少々遅くなってしまいましたが、5月3日に執り行なわれたいさどんの「生前葬」について、ファミリーのみかちゃんがレポートをまとめてくれました。ニューズレター5月号にも記事として掲載されましたが、こちらはさらに深く、詳細な内容です。興味をお持ちの方は、ぜひお読みください。
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いつの頃だったか、「5月3日、僕の60歳の誕生日にお葬式をするよ」といさどんがつぶやきました。
「僕にとっては、20年が人生の区切りになっているんだよ。自分の人生を80年としたら、折り返し地点の40歳で仕事を辞めて、そこから始まったのが木の花ファミリーの生活。次の20年間、60歳からは僕の最終ステージだから、節目の誕生日にお葬式をすることにした。肉体を持った人間としての精神を葬って、そこからは魂として生きていく。そして、ただただ心の道を説いていく。そうやって今生の最終ステージを迎えようと思っている」。そんなことを、いさどんはみんなに話しました。
その誕生日がいよいよ迫ってきた今年の4月、ファミリーの有志で「生前葬プロジェクトチーム」が組まれました。お葬式の意味するところはいさどんの言葉の通りで、古い役割を終え(=死)、生まれ変わって新しい役割を生きる(=再生)という「死と再生の儀式」です。まったく前例のない内容をどのように表現していくか、プロジェクトチームで話し合っていくうちに、今年の3月からファミリー全体で学んでいる「地球暦」をベースにする案が浮かびました。
「地球暦」は、地球を中心とした従来の一般的な暦と異なり、太陽を中心とした暦です。太陽を中心として惑星の位置関係をとらえ、地球がさまざまな惑星と関係しあいながら軌道を運行していくという視点が特徴です。太陽の意識が太陽系全体に行き渡り、惑星たちがそれぞれのリズムで軌道をめぐりながら相互に働き合ってハーモニーを奏でているのです。
そんな地球暦の上でいさどんの誕生日である5月3日を見ると、ちょうど地球が太陽に対して艮(うしとら)の方角に位置します。これは、木の花でとても大切にしている神様である艮の金神(こんじん)さまが封印されている方角です(図の左側参照)。
艮の金神さまは、心磨きを説く口やかましい神様として八百万の神々から疎まれ、艮の方角に封印されて、恐ろしい閻魔様の役割を果たすようになりました。いさどんのこれまでの役割は、時としてまさに閻魔様のそれであり、私たちメンバーは共に心磨きをしながらここまでやってきたのです。
閻魔様としての役割を終え、封印から説かれた艮の金神が、艮の方角から八百万の神々の輪の中に招き入れられ、輪の中心、つまり太陽の位置に入って神の命を受け、次なる神の姿に変化する、という儀式の形が浮かび上がってきました。参加者は輪になって地球の軌道を表現し、5月3日、すなわち艮の方角に通り道を作り、いさどんが封印をほどかれた艮の金神として輪の中心、太陽の位置に入ってくる。そして皆が見守る輪の中で死と再生の儀式が行われ、古い役割を終えて新たな役割をもつ神に変化する、という流れができてきました。木の花では今年を「開花の年」ととらえ、一人一人が自立して神性を発揮していく時代の始まりとしています。いさどんが生前葬を機会にひとつの役割を終えることも、その一部なのです。
こうしてプロジェクトチームで話し合いを重ね、儀式の形が出来上がっていくうちに、このお葬式に隠されたいろいろな意味が次々に明らかになっていきました。
たとえば、艮の金神さまのお筆先で書かれたと言われている「火水伝文(ひみつつたえふみ)」という書物に「九御座(くみくら)」という座標軸についての記述があります(図の右側参照)。世界の仕組みを表すこの座標軸に従って、地球暦の輪の中心に9つの椅子を置く、というひらめきが私に降りてきました。すると、中心の太陽の周りに8つの空席ができます(図の左側参照)。ここに、いさどんが霊的な道を歩み始めてから間もないころに出会った「8番目の聖者」というエピソードが重なりました。
30歳でお釈迦様から道をいただくようになって一年ほどした頃、毎日瞑想していたいさどんの目の前に7人の聖者が現れました。中心にイエス・キリスト様、右端にお釈迦様、そして孟子様、孔子様、ソクラテス様、ムハンマド様、アマテラスオオミカミ様が並んでいたのですが、よく見ると、一番左側が空いています。「なぜそこが空いているのですか」と問うてみたところ、「そこにそなたが立てば良い」という答えが返ってきたそうです。このエピソードをもとに、8つの席の8つ目を空席にして、そこにいさどんが座る、という形ができました。
ここに、さらに地球暦で学んだ「うしろの正面」という考え方を取り入れました。地球暦では、生まれた日の地球の位置から太陽を挟んだ軌道の反対側の位置を「うしろの正面」と呼び、これから目指してゆく場所を象徴します。生前葬で古い役割を終えたいさどんが生まれ変わり、新たな役割をいただいてから座る場所は「うしろの正面」こそふさわしいと思いました。その席は九御座の座標軸で見ると「3」となります。また、中心の太陽の座は「5」であり、この座の意味するところは「ヒノモトの心」です。5月3日の方角から太陽の座「5」を通って、うしろの正面「3」まで線を引いたとき、九御座に「5」「3」という数字が浮かび上がってきました。生まれ変わったいさどんが8番目の聖者としてすわる席は、九御座上の「3」の席であり、これからめざす場所、すなわち「うしろの正面」である、ということになったのです(図の左側参照)。
また、地球暦上では20年に一度、一年を通して土星と木星が太陽を挟んで一直線に並ぶ「土木開き」と呼ばれる年がやってくるのですが、今年はこの土木開きが60年ぶりに太陽の周りを一周して同じ位置に戻ってくる特別な年なのです。30年周期で太陽を一周する土星の意味は「規則・体系、型・枠組み、構造と再編、秩序・安定化、制御、統制、組織的行動」、そして12年周期で太陽をまわる木星の意味は「可能性、拡大、拡張、発展、寛容、援助、教育・学び、祭り、神事」です。それらの星が太陽をはさんで並ぶ、つまり星と星が「開く」ということの意味は、今回で言えば土星と木星の両方の性質が太陽系全体に放出されて花開くということです。
今年のように、60年ぶりに土木開きが太陽の周りを一周するということは、「社会の枠組みがリセットされ、さらに新たな枠組みが始まる」と考えることができます。
この他にも、昨年の暮れから私たちが親しく交わるようになった「幸福会ヤマギシ会」の創立者である山岸巳代蔵氏の命日も5月3日であることや、同じくファミリーと深いご縁をいただいている宗教団体の大本では歴代の教主の生誕祭が5月3日に開催されることも明らかになりました。
このようにして、この儀式の意味が日々、深まっていったのでした。
生前葬の3日前、私は8番目の聖者のエピソードが綴られたブログ記事を読み返してみました。そのときに、このお葬式で表現されるべき一番大切なことが私の腑に落ちたのです。
「そこにそなたが立てば良い」という聖者たちの答えに、いさどんは自分のようなものがそこに立てるとは思えませんでした。しかし同時に、そのことの意味はいつかわかるだろうとも思っていました。7人の聖者の姿からは、言葉はなくても、何か大きなメッセージが発せられていました。それは「道はひとつ、心はひとつ」ということです。
歴史上の聖者を通してこの世界には数多くの道が示されましたが、ひとつひとつの道は、すべてひとつの心の源泉から下ろされています。
木の花ファミリーが始まる前の年の暮れ、いさどんの元に神様からメッセージが届きました。それは、こんなメッセージでした。
「尊き者を見つけ、そこに行って救われることよりも、自らが尊きものとなって他を救えるものとなれ。これからは、一人ひとりがイエスやブッダであるぞ」
そしてその翌年、今から17年前の3月21日に、この地で木の花ファミリーが始まったのです。
昨年、このことを人に語る機会を得たときに、いさどんは「そなたがそこに立てば良い」という7人の聖者からメッセージの真の意味を理解したのだそうです。それは、「8番目の聖者というのは一人の人間ではなくて、それぞれの中にある仏性や神性に目覚め、歩み始めたすべての人に聖者たる資格がある。そのことに皆が目覚めるのが、今の時代。自分も8番目の聖者であり、すべての人が8番目の聖者。そういう時代が幕を開けようとしている」ということです。
これからの世のモデルとなることが木の花ファミリーの17年の歩みだったとするならば、ファミリーのメンバーたちが自らの神性や仏性を開花してゆき、いさどんと共にこの8番目の椅子に座ること。そのことがこのお葬式で表現されるのだ、と私は理解しました。それぞれに目覚めた者が集い、互いに助け合い、語り合って真実を紡ぎ出してゆく。それがファミリーの生き方なのです。
この他にも、ここでは語りきれないたくさんの現象や気付きを神様にいただきながら、儀式の内容はスムーズに決まっていきました。すべては、天上の神々がなさっていること。そんな安心感に満たされながら、私も神聖な気持ちで役割を果たすことができました。準備に関わったスタッフもそれぞれが最大限の力を発揮して、当日の儀式もまったく滞ることなく粛々と進められ、生前葬は無事に終了したのでした。
いさどんの誕生日である5月3日という日が表す意味、そしていさどんが60歳の誕生日に生前葬を執り行うことの意味は、本当に大きなものでした。それは、自らがこの世界を作っているという意識をしっかりと持った人々がつながりあい、一体となっていく、そんな時代の幕開けを告げる儀式だったのです。
太陽系を司る太陽の意思は、これから地球上でどのように花開いてゆくのでしょうか。
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるかもしれない。
それは他者を理解しようと努め、互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
もっとも大事なことではないだろうか。」
ティク・ナット・ハン(ベトナムの禅僧)