残された人生を、あなたはどんな風に生きますか

昔からお年寄りが大好きで、現在は介護ヘルパーとして介護老人保健施設で働いているみっちゃん
きょうこちゃんがガンになったことをきっかけに、改めて死について語り合われる中、今の想いを綴りました。

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定年後の人生、60代から、この先、死を迎えるまでどれだけの時間があるだろう。

私は、老人ホームで働いている。老人ホームで1日を過ごしているけれど、ここに暮らすお年寄りは、何もすることがない。早く、死にたい。そんなことをつぶやく毎日。
そんな日々の繰り返しをあと何回することになるのだろう。本来、年齢的にも人生の最終段階。人生をしめくくる大事な時を生きている人たちだ。中には、ここで最後を迎えると決めている人も少なくない。
今の一時の期間をみて、生かされないことがもったいないということではなく、人の一生として見たときに、今の日常の延長で終わっていっていいのかと思う。いきいきと生きることが、最後をしめくくるのに、悔いなくいけることにつながる。
最後の最後まで、自分は何ができるのか。

病気でも、何でも、自分に与えられた出来事は、学びの材料でしかない。
「なんで自分ばっかり、こんな目にあうのだろう。」そうではない。
自分の心の姿勢にふさわしくその結果をもらっただけのこと。それが自分の中で分かっていたら、暗くなることなんてない。全ては、善きことのためだから。
病気(疫病神)が住みつきたくなくなるような自分に変わればいい。それには、自分の心のメカニズムを知ること。病気になるにふさわしい自分を解き明かすこと。そうやって、自分を知って心を変えていけばいい。今まで病気をつくってきた自分の、その逆をやればいい。
病気の当事者、本人が解決できる。カギは、自分にある。(きょうこちゃんのブログがとっても分かりやすいです。)

木の花に来る前の私にとって、死とは、恐怖、苦痛、避けたい気持ち。
でも、生を受けた以上、当たり前に、誰にでも平等に、必ずやってくるもの。
死は、私たちが今生きてる3次元世界からの卒業。肉体を返すだけ。次のステージが待っている。
日々、人が生きることの目的は、学ぶことにある。心をきれいにして、後悔なく、死を迎えたい。
死は、今まで生きてきた生の結果だから。

これからの老人ホームも、そこに暮らすお年寄りたちが「死」の意味が理解できて、日々希望をもって生きられる場所であったらいいと思う。生きる意味が本当に分かったら、死の意味が分かって、やみくもに怖がることはなくなるはず。

自分の健康、自分の楽しみ、自分にとらわれるのではなく、人のため、世の中のために、自分を生かしてみませんか。そんな毎日の中では、喜びは、1人で喜ぶのではなく、みんなと分かち合えるものなのです。
「他者の喜びを自らの喜びとするくらし」
木の花では、そんな価値観で、毎日を生きています。

木の花のキッチンさんは、いつでも大忙しです。日々の100名近いファミリーの昼、夜のごはんづくりはもちろん、お弁当の注文も多く、お弁当屋さんでもあります。ごはんを食べて感動され、涙される方もいるくらいです。
美味しさだけでなく、そこに込められた心を感じられるのだと思います。

心をこめて作るお弁当
心をこめて作るお弁当

木の花の畑隊のつくるお野菜は、太陽の光はもちろん、生命の循環の中で育てられる、エネルギーあふれるものです。病気のお客様からも、木の花さんのお野菜なら食べれると言われるくらい求められています。地域の直売所に出荷しているだけでなく、全国発送もしています。これからは、苗の定植や草取りが続き、とっても忙しくなってきます。

宝石のようなとれたてのグリーンピース
宝石のようなとれたてのグリーンピース

お年寄りには、お年寄りにしかできない、知識や経験を生かした役割があると思います。
木の花のばぁすたちも、毎日、生き生きと、お掃除に、洗濯、お料理に子育て、畑などなどいろんなところで、その個性を生かしています。(ブログ を参考にしてね。)

いつも陽気なばぁずたち
いつも陽気なばぁずたち

年配の方も、体の不自由な方も、お元気な方も、一緒にこれから先の残された時間を、充実した価値ある人生にしていきませんか。
分りやすい特技がある方は、それはそれで生かされるけれど、何ができるか自分には全く思いつかないという方でも“人の役にたちたい” “みんなで仲良く働きたい”そんな気持ちがあれば大丈夫。
喜びや楽しみを、みんなで共有することが体験できますよ。

いさどんブログ、「いつか死を迎えるときに」を、ぜひ、ご覧になってみてくださいね。
 

みんながそれぞれの役割を果たす「恵みいただきます」
みんながそれぞれの役割を果たす「恵みいただきます」より

 

 


「凶悪」と介護施設

先日、大人ミーティングにて、実際に起きた事件を元につくられた映画「凶悪」を観ました。
その後、介護老人保健施設で働くみっちゃんが、想いを綴りました。

大人ミーティング終了後、同じ施設で働くゆうこちゃんと翌日の打ち合わせをするみっちゃん
大人ミーティング終了後、同じ施設で働くゆうこちゃんと翌日の打ち合わせをするみっちゃん

 
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「凶悪」という映画を見た。

私は、今、老人ホームで働いている。日々の業務をしている中で、気にかかることが私の心に、湧いてくる。
例えば、お年寄りのオムツを変える時。ふと気が付くと、まるで、物を転がすように、自分の都合のいいように動かしている。目の前にしている人を、人として感じられていないのではないかと思うことがある。そこに、相手に対する心があるだろうか。
入浴をするために、洋服を脱がせるとき、こちらの都合で早く入れたいがために、相手の体を気遣うことなく、服をひっぱって、まるではぎとっているようにみえることがある。
お風呂場で、便がでてしまった人に対して、「何でこんなところでするの。駄目じゃないの」って、しかりつけるようにその言葉を発しているのを目にする。
トイレに行きたいという人に対して、「さっき行ったばかりでしょ。出ないよ」と決めつけて、連れていかない人がいる。

これは、私の日常の業務の中で垣間見る出来事の、ほんの一部。
どの場面でも共通して、人を人として感じられていないような気がする。
人の首を絞めて殺し、なたで体を切り刻み、焼却炉で焼く。まるで人を人と思わない、恐ろしい行為。今日見た映画に登場する人物たちの、それこそ目を覆いたくなるような犯罪の数々を起こす心に共通する 、凶悪の種を感じた。
多分、老人ホームに限らず、福祉の施設は、弱者が集まった場所であるだけに、一歩間違えれば虐待にもなりかねないケースが起こりやすい環境なのだと思う。湧いてくる思いに対して、それを選択するかしないかの違い。人間には、それだけの可能性があることを教えてもらった。
 
先日、新聞に「介護・保育士資格を統合」という記事が出ていた。
(下記のあわちゃんのブログも参考にしてね。)

*介護・保育士資格統合について書かれたあわちゃんブログ
 「木の花ファミリーでリアルに起こっていること」

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これは、厚生労働省が、少子高齢化と人口減の影響で人手不足が懸念されている福祉人材の確保に向けて、介護福祉士や保育士等の資格を一本化する動きだそうだ。そして、これから団塊の世代が全員75歳以上になる2025年以降を見据えて、介護施設と保育施設等を一つにまとめて運営できるようにすることも考えているらしい。
また、今後特に不足されると予測されている介護職を、場合によっては将来過剰となる保育士で補おうという思惑も背景にあるようだ。

これからの社会の新しい動きに対する希望と、その一方で、福祉の現場って本当は、資格なんてなくてもいいのになって思った。実際の介護の現場にいると、大事なのは、「その人の人としての質」「心の質」だと感じる。
いくら知識があっても、資格があっても、相手とのコミュニケーションが取れない人が本当に多い。
本来、当たり前に生まれるだろう、人に対する思いやりとかやさしさ、信頼がないケアをしている。心がない。
だからこそ、日々、どんなことでも、一つ一つのことを丁寧に行い、自分の心も緻密にみて、振り返り、心を磨いていくことが大事なんだ。そうやって、心の質を高めていくことができるから。

これから先、介護施設と保育施設が一緒になった施設が建てられていくとしたら、また、形ばかりが増えていくのかもしれない。今、介護施設がどんどん建っているように。
でも、もう、形はいらないと思う。
大事なのは、やっぱり、そこに暮らす人々。その人たちの生き方にある。どの世代も、そこに集う人々が生き生きと生かされる場所。
あらためて、木の花は、それが、表現されている場所だ。

 
 


木の花の子どもたちが、老人ホームにやってきた!

介護ヘルパーとして介護老人保健施設で働くみっちゃんからのレポートです!

子供達をサポートするみっちゃん
みっちゃん

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木の花の子どもたち(新1年生から5年生まで13人)が、日曜の午後に、私の働く老人ホームにボランティアでやってきた。

私は働きながら、いつも思っていることがある。ここで暮らすお年寄りは、いつも暗くて、体の痛みに耐えるばかり。体が自由に動ける人でさえ、かごの中の鳥のような日常。そんな日々の中に、喜びや楽しみ、希望が感じられるような場を提供したい。どんなことができるのだろう。
そんな時に、ふっとわいてきたことだった。

木の花では、初めて訪問されるお客様には、Welcome コンサートをして、皆でお迎えする。
たとえ1人のお客様でも行い、心をお伝えする。その中でも、子どもたちが歌って、踊る、「みつばち小学校の歌」は、特にお客様の心を動かす。とってもかわいいのはもちろん、人見知りせず、初めてのお客様のひざの上に乗って、甘える姿が本当に微笑ましい。本人たちには、そんな意識はないのだろうけれど、自然に初めてのお客様の心を開く、大切な役割をしている。
 
*「みつばち小学校のうた」

 
老人ホームでは、子供たちの自己紹介から始まった。お年寄りの中には、「どこの小学校のクラスから来たの?」と聞く人もいたけれど、「みんな兄弟なんです!」と答えた。
この子たちは、みんな私の家族なんだよなって改めて思った。
そこには、血縁をこえて、とっても強い絆がある。

演奏する子供達
演奏する子どもたち

みつばち小学校の後も、鍵盤ハーモニカやリコーダーの演奏、お年寄りがいつも歌って体操している「富士山」をみんなで一緒にやったり、「茶摘み」の手遊びなどをした。
4年生の「みこ」は、何も言わなくても、お年寄りに向けて、お手紙を書いてきていて、みんなに読んでくれた。
その後は、3つの輪になって、お年寄りも子どもも一緒になっての玉入れゲーム。
子どもたちが、玉をお年寄りにひろってあげての共同作業。普段は、車いすから立ち上がるのもやっとの人まで、すくっと立って、子どもたちと一緒になって、玉入れを楽しんでいる。
最後には、同じチームのお年寄り一人一人と握手をして、触れ合うこともできた。

「子どもたちから、元気をいっぱいもらったよ。」
今までに見たこともない笑顔をたくさんみせてもらって、私もとっても驚いた。

お年寄りに手紙を書いてきたみこ
お年寄りに手紙を書いてきたみこ

近頃、家での夕食の時間では、子どもたちのお行儀が悪くて、注意することも多いのだけれど、ここでは、本当によくしつけされているねと褒めていただいた。子どもたちのエネルギーが、明るくて、楽しくて、幸せな場を作ってくれて、とっても生かされた。ありがとう。

普段は、お年寄りばかり50人で暮らしている生活の場。改めて、いろんな世代がともに暮らす生活が豊かだなと思う。でも、世の中は、これから老人が増えていくのだからといって、どんどん老人だけを集めて施設が建っていく。
不自然な気がしてならない。当たり前に子どものいる景色がいいな。

その時だけ楽しさを感じて終わってしまうボランティアではなく、これからつながっていくことが大事な気がしている。その日の夜の子どもミーティングで、老人ホームに行った感想をみんな報告してくれた。5年生のゆうゆは、「ここのお年寄りは、家族に会うこともできないし、体も不自由で、そんな苦しみや悲しみを知った」と話した。
木の花のお年寄りは、みんなとっても元気。でも、いろんなお年寄りがいることを知ったのだと思う。そうやって、お互いを知って、近くなっていく。

「今度は、折り紙をしに行かない?」と話したら、「いいよー。でも次もまた、玉入れやりたーい」とうれしそう。

これからも、つながっていこう。
 

最後にお菓子をもらったみんな。また行こうね♪
最後にお菓子をもらったみんな。また行こうね♪

 
 


真夜中の女子会

木の花ファミリーは、とってもいいところです。
ごはんはおいしいし、みんな仲良く支え合って生きてるから子育てや老後の心配もいらないし、自給自足で何でも豊かにあるからお金のためにあくせく働かなくてもいいし。

みんなで支え合う豊かな暮らし
木の花ファミリー

ところが、いいところ過ぎて、ぬるま湯につかったカピバラのようにボケちゃうことがあります。

カピバラさん
カピバラさん

(注:本物のカピバラさんはボケているわけではありません。)

豊かな暮らしは自分たちの満足のためにあるわけではなく、余分な心配をしなくていいからこそ一人ひとりがしっかりと心を磨いて、そこを訪れる人が癒されていくような場を築いていく ――― つまり、人のためにあるわけですが、ぬるま湯にぬくぬくとしているうちにいつの間にやらその豊かさに甘んじて、自ら場創りしていくことを忘れちゃったりするのです。

そんな「すぐ忘れちゃう症候群」をいったいどうしたらいいのか。昨夜も大人ミーティングで長~い話し合いをして、誰かが誰かを指摘して言われた人は「どよ~ん」と落ち込んでその場全体をさらにどよ~んと暗くしてああこれの一体どこが菩薩の里なのと思いながらどよ~んとした場は延々続いてそういえば昨日は土曜日なのでした。<チーン♪>
 

はいここからが本題。

そんなどよ~んな大人ミーティング後、洗面所の床に座りこんで歯を磨いていたら、みっちゃんが隣りに座りました。
みっちゃんは、現在介護ヘルパーとして介護老人保健施設に働きに出ています。(以前の記事「みっちゃんの想い」をご参照ください。)「すぐ忘れちゃう症候群」になるのは、やっぱりなぜこの生き方をしているのかが自分の中で腑に落ちてないからかねぇ、と話し合う中で、みっちゃんは今自分が感じていることを語り始めました。
 
毎日施設で、死が間近に迫ってきている人たちを見ている。
体のあちこちが痛いという人がいる。病気で苦しいという人がいる。鬱になっている人もたくさんいる。痛い、苦しい、と言って、迷いの中で死んでいく。
木の花では、痛みや苦しみを、メッセージとして受け取る。その痛みを通して、もっと大きな何かに気付かせてもらうために、そこから学んでいく。学んだ時、そこには喜びが生まれる。そしてその喜びを、みんなで分かちあう。
施設の人たちにとって、痛みは痛みでしかない。その人たちを目の前にして、自分にできることはないだろうか、と思う。だけどどんなに言葉で語っても、私には痛みがないから、相手は「あなたにはこの痛みはわからない」となるだけ。言葉が大事なわけじゃない。ただ自分がそこにいることで、相手が自然と何かを感じて、その結果痛みが和らいでいくような、そんな存在になろうと思う。

だから私は、毎日ここに帰って来る。みんなと接し、人にとって本当に大切なものは何かを学び、そのエネルギーを自分の中に取り込んで、また次の日に施設に向かう。

施設のお年寄りたちの1日は、ご飯を食べて、お風呂に入って、時々リハビリをして、あとは自由。何をしてもいい、つまり、何もすることがないという自由。
することがないから、とりあえずテレビを見る。週刊誌を読む。折り紙を折る。職員はやることがたくさんあるので、相手をしているヒマがない。ご飯の支度も掃除も何もかもをしてもらって丸1日ぼーっと過ごして、入所したばかりの頃は自分で何でもできていた人が、どんどん何もできなくなっていく。どんどんボケていくのが目に見えてわかる。ボケの生産施設だ、と思う。でも同じような施設が、あちこちにどんどん建っていく。政治家は「自分は○件施設を建てました」と胸を張る。私が毎日見ている人たちの、何万倍、何百万倍という同じ境遇の人たちが、日本中にいる。

木の花の年寄りたちは、毎日忙しい。掃除に洗濯、料理に子育て、お花を活けたり漬物漬けたり「この人じゃなくっちゃ」という役割がそれぞれにあってみんなからあてにされて、働き疲れて大人ミーティングでは口あけて寝てたりする。だけど、誰もボケてない。「ありがたい」って言いながら、毎日楽しそうに、せっせと働いている。

ここ(木の花)では、それが当たり前のように暮らしてる。施設の現実を目の当たりにしながら、その当たり前のことがどれだけ大切なことかを、感じている。
外に出れば、私は一人。何もできなくて、無力感にさいなまれる。でも、だからこそ、たとえ一人でもここが大事にしている「心」を表現できる存在になろう、と思う。

みっちゃん
みっちゃん

 
みっちゃんがそう語っていると、こはるちゃんがやって来て隣りに座りました。
看護師として訪問看護の仕事をし、同じく人生の終末を迎えた人たちと日々接しているこはるちゃんも、みっちゃんの話を聞いて語り始めました。
 
仕事をしていて、日々矛盾を感じている。今の医療は、傷口に絆創膏を貼るような対処療法。症状に対処するだけで、根本的な解決にはなっていない。
もっと本当の意味で人のためになることができないだろうか、と思う。同じように思っている人も職場にいるのに、その思いが活かされない。どこかで割り切らなければ、仕事ができない。

矛盾を感じて自分の意見を言ったら感情的になってしまったり、まだまだ未熟。こんなできていない私に言われたくないって思う人もいるかもしれない。だからこそ、職場での自分と日常の自分を一致させていく。そしてそれができるのも、ここの暮らしがあるからだと思う。
そう思って帰って来て大人ミーティングに出たら、自分はできていませんでしたって反省モードになって自分ごとにはまってる人がいっぱい。そんな自分の反省にエネルギー使うくらいなら、自分は人のために、社会のために何ができるかって考えたらいい。

こはるちゃん
こはるちゃん

 
と、こはるちゃんが語っていると、さっちゃんがトイレに起きてきました。
このブログにもたびたび登場するさっちゃんは、一昨年乳ガンであることがわかって以来「はたして人は心が変わればガンが治るのか」人体実験に取り組んでおり、上がったり下がったりしながら日々ガンから学び、「ガンになってよかった」といつも言っています。
こはるちゃんの隣りに座ったさっちゃんは、寝ぼけ顔のまま黙ってこはるちゃんの背中をさすっていました。そして、苦しんでいる患者さんたちに何ができるかと話し合うみっちゃんとこはるちゃんの話を聞きながら、『ガンのすすめ』っていう本でも書こうかな、と笑ってました。

さっちゃん
さっちゃん

 

そんなこんなで、洗面所の床に座り込んで語る女子4人。時刻は夜中の2時。
 

ともこ
ともこ

 
みっちゃんも、こはるちゃんも、さっちゃんも、自分の中から湧き上がってくる想いがあるんだって言います。人生の終末を迎えた人たちと接してみて、自分自身が病気になってみて、この生き方が本当に大切なんだということを、ひしひしと感じている。だからただ、その生き方を実践していく。
そしてそれが必要かどうかを判断するのは、社会です。時にあやしいカルト団体などと批判されたりもする木の花ファミリー。いくら自分たちがこれが大切だと思っていても、ひとりよがりじゃしょうがない。そもそも自分たちの満足のためにやっていることではないので、社会から必要ないと判断されれば、消えるだけなのです。
 

そういえば、今日は日曜日。
どよ~んな土曜日は、去ったでー(Saturday)。<チーン♪>
 
 
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そんな木の花ファミリーには、何十年も服薬したり病院から「一生治らない」と言われるような心の病を抱えた人たちが短期間の滞在で回復していった事例が数多く存在します。
人はなぜ病気になるのか。そしてなぜ回復するのか。そもそも病気とは何なのか。
そんなことをテーマにした1日限りの「出張木の花塾」を、5月17日(日)に千葉県の船橋にて開催します。これはおもしろいですよ~。世界観が変わります。どなた様もどうぞお越しください!

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みっちゃんの想い 〜 老人ホームで働いて

新年明けましておめでとうございます!

今年最初の木の花ファミリーブログは、現在介護ヘルパーとして老人ホームで働いているみっちゃんが、新年を迎えるにあたって綴った今の想いをご紹介します。

爽やか笑顔のみっちゃん。同じく老人ホームで働くあっちゃんと一緒に。
爽やか笑顔のみっちゃん。同じく老人ホームで働くあっちゃんと一緒に。

 
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私は、木の花に来る前の今から12年前、実家の横浜で介護老人保健施設のデイサービスで働いていました。もともとお年寄りが好きだったことや、これから先、長く続けていく仕事として、福祉関係は自分に合っている気がして選んだ仕事でした。

デイサービスは、通所サービスともよばれ、それぞれの自宅に利用者さんを送り届けるのですが、その際に、家族の様子がよく分かりました。核家族が増え、家族の中だけでお年寄りを看るということは、難しくなっていることを実感しました。
また、仕事を続けていくうちに、いろいろな葛藤が生まれてきました。例えば、トイレの時間が決まっていて、トイレの前に並ばせることやお風呂場に並ばせること。リハビリと称して、機械を使って、もくもくと体を動かしていることなどです。

施設の中に温かさを求めていた私にとって、何か違う、物足りなさ、さびしさのようなものを感じていました。特に、リハビリについては、もっと、お年寄りに馴染みのあること、普段の生活の延長にあること、例えば、畑に出て、土をいじったり、作物を育てたりなど、結果としてリハビリになることがいいなと思っていました。
私自身、畑をやってみたい、作物を育ててみたいという思いがあったこともあって、一度仕事を辞めて、農家さんに1年でも研修させてもらおうと思い立ちました。そこで、全国の有機栽培で農業をしている農家さんを紹介している本から、その当時、研修先を募集していた“木の花農園”と出会ったのです。

12年前、当時創立メンバープラス3、4名の20名ぐらいだったと思います。血縁を超えて子供からお年寄りまで共に暮らす生活がすでにそこにありました。この生き方がとても大事だと直感しました。1泊でどんな所か見学に来た時、食事の時でも、畑でも、どこででも、皆が心の話し、この世のしくみの話をしてくれました。

“人は学ぶために生まれてきた。”
“土も水も空気も自分もみんなつながっていて一つなんだよ。”

“何のために人は、生きているのか。”
いつも不安や悩みを抱えていた私でしたが、“そうかー、やっぱり生きる目的があったんだ”と、自分のこれからの人生においてやるべきことが分かって、本当にうれしくなりました。

収穫隊として働くみっちゃん
収穫隊として働くみっちゃん

移住当初、私は、野菜の収穫を担当していましたが、ファミリーの知り合いの福祉関係の人材派遣をしている方の勧めで、福祉の仕事の経験を生かすことになり、ファミリーで暮らしながら、老人ホームで働く機会を頂きました。

その施設は、職員が一度に20人近く辞めてしまい、人手がなく、困っているということでした。
そこでの状況は、常に職員が足りない状態で、正職員の人達は当たり前に毎日の労働時間が3時間から5時間の残業をしていました。共に働く職員の様子をみると、ちょっとのことでいらいらしたり、集中力が切れてしまったりしていて、精神的ストレスを抱えていることを感じました。職員のストレスが、虐待にまで及んでしまっていても、人手が不足しているために、その職員を辞めさせられない現状もあるようでした。実際、お年寄りへの事故が多く起こっていました。
こういった状況を立て直そうと試みる人たちがいましたが、結局、経営者側が現場を知ろうとせず、状況が変わっていかないため、あきらめて、辞めていってしまうケースが多かったです。

人材が増えない理由は、上の立場の人が職員を大事にしないこと。人材を育てていくことより、利用者を増やすことばかりに意識がいっていることに問題があったと思います。結局は、お金儲けが優先されているように感じました。これから、高齢者は増え続け、施設も比例して増え続けるでしょう。でも、その中に暮らす人々や関わる人々の心の状態は、とても豊かで、幸せなものとは、言えません。今の施設が抱えている問題の現状をみせてもらっているなと感じました。  

現在私は、自宅から近くにある老人施設で働いています。
私が、最初に入った時の一番の驚きは、全室(部屋にもトイレにも)に鍵がかかっていて、さらにY字帯といって、車いすにしばりつけて拘束をされている人が5、6人はいたことです。夜間に、ベットに体を縛られている人も2人いました。
拘束をしていなくても、転びやすい人が椅子から立ち上がると、その度に座らせています。お年寄りがなぜそういった行動をするのか、その原因をみていません。ただ業務として相手と接すると、その人の心を分かることはできません。どういう心で接しているのか、お年寄りも敏感に感じているものです。
本当にその人にとって必要なことが何なのかを思う心が足りないのだから、ただ、もっと心を感じることを大切にしていけばいいのだと思います。それはお互いを思いあえる心です。皆の気持ちが同じ方向にむいていれば、いつでもベストな対処法が、どこからでも浮かんできます。

本来、施設はレクリエーションやリハビリなどを通して、お年寄りを活性化させる場でなければならないけれど、この施設では、職員の人員も少なく、意識も低く、そこまでのことが出来ていない現状です。食事の提供、入浴や排泄の介助といった生活において最低限のことだけで終わっています。1日の大半の時間は、テレビをボーっと見ているだけで、何もすることがなく時間をもてあましたまま過ぎていきます。 “こんな施設、すぐにでも出ていきたい”という言葉を何人もの人に聞きました。

でも、そんな場所に入れられてしまった自分がいる。今の自分の状況は、今まで自分が生きてきた結果です。だれのせいでもありません。

今、この施設で日々どんなことを感じながら生きているのか。その人に接してみると、その人の今までの生き様がみえてきます。
どんなにお金持ちで、苦労なく、ぜい沢に生きてきた人でも、人生を締めくくる最後の時に、自分がどんな状況を与えられているかをみると、自分の意思に反して施設に入れられ、孤独を感じている人も少なくないのです。
同じ場所に暮らしていても、その人の心次第で、有難い場所にもなれば、地獄の場所にもなってしまいます。全ては、自分の心が作り出している世界なのです。
だからこそ、年齢など関係なく、だれしもが、今を大事に生きることが大切なんだと感じています。今の自分の心のあり方が、確実に未来の自分を作っています。そのことさえ分かれば、だれでも、今からすぐに変わっていくことができると思います。

今ある老人施設は、当然、介護する側、される側という関係がありますが、その意識がそこにいい場をつくらない気がします。常に与える側、与えられる側ではなく、一人一人が、お互いに楽しい生活の場を作っていこうと思えば、豊かな場所になっていくのではないでしょうか。一方が与え続けることは、結局、対処療法になってしまうと思います。

“人生の最後をどんな風に生きたいのか。”
 お年寄りそれぞれに、思いがあり、話しをしてくれます。心の触れ合いと充実した価値ある生活を送ることを望んでいるのを強く感じます。
お年寄りの年の功で、周りに提供できることはたくさんあります。たとえ体が不自由でも、それを個性として、周りにお世話をする機会を与えてくれています。それは役割の違いだけだともいえます。
もっともっと生かしたいのです。外で働く機会をもらい、人が生かされていない現場を目の当たりにして、そのことを、より強く感じています。

“人の幸せって何だろう”と思います。
本来、人は働くこと、“はたを楽にすること”が生きることなのです。自分のためではなく、世の中のため、人のために貢献することで、心が満たされ、生きがいにつながります。

私自身、木の花に出会って、それを実践できる場所を頂いているからこそ、本当に心からそうだと思うのです。自分が、自分が、と自分の損得ばかり考えていたころは、本当に苦しかったです。何かを手に入れても、いつも空虚感がありました。
今は、自分のことを考えなくてもいい、楽な気持ち、自由を感じます。
これから先、いつまで生きるかも分からないけれど、老後に起きるかもしれない病気や災難などに対して、人は不安や心配に思うわけです。家族なのか、施設なのか分からないけれど、人に看てもらう、世話になることが前提にあっても、やはりお金の問題があります。お金が全てではないけれど、それを頼りにして、そのために仕事をしている人が多いと思います。
ストレス社会の中で、ストレスがあることが当たり前というけれど、実際に何にストレスを感じているのか、その原因は何なのか、自分の心のどこから来ているのか、そこまで考えが及んでいなかったり、その実態を分かっていても、それを解決しようというところに至っていないだけです。客観的に自分の心が見えれば、案外、何だそんなことだったのかと思うぐらいなことでもあると思います。

私は同じ職場で働いていても、ストレスなく、充実した毎日を過ごしています。
自分の感じた思いを正直に相手に伝え、問題事から自分の心を振り返る。そこから学ぶ意識を持つと、自分では、悪いことと思っていたことも、実は、いいことに変わっていく。本当に有難いことになっていく。
私がやっていくことは、日常の中で、そういった心の姿勢を表現していくことなんだと思っています。

血縁を超えた大家族の暮らし
老いも若きも共に暮らす大家族

私は、お年寄りだけで暮らす生活ではなく、いろんな世代の人が、調和の中で助け合って、共に生活することが自然なことと思っています。小さい子供がいて、青年がいて、おじいちゃんやおばあちゃんがいて、それは、血縁に限らず、血縁を超えても、実現できる家族なんです。不安や心配などいらない、安心の世界です。
「私の家族は、80人の血縁を超えた大家族だよ。皆で共に助け合いながら、たくさんのことを共有して、調和の中で暮らしているんだよ。喜びも100倍なんだよ。」とお年寄りに話をすると、興味深そうに、いろんな質問をされます。
「そんな天国のような所が、本当にあるのかね。信じられないよ。」とも言われました。
自分を忘れて、みんなの事を思い、みんなの為に生きること。誰の心の中にでもある真実に目覚めれば、だれもがつくれる場所なのです。
実際に、私が暮らしている木の花ファミリーは、それを実現している“菩薩の里”です。

高齢者の施設は、どんどん増えていっています。実際に高齢化が進むのですから、当然の流れでしょう。
ただ、私は、形をどうするのかではなく、もっと、そこに暮らす人々同士の心が豊かで、通じ合うような、そんな場所が広がっていったら、と思っています。
 
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今年もよろしくお願いします!
元旦のおせち料理を食べながら、血縁を超えた家族たちと一緒に