組織宗教の時代から一人ひとりが仏陀となる時代へ 〜 きたじゅんの気付き・第二弾

きたじゅんの心の気付き・第二弾!今年の5月3日、長年患ってきた眼精疲労が消え、新な道を歩み始めたきたじゅんが、改めて自身の半生を振り返りました。


組織宗教の時代から
一人ひとりが仏陀となる時代へ

創価学会の家に生まれる

僕は創価学会3世の家に生まれました。母方の祖母の頃から学会に入会しており両親も同じように入会し学会活動していました。創価学会は約800年前に日蓮大聖人が法華経の教えに基づいて開いた日蓮正宗を本家とした宗教団体です。物心つく前から学会の中で育てられたので、会合や祈りなど宗教的な活動に何の疑問も持たず自然と受け入れていました。祈りというのは日蓮大聖人の生命が現された御本尊(ごほんぞん)様に向かって「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」とただ唱えるだけです。御本尊様に向かって祈ることで日蓮大聖人の生命と一体になり自らの内にある仏性を引き出し、宿命を乗り越え幸福になれると聞いていました。

孤独な高校時代

初めて自ら祈ってみようと思ったのは高校生の時でした。当時は、中学時代に受けたいじめから人間不信になっており、友人を一人も作ることができず孤立していました。あまりにも孤独で時間を持て余していたので、それを逆手にとってある実験を思い付きました。それは学校で1日中一言も話さない日が何日続くか。結果、約40日続きましたが最後は挨拶されたときつい挨拶を返してしまい実験は終わってしまいました。もう少し記録を伸ばしたかったなと思う反面、それほど深い孤独な時間を過ごしてきました。自分の気持ちをずっと抑え続けてきたので、いつしか喜怒哀楽の感情がなくなりそのストレスで慢性的な腹痛に悩まされました。とても苦しくて将来に全く希望が持てない状況でしたが、そのとき僕の心を支えてくれたのが創価学会第三代会長の池田先生でした。池田先生が書いた高校生向けの本には仏法の生命観・死生観・宇宙観などが分かりやすく書かれており、人間の無限の可能性が説かれていました。そのおかげでどんなに絶望的な状況に置かれても、自らの命を粗末にするような行為は絶対にしてはいけないと思っていたことを覚えています。その後、僕は池田先生の創立した創価大学に入学し、自らの人間性を変えることを目標として高校生活を送りました。慢性的な腹痛のため試験で100%実力を発揮できないことに悩みましたが、真剣な努力と祈りで試験本番までに腹痛が治まり、無事創価大学に合格できました。これが初めて祈りが叶った体験でした。

人間関係に恵まれた大学時代

創価大学では、良き先輩・同期・後輩に恵まれ多くの友人ができました。周りの人はほぼ全員が創価学会員であり、学会活動は日常的に活発に行われていました。大学生になると祈りの他に、日蓮大聖人が弟子に対して書き残したお手紙「=御書(ごしょ)」を学ぶこと、友人に仏法を語り広める折伏(しゃくぶく)を行うなど仏法者として欠かせない活動に本格的に取り組み始めました。学会活動の目的は、一人ひとりが自身の宿命(カルマ)を乗り越えて幸福になり、その輪を社会全体に広げ世界平和を実現することです。それを理解した上で、僕は自他共の幸福を目指して真剣に活動に取り組んできました。でも、僕の本心はまず自分が救われたいという思いが強く、他者の幸福を願うということからはかけ離れていました。それでも、学生時代は池田先生の度重なる激励や多くの先輩たちのサポートによって大学院の進学や就職を勝ち取ることができました。自分の本当の実力が試されたのは社会に出てからでした。

社会からの脱落

就職後に、僕が創価学会との関係を見直すきっかけとなった出来事が起こりました。それは2011年2月から2012年2月までの1年間の期間に学会の中の人材育成大学校に入っていた時のことです。当時は、職場で人間関係がうまく築けずいつしか孤立するようになり、ストレスからよく体調を崩すようになっていました。ある時、あの孤立した高校時代と同じ状態に戻っていることに気付いた僕は自身の根深い宿命を感じました。このままではまた自分を駄目にしてしまうのではないかと危機感を覚えました。今こそ宿命を乗り越え根本的に自分を変えるときだと決意し学会活動に真剣に取り組みました。時間があれば出来る限り友人の幸せを祈り、休みの日には毎週のように友人に仏法を語りました。しかし、当時の僕は相変わらず自分が救われたいという思いが先行していることに気付いていなかったため、すべて失敗に終わり結果は散々でした。反対に、友人に思いは伝わらない、自身の願いも叶わない状態が続き頑張れば頑張るほど苦しくなっていきました。最後まであきらめず友人に仏法を語りましたが、結局結果を出すことができず、大学校の卒業式を迎えました。自分の生命を根本的に変えたいと思い、本気で学会活動に取り組んできたのに結果が出せなかった。そんな自分に対して情けなく悔しい思いが込み上げてきて、卒業式の間ずっと涙が止まりませんでした。どれくらい泣いたか覚えていませんが涙をすべて出し切った後、なぜかすっきりした気持ちになっていました。これだけ頑張って結果が出なかったのだから仕方がないという何か吹っ切れた気持ちになり、それ以降学会活動から遠ざかっていきました。その後、眼精疲労で休職に追い込まれ、それがきっかけで2015年2月に木の花ファミリーと出会いました。

木の花ファミリーとの出会い

木の花ファミリーでは今まで聞いたことのない話がたくさんありました。特に驚いたのは話のスケールの大きさと深さです。例えば、太陽の一螺旋の25800年というサイクルがあり、12900年ごとに精神的な光のピークと闇のピークを交互に迎えるという話です。そして、2012年12月21日に闇のピーク(銀河の冬至)を迎えたことで宗教の時代が終わり、これからは自らが自らを救い尊き者となる時代、それは一人ひとりがイエスとなり仏陀となる時代に入ったということが説明されていました。その他にも、時代の流れに沿って天体と人間の活動は常に連動して長い歴史を作ってきたことを知りました。しかし、当時は木の花で話されていることの方が、スケールが大きくて道理が通っていると感じても、創価学会への執着があり簡単には受け入れられませんでした。その執着というのは今までの池田先生に対する恩です。木の花で語られている道理を受け入れてこのまま創価学会を辞めることは池田先生を裏切ることになるのではないかと深く悩みました。その後、宗教のことを否定される度に早く木の花から出て行きたいと思いましたが、眼精疲労でまともに仕事ができない状態だったため、木の花に残る以外に僕の選択肢はありませんでした。

変化した宗教観

それから時間はかかりましたが、僕の宗教観は大きく変わりました。創価学会に対する執着がどのようにして無くなっていったのか。そのポイントは2つあります。
1つ目は、事実を客観的に観て受け入れたことです。学会活動に一生懸命に取り組んだのに完全に行き詰まったという事実。そして宇宙的スケールで銀河の冬至を迎え、宗教の時代が終わったという事実。これらの事実を冷静に受け入れることで学会のことを客観的な視点で観ることができるようになりました。
2つ目は、自らの想いを手放していったことです。自分の宗教に対する捉え方や疑問などを他の人に話し、相手の意見を取り入れることで新しい視点が入り自身の宗教観の狭さや偏りが認識できるようになりました。
今、僕は次のように理解しています。中国の天盤の巡りによると、約6400年前に青陽期という一国の王が民衆を支配する王の時代が始まった。そして、約3000年前に紅陽期という聖人の時代が始まり、お釈迦様やイエス・キリストなどの一人の聖人がその他大勢の民衆を救うという形で宗教が生まれた。それから正法→像法→末法と時代の経過と共に人々は正しい法を忘れ、一部の人間にとって都合の良いように解釈が歪められ様々な宗派に分かれていった。その後、1927年から白陽期という民衆が主役となる庶民の時代が始まった。しかし、未だに心が濁り深い迷いの中にいた人々は闇のピークに向かって2度の世界大戦を起こすなど最も愚かしい時代を経験してきた。2012年12月21日の闇のピーク(銀河の冬至)を迎え、末法が終わりを告げ宗教の役割が終わった。そして、いよいよ庶民の目覚めの時代が本格的に始まった。大まかですが、このように振り返るとその時代ごとにふさわしい人々の心があり、その必要性に応じて様々な教えが広まっていったことが分かります。その時代の流れの中で宗教はある一定の役割を果たしてきたのだと思います。

宗教の弊害

一方で、世の中の混沌とした現状を見ると、今までの宗教が世界にもたらしてきた弊害が見えてきました。それは主に3つあります。
1つ目は、自分が所属する宗教を唯一正しいと解釈していることです。皆が自分の所属している宗教が絶対正しいと主張し合えば、それは争いにつながります。実際に、過去から現在にかけて世界中で起きている戦争や争いごとの背景には必ずと言っていいほど宗教対立があります。自分が正しい側にいるという意識では客観的な視点で物事の本質を観ることはできません。
2つ目は、ご利益をうたって人々を集め組織化したことです。ご利益をうたうことで人々の欲望を刺激し、願いを叶えることで自我をより拡大させてきました。そのことが現状の世の中の混乱につながっていると感じます。
3つ目は、経典を持つことで宗教の精神性を固定してしまったことです。紙で教えを固定化し、経典を唯一の指針とすることはいつまでも古い時代の教えに執着し、その経典の精神性を超えることはありません。それは、みんなで同じ指針に従っていけば救われるという画一的な道を示しており、民衆一人ひとりがオリジナルに悟りを開き個性を存分に発揮していく道を奪ってきたといえます。宇宙は常に変化変容し続けており、その宇宙の法を説く法華経の精神性の表現も新しい時代にふさわしく変化していくことが本来の姿だと思います。

人生の本当の目的

このように自分の人生にとって縁の深かった宗教の本質が見えてくると、今まで出会ったすべての出来事の意味が見えてきました。いじめ、孤独、病気、宗教、社会からの脱落・・・様々な問題にぶつかり悩みながら人生の本当の目的を探し求め続けてきたこと。それは、小さな自我から解放され大いなる天の意志に寄り添って生きることに目覚めることであり、そのためにこの地球に肉体を持って生まれあらゆる経験を通して魂を磨きに来たのだと今は理解しています。また、その経験はすべて他者に生かすために自ら望んで学習してきたのだと実感しています。

5月3日を原点として歩む

2018年5月3日。この日は僕の人生にとって大きなターニングポイントとなりました。木の花ファミリーにとっては創設者のいさどんの誕生日であり、今年は生前葬から質的転換の7年を迎え「いさどん」から「ジイジ」へと生まれ変わった日でした。その日ジイジは、時代はいよいよ大質的転換を迎え、これからは今まで語ってきたことが本格的に現象化されていく段階に入ったということを話してくれました。また、創価学会の本家である日蓮正宗を開いた日蓮大聖人が一人立ったのは32歳であり、創価学会第三代会長の池田先生が会長として一人立ったのは32歳の5月3日でした。そして自身も32歳で迎えた5月3日。とても不思議な縁を感じつつ僕は心の中で次のように決意しました。

「5月3日を原点として自分も先人たちに続いて一人立つ時が来たんだ。それは日蓮正宗でも創価学会の後継でもなく、一人ひとりが仏陀となる時代の先駆けとしてまず自らが実践する。先人たちと現状の未熟な自分を比べると、とてもおこがましい話かもしれないが、この道を生涯歩み続ける意志と覚悟はある。それにふさわしい者として歩み続けよう」

このように決意してから約1ヶ月が過ぎました。時代は常に休むことなく先へ先へ進み、今という時はすぐ過去になり未知なる世界へと向かっていきます。5月3日の決意を常に新鮮なものとして心に留め、僕は今日も自我から湧いてくる想いを手放し、いつどんな時も天の意志を「いただきます」の精神で歩んでいきます。

 

 


病気が導いてくれた八番目の聖者への道 〜 きたじゅんの気付き

きたじゅんは、1年半前にメンバーになり、現在は長野県の大町ビレッジに滞在しています。日ごろ、あまりみんなの前で話すことのないきたじゅんが、ある日の大人ミーティングでこんなシェアをしました。以下、全文をご紹介します。

きたじゅん

病気が導いてくれた八番目の聖者への道

2013年5月、僕はカーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中に閉じ込もっていました。当時は、水力発電所の設計をしていましたが、長時間残業と人間関係のストレスから眼精疲労になり休職を余儀なくされてしまいました。今まで無理に無理を重ねてきたため、パソコンやテレビのようなデジタル機器から照明や太陽の光までまぶしく感じ、強い痛みを伴うため、日常生活を送ることが困難な状態になっていました。このときから僕は常に帽子とサングラスが手放せなくなり、出口の見えない長くて暗いトンネルの中にいるような日々が始まりました。その後、一度は職場復帰できたものの、2015年1月、再びパソコンを見ることができなくなり2度目の休職を余儀なくされ完全に行き詰まってしまったのです。

そんな中、出会ったのが木の花ファミリーでした。そこで参加した1ヶ月間の真学校で本当の自己を知り、自身の30年間の歩みを振り返りました。真学校では、自分の癖・性分が病気を作り出していること、そしてその癖・性分を手放すことで自ら発している病気の響きが変わり元の気が入ってくる、つまり健康体を取り戻すことができると学びました。しかし、それは頭だけの理解に留まり、実践を伴った本物の理解に至るまでには、さらに長い時間が必要でした。なぜなら、自身の根深いカルマをなかなか超えることができなかったからです。

僕のカルマの性質を挙げてみると、常に他人の評価が気になる、被害妄想が激しい、思い込みが強い、人の意見や出来事を素直に受け止めないなどネガティブな思考ばかりです。このネガティブを安定してやり続けるのが純一というカルマの特徴です。自分でも本当に面倒臭いなと思うし、これと向き合って変えていくのは大変な作業でした。例えば日々の作業の中で、体調を崩しているのに人の評価を気にして本音が言えず、つい無理をして頑張ってしまうことがよくありました。そしてまた体調が悪くなる。でも他人に自分の弱さを見せることができない。さらに苦しくなる。余計なプライドが邪魔をしてこの悪循環からずっと抜け出せずにいました。それでも、木の花のみんなのサポートのおかげで、曲がりなりにも1年間ヘルパーを続けることができました。体力に自信がついたのと木の花ファミリーの生き方がこれからの時代にとって本当に大切だと実感できるようになったため、2016年11月、正式にメンバーとなりました。

帽子とサングラスが手放せなかった頃

その後、2017年4月から4人で大町ビレッジでの生活が始まりました。一人ひとりが個性の花を開きみんなで調和した桃源郷の世界を大町でも目指そうと最初は意気込んでいたものの、また自身のカルマに飲まれていってしまいました。自分の未熟さや生活態度、不調和な空気など立て続けに指摘されるようになり、あまのじゃくで幼稚な僕の心は次第にみんなから遠ざかっていって、いつしか自力で抜け出せないほど深みにはまってしまいました。そんな中、人身事故という大きな出来事をもらい、ますます現実を受け入れられなくなって底の底まで心は落ちていきました。

「こんなに苦しむくらいなら、自分と向き合うことから今すぐ逃げ出してしまいたい」

自分でも愚かな選択だと分かっていながら、何度も逃げたい気持ちがわいてきました。ただ、その度に僕を木の花に引き止めてくれたのは眼精疲労でした。
今の目の状態で一般社会に戻ってもまともに働くことができないのは分かっていました。確かに苦しくて逃げ出したい気持ちはある。でも逃げ出せない現実がある。僕は何のために病気で行き詰まって木の花と出会い、今こうしてみんなと桃源郷を目指して日々真剣に過ごしているのか。何度も何度も自分に問いかけました。

「一度完全に行き詰まったのだから、自分のカルマと向き合わずここから逃げ出すのは生きることを放棄するのと同じだ。僕は必ずこのカルマを乗り越えて世のため人のために役立つ者に生まれ変わるんだ」

こうして自分の本当の気持ちを確認し、それを現実化するために行動し始めました。

女郎囃子を舞うきたじゅん(左)

その後、大町から富士宮に戻り転機が訪れました。2018年1月、木の花ファミリーにとって最も重要な「富士浅間木の花祭り」が開催されました。僕の役割は女郎囃子のおかめ役でした。今回、舞うこと自体が初めてで、さらに女役になりきってアドリブで舞うというのは自分にとってかなり苦手意識が強くハードルが高いと感じていました。人前で目立つことをしたり、笑わせるようなことをするのは自分の性に合ってないし、中途半端な舞をすれば余計恥ずかしい思いをすることは分かっていました。でも必ずみんなの役に立つ者に生まれ変わると決めたのだから、どうせやるなら思いっきり悔いなく舞おうと思いました。そして当日、自分を捨てて思いっきり舞ったところ、お客様もメンバーもみんな喜んでくれてとても楽しい場を作ることができました。僕自身はなぜか心の中がとてもすっきりした感覚があり、今まで感じたことのない感情が湧き上がってきました。

「みんなと時間・空間を共有し、心を一つにして何かを成し遂げるということが真の喜びであり本物の豊かさなんだ」

舞い終わった後、女郎囃子の仲間たちと一緒に

そう思うようになってから僕の心はどんどん広がっていき、自然と新しい視点が心の中に入ってくるようになりました。

このように、心が変化し始めてからもう一つ転機がありました。それはケア滞在や長期滞在の人たちと一緒に作業をしていたときのことです。普段から彼らの言動を観察していると、彼らの癖・性分が自分を自らの内に閉じ込め病気を引き寄せていることに気付きました。これは真学校で学んだ心と病気の仕組みを彼らが見せてくれているのだと思いました。そしてその視点を自分自身に当てはめてみました。すると、僕は長い間体調不良が続いていてその状態が一番落ち着くというおかしな状態になっていることに気付きました。そのことに気付いた時、自らの思いを手放していけば元の気が入ってきて健康体に戻れるのではないかと思いました。それは、回復をあきらめていた目も例外ではないかもしれないと思いました。

そして、2018年4月から2度目の大町ビレッジの生活が始まりました。僕は常にわいてくる自らの思いを徹底的に手放すよう心がけました。自分の限界は決めない、体調は予測しない、自らの思惑をすべて手放して結果を頂くことに努めました。すると、体に変化が現れ始め、サングラスではなく普通のメガネや裸眼で過ごす時間が徐々に増えていきました。あるときふと気付くと、自分のことはどうでもよくなっていて、それよりもみんなともっと時間を共有したい・空間を共有したい・心を共有したい。その想いがより一層強くなり、自分と他者の区別が無くなっていくのを実感するようになりました。

そうして迎えた5月3日。この日は木の花ファミリーにとって重要な節目の日でした。それは創設者のいさどんが生前葬から質的転換の7年を迎え、ジイジという新しい名前を天から頂き再スタートする日だったので、1日だけ大町から富士宮に戻りました。僕は「富士宮のみんなとしばらくの間また会えなくなるから、せめて今日だけはサングラスをやめて笑顔でみんなと過ごそう」と思い、できる限り普通のメガネで過ごすことにしました。すると、普通のメガネにしても特にまぶしさは感じませんでした。試しにサングラスをかけてみるととても暗く感じました。もしかしてと思ってサングラスと帽子を両方とってみるとなんともありませんでした。今日はたまたま調子が良いだけなのかなと不思議な気持ちになりつつ、そのまま「誕生祭」を迎えました。そして、ジイジとして初めて語る中で、最後にこのように話してくれました。

誕生祭でのジイジときたじゅん

「あなたの人生をどうするかはあなたの責任です。これからこの時代をみんなで共に役割として作っていく集いの場に私たちはいますが、魂の歩みはそれぞれ別々です。そこはシビアに、私はみんなを救おうなどとは思いません。それは初めて人間が救われるという解釈から自らの価値を高め自らを救済する。やっと自分が尊き者になる手段が自分の手の中にある。それが人生の勝利者です。今までは木の花という役割の場所を維持するのが目的でしたからみんなに寄り添ってきましたが、これからはしません。私はどんどん先に進みます。そのうち、後ろを見たら誰もいないかもしれません。それでもいいのです。その生き方が大事です。今日のジイジの誕生祭は私の誕生祭ではありません。あなたたち一人ひとりのビジョンが始まったのです」

ここまで聞いた時、これからは一人ひとりがイエスとなり仏陀として生きる時代になるという八番目の聖者の話を思い出し、次のような想いが湧き上がってきました。

「今日まで本当にいろんなことがあったけれど、僕はこの道に出会うために今この場所にいるんだ。本当に愚かな自分ではあったけれど、個人の意志に関係なくもっと大いなる意志が僕を八番目の聖者の道へ導いてくれたんだ。その案内役が病気だったんだな」

そう思ったとき、僕の両目から痛みがすっと消え去っていきました。

「疫病神さん、今までこんな自分に付き合ってくれてありがとう。
 そしてお役目ご苦労さま」

と心の中でつぶやき、そっと天へとお返ししました。

 

 

八番目の聖者への道のりは続く!