ミノナライ

日本には、「見習い」という言葉がある。
これはとても意味が深い言葉だ。

この言葉は、カタカムナで言う「ミノナライ」から来ている。
くり返し、くり返し、行を重ねて、細胞にしみこむまで
身につけていくことを言う。
その中から、正しい方向性をつかむ「直観」が磨かれていく。

熟練した職人についた弟子は
見習い期間のうちに、師匠の一挙手一投足を真剣に観察し、
師匠の技を学び取っていく。

日本には「一を聞いて十を知る」
という言葉がある。

それは
師匠に説明してもらって分かるのではなく
相手の心や、言わんとすることを読み取り
これからすることの気配を感じ取ったり
技をみて盗んでいくということ。

瞬間、瞬間が真剣勝負なのだ。

いさどんが畑に出ていた頃
畑作業の現場は、まさにこういう「ミノナライ」の日々だった。

いさどんは、
少なくともメンバーと一緒に仕事をするときには
多くの説明をしなかった。

いさどんの手元をするものは
いさどんが、これからしようとすることを
全神経を傾けて読み取る必要があるし
次に自分で出来るよう
真剣に学び取って、身につけていく必要がある。

その動きを真剣に見なければ
適切な行動を取ることは出来ない。

余りにも勘が鈍いものは
仕事拒否をされることもあった。
私も仕事拒否をされたことがある。

ある日のこと、畑でいさどんと作業をしているときに、
いさどんがして欲しいことが分からずに
「もうだめだ」と投げだそうとしたことがあった。

そのときにいさどんから
「そこでそうなるからダメなんだ」と言われ、
それもそうだと思い、気を取り直して作業を続けたということがある。

人は勝手に自分で限界を設定し
それを超えられないものにしているが
自ら設定した限界は、超えることが出来るのだ。

又こういうこともある。
いさどんのために配慮として取った行動に対して
後で「無駄なことだ」とか「嬉しくない」言われることがある。

ある日の畑で、私が取った行動は
不安をベースに考えた結果だったので、直感が働いておらず
的外れの行動になってしまったのだ。
そのためにぐるぐる回した思考も、取った行動も無駄なことだった。

「先を読む」「言われてからやるのでは価値がない。」
ということも、いさどんはよく言う。
自ら先を読むことが求められるのだが、
自分の思考にはまりこんだ状態では
相手の心や物事の流れを感じ取ることは出来ない。

心に曇りがある人間は、知らず知らず、日々的外れなことをしている。
その的外れを、作業の現場で教えられる日々だった。

今でも、いさどんと会話すると「何故そう思うのか?」と、
何気ない会話の中で問われ、答えられなくなることがある。
安易な思考と、安易な言葉遣い、そして安易な行動というように
物事はどんどん安易な方向へ流れていく。
そういう安易さをいさどんは見逃さない。

こんなふうに、心を細かく見られたらたまらない
と思う人もいるだろう。
世間だったら、人によっては、いさどんのことを「なんて横暴な人」
という判断を下す人もいるかもしれない。

けれども、安易な思考をし、言葉を発し、行動をとり続けてきた結果
人は、自分の人生を行き詰まらせる。
そして、そういった人がたくさんいることの延長に
地球上には山積みの問題が展開されている。
殆どの人が、それが自分たちの安易な思考と言葉と行動の結果とは思っていない。

もともと日本には
師匠に弟子入りしてそのそばにいて、聞いておぼえるのではなく
自ら読み取って身につけていくという鍛錬の方法がある。

ある雑誌の記事に、カナダ人の落語家「桂三輝」のことが載っていた。
彼は、桂三枝の創作落語を見てそれに惚れ、弟子入りしたという。

「三年の修行期間中、師匠の部屋やトイレを掃除しながら
朝から晩までべったりついて芸を盗みます。

落語の修行は非常に大事。人間が変わると思う。
師匠が言わなくても、「今コーヒーがのみたいのかな」と気付かないといけない。
「コーヒー入れて」という言葉を待っていたらアウトで、
言葉のないところを探さなくてはなりません。

そうして修行が終わって、師匠の空気を読めるようになったら、
落語をやるときにお客様の空気も読むことができるという考えかたなんです。」

この記事を読んだときに、
「いさどんのそばにいる人たちがしていることは、まさにこういうことだ。」
と思った。

「自分というものをわきに置いて、まず相手のために行動する。」
いさどんが、私たちにいつも言う言葉。

いさどんはそうやって、周りにいる人の心をつくっている。
細胞一つ一つに染み渡るように、
そしてエゴが削ぎ落とされるように
身をもって示し、良心に語り続け
根気強く私たちを導いてきた。

かつて私は、世界の平和を思って世界平和の祈りをしていた。
けれども、木の花へ来て、みんなで暮らしてみると、
実際の生活の中で、自分の事ばかり考えていることが徐々に見えていった。
こんなに自分優先で生きていたのかと思い知る日々だった。

自分優先で物事を進めようとすると必ず滞りが起こる。
自分をおいて他者の為に動く、それを働く(ハタラク)というが
こういったことを、実践するよう「ミノナライ」の手法で
全細胞に染み渡るよう、日々育まれていたのだ。

その先に何があるのかというと、
一人一人が直観で物事を受け取る様になると
議論したり、細かい段取りをしなくても
物事がスムーズに運んでいく世界が展開する。
それが木の花の合い言葉「阿吽」なのだ。

スポーツの世界を見ても
日本では「柔道」「剣道」というように「道」がつく
こうした「道」と名がつくものは、「練習」ではなく「稽古」を積むという。
6月のカタカムナ研究会で、はが兄がこのことについて語った。
稽古(ケイコ)とは、練習とは違い、一瞬一瞬が真剣勝負なのだという。

「ミチ」をカタカムナの短音で解くと
身(ミ)にカムミ(ミ)が持続(チ)すること。

カタカムナ人は、
「ヒ」から始まり、
「フ」で震え、陰陽「フタツ」に別れたものが、
「ミ」で満(ミ)つってエネルギーとして中身(ミ)が充満し
「ミ」から始まり「ミヨイムナヤコト」と発展していく経緯をミチと言った。
これを学んだ中国人は「ミチ」という言葉に
「道」という字を当てたのである。

また、「ケイコ」を短音の思念でひもとくと
相手の位置(イ)の気配(ケ)を心で感じ取るまで、
くり返し(コ)そして超えて(コ)ゆく事。

「ミノナライ」とはまさにそのことで
日々の一瞬一瞬が真剣勝負なのだ。
その積み重ねの中で、自分というものを超えていって
ついには、
神業を会得するところまで人は行くことが出来る。

いさどんのいただきます人生ブログ「疫病神も逃げていくヒビキ」には
次のようなことが書かれている。
 
   ◇ー◇ー◇ー◇ー◇

あなたの癖は、「自分なりに」ということ。
でも、その「自分なり」を超えないと、新たな自分は生まれてこない。

人というものは、
自分なり以上のものを求められると、苦痛に思うものなんだよ。

しかし、自分なりに生きてきた結果、
たとえばそれが良いことならそのまま進めばいいのだけど、
そこに何か問題事があるとしたならば、
それは自分なりに生きてきたからなんだよ。

ということは、
その「自分なり」を変えることが、次のステージに進むことになる。

地球は、
変化・変容・変態を繰り返しているのだから、
「自分なり」なんて、
そんな固定された状態はないんだよ。

しかし、
そういったことを客観的に捉えられていないから、
自分なりに、
自分にとって心地の良い状態を常に保とうとするんだよ。

    ◇ー◇ー◇ー◇ー◇
 
「自分なり」という言葉を人はよく使う。

「自分なりにやってみます」
「自分なりに頑張ります」

日々身に起こる「自分なり」に対する答えである現象が
多くの場合、問題となって発生し、人は悩み、苦しんでいる。

いさどんが生活の中で「ミノナライ」として私たちに伝え続けているのが
この独りよがりの「自分なり」を超える術なのだ。

カタカムナでは、「ミノナライ」の結果、心の波動量が上がっていく。
それが、天の心、つまり「カムミ」を感受できるよう、
直観を鍛錬するという道なのだ。

直観を鍛錬する方法として、
木の花では日々の生活の中で、
まず自分をおいてみんなのために「ハタラク」
というケイコを積んでいる。

先に神技を会得している師匠について
いずれは自らがその域に達するのが
かつての日本の職人の世界だった。

今は、そういった師匠について
ミノナライの体験を積むのではなく
誰もがインスタントに出来るように、
均一なマニュアルに沿って仕事をするという風潮がある。

マニュアル主義は、現場で起こる様々な出来事に
臨機応変に対応できないという現象を産んでいる。
それは、直観が働いていないということだ。
そんなことが、今、いろんな現場で起こっている。

医療の現場、教育の現場、様々な生産の現場 ・・・ 等々

「自分なり」というひとりよがりや
考えずに済む「マニュアル主義」を超えるには
一人一人が真剣に天に語りかけ
真剣にその場に向かうことが始まりだと思う。

その事をやり続ければ
それは細胞に染み渡っていく。
細胞に染み渡った学びは
いつか時が満ちて、その人の個性となって花開く。
そうして、必ずその場にふさわしい答えを出せるものになる。

だから、日常の一コマ一コマを宝石のように大切に、
自分のためではなく、周りのために生きる。

いさどんが、みんなに伝えてきた大切なことが
カタカムナの学びと共に
ああ、あの時のあれがそうだったのかと、
一つ一つ甦ってくるのです。
 
 
 


第二回カタカムナ研究会レポート

4月20日、21日の二日間に渡って、第二回カタカムナ研究会が行われました。
今回は外部からの参加者は9名、木の花ファミリーメンバーが5名、木の花長期滞在者が3名の合計17名が参加しました。

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■ 初日
初日は、まず冒頭でいさどんから「なぜカタカムナが今の時代に必要なのか」についての話があり、それから世界観を広げるために、太陽系の惑星の動きをCGで描いた『The helical model – our solar system is a vortex(通称ヴォルテックス)』という動画を二本みました。
冒頭でいさどんは次のように語りました。

「今この時代にカタカムナが何故必要なのかというと、社会は今、地球規模で物の豊かさなどといった一つの方向の価値観へ固まっているところがあります。
かたや、人間の活動が本当に人々に幸せをもたらしているのかというと、格差や競争社会の中で矛盾が生まれ、そんな中で人間の中にも社会のあり方がこれでいいのかという疑問が出てきています。
これほど時代が進化して豊かになっているはずなのに、生命として生まれてきたものには本来新しい命を育み未来へつないでいくという意欲があるものですが、若い人たちの中には将来に希望がもてず、結婚するとか子供をもうけるといった未来に対しての新しい意欲が生まれない、という現象が起きています。これは今の社会の中に矛盾があるので、人間の意識の中に当然のように、そういう現象が起きているのです。

今年2015年も、もう一年の1/3が終わろうとしていますが、これは地球が太陽を1/3まわったという捉え方もできます。1日が経つということは地球が一回転することであり、地球が365回自転して太陽の周りを一周します。太陽自体が銀河という星の集団の中で2億2600万年かけて周っているといわれ、その太陽は、螺旋を描きながら秒速19.44㎞で銀河を旅しています。螺旋を描いている太陽の周りを、地球も他の惑星も周っています。螺旋を描いて周っているものの周りを周っているのですから、コイルを描いていることになります。地球の年数で言うと25800年かけて太陽は一螺旋を描くのです。

今我々がここで学ぼうとしていることは、カタカムナという古代宇宙物理学です。これが日本列島にあったのは12000~13000年前と言われ、この数字は倍にすると26000年です。太陽が9000回弱螺旋を描くと、2億2600万年かけて銀河を一周するのですが、そのたった一螺旋、それが25800年で、その半分が12900年です。
そんな太陽が銀河の中心に対して2012年12月21日に冬至の位置に来ました。冬至とは最も光が弱いときであり、現在はそのピークを過ぎたのです。これは天文学が発達し宇宙が観測されるから解ってきたことで、カタカムナの時代の人には解らないことでした。カタカムナは、その冬至に対して反対の最も光が多い夏至の時代に栄えたものです。そこからカタカムナは衰退してきて、今、衰退のピークにあります。ですから、これからカタカムナ宇宙物理学が復活します。

私たちがこうして生きていることは、一日がたって、一年たつと年を取り、それに80回つきあうと寿命が来るのですが、たった80回太陽の周りを周っただけなのです。太陽が一螺旋する間に地球は太陽を25800回も周るのです。25800年に対して80年なんてほんのちょっとです。そのほんのちょっとのところで一瞬を区切って、私たちはこの世界がこうだと認識している。ものすごく長い歴史の中で、ものすごく無限の可能性の中で、この一瞬だけを区切って見ているのです。
今の時代は、過去のことや未来のことや宇宙のことが観測されるようになったので、体験しなくても解るようになりました。
私たちはたった80年しか生きていないのに宇宙創造の始まりから、そこにつながる始まりもなく終わりのないこの世界の構造を理解して生きるという智慧を地球上にいながらにして得られるようになりました。そういった叡智をひも解く存在がカタカムナの智慧なのです。そして、人間はもともとそういった可能性を持った生き物なのです。そんな生き物は地球上に他にいないのです。過去から未来まで読み解いてしまうような、こんな複雑な生き物として私たちは存在しているのですから、大変特殊で優秀なはずなのです。

ところが実際人間達が今の社会で感じているのは何だか生きづらいとか、変だなとか、それどころか実際人間同士が争ったり、環境が汚染されたりという問題をいっぱい引き起こしているのですから。人間が本当に尊い者として豊かさを享受しているかというと、残念ながらこのような豊かな時代にまだまだ人間の社会には実感として湧いていないというのが実情です。

昨日どこかで一日の降雨量が130ミリを超えて観測史上初めてとテレビで伝えていました。長い地球の歴史の中ではもっと激しいときがあったのでしょうが、今の時代においてこういった現象は、人間に何かのメッセージとして返ってきているのではないでしょうか。何万年、何億年というもっと長いサイクルの中で、我々は今の時代を受け継いできて次に繋げていく役割のはずなのに、人間は今だけを生きています。動物や植物は自我を持たず、そのような能力がないからこそ今を生きて次へつなぐ役割を十分に果たしているのです。それに対して人間は自我を持つがためにエゴが強くなってしまい、我さきになって天然の法を逸脱することで幸せになれるような大きな勘違いをしています。

私たちは21世紀に訪れた25800年ぶりの銀河の冬至を迎え、人類はどこへ行こうとしているのかを想い、木の花のような生活を提唱しています。それで古代カタカムナの生き方がこの時代に復活したのだと思っています。ですから、私たち人間にはカタカムナをひも解いて、私たちが個人にどのように古代の叡智を反映させ、矛盾をたくさん生み出した人間社会から人間の本当の在り方はどこにあるのかを学んで、本来の宇宙の法に繋げていくことが求められているのではないかと思います。これから少しでもカタカムナの考え方、生き方を生活に落とし、それを復活させながら、その昔に戻るということではなく、新たな時代をその叡智を使ってより健全に、真の豊かさに役立てることが大切なのではないかと思います。私たちはこの場をそういったことを探求したいという事で前回からカタカムナ研究会にしましょうという提案をしました。」

そしてヴォルテックスの映像をみんなで見てから、芳賀兄(はがにい)の講義に入っていきました。まず、芳賀兄は、人類の発祥当時から現在に至るまでの変遷について語りました。

はがにい
芳賀兄

 
人類の発祥から進化と退化の流れ
 
<人類の発祥>
100万年前の頃、人という種類のグループは、サルとは明らかに違う感情や意志を持っていた。人間には感情や感受性を受け取る器官が、全身の細胞、特に胸にある細胞の細胞核の中の中空の周りにあり、それ故に独特の進化を遂げていった。当時サルはボディーランゲージで感情や意志を伝えた。それ以上の脳の進化はなく、今も同じ方法を使っている。
動物は寝るか食べるかが基本の行動パターンだが、人間は他の動物に比べ肉体的に弱く、戦いを挑まない種であった事もあり、弱さをカバーするために脳を使い、エサの確保のために他の動物がエサをどこに隠すのかとか自然の様子を観察した。また、厳しい自然環境のなかで危険回避のために直感力が働くようになっていった。100万年から50万年前にいろんな種類の種が登場した。同じ食べ物ばかり食べて食べ物アレルギーになって死んでいった種もある。その中でも一番臆病で弱い種類の人間が我々の先祖。多くの戦う種は死滅していった。そして私たち人類は、
観察  思考  直観力
この三つを駆使して生きていた。
 
<食べることに苦労しない時代>
人間は、自然や天体の動きを観察し、感受性を研ぎ澄ませていった。自然と対話し通じ合えるようにまでなり、水はどこにあるのか、エサはどこにあるのかがわかるようになった。太陽や月の動きを観察して、その動きと、食糧の確保とを結びつけていった。
そのうちに、自分たちの生活を絵画にして後世に伝えるという行為が発生し(3~4万年前といわれる)、それから文字に変化した。
 
<世界の仕組みを考察する>
自然、宇宙に意識を通わせるうちに、純粋な直観力を得るようになった。その結果、動く世界(ある世界)の奥に動かない世界(ない世界)があるのではないかという考察が生まれた。この当時の脳の稼働率は今よりずっと高く、脳の進化と肥大が起こった。
 
<楽をして生命活動を維持する方法を考えるようになった>
様々な技術 農業、食料保存、料理、建築、衣類の制作、治療等が発展した。
その時代には、直感力+観察力+思考能力+創造力がフル活動していた。
 
<人間の脳の退化・直観力の退化が始まる> 
しかしその結果、楽をする事の方が優先になってしまい、人間に我欲が発生し、自ら考えず、働かずという人間が増えていく流れがおこった。
特に産業革命以降、人工が爆発的に増加し、徐々に自然に負荷をかける暮らしになっていった。特に1950年以降から環境破壊が急激に進み、そのことが異常気象や天変地異等を生み出している原因の一つになっていると考えられる。
コンピューターの発明と共に、人間は脳を休ませるようになり、楽をして、お金で全てを済ませ、自ら働かない人が増え、全身の細胞で世界を感受する能力が衰えていく。働く中から技を身につけて生きる術を失い、危険回避の生命カンも衰えていく。今現在そのピークにある。
 
<宇宙のバランスが崩れていく>
人間が自然と対話しなくなり、自然の摂理を十分に理解出来なくなってしまった結果、地球がバランスを欠く事になった。それは地球だけでなく、太陽系のバランス、銀河系のバランス、宇宙全体のバランスに影響する。闇のピークを迎えた現代は、人間の行いによって大宇宙が大きくバランスを崩す可能性がある時代であり、その事を察知している魂が今生まれて来ているという。

 

物質の進化から、心の進化の時代へ

大雑把に、人類の発祥から進化、そして脳の退化の流れを見た。
人間の脳が進化して便利な物を生み出したことで、逆に人間の脳が退化し、休眠状態に入った。ここで少し考えてみたいのは、「便利になることは悪いことなのか?」ということである。

人間の中には、常に今より進化させようとする本能がある。歴史は、常に進化する流れの中にあり、物質の進化ということも当然その流れの中にあるとしたら、その弊害が出るというのも、流れであって、さらにその先へと進化する時が来たともいえる。

又、便利になるということは、仕事を効率化することでもあり、そこで空いた時間をもっと有効なことに使う事が出来る。実際、考えないものは、同じことをずっとやり続けるが、考えるものは、同じ仕事をしてももっと良い方法はないかと考え、問題があればその問題をどうやってクリアーするかと、常に考えている。大脳を使うだけではなく、働く中で「ミノナライ(身の習い)」といって、全身の細胞が磨かれていく。

人間を観察していると、人間の中には「進化しようとするもの」と、「進化するものに乗っているもの」の2種類あるように思える。「常に進化しようとする心」と、「進化しようとする者にただ乗っかっている心」には大きな違いがある。そして考え進化しようとする人の中には、「きれいな心」もあれば「悪い心」もある。

悪い心の者は、楽をして考えない者たちを使って、多くの食料を得て、ため込み、搾取する。又、動かずしてお金が入るシステムを考え出し、世界の金融を動かしているともいわれている。その少数の者たちによって、「考えない者」がさらに頭を使わなくなり洗脳しやすくなるよう、娯楽や、五感の刺激が与えられる仕組みが作られ、ほとんどの者がいつの間にか完璧に洗脳されているのが今の状況だろう。しかし、この悪い心も大局的に見れば、進化しようとしないものを目覚めさせるための刺激を与え続けているとも言える。

明治維新前の頃、人はまだ歩いて全国を回っていた。今は当たり前に自動車や電車に乗って遠くへ行くことができるし、飛行機に乗って外国へ行くこともできる。それまで手洗いしていた洗濯物を、全自動洗濯機がしてくれるようになった。それらは誰かが考え発明した結果である。考えた人が作ったものを享受していくのは良いのだが、そういった変化や進化の積み重ねの上に今現在の自分の生活が成り立っているという事実を認識する必要がある。「あることが当たり前」になっている今、便利さの上で、人は働かなくなる傾向にあり、世の中は、ニートや引きこもりが横行し、年老いていく両親と共に共倒れするかもしれないという危機も迫っている。この便利な日々が「ありがたい=有り難い」上に成り立っているという認識が無いのだ。

そう考えてゆくと、この身近な肉体という複雑な機能が自動操縦されているという事実や、地球が太陽との絶妙な距離を保つことで生命が生存することが可能になっていることの奇跡。宇宙の星々の運行と共に、時代が何か大いなる目的をもって自動操縦されているという事実。挙げればきりがないほどの生命のバランスと奇跡の上に、私たちは生きている。そういった気づきが人の心に感動を起こす。「あって当たり前」という感動のない冷めた心の人々が横行し、楽だけれど面白くない人生を生きて、多くの心の病が発生している。それが現代なのだ。

歴史の流れから言って、人間は物事を進化させてゆく流れの上にあるとしたら、物質的進化がピークに達した今こそ、やっと精神や心の進化に取り組む時代が来たということができる。だとしたら、今までの流れは否定するものではなく、「やっと心に取り組む時代が来たね」と言って、みんなでそちらの渦に乗り移っていけばいいのだ。この世界は、変化することが安定の元であり、時は常に回りて巡り、渦巻いて次々と時の渦がやって来る。その渦に乗り遅れないよう、直観力を磨く事が大切なのだ。

 

菌の話から想いの話へ

人間の自然破壊により自然がロックされるという事例は、「風の谷のナウシカ」に表現されていると芳賀兄は言う。ナウシカの中に出てくる「腐海」と呼ばれる菌類の森は、人間たちによる最終戦争によって汚染された大地の毒が植物によって浄化されることで世界を再生するシステムである。しかし、人々は猛毒の瘴気を放つ「腐海」の浄化システムを理解できず、バランスを崩した状態でロックされた大自然の中で生きている。

前回も菌の話があった。菌に限らず、大量に出る花粉に対するアレルギー、様々なウイルスによる感染症が流行る度に、そして花粉が飛ぶ時期になる度に、マスクをし、予防接種をし、手洗いうがいをこまめにしてと、戦々恐々として物理的対処療法を行う。その結果、感染症や花粉症が減るのかというと、減るのではなく増えているのが現状だ。

医療の現場でも同じ事が起こっている。医療が発達して病気が減るのかというと、難病奇病が増えていく。病気というものがどうして発生するのかという、本当のメカニズムを知らなければ、病は増えるばかりである。

人はこの世界の仕組みを知る必要がある。人間がこの世界に無知であるがために、自分にとって都合の良いことばかりしてきた結果、自然界がバランスを崩している。自ら自然や身体のバランスを崩して、その事で困っているのだが、自然界のバランスを自分たちが狂わせたという意識も殆どの人が持っていない。

菌やウイルスは常にどこにでも存在していて、その菌・ウイルスによって発病するかどうかは、菌・ウイルスにとって都合の良い環境であるかどうかにかかっている。マスクをしても菌やウイルスはマスクを通して入ってくる。芳賀兄によると、菌は半物質なので活動する必要性のない環境では眠ってしまうのだという。その事例として光合成古細菌がある。これは非常に有効な細菌だが、長年の農薬等の激しい使用によって、現代では土の中で眠っているのだという。

菌やウイルスをシャットアウトするのではなく、菌やウイルスと共存し、意識を通わせ、必要がなければ眠らせたり、必要ならば活性化させたりする事が出来るという発想がカタカムナの発想である。菌や微生物は、人間のココロに反応している。菌やウイルスに感染して発病したら発病するようなココロの状態である事を認識する事が大切なのだ。菌やウイルスは人間のココロの状態や、そのココロ故に作られる体の状態を教えてくれている。
 
 「ココロ」を短音の思念(一つ一つの音に秘められた意味)で解いてみる。

「コ」 九、「極限を超えて転がり出たもの」という意味。
ココノツとは超(コ)えて転(コロ)がり出て伸(ノ)した粒子(ツブ)。転がり出た小さい粒の意味から小、子、個の思念が生まれる。

「ロ」 水中に単細胞の藻類が発生して、時間と共にアミミドロのような多細胞多孔性生物に進化して、絽織物のような状態に発達していく思念。中空状のもの。

「ココロ」 転がり出た中空状の丸いもの。時間量、空間量の最小の粒子単位。アマの微粒子。心。
 
このように、カタカムナでは、ココロや想いも物理性でとくことが出来る。「ない世界」では物理性とココロや想いは切り離せない。全ての動きや行為に「想い」が乗っている。その想いは光よりも速く、想いの速さをアマハヤミという。
想いの速さ = 光の速さ × 10の64乗  
光は粒子が大きいので、他の原子にぶつかって、光を発生させる。光はこの現象界では最も速い物質だが、潜象界では最も遅い物質だという。想いの粒は光よりも小さく弱いので、ぶつからずに遠くへ届く。物質的波動が弱いほど遠くへ届く。

光の速さで進んでいたのでは、遅すぎてこの広い大宇宙を探究する事は出来ない。想いは一瞬で宇宙を駆け巡るほどの速さなのだ。であるならば、その心が、身近な体に大きく作用するのは当前のことなのだ。そして思いが頑なであれば、変化する自由な世界を、変化しない強固な世界に留めることもできる。

刻々と変化し続ける宇宙の中で、「自分は変わらない」と思っているその心を、変化進化させるという法則に沿って働くように、そろそろ私たちも「想いの力」を思い知って(ち~ん)、想いを浄化していくことに、重い腰を上げて(ち~ん)取り組む時代が来ている。
そんな頑なな重い想いを浄化することが、「心磨き」。
重い思いは思い切って捨てて、先へとんとんとんと進んで行こう。(ちんちんちんちん♪)
 
 

■ 研究会2日目 
 
63種の意味

まずカタカムナの80首のウタヒの中でも「世界を元気にするウタヒ」といわれる63首をみんなで三回歌いました。
芳賀兄は3.11の後福島の原発の放射能漏れを心配したお母さん達に、何か良いウタヒはないかと聞かれた時に、このウタヒを思いついたといいます。このウタヒは、治すのではなく、治すという行為にはエゴの心が含まれますが、そうではなく「あるべき姿に戻す」ことを歌ったウタヒです。タナゴコロとは医療技術や手当のことで、仏教では手のひらのことを「たなごころ」と言います。宇宙の縁(ヘリ)で盛んになっているカミの渦状の粒子を胸に集めて圧縮し、それが又手のひらから一斉に全宇宙に広がっていく様子が歌われています。

へ サカル カムミ ウツシツミ
ムネニ タナ マタ
オクソギ タナ ココロ ノセ

そして、カタカムナの講義に入る前に、いさどんが語りました。

「人間は自らが経験したことを自分の常識にして、いろいな物事の解釈概念として生きている。最近確信を持っていることは、私たち生命は変化、変容、変態を繰り返しているので、二度と今の自分であることは出来ないということです。
昨日から24時間たちました。地球は1秒間に30㎞移動し、それが24時間たつと259万2000㎞宇宙空間を移動している。ですから、この場所は遙か彼方にあるのに、私たちは同じ場所にいると思っているのですが、それは錯覚なのです。地球は太陽の周りを周っていると思っていますが、太陽は地球を引き連れて移動している。太陽は銀河の中心を回っていますが、銀河も移動しています。そういったことを考えると、私たちは生きている間に二度と同じ所には行かないのです。去年から一年が過ぎ、又同じ季節のサイクルが巡ってきたと人間は思っていますが、宇宙空間では二度と同じ事は起こらない。自分自身も生まれてから死ぬまで、もちろん死んでからも、二度と同じ自分には出会えないのです。その広大で永遠無限の旅をしている私たちは、そのことをまったく認識していません。固定概念に固まり、経験に縛られて次に向かうので、新しい瞬間に出会っても思惑が外れてそのギャップから矛盾が生まれることになります。だから、常に今を新鮮に生き、固定概念を外して今を観ると、新しい自分に出会えるのです。

ですから、私たちが地球や宇宙に存在することは、変化、変容、変態を繰り返すということですから、その事に抵抗する固定概念や自我で生きると、矛盾に出会うという仕組みになっているのです。その事が解って新鮮な気持ちで瞬間瞬間を迎えるようになると、人間はどんどん進化し変化するようになります。この状態が生命が最も生き生きと希望に満ちあふれる状態です。
昔、カタカムナの人たちは、毎日命が無くなるか無くならないかというせめぎ合いの中で新鮮に生きていたといいます。食べ物があれば喜んで、しかしない時もあるかもしれません。ところが、エネルギーが無駄なく研ぎ澄まされているので、それを探しに行く未来には希望があったのです。今は必要なものは与えられてしまって、あるものを得たらそれを守ろうという姿勢が強くなり、与えられると豊かになるはずなのに知らない間に物事に縛られ、希望がなくなっているのです。

僕は33年前にインドに行って昨年もインドへ行ってきました。33年前に会ったインドの子供達は、目がきらきらしていました。1日一食も食べられない子供もいて、とても貧しかったのですが、彼らから強いエネルギーを感じました。その当時日本へ帰ってきて見た景色は、道路に人が歩いてないということ。車しかいない社会でした。そして久しぶりにインドへ行ってきましたが、インドの人々はまだ日本よりはエネルギッシュですが、今のインドの人たちは「金、金、金」とお金を追いかけていました。何だかそれはどこかで出会ったような景色でした。昔はお金の概念がなく、食べ物を得るとか生活することが目的で生きていました。豊かさを追求した結果、何かが欠如している様な偏った状態に見えました。

今、日本人は生命力を欠いているかもしれません。だから子供をつくらない、結婚する気にもならない。最近、若いひと達の中には、異性とつきあうということも面倒くさいから友達でいたいという人が出てきているといいます。僕らの若いころには考えられないことですね。(笑)

そういう意味では古代カタカムナの人たちは本当に新鮮に毎日を生きていたのでしょう。それが鋭い感性を生み出していたということだと思うのです。今の満たされた時代に何を元に新鮮に生きて行くのかというと、心の探求です。これだけ物理的に熟した社会の中で新たな概念を人類はどこへ向けていくのかです。それは物理的開発よりも、人間の内面にある未知なる可能性を探究する時代が始まったということです。カタカムナの概念で心を磨いていくと、天から受け取る直観も、内から湧き出る直観もそれこそがいろいろな行き詰まった人たちの問題を解決していく時代だと思うのです。今日はそんなことを意識しながら芳賀兄に講義をお願いします。」
 
いさどんの話を受けて芳賀兄が語りました。

 

コトダマノサキアフクニ

カタカムナ人は「コトダマノサキアフ」生き方をしていた。言霊は人間同士という狭い範囲で通じ合うだけではなく、「万物万象、全ての事をなす」ということを彼等は実感していた。自然界の様々な音、風の音、水が流れる音、虫の声、木の葉が揺れる音・・・全てが言霊であり、固有の振動数を持ち、固有の響を発している。

みんなバラバラの感性を持ち、感じることが違うのが当たり前であって、その感じ方のメカニズムを伝えているのがカタカムナ80首のウタヒ。みんなで63首を歌ったら放射線の値が下がったのですが、放射線も色々あってそれぞれみんな周波数が違うし、ウタヒを響かせる側も音程が違ったり速さが違ったりみんな周波数が違う。そうした両方の違いが、ぴったり合えば波が打ち消し合って静まっていく。波が段々弱くなっていって休んでやがて動かなくなる。そういう状態を潜象界という。決して全部無くなるわけではない。我々も死ぬと肉体が無くなるわけではなく、肉体は元素、二酸化炭素とか、水とか、カルシウムとか、微量のミネラルに変わる。
でもタマシイというエネルギーを醸し出しているところ ~ タマシイとはタマが示されている位置 ~ があるのですから、これは無くなるわけがない。でもその動きが止まったときに初めて潜象界(ない世界)へ返るという仕組みになっている。

 

「ココロが動く」ことが大切

そのように一瞬一瞬を感じて生きていることは、今もカタカムナの時代も一緒なのですが、生死をかけた生き方をしているカタカムナ人と、十分に環境の整った我々とでは、感じた後で味わう感動が違う。我々はココロというものを持っていますが、彼等の時代は、ものを見つけたときそれが食べられるか食べられないかということが生死につながっていたので、感動があった。この世界の本当の仕組みを知ったり、木の葉と語ろうと思ってそこに意識を傾けて湧いてくるエネルギーが波を打って、思い通りに葉が揺らいだときココロが感動する。カタカムナ人はそういうことをやっていた。
我々は今、自分の意志で葉っぱ一枚揺らすことが出来ない。ということは、周りの環境が良くなればなるほど、直観力を必要としなくなるので、脳や体の細胞の一つ一つが休んでいる状態。自然界が想いによって実際に揺らぐということを目の当たりに見たときにココロは「ああ通じ合っているんだな」と感じる。そして全部通じ合っているのだから、大事にしようと思う。そういうふうに「ココロが動く」つまり「感動する」ことが今一番求められているのではないか。

 

生命カン

今我々が生きていて、想像がつかないような所から「忍び寄ってくる恐怖」がある。例えば、食べ物の添加物の正体は誰も分からないし、誰にも伝えていない。体内に入っても影響はおよぼさないということで入っているが、例えば一つのものに0.001g入れても体には差し支えないとしているが、一つの食品に0.05gというのが10種類入っているとしたら、0.5gになってしまう。それが20種類30種類入っていたら1gとか1.5gになってしまう。私たちはそういうものを平気で食べて、身体の細胞が「変なものが入ってきたぞ」という生命に関わることを感じるかというと、今の人は感じていない。こういった「忍び寄る恐怖」、つまり「これは食べ物に入っているとまずいんじゃないか」ということをかぎ分けていく能力が生命カン。

昭和25~6年頃の食べ物は自然のままだった。昭和30年代に入って高度成長期の前になると、どんどん人口が増え、この年代が一番多く人口がいる。昭和22年~昭和25年ぐらいまでに生まれた方々が今日本で大勢いる。その人たちに食べ物を与えるためには、食べ物を大量につくり、遠くへ運ぶ、それには食べ物が腐らないようにするということが必要だった。

夏は暑いと必ず腐敗する。今なら冷蔵庫があるが、その頃は常温なので、ペニシリンを入れて菌の繁殖を防ぎ、ペニシリンが入った牛乳をみんな飲むという時代だった。ペニシリンは殺菌するもので、風邪を引くと飲む抗生物質です。それが体の中にある菌を死滅させて、体を治すという仕組みだが、ペニシリンを多用すると免疫力が落ちる。
又、豆腐にはR2という抗生物質を入れて運ぶ。この抗生物質は、豆腐に住む菌の遺伝子を狂わせる働きをする。そういうものを大量に食べたのが、我々の上の年代です。その後遺症が今頃になって出ている。ガンが多いのも人間の遺伝子が狂っているから。そういうことが、有吉佐和子さんが昭和40年代に書いた「複合汚染」という本に記されている。

そういうことを我々は歴史の中でやってきた。危ないものを食べているのに、誰も食べてそれを感じない。食べ物が豊かだと思っているが、殆どは毒を食べている。そういうことに気づくかどうか。木の花のように、配慮した食べ物を食べようといって集まってきた人たちも、過去にそういう食べ物に汚染されている。80歳過ぎの人たちは、子供の頃にちゃんとした食べ物を食べていたが、その下の年代は成長期にそういうものを食べているので、その影響を今も受け続けている。

初日の冒頭で述べたように、文明が進化し人の生活が便利になって行く過程の中で、化学物質が多用され、肉体も環境も汚染されていく。その中で「これはいい。これは危険」という生命カンが鈍っていった。便利さゆえに、自らが動かなくなり、全身の細胞も鈍って、頭も使わなくなっていった。ココロも動かなくなり「感動」がなくなっている。それが現代。

 

水の話

今地球上の水は非常に疲弊している。長い年月をかけて、何種類もの岩石をくぐり抜けて水は浄水されリセットされるのだが、あまりに汚れてしまった現代の水は今では同じような年月をかけて岩石をくぐり抜けても、元には戻らなくなっているという。水の分子構造はH2Oだが、酸素から伸びるHの二本の腕が開いてしまい、戻らないのだという。

人間の身体の70%が水分だとすると、水がきれいであることは健康には欠かせない要因であるが、現代の水は伸びているので体の細胞に入っていかず、この水を細胞に取り入れることに体は非常にエネルギーを使っているというのだ。

そういった水を太古の健全な水に戻す技術が開発されているという。七種類の岩石を通して濾過すると太古の水の組成に戻るという。ここでふと疑問が湧いてくる。自分の健康のために多くの人はこういった浄水器を買い求める。しかし、肝心の水を汚さないようにするというところへは意識が行かない。「何故水が汚れたのか」というところに意識が行かない。一般家庭で日々使われて垂れ流しにされる合成洗剤の数々。如何にきれいにぴかぴかにするかというコマーシャルに乗せられて、その事が地球環境の汚染となって、自らに返ってくるというところに意識が行かないよう、操られているのだ。

ここで、「何か変だぞ?」という感覚がなくなってしまったのが現代人なのだ。こんな事を続けていたら、どうなるのかという感覚が働かないというのは生命カンの欠如だ。自然との対話が無くなってしまい、人間の欲得だけで生きているということに気がつかない状態。それでも、地球環境の汚染に関しては、いろんな情報も出ているし、小学校では授業で教えたりするが、相変わらず、殆どの人たちが生命にとって毒でしかない洗剤を使用し、地球に垂れ流している。

自然の循環の中で汚れる水は自然の循環の中で浄水されるが、人間の手が加わることで、自然循環の中で浄化されるキャパシティを超えてしまった、ということをまず人間たちは知る必要がある。人間の愚かな行為が何を地球にもたらしたのかを知って、世界に対してわびることが先なのだ。そういったことをはっきりと認識することができたら、そこから、この世界に対する感謝が自ずと湧いてくる。そして、地球のキャパを超えるような、水を汚す行為を自ずとしなくなるだろう。
 
人は自分がやったことの対価として痛みを知る必要がある。例えば、魚を食べ続けている人々が、魚から命をいただいているという事にたいして、詫びを入れているだろうか。魚の命を観察して魚の波動やココロを感じているだろうか。今日の魚はいつもと違うといった、微妙な違いを感じられるのが、響を感じるということ。毒が入った川魚を食べてイタイイタイ病にかかった人たちは、「自分は何も悪いことをしていない」と言うが、日々の糧としてお詫びし、感謝していただいていただろうかというと、必ずしもそうではなかったのではないか。

人が日々生きるときに、毎日他の生命をいただいている。日々紙を使い、他国の森林伐採を助長している。日々洗剤を垂れ流しにして、水を汚している。日々肉や魚を食べることで、そのものの命だけでなく、自然破壊を担っている。「悪い事はしていない」と言うが、他の命をこんなに破壊しながら生きているのは、人間だけなのである。多くの命の犠牲の上に毎日が成り立っている事に、そろそろ気づいて、修正するときが来ている。そうでなければ、自然は修復不可能になって、ロックされる。ロックを解除するには、そのものの寿命がきて、組成が分解されて「ない世界」(カムの世界)に返る「天然循環」の仕組みが働くのを待つことになるが、その前に、自浄作用が起こって本来の寿命よりも速くカムの世界へ返ることになる。

仏教用語に、ソワカという言葉がある。その意味は
ソ  掃除、祓い清めること、外に出す
ワ  わびる、笑う
カ  感謝する

食べ物をいただくときに、まず祓い清め(ソ)、食べ物をいただいて元気であることを笑い(ワ)、自分の命のためにその命を奪うことにお詫び(ワ)して、いただいて命をつないでいくことに感謝して(カ)そしていただく。この四つの意味を含んでいるという。日々いろんな命の犠牲の上に自分の命が成り立っていることに、現代人は気づいていないので、そのことに対して詫びるということがない。そこを抜きにして、御利益的に「ありがとう」と言おうという風潮があるが、その「ありがとう」には、本来の「有り難い」というココロがないので、言葉に魂が入っていない。

日々命に注意を払い続ける中で、対象物に敏感になり、少しの違いも分かる微細な感覚が育っていく。それが、「この食べ物は危ない」といった命に関わる直感が働く事にもつながる。この生命カンは、脳とは関係なく、単細胞生物でも持っているものであり、むしろ大脳の思考はこれを邪魔するものである。

 

働いていない迷える世代を生かす

今回のカタカムナ研究会には、木の花で長期滞在をしているあわちゃん、脩悟、北純の三人が参加してくれた。前回は、希望いっぱいの子供代表の和乃子(かのこ)ちゃんが参加してくれたが、今回は、ニート、ひきこもりが最も多いといわれている、いわゆる天秤世代(30歳~40歳)と言われる迷える世代のあわちゃん、精神性の大変革の時代といわれる蠍世代の脩悟と北純が参加してくれた。本来ならば最も精力的に社会で働く世代が、迷っている。彼等が、自らの生きる意味に目覚めていくことが、社会を変える大きな力になるのではないかと思う。

木の花ファミリーを運営する中心となる年代も実はこの天秤世代で、世間ではニートや引きこもりだったメンバーもいる。社会でしっかりと生きていたメンバーもいるが、一様にみんなが思っていたのは「現代社会って、なんか変だよ」ということ。そんな彼らが、木の花に来て水を得た魚のように、それぞれの特性を生かして、生き生きと生きている。

中でも、木の花で長期滞在しているあわちゃんの最近の変化の様子は著しい。今彼はニート・引きこもり経験のある木の花のメンバーや長期滞在者数人と共に「ニート・引きこもりも鬱も希望の光」という企画を立てているので、そちらの紹介のページも見てください。
 → 「ニート・引きこもりも鬱も希望の光」
 
それから、フットワークの軽いあわちゃん、脩悟が既に素早く4月のカタカムナ研究会のことをブログにしていますので、そちらも見て下さい。

あわちゃん「ウルルン木の花ファミリー滞在記」
 → カタカムナ研究会1日目
 → カタカムナ研究会2日目

脩悟「シュークリーヌブログ」
 → カタカムナ研究会
 
このことを契機に、ニートと引きこもりについて調べてみると、どうやらニート引きこもりの中には、本来の生きる目的を探している「前向き派」と、便利な世の中になったがために親がいる限り親のすねをかじって生きていこという「年金パラサイト」と呼ばれる「怠け者」とにおおざっぱに分けられるようだ。もちろんそんなきっぱりと分かれるものではないだろうし、どっちつかずもいるかもしれない。そういう区分で見てみると、木の花に来る若者は、本来の生きる目的を探している前向き派だ。この前向き派を、集めるのが今回の企画。そして彼等が、生き生きと生き始めるとき、どっちつかず派や、年金パラサイトですら、目覚める可能性があるのではないかと感じている。

この眠れる世代が次々と目覚めていくことを思うと、とてもワクワクする。世代が持つ特性があるとすると、現代社会を作って来た今の50代60代の時代は過ぎているが、その亡霊で社会はまだ動いている。今現在中心となるはずの30代~40代前半という世代の宙ぶらりん状態が、まさに現代の象徴なのではないかと思う。物質主義と精神主義の間で迷えるこの世代が、自らの役割に目覚める事が社会に何をもたらすのか楽しみだ。

宇宙の運行からすると、21世紀は調和の時代を迎えることになっている。渦巻き、回転しながら流れてゆく時と共に、私たちはこれから目覚めてゆくという流れの中にいる。
偉大なる聖者が現れて世を救うのではなく、一人一人の小粒が目覚めてネットワークすることでそれが可能になる時代だからこそ、一人一人にかかっている、難しくてやりがいのある時代だと思う。

目覚めるためには、まずどれぐらい、自分が洗脳され、寝ぼけているのかを知ることから始まる。これから、光が強くなっていくので、人々の心の闇に益々光が当たり、その事がはっきりと見えて来るので、そこから逃げずに、むしろ楽しんで直視すると、次の景色が見えてくるのではないだろうか。そして世界観を広げたときに、この世界と自分の関係 ~ 確実に自分がこの世界の一員である ~ という事実が見えて来る。

 

イヤシロチ日本と、感受性豊かな日本人

日本というクニは国全体が、土地の電位が高いイヤシロチであるという。火山列島・地震大国であり、さらには、毎年夏になると太平洋沖で発生するいくつもの台風が日本を狙ってやってきては日本列島をなめるように進んでいく。そして国土が小さいのに、一年を通して四季があり、自然の微妙な移り変わりがあり、水は美しく緑豊かな、奇跡のようなクニなのだ。そのようなトコロに位置している。このように、日本というクニは磁場が高い故に、常に浄化作用が起こっており、新鮮な気があふれているのである。

又、電位の高いところでつくられるものは、電位の低いところでは作ることが出来ないという。例えば、電位の高いところで精製した純度の高い鉄を、電位の低いところで同じ製法で精製しても同じ純度にはならない。このように、トキトコロが違えば、それが条件の違いになるので同じものを作ろうとしても、出来ないのである。

トキとトコロが整って初めて物質や生命は発生する。故に、日本で発生した生命がトコロを変えたら発生しないというのがカタカムナの理論であり、宇宙の法則なのである。その原理を知らなければ、均一な条件ですべてが可能であるはずだという単純な現代科学が作り出した矛盾を解決することは出来ない。スタップ細胞がその良い例である。

スタップ細胞とは、刺激(ストレス)を与えることによって、多くの細胞に変化できる「分化多能性」を持った細胞のことだ。いわゆる万能細胞のことであるが、マスコミによって徹底的に潰された。カタカムナ的には、全ての細胞が「万能細胞」である。スタップ細胞の発見者である小保方氏は、トキ・トコロのトキを変えて実験した。しかしトキという条件が違ったために、又スタップ細胞があっては困るという人達の想いを受けて、「スタップ細胞はない」という現象をもらったのだ。

このように現代の幼稚で未熟な科学は、「生命の仕組み」を捉えられない。重要な発明・発見があっても、古い仕組みで豊かさを享受している人種に操られているので、こういったものはなかなか世の中に出てこないのであるが、それもトキとトコロが整っていない、つまり、「人類の心の準備が出来ていないということ」と言えるのだろう。

カタカムナは波動物理学であり、言霊の物理学である。自然界、宇宙に響くさまざまな音を聞き分けたカタカムナ人の末裔である日本人は、電位(波動)が高い土地で暮らし、その土地でとれた食べ物を食べ、その土地で湧く水を飲んで生きてきた。一年を通して四季という微妙な自然界の変化を感受してきた民俗である。故に、他の民俗には感じ取ることが出来ない自然の様々な微妙な空気の違い、においの違い、音色の違いを観じとる特殊な能力をもともと感性として持っている。そういう真実を知って、その事に目覚め、その能力を開花し、世界に微妙な調和の響を発信するものが増えることが大切なのだ。

そして、自らが感受した宇宙の真理を、自らの意志で再び世界に向けて発信すること、それが「イノリ」(意を載せて放つ)であり、この祈りは物理的光よりも早く世界中に広がる力を持っている。自分さえ良ければという宇宙の意にそぐわないイノリには「カムの世界」は答えない。カムの世界に同調するイノリに対して答えは返ってくるのだという。大切な事は、「カムの世界」があると信じて、その扉をたたくこと。そうすれば、カムの世界から返事が返ってくる。

「ヤッホー」といったら「ヤッホー」と。
「楽して、お金下さい」というイノリには「ハタラケ、ハタラケ」と。(笑い)

宇宙の響きと一体の祈りこそが、カムの世界に届き、弱くても最も遠くまで響き渡りこの世界を変える力を持つのだ。

 

後世へのプレゼントとしてのカタカムナ

カタカムナは、レベルダウンして神々の神話として「ホツマ伝え」に、さらにその後は「古事記」に残すようにはかられてきた。実は、神話に残る神々の名前は、カタカムナで見るとこの宇宙が形成され運営されていく時の物理性を表現しているのである。人々がレベルダウンし宇宙の響が解らなくなっていく流れの中で、いずれカタカムナが必要とされる時代が来るまで、人類が忘れないように、音として意識に残すよう神話の神々の名前として残され親しまれてきたのだろう。

「波分け観音のようだね」といさどんが言った。ここまで津波が来るよ、だからこっちに家を建ててはダメだよ、ということを後世の人に知らせるための観音像。しかし、直観が鈍っていった人々はそういった印(しるし)を読み取ることが出来ない。中には、何だかこれが気になるといった衝動から、この観音は何を伝えているのだろうかとか、古事記の神々は何を表現しているのだろうとか、そしてその思いが通じると、様々な情報の中から、カタカムナに行き当たる、というように波動で引き合うのがこの宇宙の仕組みである。

 

世界が一つの花になるように

この世界が今この様な状況にあるのは、流れの中で必然である事が見えて来る。そういったものの見方を客観背後という。「カムの世界」から生まれたこの「カタの世界」が進化していく大いなる物語の流れの中、最終章で人間が現れ、物質文明を築き上げて、猛スピードで進化させてきた。それは、動物では出来ないことなのだ。何回もの生命の絶滅の結果、最も進化した生命体として人間が現れたのだ。進化のプロセスの中で、その人間達がココロの伴わない未熟な力を駆使して物質文明がピークを迎えた今、今度は精神文明が台頭してくるのがこの世の摂理「満つれば欠ける世の習い」なのである。

又、人がカム(親)から分化してコ(個、子)として存在し、自我を形成していくのも流れの中の重要なポイントのひとつだ。この流れの中で、「天の理を忘れると世は乱れる」ということを、身をもって今現在体験している。乱れたからこそ、間違いに気づき、やはり天の理で生きて行くことが大切なのだという様に軌道を修正していく。そのダイナミックなプロセスを経験することが、現象界を完成させるのには必要不可欠なのだ。完成を目指す中に、多くの矛盾と、学びと進化がある様に、様々な工夫が凝らされている。そのように思考していくと、今当然のことが予定通り起こっているという風に見えて来る。

そういった状況の中で今私たち一人一人がなすべき事は、個(コ)として花開くということではないだろうか。それは個々が「カムの世界(親のココロ)に共振すること」であり、そのために、日常の中で微妙な感覚を育て、「ココロ」の動きに敏感になり、心磨きをして魂を浄化し、波動量を上げていくことが大切なのだ。波動量が上がってくれば、至る所に遍満する生命の息吹を感受する様になり、生命カンが働くようになる。そして、天の道理に目覚めるようになる。

最近の木の花のメンバー達は、物理的な香りではない霊的な香りを感じるものが出てきている。
あるいは、そういった霊的なことではなくても、気がつけば、この世界自体が何という奇跡の連続の上に成り立っているのか、ということを感じるようになってくる。今、他人の感覚で生きることを止めたあわちゃんは、そういう感動を日々味わっているようで、それが日々更新される彼のブログに書かれている。畑では畑隊が、田んぼでは田んぼ隊が、野菜や稲や天候の移り変わりと意識を合わせ、その言葉に耳を傾け、会話している。

そんな風に、個(コ)が成熟して花開いて、自ずと個々がネットワークしたときに、この世界が大きなひとつの花になる。それが「コノハナ」であり、言い換えるなら「阿吽」の世界。みんなで一つの体になる、私たちはそこを目指しているのです。

 

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5月 カタカムナ研究会のご案内

【日時】
集合:2015年5月18日(月)

11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい
解散:2015年5月19日(火) 昼食後(送迎あり)

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【定員】
15名

【参加費】
8,640円
(1泊2日、宿泊・お食事・送迎・保険料・税込み)

日帰り参加の場合:1日につき3,240円
(お食事別途)

*同性の方との相部屋をお願いする場合がございます。
*オプションにて、木の花ファミリーの施設見学やプレゼンテーションのご提供も可能です。
〈見学ツアー〉90〜120分
 お1人様540円
〈プレゼンテーション〉120分
 2,700円
 上記料金を参加される方の人数で割り、分担していただきます。(中学生以下無料)
 例)参加者2人の場合:1人あたり1,350円 / 3人の場合:1人あたり900円
 ただし、5人以上の場合は1人あたり一律540円となります。
 
【お申し込み】
下記のサイトよりお申し込みください。
 →「カタカムナ研究会」のお申し込み
 
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第一回カタカムナ研究会レポート

2015年4月より、木の花ファミリーでは
「カタカムナ勉強会」を改め

「カタカムナ研究会」を発足しました

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ー 古代の叡智を現代に生かし、生活に表現する ー
 
カタカムナとは

カタカムナは、今から約13000年前の上古代の日本で高度に発達したといわれる、言霊を元にした宇宙物理学のことです。
現代の最先端の物理化学とそれを元に発達した現代社会は、今あらゆる方面で行き詰まりを見せています。それは、私たちが生きているこの三次元物理世界の背後にあって、この世界を生み出す元になっている「潜象界」(多次元世界)があるという発想がないからです。
この世界を生み出す根源の世界の存在を忘れているので、視野が狭く、物事を思考する発想が物理性に重きを置いているので、世界が行き詰まるのは至極当たり前のことと言えます。ですから、この行き詰まりに行き当たったことは予定通りのことと言えるのです。

予定通りということは、この状態は約束されていたということであり、当然その先があるのです。
その先の時代へ人類は今、進もうとしています。このような流れの中で、13000年前の宇宙物理学が封印をほどかれて、今、私たちに呈示されています。

カタカムナでみる宇宙の仕組み
カタカムナでみる宇宙の仕組み

カタカムナでは潜象界のことを「カムの世界」、そして三次元物理世界(現象界)のことを「カタの世界」と言い、全ての命や物質は「カムの世界」から生まれて、質的に転換(ナ)した結果、命や物質が存在する「カタの世界」ができていくと示しています。その事を「カタ・カム・ナ」と言います。
この二つの世界は質的転換を伴いながら常に循環しており、その循環のことを「天然循環」と言います。

「カムの世界」は、意識レベルが低いと感受することが出来ない緻密で微細な世界です。上古代のカタカムナ人は、そういった世界があることを認識していました。そして、宇宙が発する響きの中から48音を聞き分け、なおかつ一音一音に深い意味が秘められていることを感受し体系化し、残してくれました。この48音が世界中の言語の元になっていると言われています。
その後、時代と共に人々の感受性は鈍っていき、カムの世界の存在を見失っていきました。そして、世界中の言語は歴史と共に分裂して発達し、変化していきましたが、日本の大和言葉ではカタカムナの時代から殆ど変化することなく純粋に48音が現代に引き継がれてきたのです。

大和のクニは「コトダマノサキアフクニ」といい、多くを語らなくても、以心伝心で想いが伝わる民の住むクニでした。人々の心は調和的であり、言葉は言霊であるということを熟知していたので、言挙げしない民、つまり議論しない民だったといいます。それは、言葉には人を殺す事が出来るほどの力があることを知っていたからなのです。

しかし、時代の流れと共に、人々の心は汚れてゆき「カムの響き」を感受出来なくなり、そんな状況と共に、カタカムナはレベルダウンし、封印されていきました。
現代人の感受性は鈍くて荒くなり、それはまるで目の粗いザルのようなものです。「カムの世界」という微細な世界は目の粗い網ではすくうことは出来ません。
「カムの世界」は三次元の理論や平面的思考では捉えられず、記憶するものでもありません。心や全身の細胞で感受するような微細な波動の世界なので、きめの粗い心や脳では感受出来ないのです。
現代の科学は、3次元の物理的物差しで測れるものしかその存在を認めません。ですから、直観や心で感受するカムの世界を認識することは出来ないのです。しかし、人は誰でもカムの世界から生まれてきているのですから、DNAには必ずその記憶は刻まれており、時が来れば封印された記憶がほどかれ理解出来るようになるものでもあります。
これからの時代はカタカムナ的世界観と、カムの世界という多次元世界を感受する能力が必要とされています。そのためには、一人一人の波動量を上げ、直感力を磨くための心磨きが必須となってくるのです。

カタカムナの八鏡文字
カタカムナの八鏡文字

カタカムナが世に出たのは、1949年楢崎皐月が兵庫県六甲山系の金鳥山で地質調査中に平十字という謎の人物に出会って、見る機会を得た古文書「カタカムナ」(八鏡文字)を、5年かけて読解したのが始まりです。しかしそれは一般人にはなかなか理解出来ない難解なものでした。
楢崎皐月に続き宇野多美恵、関川次郎そして芳賀俊一に引き継がれてきた「カタカムナ」が何故今私たち木の花ファミリーに出会ったのかを考察すると、知識として引き継がれてきたカタカムナがいよいよ生活に表現される時代になったからなのでしょう。
 
カタカムナ勉強会からカタカムナ研究会へ

3月30日、31日の2日間、春分が開けて新しい季節のサイクルが始まり、カタカムナ勉強会が木の花ファミリーの湧泉閣を会場として行われました。昨年一年間の勉強会を経て、いったん白紙に戻して新たに出直そうということになったカタカムナ勉強会を、教えを請うものの集まりとしてではなく、自ら探求してゆくものの集まりとして「カタカムナ研究会」を新たに発足し、活動していくことになりました。

一年の中で春分の日は特別な意味を持ちます。太陽と、地球が作りだすサイクルの中でも、最も意味深い節目の日が春分であり、太陽系を俯瞰してみることが出来る地球暦ではこの日が1年の始まりである「お正月」になります。そして、この日に木の花ファミリーは発足しました。
私たちは、星々が刻む悠久の時代の流れに乗って生き続けています。
カタカムナでは、宇宙の創生・発展・消滅を「ヒフミヨイムナヤコト」の数理で現しますが、その始まりは「ヒ」であり、「ヒ」を現すカタカムナの図象文字は、地球暦で見る春分の日の太陽と地球の配置図と同じなのです。

講師の芳賀俊一さん
講師の芳賀俊一さん

このように意味深い「春分」という大きな節目を過ぎて初めてのカタカムナ勉強会ということで、木の花ファミリーから講師の芳賀俊一氏(芳賀兄)にカタカムナ研究会発足という投げかけをしました。

いさどんは芳賀兄に以下のように伝えました。
「芳賀兄以外にカタカムナの勉強会をしている人をネット上で探しましたが、勉強会らしきものは殆どありません。カタカムナを純粋に研究し王道を行っているのは芳賀兄だということがわかりました。
今までの先人達が作って来たカタカムナの流れは、カタカムナを分析し資料として現してはくれましたけれども、カタカムナの本義を生きてきたわけではありません。そして、いよいよ時代が訪れ、カタカムナ的古代の叡智が進化したものとして生きる時代が来ているのです。そういうことからすると、今まで長年芳賀兄がカタカムナ勉強会として蓄積し伝えてきたものは、先人達が作り上げてきてくれたものなのですが、先人達がやってきたことすら途上なのです。カタカムナを知識的、御利益的に学ぶというだけでは、今までの勉強会と同じになってしまいます。
これからは、如何にカタカムナを生活に落とし生かしていくかが求められる時代が来ています。それが時代に貢献するということであり、木の花ファミリーはそれにふさわしい場であるからこそ、今この時にカタカムナと縁があったと考えています。今後カタカムナをより発展させていくために、勉強会という『与えられる場』ではなく、共にカタカムナを探求していく場という意味で、この会を『研究会』とすることを考えています。」

芳賀兄はそれに対して全く同感ですと語り、カタカムナ研究会が発足し、今回がその記念すべき第一回カタカムナ研究会となりました。参加者10名という小さな会でしたが、その意義は大きいと感じています。

第一回は、カタカムナの概論と、参加者との活発なやり取りの中で「魂のメカニズム」や「カムの世界の感受の方法」について深めるなど、脱線を交えながら有意義な会が進められました。
今後の会の進め方として、研究会に毎回同じ人が来るわけではないので、常にそのときそのとき出会った人達を感じて直観で進めていくとを確認しあいました。

また、最近木の花ファミリーメンバーになったばかりの12歳のかのこちゃんも会の初日に参加してくれました。

カタカムナを学ぶかのこちゃん
カタカムナを学ぶかのこちゃん

ファミリーメンバー最年少のかのこちゃんは、時代の申し子的な子です。彼女の意志はとてもはっきりしていて、小学校6年生の1学期で学校へ行くのを止めました。
その理由は「授業中ずっと椅子に座って先生が言うどうでも良いことを、ノートに写すという勉強が嫌だなと思った。これが自分の人生に本当に役に立つとは思えなかった。でも先生は、国の方針に従っているだけなので、先生は悪くないと思う。」と明快な意見を持っています。

かのこちゃんは、今までのような登校拒否とは違って、自分の人生の役に立つことを学びたいという意志がはっきりしているので、学校の勉強が合わないのです。今まで大人の解釈で子ども達に教育を進めてきたのですが、こうった子ども達に生まれて来た本当の意味に目覚めてもらうためには、きっと変な教育はしない方がいいのでしょう。そのために、こういった生き方や学びを提供する場を創ることが、これからの時代にカタカムナの探求の場としての役割があるのでしょう。

芳賀兄によると、最近30代のお母さんがカタカムナ勉強会に参加することが多くなっているそうです。お母さん達が何故勉強会に参加するのかというと、子どもが学校に行くのをいやがったり、親の価値観では解釈しきれない子どもをもち、その扱いに困っているというのです。その方向性を見つけるために、カタカムナの勉強会に来ているという現象が起きているそうです。そのようなお母さん達にも子ども達にも、本来の生き方を見つけてもらう場にするということ、本当に道を求める人たちの受け皿になるための勉強会をやるということを、芳賀兄は講義の中で語っていました。

いさどんから宇宙の話を聞く子ども達
いさどんから宇宙の話を聞く子ども達

子ども達は、大人より進化した魂であると言いますが、かのこちゃんの言葉は明快で力があります。
3月21日の木の花創立21周年の日、いさどんは宇宙の話をしました。その時、子ども達、特に小学校3、4年生の子達はいさどんの話に目を輝かせ、「うんうん」とうなずいたり、たくさんの質問をしながら、いさどんのそばに貼り付いて話を聞いていました。子ども達は、難しい所は解らなくても、魂で大切な事を感じているのです。子ども達を見ると未来は明るいと思えてきます。

時代は連綿と続いて今現在に至っています。新しく生まれてくる子ども達は常に大人より進化した時代を生きる未来の魂です。大人達が創っている社会の中で、時代が生んだ「進化した魂」である子ども達の個性をつぶさないよう大人達は自らのエゴの殻を超えて時代に合わせて、学んでいかなければならないのです。

私たちが生きている今は、過去の何万年・何億年の積み重ねの上にあり、星の運行(天盤の巡り)により、いよいよ一般大衆が真理に目覚めるサイクルが巡ってきているのです。そして、その奥にある大いなる意志を感じるマクロの視点と、日々の細かなことの中で己の心を緻密に振り返りながらこの世界の奥にある微細な世界を観じるミクロの視点、その二つを両輪とした学びはこれから真理を求める人には欠かせないものです。

古代のカタカムナ人は、群れで生きることで一人一人の個性的な直観を集結し、自然環境の厳しい時代を乗り切っていったといわれています。
現在、人々の価値観が多様になり、欲望の渦に巻き込まれて真実を見失っている現代は長い歴史の中でも時代の大きなターニングポイントです。人間の経済活動のために自然環境は悪化の一途をたどり、これから自然災害はさらに厳しくなります。社会情勢を見ても人の心は荒れ果て心の病が蔓延し、犯罪も増えています。民族紛争も絶えることがなく世界情勢も悪化している状況の中で、私たち人間が目指すべき事はまだまだ多くあります。
宇宙の星々の運行も、みんなでつながって生きて行く調和の時代が始まることを告げています。
そんな時代の流れの中、カタカムナの深い叡智をみんなで探求し深め、一人一人が直観を磨き、それを生活に落としてゆく事が大切です。集い語り合うところから、新たな時代の真実が生まれてくるのです。

カタカムナの学びは、知意行一体といって、宇宙の道理を知り(知)、意欲を持ち(意)、生活に表現する(行)ということを元にしています。それは木の花ファミリーが創立以来実践してきたことでもあります。この新たな時代に向けての大切な叡智の学びを、皆さんの参加と共に広めていきたいと思っています。
本物に出会い、人生を変え、この世界を探求したいと願う人々の元へ届くように、今後はカタカムナ研究会のレポートも発信していきますのでよろしくお願いします。