では、人間とその社会は、どうして自然のように美しく調和していないのだろうか。
カトケンは植物と一緒に仕事をしていると、彼らがとてもかわいく見えると言った。食事の時、彼は一本のとうもろこしのしわを指差して、これは美しい線だと言った。私はとうもろこしの角度を変えて見た。他の角度から見ても美しい。
私は以前子供たちに絵を教える時、とうもろこしをよく観察したのを思い出した。とうもろこしの列は少しずれがあって、それが大きい粒や小さい粒など形の違うものを生んでいた。もしも現代社会の人間がとうもろこしを作るなら、まず一粒作ってそれからその一粒の複製を作っていき、一本のとうもろこしを作るだろう。そしてどうしてこうやって作るの、とたずねれば「こうやると早いだろ。時間を節約できる。だからもっとたくさんのとうもろこしができる。」と答えるだろう。でも、もしとうもろこし君本人にたずねれば・・・彼は一言も話さず、ただ黙ってもくもくと自然の方法で成長を続けるだろう。だから美しい。
ある日きゅうりを収穫する際、よく観察してみたら、表面に白いものが生えている。包装している時、まゆちゃんが教えてくれた。「小さいトゲがあるからね。さわらないように気をつけてね。トゲを取らないでいたほうが新鮮さが保たれるんだよ。」
またある日、かずこちゃんとくわっちが冬瓜を見に連れていって教えてくれた。「冬瓜は小さい頃は若緑色で大きくなると表面に白いうぶ毛が生えるんだよ。」私は突然、どうして冬瓜と呼ぶのかがわかった。その白いうぶ毛はまるで雪のようだからだ。冬の趣だ。
時々植物たちに感動させられる。人が気づかないような細かいところにも、植物たちはベストを尽くし、真剣に成長する。誰に見せるわけでもなく、ただ純粋に成長する。
きょうこちゃんはこう言ったことがある。「人間はエゴがある。でも植物にはそれがない。彼らは素朴で、自分の天性に忠実。」
植物は思考しない。分析も計算もしない。彼らが自然の法則に従って成長することで、天と地のエネルギーが流動する。ひとつひとつの細胞が周りのわずかな環境の変化をも繊細に感じ取り、変化に呼応した適切な調整と選択をする。人間のような頭脳も欲もなく、純朴な成長の信念があるだけだ。いつどんな時もあやふやなところはなく、まじめに取り組む。本当に知恵のある者はまぬけに見える。(*老子の言葉)こういうことだけになれた時はじめて、天地の道に沿って、天地の優美さとハーモニーを現すことができるのだろう。
無私無境界/ No boundary, no ego
木の花ではお昼ごはんも晩ごはんも、ホールに集まってみんなで食べる。このホールではコンサートも開かれるし、誕生日会も開かれるし、大人や子供の会議も行われる。それから時々近所の人たちを招いて食事会も開かれる。ここはみんながいちばん長く時間を共有する場所だ。私がまだ木の花に着いたばかりの頃、みんなは私の顔を見ると“ Are you O.K.? ”と聞いてきた。はじめの頃はなんて答えたらいいかわからなくて、狼狽してただ頷きながら「大丈夫」と答えるだけだった。
私は小さい頃からずっと、あまり知らない人の前に出ると、恥ずかしくなってしまう。両親との交流も多くなかった。小さい頃から自分だけで生きてきた感覚がある。ほとんどひとりで事をなし、ひとりで問題を解決してきた。自分から人に話かけることは多くなく、人に何かお願いするなんてもってのほか、それは迷惑をかけることだと思っていた。
こんな私は木の花ファミリーに到着した第一日目、やってしまった。作業が終わってまことの家に帰ってお風呂に入った。そこは2階建ての住宅で、家庭の普通の浴室だった。私は地元の成都でひとりでシャワーを浴びるのに慣れていたので、浴室に入ると特に考えずに鍵をかけた。しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえた。作業を終えた人たちがお風呂に入るのにノックしたのだ。彼女たちはどうして私が鍵をかけたのかわからなかった。私はその時正直驚いた。一緒にはいらなきゃだめ~!? 。。。>——<。。。
みんなが私の以前の生活習慣を理解してくれたし、私もだんだんと新しい生活に慣れていった。それからお風呂が終わって、また私はひとつの問題に出合った。まことの家からひまわりに帰って、晩ごはんを食べなきゃいけない。どうやって帰ればいいんだろう?みかちゃんはコンピューターの前で仕事をしていた。私はその日着いたばかりで、彼女もひまわりで食事をしなければいけないとは知らなかった。この時人に迷惑をかけたくないという考えが頭をもたげた。
「帰ればいいだけでしょ、来た道はだいたい覚えている。」そこで私は歩いて帰った。帰り道まゆちゃんに出会った。彼女は私をすぐ車に乗せて、別のメンバーの車に乗り換えさせ、私をひまわりまで送りとどけた。その日食事が終わって、みかちゃんとまゆちゃんは私をおしゃべりに誘った。それでわかったのは、みかちゃんは私がお風呂に入り終わったら一緒にひまわりに帰ってくるつもりだったのだ。私が姿を消したので、みかちゃんはとても心配したそうだ。
その時、とても申しわけなく思った。ひとりの生活に慣れてしまって、みかちゃんが心配してくれるなんて思いもよらなかった。私は自分の育った環境とそれによってできた行動の習慣を説明し「すみません」と何回か謝った。まゆちゃんとみかちゃんはわかってくれた。その時から私はもうひとつのつながりが断たれていたことに気がついた。それは人とのつながり。
以前から友達は少ないわけではなかった。人間関係も悪くなかった。時々友達に相談されてアドバイスを求められた。私も喜んで相談にのった。でも自分から人に相談するということはほとんどなく、いつもひとりで問題に向かい、問題が起きても誰かに頼ろうという考えは起きなかった。でもこの件で、気にかけてもらっているという暖かさを感じると共に、心の奥の閉じられた殻がゆるみ始めた。それから私は、少しずつ変化していった。最初の変化はルームメイトのはすみちゃんから始まった。
[caption id="attachment_12018" align="alignnone" width="480"] 小さな椅子の上に置かれた、温かい木[/caption]
彼女が私の部屋に移ってきた時、私が描いた木の絵がとても暖かい感じがする、とても好きだから毎日見たいと言った。そこで私たちはそれをベッドの間の小さな椅子の上に置いた。こんな風に感じるのは彼女の心も暖かいからだと思う。
いつからだったか、私たちはほとんど毎晩寝る前におしゃべりをするようになった。おしゃべりの内容はだいたいみんなのちょっとしたうわさ話で、例えば犬のマコちゃんの目がご主人のやじおさんの目にそっくり、などなど。彼女がみんなと話した面白い話も教えてくれた。
彼女はユーモアがあり、私たちはよく冗談を言っては大笑いした。もちろんたまには宇宙の真理について語った。=。=。。。
だんだんと自分から話すことが多くなっていった。時々とても遅い時間にミーティングが終わって部屋に帰ると、はすみちゃんはベッドに横たわり微動だにしないのに、私の「ただいま」の声を聞くと、「お、超人帰ってきたか」と声をかけてくれた。私たちはしばらくおしゃべりをした。彼女はわからない中国語に出会うと、まじめに辞書を取り出して調べた。
ある時期ある事のために、大きなストレスがかかっていたことがあった。はすみちゃんは心配してこっそりみちよちゃんにメモを渡した。みちよちゃんは「誠実、信頼、そして正直に交流することがとても大切。みんながお互いにサポートし合うことが大事なの。どんな問題でもひとりでかかえこまないで。問題が起きたらみんなで解決するのよ。」と言った。
それから間もなくしてミーティグの時みんなの前で自分の心の声を正直に言うことになった。おそらくここの雰囲気が、承認と暖かさを感じさせてくれたせいだろう、もう長いことそんなことはしたことなかったのに、安心して心を打ち明けることができた。
木の花では自分の心を正直にシェアすることはたいへん重要で、ひとりひとりが遠まわしではなく、できるだけそのまま打ち明ける。今日の大多数の社会環境において、このことは想像しがたいだろう。人々は常にいいことだけを言って悪いことはふせておき、仮面をかぶって生活している。
ここのみんなが自分を見せることができるのは、承認と信頼とお互い助け合う雰囲気があるからだと思う。メンバーはよく言う。「誰にもいいところとそうでないところがあるのだから、自分と他人の不完全なところを認め、一緒に問題を克服していく努力をすること。それでよりよく変わっていくことがいちばん大事なんだ。」
これらのことを経て、ここの人たちがどんなに親密かを体験し、私はだんだんやっと本当に木の花ファミリーに来た感じがした。
朝から晩まで、私はほとんどみんなと過ごした。朝起きたらさっさっと身支度をしてちょっと朝食を食べ、それから一日の作業を始める。仕事の合間、10時と2時にお茶の時間がある。みんな一緒にお茶を飲みながらおしゃべりをするのが好きだ。午後4時のお茶の時間には、おいしいおやつも出る。だいたいはのりちゃんとにちわが作っている。
おしゃべりをしている時、内容は基本的に私はわからないけど、でもみんなの雰囲気を感じるのが好きだった。私の興味ありそうな表情を見ると、まゆちゃん、きょうこちゃん、こうちゃん、くわっち、みんなが訳してくれた。あきちゃんは英語を話さないけど、ジェスチャーと日本語の漢字を交えて「もっとみんなと交流して、思っていることを出して」と一所懸命伝えてくれた。彼女が収穫したとうもろこしを見て「おいしそう~」というたび、本当に思っていることを表現しているなと感じた。
それから大部分の時間は、かずこちゃんやくわっちと、スイカやトマトや空心菜を収穫した。その頃には少し簡単な日本語なら言えるようになっていた。おやつの時、私たちは日本語と英語とジャスチャーを混ぜてたくさんの話をした。くわっちと以前の恋愛の話になって、その経験から成長することを学んだこと、マチュピチュに興味があることを話したりした。彼女は以前マチュピチュに行ったことがあって、そこに住んだことがあるような、かつてそこの人間だったことがあるような感覚を覚えたそうだ。その日おしゃべりを終えた私たちは、自然にハグしあった。本当に心と心が親密になれた感じがした。
午後は6時頃まで仕事をして、まことの家に帰ってお風呂に入る。お風呂の時、ゆうこちゃんはよく私に話しかけてくれた。「今日は何したの?」ときいてくれたり、自分のことを話してくれたりした。例えば外の病院での仕事はここの仕事より疲れるとか、今日は晩ごはんにいろんな手作りパンが出るから楽しみだ、などなど。
彼女は楽器が好きで、自分でつくった陶器の笛を見せてくれた。私が興味をもつと、ネットで資料を調べてプリントアウトしてくれた。あと、ひまわりにご飯を食べに帰る道すがら、「歌ってあげるね」と言って故郷の歌を歌ってくれた。私は静かに耳を傾けた。車の窓から夕方の風が吹き込み、外では田んぼにきれいに並んだ稲穂が静かに揺れ過ぎて行った。この時はとても静かな安らかな時間だった。
それからかっちゃんは、私を一緒に車に乗せてくれる時、簡単な日本語の単語で話してくれて、辛抱強く「これは近道」「雨が降りました」「今雨が降っています」と教えてくれた。
ひまわりで食事をする時、みんな食べながらおしゃべりをするのが好きで、子供たちが先に食べ終わると、子供たちは集まって今日何があったかを大人たちに聞かせてくれる。大人たちも座って聴き、子供たちの話に答える。時には意見やアドバイスを与える。私があまり日本語がわからないので、みちよちゃんがよく隣に座って通訳してくれた。子供たちは自分で描いた絵や積み木でつくった作品を見せてくれた。たまに直接的に感情を表現するので、あんまりおもしろくてみんなでおなかを抱えて笑ったりした。
木の花ファミリーではみんなで子供を育てる。ひとりの男性がひとりの子供に歯磨きを手伝ってあげていても、ひとりの女性がひとりの子供の口にご飯をはこんであげていても、必ずしも父親と母親であるとは限らない。メンバーは、子供は父親と母親が「所有する」ものではなく、共同体全体のものだと考え、みんなが同じように愛し、心をかける。
晩ごはんの後少し休憩して、だいたい9時ごろに大人たちはまた一緒に集まり、豆や落花生や種を選別しながら、次の日の仕事のスケジュールやコミュニティーの各種事務などいろいろな議題について話し合う。
話し合う上で最も大事にされるのは、心の交流だ。ふだんの作業中に起きた問題を議題として取り上げたり、世界の自然環境とエネルギー問題について語り合ったり、木の花ファミリーの友達がメールで心の相談をしたり、農業の種の選別の問題や、その日の作業中に起きた小さな事など、事の大小を問わず、また、個人の事だからと隠すこともなく、話される。小さい出来事にも背景が反映されている。隠すことはしない。恋愛であってもみんなに知らせる。みんな、気にかけているから。
来て間もない頃、毎日疲れてしまって、ミーティングの時眠くてしょうがなかった。私が日本語がわからないから、みちよちゃん、ともちゃん、ようこちゃんが進んで私のところに来て「通訳必要ですか?」と聞いてくれた。時々疲れて集中して聴く力がないので、「その必要はないです」と言った。
みちよちゃんとそのことを話す機会があった。「集中力がある時は、みなさんに通訳をお願いします」と伝えた。その時彼女が言った言葉が心を打った。「ぜひそうしてくだい。短い滞在なのですから、何かを体験し学ぶのに全ての瞬間が貴重です。」
私の心を打ったのは、こんなふうに人のために尽くす精神、細部にまで細心の気づかいをする態度だ。実は彼女は毎日さまざまなことに気をつかわなければならない。夜になったら疲れているはずなのに、でも多くの人にどうやったらもっと良い生活になるか理解してもらうために、彼女は私がひとつひとつの体験からできるだけ多くのことを感じ取れるよう配慮してくれた。また、彼女はカタカムナのノートを貸してくれた。一行一行丁寧に説明してくれた。この過程で私たちはスピリットやエネルギーについてのたくさんのことを話した。それは本当に楽しい時間だった。
まだ木の花ファミリーに来て間もない頃、ひとりで自分の心を整理するため静かに座っていたいことがあった。・・・なんで毎晩ミーティングをしなきゃいけないほど、そんなにたくさんの事があるの?二日に一回じゃだめなのかな?みんな早くお部屋に帰って寝たほうがいいよ・・・と思っていた。
私はこのことについていさどんにたずねた。彼は「人はある状態に達すると疲れを感じないんだよ」と言った。頭ではわかっても心ではわからなかった。
木の花ファミリーに来て一カ月経った頃、晩御飯を食べて部屋に帰ると私ははすみちゃんに「今日は疲れちゃったからミーティング出るのやめておこうかな」と言っていた。でもそう言いながら、9時頃になるとホールまで下りて行った。みんなが何を話しているのか知りたかったから。
でもたくさんの情報を消化し吸収するほどの十分なエネルギーはなく、みちよちゃんに通訳をたのまないで豆やゴマの選別をしたり、落花生の殻を剥いたりしていた。そしてスクリーンに映し出される文字を見ながら、キーワードとなりそうな言葉を結びつけて、だいたいの意味を推測した。たまにみんなの表情が厳しくなることがあって、そんな時は次の日何が話し合われたのかみんなにたずねた。
それからまた半月が経った頃、自分がそんなに疲れを感じなくなってきていると気がついた。時々自分からみちよちゃんたちに通訳を頼んだ。
そしてその数カ月起きたことを思い出し、どうしてだんだんそんなに疲れなくなったんだろうと考えてみた。思い出すのは、どれも小さなことばかり。
毎朝なかのんが車で私たちを配送センターまで送ってくれた。だいたいオーディオつきの車だったので、彼は音楽をかけてくれた。早朝の日の光と音楽が一緒にゆっくりと流れていった。いつも新しい一日がこんなふうに始まった。
私はよくきょうこちゃんと一緒に仕事をした。毎回作業工程を説明する時、彼女は「私たちと一緒に」と言った。「一緒に落花生の種を蒔きます」「一緒に土を作ります」「一緒に花に日よけをかけます」こんなふうにきょうこちゃんが言うことが、私につながりとお互いサポートし合うことを感じさせてくれた。
えりちゃんは毎晩、晩ごはんを早く食べ終わるとすぐキッチンに行って、皿洗いを始めた。私はある時、皿洗い機のふたをそっと上げる彼女の自然に流れるような一連のしぐさを見かけた。私はこの時の彼女の流れるようなエネルギーが好きで、となりに行って一緒に皿洗いをした。何か特に話すわけじゃないけど、彼女の楽しい雰囲気を感じられた。
よく一緒に仕事をしたのはあと、みほちゃんだ。彼女も口数はあまり多くない人だけど、仕事の時の雰囲気はとても良くて、一緒にミントの葉を摘んでお茶にするため干したり、土をポットに入れたりした。それからりゅうしろうも口数が少ない人だった。話す言葉は簡潔で、仕事の時は静かに作業に没頭した。
としちゃんは午後になるとよく畑を手伝いに行き、一緒に玉ねぎを収穫した。彼女はとても力が強い。彼女は畑で仕事するのが好きだと言った。私も好き。植物と一緒にいるのが好きだ。
お風呂に入りおわってひまわりに向かっている時、よくひろみちゃんがその時間まで仕事をしていて、やっと片づけをしているのを見かけた。彼女はバナナが大好きだ。また、ひざにまだ癒えない故障をかかえている。
ある日ひまわりに帰る時、車が満員になってしまい、ひとりどうしても車の後ろに寝て乗らなければならなくなった。ひろみちゃんはわざわざふだん通らない道を通った。そこは竹が生い茂る場所で、車の後ろで寝ている人が観賞できる景色だった。
でこちゃんはパン作りを担っている。私たちはパンが大好きで、ある時キッチンでパン作りの本を見かけた時、でこちゃんは私にどんなパンが好きか聞いてくれた。お別れのお料理を作ってくれた時、アンパンマンのほっぺの小さいパンにも特別にあんこを入れてくれた。
収穫隊のみっちーはよく遅くまで仕事をしていた。たくさんの細かい事の割り振りをし、記録していた。私が彼女に何をしたらいいかたずねると、毎回輝くような笑顔ですぐに答えてくれた。ある時疲労がたまって、みっちーは体調をくずしてしまった。次の日彼女と出会った時、私は腕を広げて彼女を抱きしめた。その時初めて彼女が私の想像よりずっと痩せていることに気がついた。
あやちゃんは、ある日大富士への配送に一緒に連れていってくれた。帰ってきてレインコートを脱いだ時、私はうっかり一粒の真珠のネックレスをひっかけて切ってしまった。次の日彼女は自分のをひとつくれた。でも穴が小さくてネックレスに入れることができなくて残念だった。
毎朝、ひとみちゃんとみほさんとまり姉ちゃんが車で子供たちを保育園まで送る。途中配送センターでしばし停車し、仕事中の大人たちが子供たちに声をかけ、手をふって見送る。ひとみちゃんはある時私に浴衣を着せてくれた。私はその時初めて日本の伝統衣装を着た。忘れられない美しい思い出が出来た。
マヤの祭典の時は首が日焼けして痛くなった。ゆうこちゃんはアロエを持ってきて塗ってくれた。カトケンは首にタオルを巻くと首を保護できるよと教えてくれた。まっちゃんはビザの申請の書類を用意するのに骨を折ってくれた。
富士山に登る当日の早朝の空はとっても透き通っていた。富士山のシルエットがくっきり見えた。となりにひとつ明るく光る星が見え、まっちゃんはあれは金星だと教えてくれた。金星を見ることができてラッキーだった。
ちなっぴーは富士山を登っている間、カタカムナを歌ってくれた。私も歌うように誘ってくれて、一緒に一回一回自然に聞かせるように歌った。
木の花ファミリーのメンバーのみんなの毎日の仕事は、とても忙しいと思う。私は、みんなにおいしいご飯を食べさせたいって思った。時々中国料理のレシピを探して、はすみちゃんと一緒に日本語に訳して、のんちゃんとゆみちゃんに見せた。私も好きな日本料理があって、出発する数日前、キッチンに呼ばれて作り方を教えてもらった。
やすえどんは、創立当時どんなふうに木の花ファミリーに加わったのか話してくれた。古い方の家にもう十数年住んでいて、たくさんの思い出があるそうだ。みちよちゃんが見学ツアーの時にその古いおうちを見せに連れていってくれたことがあった。その時その場所を見て親しみを感じた。マヤの祭典が終わった後、何人かが古いおうちでご飯を食べなければいけないことがあって、私はそこで食事をしてみたかったので手を挙げて申し出た。
その日は、みほさんがご飯を用意してくれた。私はトマトを切るのを手伝った。ひまわりで食事をする時とちがって、みんなでたたみの上にテーブルを囲んで座って、ひとつのお皿から分け合って食べた。小さい頃家族が食卓を囲んで座って食べたことを思い出した。
茶の間は大きくなく、たたみの上には修繕した後があり、周囲の壁には富士山に登った時毎回撮った写真やいくつかの絵がかけられてあり、この世を去ったふたりのご老人の写真もあった。もっとよく感じてみると、木の床やドアの枠、窓のところどころに二十年という時間の中で人が残した痕跡や、あたたかいあじわいがあった。
思い浮かぶのはこのような小さなこと。真実の生活はひとつひとつのこと、いっときいっときに現れるものだ。
このように私と木の花ファミリーのみんなとが共に過ごしたいっときいっときが、人と人、人と自然がどうやって愛と心づかいでお互いに命を育み合うかを体験させてくれた。
木の花ファミリーの人たちは、自然の中の植物と同じように、人を感動させる。彼ら自身は多くを必要とせず、しかし多くのものを与える。できるだけ地球環境に負担をかけないように生活すると同時に、多くの美しいものを生みだす。素朴で真実ですじが通っていて、お互いに助け合い、みんなの心と心がつながって、大地に根をはっている。あの数カ月の中で、私はだんだんとこのコミュニティーに溶け込んでいった。まるで川に溶け込んで一緒に流れていく一滴の水のように。
私はみんなのことを気にかけるようになった。みんなが疲れているのを見ると、お願いだから眠ってくださいと言いたくなったし、みんなの楽しそうな表情を見ると、私もうれしくてあたたかい気持ちになった。コンサートの時はみんなと一緒に「にわとり小学校」に合わせて踊ったし、完全に歌詞を覚えたわけじゃなかったけどみんなと手をつなぎ「この星の上で」を歌った。
ある時あっちゃんとおしゃべりしていると「木の花にいていちばん楽しい時はいつ?」ときかれた。「みんなと手をつないで輪になって『この星の上で』を歌っている時です」と答えた。私が木の花を離れる前夜、台湾から来たウー・チュアンウエンがギターで「この星の上で」を弾いた。彼は「ここでいちばん学びになったのは他人のために尽くす喜びです」と言った。彼がギターを弾いた時、みんなも一緒に歌った。この時私の前に座っていたみきちゃんは私の手をとってくれた。私たちは一緒に音楽に合わせてゆれながら歌った。彼女が手を伸ばしたその瞬間、私の心の中に暖かいエネルギーの流れが入ってきたのをはっきり感じた。
私は一行法師が先立った奥さんについて話した言葉を思い出した。
「彼女は今でもある状態で私の心の中に存在します。その状態というのはこのようなものです。まずあなたの心の中を見てください。あなたの心の奥深くにある生命の河に入り、そして浸ってください。その河があなたに流れ入り、そして生かし支えてくれているのを感じてください。愛はずっとそこにあります。」
ケア滞在をしていたみきおくんが卒業する時、涙を流しながらみんなにお礼を言っていた。いさどんの目も赤くなっていた。それはとても感動的な場面だった。
ひとりの人間、ひとつの植物、一匹の動物、みんなひとつひとつの支流だ。小さい支流が集まってひとつの大きな流れになる。一層一層絶え間なく集まって宇宙の海を織りなす。もしもいくつかの境界線に執着しなくなったら、もうちょっと承認し合い融合しあったら、そして理解し支え合い一緒に流れることができたら、たくさんの美しいことが自然と現れるだろう。
ともちゃんとおしゃべりした時のことを思い出す。私たちは写真について、感動させる瞬間について話し合った。インスピレーションは追求している時に降りてくるものじゃない、目的や執着がなく純粋な心の状態でインスピレーションが降りてくる準備が整った時、それは自然とやって来る。
「最も深い真理は最もシンプルで、最も高い事柄は他人からは愚かに見える。
最も豊かなことは何もないように見えて、実は無限の潜在性がある。」
ありがとう:)
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*ファンちゃんが木の花での滞在をまとめたスライドショー
「 In Konohana Family 」