みっちゃんの想い 〜 老人ホームで働いて

新年明けましておめでとうございます!

今年最初の木の花ファミリーブログは、現在介護ヘルパーとして老人ホームで働いているみっちゃんが、新年を迎えるにあたって綴った今の想いをご紹介します。

爽やか笑顔のみっちゃん。同じく老人ホームで働くあっちゃんと一緒に。
爽やか笑顔のみっちゃん。同じく老人ホームで働くあっちゃんと一緒に。

 
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私は、木の花に来る前の今から12年前、実家の横浜で介護老人保健施設のデイサービスで働いていました。もともとお年寄りが好きだったことや、これから先、長く続けていく仕事として、福祉関係は自分に合っている気がして選んだ仕事でした。

デイサービスは、通所サービスともよばれ、それぞれの自宅に利用者さんを送り届けるのですが、その際に、家族の様子がよく分かりました。核家族が増え、家族の中だけでお年寄りを看るということは、難しくなっていることを実感しました。
また、仕事を続けていくうちに、いろいろな葛藤が生まれてきました。例えば、トイレの時間が決まっていて、トイレの前に並ばせることやお風呂場に並ばせること。リハビリと称して、機械を使って、もくもくと体を動かしていることなどです。

施設の中に温かさを求めていた私にとって、何か違う、物足りなさ、さびしさのようなものを感じていました。特に、リハビリについては、もっと、お年寄りに馴染みのあること、普段の生活の延長にあること、例えば、畑に出て、土をいじったり、作物を育てたりなど、結果としてリハビリになることがいいなと思っていました。
私自身、畑をやってみたい、作物を育ててみたいという思いがあったこともあって、一度仕事を辞めて、農家さんに1年でも研修させてもらおうと思い立ちました。そこで、全国の有機栽培で農業をしている農家さんを紹介している本から、その当時、研修先を募集していた“木の花農園”と出会ったのです。

12年前、当時創立メンバープラス3、4名の20名ぐらいだったと思います。血縁を超えて子供からお年寄りまで共に暮らす生活がすでにそこにありました。この生き方がとても大事だと直感しました。1泊でどんな所か見学に来た時、食事の時でも、畑でも、どこででも、皆が心の話し、この世のしくみの話をしてくれました。

“人は学ぶために生まれてきた。”
“土も水も空気も自分もみんなつながっていて一つなんだよ。”

“何のために人は、生きているのか。”
いつも不安や悩みを抱えていた私でしたが、“そうかー、やっぱり生きる目的があったんだ”と、自分のこれからの人生においてやるべきことが分かって、本当にうれしくなりました。

収穫隊として働くみっちゃん
収穫隊として働くみっちゃん

移住当初、私は、野菜の収穫を担当していましたが、ファミリーの知り合いの福祉関係の人材派遣をしている方の勧めで、福祉の仕事の経験を生かすことになり、ファミリーで暮らしながら、老人ホームで働く機会を頂きました。

その施設は、職員が一度に20人近く辞めてしまい、人手がなく、困っているということでした。
そこでの状況は、常に職員が足りない状態で、正職員の人達は当たり前に毎日の労働時間が3時間から5時間の残業をしていました。共に働く職員の様子をみると、ちょっとのことでいらいらしたり、集中力が切れてしまったりしていて、精神的ストレスを抱えていることを感じました。職員のストレスが、虐待にまで及んでしまっていても、人手が不足しているために、その職員を辞めさせられない現状もあるようでした。実際、お年寄りへの事故が多く起こっていました。
こういった状況を立て直そうと試みる人たちがいましたが、結局、経営者側が現場を知ろうとせず、状況が変わっていかないため、あきらめて、辞めていってしまうケースが多かったです。

人材が増えない理由は、上の立場の人が職員を大事にしないこと。人材を育てていくことより、利用者を増やすことばかりに意識がいっていることに問題があったと思います。結局は、お金儲けが優先されているように感じました。これから、高齢者は増え続け、施設も比例して増え続けるでしょう。でも、その中に暮らす人々や関わる人々の心の状態は、とても豊かで、幸せなものとは、言えません。今の施設が抱えている問題の現状をみせてもらっているなと感じました。  

現在私は、自宅から近くにある老人施設で働いています。
私が、最初に入った時の一番の驚きは、全室(部屋にもトイレにも)に鍵がかかっていて、さらにY字帯といって、車いすにしばりつけて拘束をされている人が5、6人はいたことです。夜間に、ベットに体を縛られている人も2人いました。
拘束をしていなくても、転びやすい人が椅子から立ち上がると、その度に座らせています。お年寄りがなぜそういった行動をするのか、その原因をみていません。ただ業務として相手と接すると、その人の心を分かることはできません。どういう心で接しているのか、お年寄りも敏感に感じているものです。
本当にその人にとって必要なことが何なのかを思う心が足りないのだから、ただ、もっと心を感じることを大切にしていけばいいのだと思います。それはお互いを思いあえる心です。皆の気持ちが同じ方向にむいていれば、いつでもベストな対処法が、どこからでも浮かんできます。

本来、施設はレクリエーションやリハビリなどを通して、お年寄りを活性化させる場でなければならないけれど、この施設では、職員の人員も少なく、意識も低く、そこまでのことが出来ていない現状です。食事の提供、入浴や排泄の介助といった生活において最低限のことだけで終わっています。1日の大半の時間は、テレビをボーっと見ているだけで、何もすることがなく時間をもてあましたまま過ぎていきます。 “こんな施設、すぐにでも出ていきたい”という言葉を何人もの人に聞きました。

でも、そんな場所に入れられてしまった自分がいる。今の自分の状況は、今まで自分が生きてきた結果です。だれのせいでもありません。

今、この施設で日々どんなことを感じながら生きているのか。その人に接してみると、その人の今までの生き様がみえてきます。
どんなにお金持ちで、苦労なく、ぜい沢に生きてきた人でも、人生を締めくくる最後の時に、自分がどんな状況を与えられているかをみると、自分の意思に反して施設に入れられ、孤独を感じている人も少なくないのです。
同じ場所に暮らしていても、その人の心次第で、有難い場所にもなれば、地獄の場所にもなってしまいます。全ては、自分の心が作り出している世界なのです。
だからこそ、年齢など関係なく、だれしもが、今を大事に生きることが大切なんだと感じています。今の自分の心のあり方が、確実に未来の自分を作っています。そのことさえ分かれば、だれでも、今からすぐに変わっていくことができると思います。

今ある老人施設は、当然、介護する側、される側という関係がありますが、その意識がそこにいい場をつくらない気がします。常に与える側、与えられる側ではなく、一人一人が、お互いに楽しい生活の場を作っていこうと思えば、豊かな場所になっていくのではないでしょうか。一方が与え続けることは、結局、対処療法になってしまうと思います。

“人生の最後をどんな風に生きたいのか。”
 お年寄りそれぞれに、思いがあり、話しをしてくれます。心の触れ合いと充実した価値ある生活を送ることを望んでいるのを強く感じます。
お年寄りの年の功で、周りに提供できることはたくさんあります。たとえ体が不自由でも、それを個性として、周りにお世話をする機会を与えてくれています。それは役割の違いだけだともいえます。
もっともっと生かしたいのです。外で働く機会をもらい、人が生かされていない現場を目の当たりにして、そのことを、より強く感じています。

“人の幸せって何だろう”と思います。
本来、人は働くこと、“はたを楽にすること”が生きることなのです。自分のためではなく、世の中のため、人のために貢献することで、心が満たされ、生きがいにつながります。

私自身、木の花に出会って、それを実践できる場所を頂いているからこそ、本当に心からそうだと思うのです。自分が、自分が、と自分の損得ばかり考えていたころは、本当に苦しかったです。何かを手に入れても、いつも空虚感がありました。
今は、自分のことを考えなくてもいい、楽な気持ち、自由を感じます。
これから先、いつまで生きるかも分からないけれど、老後に起きるかもしれない病気や災難などに対して、人は不安や心配に思うわけです。家族なのか、施設なのか分からないけれど、人に看てもらう、世話になることが前提にあっても、やはりお金の問題があります。お金が全てではないけれど、それを頼りにして、そのために仕事をしている人が多いと思います。
ストレス社会の中で、ストレスがあることが当たり前というけれど、実際に何にストレスを感じているのか、その原因は何なのか、自分の心のどこから来ているのか、そこまで考えが及んでいなかったり、その実態を分かっていても、それを解決しようというところに至っていないだけです。客観的に自分の心が見えれば、案外、何だそんなことだったのかと思うぐらいなことでもあると思います。

私は同じ職場で働いていても、ストレスなく、充実した毎日を過ごしています。
自分の感じた思いを正直に相手に伝え、問題事から自分の心を振り返る。そこから学ぶ意識を持つと、自分では、悪いことと思っていたことも、実は、いいことに変わっていく。本当に有難いことになっていく。
私がやっていくことは、日常の中で、そういった心の姿勢を表現していくことなんだと思っています。

血縁を超えた大家族の暮らし
老いも若きも共に暮らす大家族

私は、お年寄りだけで暮らす生活ではなく、いろんな世代の人が、調和の中で助け合って、共に生活することが自然なことと思っています。小さい子供がいて、青年がいて、おじいちゃんやおばあちゃんがいて、それは、血縁に限らず、血縁を超えても、実現できる家族なんです。不安や心配などいらない、安心の世界です。
「私の家族は、80人の血縁を超えた大家族だよ。皆で共に助け合いながら、たくさんのことを共有して、調和の中で暮らしているんだよ。喜びも100倍なんだよ。」とお年寄りに話をすると、興味深そうに、いろんな質問をされます。
「そんな天国のような所が、本当にあるのかね。信じられないよ。」とも言われました。
自分を忘れて、みんなの事を思い、みんなの為に生きること。誰の心の中にでもある真実に目覚めれば、だれもがつくれる場所なのです。
実際に、私が暮らしている木の花ファミリーは、それを実現している“菩薩の里”です。

高齢者の施設は、どんどん増えていっています。実際に高齢化が進むのですから、当然の流れでしょう。
ただ、私は、形をどうするのかではなく、もっと、そこに暮らす人々同士の心が豊かで、通じ合うような、そんな場所が広がっていったら、と思っています。
 
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今年もよろしくお願いします!
元旦のおせち料理を食べながら、血縁を超えた家族たちと一緒に

 


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