病気が導いてくれた八番目の聖者への道 〜 きたじゅんの気付き

きたじゅんは、1年半前にメンバーになり、現在は長野県の大町ビレッジに滞在しています。日ごろ、あまりみんなの前で話すことのないきたじゅんが、ある日の大人ミーティングでこんなシェアをしました。以下、全文をご紹介します。

きたじゅん

病気が導いてくれた八番目の聖者への道

2013年5月、僕はカーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中に閉じ込もっていました。当時は、水力発電所の設計をしていましたが、長時間残業と人間関係のストレスから眼精疲労になり休職を余儀なくされてしまいました。今まで無理に無理を重ねてきたため、パソコンやテレビのようなデジタル機器から照明や太陽の光までまぶしく感じ、強い痛みを伴うため、日常生活を送ることが困難な状態になっていました。このときから僕は常に帽子とサングラスが手放せなくなり、出口の見えない長くて暗いトンネルの中にいるような日々が始まりました。その後、一度は職場復帰できたものの、2015年1月、再びパソコンを見ることができなくなり2度目の休職を余儀なくされ完全に行き詰まってしまったのです。

そんな中、出会ったのが木の花ファミリーでした。そこで参加した1ヶ月間の真学校で本当の自己を知り、自身の30年間の歩みを振り返りました。真学校では、自分の癖・性分が病気を作り出していること、そしてその癖・性分を手放すことで自ら発している病気の響きが変わり元の気が入ってくる、つまり健康体を取り戻すことができると学びました。しかし、それは頭だけの理解に留まり、実践を伴った本物の理解に至るまでには、さらに長い時間が必要でした。なぜなら、自身の根深いカルマをなかなか超えることができなかったからです。

僕のカルマの性質を挙げてみると、常に他人の評価が気になる、被害妄想が激しい、思い込みが強い、人の意見や出来事を素直に受け止めないなどネガティブな思考ばかりです。このネガティブを安定してやり続けるのが純一というカルマの特徴です。自分でも本当に面倒臭いなと思うし、これと向き合って変えていくのは大変な作業でした。例えば日々の作業の中で、体調を崩しているのに人の評価を気にして本音が言えず、つい無理をして頑張ってしまうことがよくありました。そしてまた体調が悪くなる。でも他人に自分の弱さを見せることができない。さらに苦しくなる。余計なプライドが邪魔をしてこの悪循環からずっと抜け出せずにいました。それでも、木の花のみんなのサポートのおかげで、曲がりなりにも1年間ヘルパーを続けることができました。体力に自信がついたのと木の花ファミリーの生き方がこれからの時代にとって本当に大切だと実感できるようになったため、2016年11月、正式にメンバーとなりました。

帽子とサングラスが手放せなかった頃

その後、2017年4月から4人で大町ビレッジでの生活が始まりました。一人ひとりが個性の花を開きみんなで調和した桃源郷の世界を大町でも目指そうと最初は意気込んでいたものの、また自身のカルマに飲まれていってしまいました。自分の未熟さや生活態度、不調和な空気など立て続けに指摘されるようになり、あまのじゃくで幼稚な僕の心は次第にみんなから遠ざかっていって、いつしか自力で抜け出せないほど深みにはまってしまいました。そんな中、人身事故という大きな出来事をもらい、ますます現実を受け入れられなくなって底の底まで心は落ちていきました。

「こんなに苦しむくらいなら、自分と向き合うことから今すぐ逃げ出してしまいたい」

自分でも愚かな選択だと分かっていながら、何度も逃げたい気持ちがわいてきました。ただ、その度に僕を木の花に引き止めてくれたのは眼精疲労でした。
今の目の状態で一般社会に戻ってもまともに働くことができないのは分かっていました。確かに苦しくて逃げ出したい気持ちはある。でも逃げ出せない現実がある。僕は何のために病気で行き詰まって木の花と出会い、今こうしてみんなと桃源郷を目指して日々真剣に過ごしているのか。何度も何度も自分に問いかけました。

「一度完全に行き詰まったのだから、自分のカルマと向き合わずここから逃げ出すのは生きることを放棄するのと同じだ。僕は必ずこのカルマを乗り越えて世のため人のために役立つ者に生まれ変わるんだ」

こうして自分の本当の気持ちを確認し、それを現実化するために行動し始めました。

女郎囃子を舞うきたじゅん(左)

その後、大町から富士宮に戻り転機が訪れました。2018年1月、木の花ファミリーにとって最も重要な「富士浅間木の花祭り」が開催されました。僕の役割は女郎囃子のおかめ役でした。今回、舞うこと自体が初めてで、さらに女役になりきってアドリブで舞うというのは自分にとってかなり苦手意識が強くハードルが高いと感じていました。人前で目立つことをしたり、笑わせるようなことをするのは自分の性に合ってないし、中途半端な舞をすれば余計恥ずかしい思いをすることは分かっていました。でも必ずみんなの役に立つ者に生まれ変わると決めたのだから、どうせやるなら思いっきり悔いなく舞おうと思いました。そして当日、自分を捨てて思いっきり舞ったところ、お客様もメンバーもみんな喜んでくれてとても楽しい場を作ることができました。僕自身はなぜか心の中がとてもすっきりした感覚があり、今まで感じたことのない感情が湧き上がってきました。

「みんなと時間・空間を共有し、心を一つにして何かを成し遂げるということが真の喜びであり本物の豊かさなんだ」

舞い終わった後、女郎囃子の仲間たちと一緒に

そう思うようになってから僕の心はどんどん広がっていき、自然と新しい視点が心の中に入ってくるようになりました。

このように、心が変化し始めてからもう一つ転機がありました。それはケア滞在や長期滞在の人たちと一緒に作業をしていたときのことです。普段から彼らの言動を観察していると、彼らの癖・性分が自分を自らの内に閉じ込め病気を引き寄せていることに気付きました。これは真学校で学んだ心と病気の仕組みを彼らが見せてくれているのだと思いました。そしてその視点を自分自身に当てはめてみました。すると、僕は長い間体調不良が続いていてその状態が一番落ち着くというおかしな状態になっていることに気付きました。そのことに気付いた時、自らの思いを手放していけば元の気が入ってきて健康体に戻れるのではないかと思いました。それは、回復をあきらめていた目も例外ではないかもしれないと思いました。

そして、2018年4月から2度目の大町ビレッジの生活が始まりました。僕は常にわいてくる自らの思いを徹底的に手放すよう心がけました。自分の限界は決めない、体調は予測しない、自らの思惑をすべて手放して結果を頂くことに努めました。すると、体に変化が現れ始め、サングラスではなく普通のメガネや裸眼で過ごす時間が徐々に増えていきました。あるときふと気付くと、自分のことはどうでもよくなっていて、それよりもみんなともっと時間を共有したい・空間を共有したい・心を共有したい。その想いがより一層強くなり、自分と他者の区別が無くなっていくのを実感するようになりました。

そうして迎えた5月3日。この日は木の花ファミリーにとって重要な節目の日でした。それは創設者のいさどんが生前葬から質的転換の7年を迎え、ジイジという新しい名前を天から頂き再スタートする日だったので、1日だけ大町から富士宮に戻りました。僕は「富士宮のみんなとしばらくの間また会えなくなるから、せめて今日だけはサングラスをやめて笑顔でみんなと過ごそう」と思い、できる限り普通のメガネで過ごすことにしました。すると、普通のメガネにしても特にまぶしさは感じませんでした。試しにサングラスをかけてみるととても暗く感じました。もしかしてと思ってサングラスと帽子を両方とってみるとなんともありませんでした。今日はたまたま調子が良いだけなのかなと不思議な気持ちになりつつ、そのまま「誕生祭」を迎えました。そして、ジイジとして初めて語る中で、最後にこのように話してくれました。

誕生祭でのジイジときたじゅん

「あなたの人生をどうするかはあなたの責任です。これからこの時代をみんなで共に役割として作っていく集いの場に私たちはいますが、魂の歩みはそれぞれ別々です。そこはシビアに、私はみんなを救おうなどとは思いません。それは初めて人間が救われるという解釈から自らの価値を高め自らを救済する。やっと自分が尊き者になる手段が自分の手の中にある。それが人生の勝利者です。今までは木の花という役割の場所を維持するのが目的でしたからみんなに寄り添ってきましたが、これからはしません。私はどんどん先に進みます。そのうち、後ろを見たら誰もいないかもしれません。それでもいいのです。その生き方が大事です。今日のジイジの誕生祭は私の誕生祭ではありません。あなたたち一人ひとりのビジョンが始まったのです」

ここまで聞いた時、これからは一人ひとりがイエスとなり仏陀として生きる時代になるという八番目の聖者の話を思い出し、次のような想いが湧き上がってきました。

「今日まで本当にいろんなことがあったけれど、僕はこの道に出会うために今この場所にいるんだ。本当に愚かな自分ではあったけれど、個人の意志に関係なくもっと大いなる意志が僕を八番目の聖者の道へ導いてくれたんだ。その案内役が病気だったんだな」

そう思ったとき、僕の両目から痛みがすっと消え去っていきました。

「疫病神さん、今までこんな自分に付き合ってくれてありがとう。
 そしてお役目ご苦労さま」

と心の中でつぶやき、そっと天へとお返ししました。

 

 

八番目の聖者への道のりは続く!

 

 


ジイジ誕生!~ 共に生き、豊かな人生を歩んでいきましょう

5月3日はいさどんの誕生日!この日、67歳を迎えたいさどんのお祝いにたくさんの人々が集い、誕生祭が開かれました。誕生祭の場で、いさどんは創立以来みんなに呼ばれ親しまれてきた「いさどん」という名を手放し、新たな名前を発表しました。その名は、「ジイジ」

人の名には、とても深い意味が秘められています。「いさどん」が「ジイジ」に変わるということは、大きな転換を示しています。(「ジイジ」の名の意味については、ジイジブログ『「いさどん」から「ジイジ」へ〜2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて』をご覧ください。)

以下、笑いあり、涙ありの誕生祭のようすを、写真とともにお伝えします。ジイジの挨拶、メンバーたちの言葉、そしてメキシコの太陽マヤ族最高司祭・尊母ナーキンさんからのメッセージなどを、どうぞご覧ください。


 

ジイジの挨拶
時代は確実に、大質的転換をします

今日、67歳の誕生日を迎えました。私が生まれたのは午前3時、方位で言えば艮の方角の時刻です。
67年間、いろいろなことがありましたが、良い人生でした。ここに至るまでのたくさんの困難は、すべて肥やしとなり、ここまでの歩みを助けてくれました。さらにそれは、これからの人生の糧となっていくことを確信しています。

私は子どものころから、少し変わった子どもでした。自分でもそう思っていました。私の人生は、いつも何かが湧いてきます。湧いてきた時点で、それがどこから来たものなのかはわかりません。自分がこのような生き方をすることをまだわきまえていなかった時には、自分が理解できない出来事を与えられ、苦しんだこともありました。自分は精神分裂病なのではないかと思っていた時期もありました。しかしそれが病気ではない証として、理解できなくともその出来事をいただき、進んでいくと、必ずその先に答えがありました。
そして私は、自分の人生の答えを自分で決めることを、やめました。それは、先へ進んでみて、いただくものだからです。

人生を振り返ると、たくさんの物語があります。とてもここでは語り切れません。しかしこの不思議な人生を歩んできて、今ここで、その答えに出会っています。67歳の誕生日をもって、いよいよ人生の最終章が始まります。
私は人生の折り返し地点である40歳の時に、自分の欲で生きることをやめました。経営していた会社をたたみ、この生き方を始めました。その歩みの元は、天の意志です。天が私にメッセージを与え、いかに自らの自我を越えて、その天の意志に忠実に生きるかということをやり続けてきた結果、今があります。
たくさんの出会いをいただきながら進んでいく中で、私はいったい何のためにこの人生を生きているのかということが観えてきました。それは、この世界に「美しい」を表現するためです。それが私の人生の目的であることがわかってきました。今の、正しいことが間違いとなり、真実を見失ってしまった世の中で、いかにそれが必要であることか。私の人生は、世の中の様々な問題ごとをひも解くためにある。そして、人々に真実に目覚めてもらうためにある。そのような人生を歩んできましたが、今日、67歳の誕生日を機に、その人生を白紙に戻し、最終章となるこれからの人生を歩んでいきます。
これからは、なぜ今のような世の中があるのかということをひも解いていきます。同時に、このような意識が地球上に現れたということは、いよいよ質的転換を持って次の時代が地球上に現象化されることの証です。これからお伝えしていくことは、地球上だけではなく、宇宙にも霊的に発信されていくことを確信しています。

皆さん、見ていてください。時代は確実に、大質的転換をして、大きく変わります。その時に、今までのような地上的・人間的な意識では、新しい時代に付き合っていくことができません。私たちは、これから宇宙時代を生きる魂です。ここにいる皆さんだけではなく、人類すべてがそうです。それを人々に求める時代が来たのです。
いつの時代も、人間がこの世界を創っているということはありません。どんなに優れた人々も、その時代の要請により、役割を果たしているだけなのです。トキの流れの中で、現象化という宇宙創造の仕組みの中に、役割として現れ、一人ひとりがその時代に必要な役割を担っています。
これからの時代は、一人ひとりがしっかりと立ち、自らのオリジナルな個性を存分に活かし、役割を果たすことによって、地球生命生態系や太陽系、銀河、銀河群、大宇宙のように、すべてのものが連携した大調和のもとに、ひとつの世界を表現していく時代に入ります。その時に、小さな小さな存在である自らのクセは、個性としてこの世界に役立ちます。どのような人格であっても、使い方によって、有益にも、無効なものにもなるのです。
ですから自らの人格のひどさを見て、自信をなくしてはいけません。それは使い方が間違っているだけです。それを、今の地球人、現代社会の人々に、これから伝えていく必要があります。
私は今日から、「ジイジ」と名乗ります。「ジイジ」とは、それを示していくということです。

今日、この誕生祭の場が始まった時に、何か違和感がありました。これまでの人々は、このような場所を持って、個性的な道をつぶしてきたのです。「人はこのようにあるべきだ」という経典をつくり、その経典に倣って生きていくことが正しいのだという世界をつくってきました。
これからの時代は、そうではありません。私は今、ここにこうして立って話しています。しかし、皆さんのリーダーではありません。この節目の時に、私が到達した境地を、情報として皆さんに伝えているだけです。それを皆さん一人ひとりの意志として、独立したひとつの個性として、どう思うのか。
この世界に劣っている者は誰もいません。特別に尊い者もいません。すべて平等なのです。目に見えないバクテリアであろうと、野の獣たちであろうと、植物であろうと、みんなが平等に個性を発揮し、ネットワークを築き、この世界を創っているのです。ずっと昔、まだ人間が自然から命をいただいて生きていた頃には、人間もそのネットワークの一部として存在していました。天体の意志を受け取り、自然と対話し、生きていたのです。

新しい時代の扉を開くのは、ジイジだけではありません。一人ひとりが扉を開き、そのネットワークが次の時代を創ります。そこでは、みんなが平等です。
このことが今、この場から、霊的に発信されました。ここに今、たくさんの人々がいますが、霊的に発信されたということは、その意識レベルを持っている人々は、この場に居合わせなくても、気付いているはずです。そしてこれから、出会うことになるでしょう。その出会いのネットワークをこれから広げていくのです。
そのためには、今までの時代のように、「自分たちの考えを広げるのだ」と自己主張をする必要はありません。そういった主張を元に組織をつくる必要もありません。そう思えば、その心に共鳴するものと自然に出会い、自ずとことが成っていく。それが本来の時代の姿なのです。

木の花ファミリーは、世間の基準からしたらとてもマニアックで不可思議な場所です。この不思議なところが、新しい時代のひな型として、真実を示しているということを、この場に出会った皆さんは、どうぞ現していってください。私もその一員です。私は、自分が果たすべき役割を知っています。未来に、この役割を終えて旅立つ時、その時の精神の位置と、そこから向かうべき方向を知っています。それには確信があるのです。
今、この世界に生きる中で、ふっと湧いてくることが、現実として成っていきます。心が純粋になっていくと、人はそのように無駄のない思考をし、極めて的を射た日々を送ることができるようになります。見ていてください。これからますますそのように言葉を発し、ますます現象化をして生きていきます。
その時に、私は皆さんの師匠でもなければ教祖でもありません。これは、人の在り方のひとつの情報です。私の67年間と同じような人生を、皆さんは生きられないでしょう?それは私の個性なのですから。同じように、皆さん一人ひとりも個性的なのです。あなたの人生は、誰も生きられない。どうぞ皆さん、その人生を、有意義に活かしてください。絶対に役割があるから。それがこの世界で役に立つから、生まれてきているのです。

もしもあなたが自分の人生を見て否定的に思うならば、それはあなたがあなたの人生を活かしていないだけです。人生に迷っている人がいれば、ジイジは寄り添い、指針を与えてくれるかもしれません。しかし、最終的にあなたの人生をどうするのかは、あなたの責任です。
私たちは共に時代を築いていく役割をいただき、今、この場に集っていますが、魂の歩みはそれぞれ別々です。ジイジは、それを救おうなどとは思いません。人間が、他者によって「救われる」という発想から、自らの価値を高め、自らが自らを救済する時代が始まったのです。そこでは、自らが尊きものになる手段が、自らの手の内にあるのです。それが、人生の勝利者になるということです。

「尊き者を見つけ、そこに行き、救われるよりも、自らが尊き者となり、他を救える者となれ。これからは、一人びとりがイエスや仏陀であるぞ。」

これまでは、木の花という場所を維持することが目的でしたから、いさどんはみんな一人ひとりに寄り添ってきましたが、これからそのようなことはしません。ジイジはどんどんどんどん先へ進みます。後ろを見たら誰もいないかもしれません。それでもいいのです。その生き方、姿勢が大切なのです。
私は奇妙な話をしますが、これからますます奇妙な話をします。なぜなら、私たちは宇宙を司る大本の御霊の分身分霊であるということに、目覚める時代が来たからです。これを宗教と捉えてはいけません。当たり前のことに、当たり前の人々が目覚め、その精神の立ち位置に立つということです。しかしこれは、まだ人類が至っていない先端の意識です。そのことをよくわきまえ、自分は先頭を行く役割としてそれにふさわしい現象を起こし、指針となろう、という志で歩んでいただきたい。
もう、遅れてくる人には配慮しないからね。先に行っちゃいますよ!(笑)近ごろはみんなとの距離が離れてきて孤独を感じることもありますが、どうか皆さん、それに遅れることなく、いつもそばで、共に生き、物理的にも霊的にも豊かな人生を歩んでいきましょう。それを、心から願っています。

 

 


ジイジの挨拶の後、「はい!」と真っ先に手を挙げてマイクを取ったのは、創立メンバーのじゅんじいでした。


 

じゅんじいより

創立以来、縁の下の力持ちとして、“いさどん”と二人三脚で歩んできたじゅんじい

「いさどん」とは長い付き合いです。私が29歳の時に知り合いました。
えー・・・・・涙が出てきちゃうな。(目元をおさえながら)「ジイジ」って、すごくいい響きだと思います。私は「ジュンジイ」ですが(みんな:笑)、本名も「ジュンジ」です(みんな:爆笑)。ババジとか、ガンジーのように、尊い人を目指すということですね。
この間、いさどんのことをふと思っていたら、「大地球神」というのが浮かんできました。本当に、地球のために生きてるなあ、と。いさどんとは長い付き合いですが、だいぶ差ができました(笑)。それも私の人生だと思っています。でも私の心の中に、目指すものがひとつ、できました。やっぱり、そういう確実なものを目指して、これから生きていくということです。それは、自分に目覚めるということです。
今日は朝から、すごく楽しみにしていました。とても気持ちのいい日でした。いさどん、ありがとう。あ、違った、ジイジありがとう(笑)。みなさん、ありがとう。

 

あいちゃんより

“いさどん”とは一番長い付き合いのあいちゃん

私は、いさどんとは17歳の時からの付き合いです。最初は「古田さん」と呼んでいました。出会ってから、何年になるのかな?えーと・・・計算ができないくらい長い付き合いです(笑)。
長い間、いさどんの追い風ではなく、逆風になってきました。いさどんのやろうとしていることを、全然理解していませんでした。でも皆さんと一緒に暮らしてきて、今日、こういう場があって、これからジイジとはどういう付き合いになるんだろうと思いましたが、一人ひとりが立って、誇れる人生を生きていくことだと思いました。これからも皆さん、よろしくお願いします。
(ゲストの方が、「あいちゃんはすごい。私は何回生まれ変わっても、こういう人(ジイジ)とは結婚しない」と言うと)私は何回生まれ変わっても、こういう人と結婚します😊(みんな拍手!)

 

みかちゃんより

自身も大きな転換点を迎えているみかちゃん

私はここに来て14年です。7を質的転換とすると、2回質的転換をしてここにいます。なぜここに来たのかというと、それにはいろいろな次元の答えがありますが、物理的には人生が一度つぶれてしまい、ここへ転がり込んできました。
私は最初にここに出会った時、いさどんが怖くてここから逃げました。なぜなら、いさどんは心磨くことを説く人だからです。私は自分の中に汚れがたくさんあることを知っていて、心磨きを始めたらどんなことになるかが薄々わかっていたので、そこから逃げました。でも人生が行き詰り、ここへ帰ってきて、みんなと共に生きて、欠けたところを助けられながら、自分にしかできない役割をやらせていただいて、ここまで来ました。
今、自分自身を振り返り、艮の金神が「今の世は逆さまだ」と言っているように、私の心は真っ逆さまで、天ではなく地に向かっていたことを認識しました。この私という暴れ馬を、いさどんがどのような思いでここまで導いて来てくれたのかを、私は知りません。ここまで生きてきて、今ようやくそのことを知れるところまで来たのだと思っています。天に唾を吐くような人生であったことを正し、ジイジと肩を並べて歩んでいける位置に立たせていただきます。これからもよろしくお願い致します。

 

まりちゃんより

いさどんの“大修理”により、みんなの大きな力になってきたまりちゃん

私がいさどんと出会ったのは19歳の時です。縁が続いて、一緒に富士山麓へやって来ました。
ここへ来る前もいろいろな話をしていて、言葉で語るのは簡単ですから、さも自分が出来上がったかのようなつもりでここに来ましたが、来てみたら、あらびっくり!自我だらけの自分と向き合うことになりました。いさどんにはたくさんの手間をかけて、心のトレーニングを受けました。複雑な問答をくり返しながら、最終的にいつも教えられることは・・・(涙で言葉が詰まる)・・・己を忘れて、人のために生きる。どんな出来事をくり返しても、最終的にはそこを学ぶためにあるということを、教えられてきました。

めったに泣かないまりちゃんの涙
ジイジも思わず、もらい泣き

最近、自分の中に、言葉にはできない感覚があります。ああ、こういうことなのかな、という感覚が少しずつ湧いてきています。私も今日から、自分の立ち位置をしっかりと認識して生きていきます。おめでとうございます。

 

ちなっぴーより

天性の明るさで、まっすぐに歩んできたちなっぴー

もう、本当に、泣けちゃうというか、涙が出てきます。私がいさどんと出会ったのは、中学生の時です。その時は「おじさん」て呼んでました。短大を卒業して、これからどう生きていったらいいんだろうと思った時に、いさどんに相談に行きました。そうしたら、その時にいさどんが、こう言ったんです。
「これからおじさんはね、富士山のふもとへ行って、みんなで仲良く助け合って生きていく暮らしをしていこうと思うんだ。そこでは、本物の食べ物、本物の生き方を追求して生きていこうと思ってるんだよ。」
それを聞いて、それは素晴らしい!素晴らしい!!と思いました。さらにいさどんが「これから僕は、“お返しの人生”を生きていくよ」というのを聞いて、私もお返しの人生を生きていく!!!と思って、ついてきました。そうしたら、こんなに素晴らしい人生が待っていました。こんなに豊かで、こんな仲間たちに囲まれて、心を磨きながら生きていけるなんて、素晴らしい。これからは、私もジイジに負けないように、毎日筋トレしてます(笑)。これから、みんなの中で思いっきり質的転換して、人生悔いなし!と生きていきます!

拳を上げて、悔いのない人生を生きることを宣言!

 

その後も、メンバーたちが次々と思いを語りました。

いさどんと出会ったことで「人は学ぶために生まれてきた」ことを知ったえいこばあちゃん
子宮頸がんで死にかけて、奇跡の復活をとげたきょうこちゃん
生きている間に、人間が生きる本当の意味に出会えたと語るこうちゃん
涙、涙の連続で、次から次へと渡されていくハンカチ
自らが柱となっていくことに目覚め始めた男性陣
ゲストからもお花と手作りカードのプレゼント
みんなで一緒に、歌い踊ろう!

ずっと目の病気のためにサングラスを外せずにいたきたじゅんからは、「病気が治りました」というサプライズ報告もありました。「きっともう、病気が必要なくなったんだと思います」ときたじゅん。

 
そして最後に、偶然にもこの日届いたメキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナーキンさんからのメッセージがシェアされました。

太陽マヤ族最高司祭・尊母ナーキンさん

以下は、ナーキンさんがチャネリングをした言葉の一部です。2014年のマヤ新年を富士山麓で共に祝って以来、新たな時代を共に築いていく仲間として、木の花ファミリーと太陽マヤ族は交流を重ねてきましたが、この日がジイジの誕生日であることも、名前が変わることも知らないはずのナーキンさんから、こんなメッセージが届いたのでした。


 

ナーキンさんからのメッセージ

富士山は、銀河の中心から最も純粋な愛の周波数が降りてくる聖なる場です。富士山は、真の愛の純粋な振動を吸収する最大の力を持った地球におけるアンテナであり、それは富士山という体から地球という星全体に放たれます。
Mount Fuji is the holy space where the purest frequency of LOVE from the center of the galaxy descends. The Fuji is the planetary antenna of maximum power that assimilates the pure vibration of True Love, and from its body it is radiated to all the Planet Earth.

時の数学的収束において、わたしたちは天による愛の放射を活性化しています。その愛は、存在の豊かさを目覚めさせ、そして真の世界平和の経験を可能にする新たな形の人間の相互関係を誕生させるような最高位の意識を復活させます。
In the mathematical convergence of time we are activating the divine irradiation of Love that awakens the fullness of Being and restores the supreme consciousness that gives birth to new forms of human interrelation that allow the experience of a true WORLD OF PEACE.

私たちはいさどん師(後日、彼の名前は新しいものに変わります)から、本物の精神性の価値の中に生きることができるために、存在の能力を目覚めさせる知識や教えを受け取るでしょう。同様に、尊母ナーキンはマヤの太陽の叡智を通して、一人一人の存在の中に光の最大限の能力を目覚めさせるための美しい提案をシェアすることでしょう。
We are going to receive the teachings of Master Isadon (later this name is changed to the new one), a knowledge that awakens the capacities of the Being so that is able to live within the authentic spiritual values. Likewise, Venerable Grandmother Nah Kin, through mayan solar wisdom, will share beautiful proposals to awaken the maximum capacity of light in each Being.

 


 

驚いたことに、ナーキンさんはいさどんの名前が変わることを予言していたのでした。

 
この世界のすべては、宇宙の大いなる流れの中にあります。これからも未知なる未来への歩みは続き、「ジイジ」と共に、一人ひとりの新たなステージが始まります。

皆さん、これからもどうぞよろしくお願いします!

 

5月6日に行われた田楽田植え祭りにて

 

 

 


木の花ファミリー通信2018年春分号 〜 死ぬってどういうこと?

一年で、光(昼)と闇(夜)がちょうど等分となる春分の今日、木の花ファミリー通信最新号が発行されました。今号より、「21世紀の死生観」をシリーズでお届けします。どうぞご覧ください!


 

21世紀の死生観 第一部

 
「21世紀の死生観」をシリーズでお届けします

「21世紀の死生観」と言いますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生まれて生きて死んで終わりではなく、悠久の時の中で、生まれて生きて死に、また生まれて生きて死ぬことをくり返しているのです。

ところが、現代の多くの人は死を恐怖に感じています。ある調査によると、日本人の半数以上が死を「怖い」と感じています。また別の調査では、20代から70代までの全世代を通じて、9割以上が死を「悲しい」と捉え、6割以上が「どことなく不安」と答えています。

*朝日新聞全国世論調査より

しかし、どんなに怖いと思っても、悲しいと思っても、確実に死はやって来ます。なぜなら明日が来るからです。「死にたくない」と思って今日一日を生きると、今日一日分、確実に死が近付いてくるのです。

 
時は生き物

この時の流れを止めたいと思っても、止めることはできません。それは、時が生き物だからです。時は、決して留まることなく変化変容し続ける宇宙の基盤であり、常に循環し続けています。私たちはこの時という生命の一部であり、それに乗って宇宙を旅し続けているのです。
この時という乗り物に乗らない存在に、この世界で出会うことはできません。すべてのものは固有のサイクルを持ち、時の上でそれぞれのサイクルを刻みながら、互いに連動し、ひとつらなりの壮大な生命を構成しているのです。
その大きな生命の中の一つのサイクルが終わりを迎えた時、私たちはそれを「死」と呼びます。命あるものは皆、必ず死を迎えます。けれども、私たちは死を恐れ、目を背け、死とは一体何であるかを曖昧にしたまま毎日を生きています。死が曖昧であるということは、生きることの意味もまた曖昧だということです。私たちが出会う問題ごとのすべては、私たちが生きていることから生まれます。私たちは生きることの意味を曖昧にしたまま、ずっとその問題を抱え続けているのです。

人はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。死生観は人類の根源的なテーマです。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。その壮大なる生命の仕組みを理解した時、私たちは初めて、真に充実した人生を生き、喜びを持って死の向こうへと旅立てるのです。

 
シリーズでお届けする「21世紀の死生観」。
第一部は、この世界の命の仕組みをひも解きます!

 


 

肉体は循環の中で変化し続ける
それをつなぎとめるものが  

宇宙はすべて、陰陽から成り立っています。私たちの肉体を目に見える陽とすると、その奥には目に見えない陰の存在があります。それが魂です。

「陰陽」と言うように、この世界の元の仕組みは、まず最初に陰があり、そしてそれを元に陽が発生します。私たちの生命は、まず魂があり、その魂が宇宙に遍満する様々な物質を縁によって引き寄せ、肉体を形成します。この、魂と肉体がセットになった状態が「生きている」ということです。姿かたちや性質から、どのような家族を持ち、どのような場所に生まれるかまで、すべてその魂独自の縁によって紡がれていきます。そしてそれぞれの魂と肉体の縁は、独自のサイクルを持っています。これが寿命です。
寿命が来ると、魂は肉体を離れます。すると、それまで魂によってつなぎ止められていた肉体の構成要素は、その縁から解き放たれて、三次元生態系へと還る旅を始めます。そして、また次の生命を形成する材料となります。一方魂は、それぞれにふさわしい異次元宇宙へと還っていきます。

ふさわしい異次元宇宙とは、地獄から多次元構造の高次元宇宙まで幅広く存在します。その幅広い異次元宇宙の中で、様々な段階の魂がひとつの時間と空間のもとに一堂に会して存在しているのが、地球生命世界です。つまり、地球に生きるということは、多種多様な存在に同時に出会うことができる生態体験ツアーのようなものなのです。魂たちは、それぞれの段階のサイクルにふさわしい人生を生き、その人生にふさわしい死を迎え、宇宙へと還り、またふさわしい縁のもとに地上に降りて、新たなサイクルを刻んでいくのです。

 
命のリレー

何も増えず、何も減らない。ただ形を変えながら循環し、すべての存在が変化変容し続けているのが宇宙の実体です。この大いなる宇宙の循環の中で、私たちの肉体もまた、変化しながら生態系を巡っています。

地球生態系を構成する五大要素は、地水火風空です。人間は、地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。地に育まれた作物を食べ、水を飲み、排せつしたものがまた次の生命を育む元となり、陽の光を取り込んではエネルギーに変え、そのエネルギーを放出し、風を受け、呼吸をし、吐き出された二酸化炭素もまた、植物の成長の糧となります。それは、常に他から自分へと生命が流れ、必要なものを取り込んでは、また形を変えて他へと受け継がれていく、命のリレーです。その流れはひとつではなく、幾重にも重なって連鎖しています。私たちはこの自然生態系の循環の中で、多種多様な存在から常に新鮮な命を与えられ、生かされながら、自らもまたその循環の一翼を担っています。逆に捉えると、この循環の中にいなければ私たちの生命は成り立たないのです。そしてこの循環を支えているのは、自らの存在が他を生かしていく「利他」の仕組みです。

この、絶えず変化変容し続ける肉体の様々な機能を束ね、ひとつの生命体として維持しているのが魂です。そして人間は、一瞬として同じ状態にはないこの生命体を、過去から未来まで継続して「自分」と認識するようになりました。そしてその自分という認識に囚われるようになりました。これが、自我です。

 
自我に囚われ
この世界の大きな仕組みを忘れた現代の人々

人間は、動物と大きな違いがあります。それは自我に目覚めることができるということです。動物にも自我はありますが、それは本能的なものであり、囚われるものではありません。ところが人間の自我は、自分というものの側に立ち、そこに執着するのです。
常に変化変容し続けるのが、私たちの生きる宇宙の実体です。しかし自我を持った人間は、宇宙の法のままに変化していくことよりも、自分というものを固定し、その状態を維持しようとするようになりました。枠の中に人が入ると「囚われ」という字になるように、まさに、自分という枠の中に自らを閉じ込めたのです。そして、この世界はすべてが連鎖し支え合うひとつらなりの命であり、自らもその一部であることを忘れてしまったのです。

この世界は、個々に独立したものが利他の仕組みによってつながる、命のネットワークです。私たち人間の魂は、一つひとつどれもがオリジナルな個性を持っています。そしてそれらがつながり、一つの集合体となることで、多様性あふれる豊かな世界を築いています。しかし個性とはまた、それ単独で見た時に「偏っている」ということでもあるのです。
偏ったものが、他と連携することを忘れ独りよがりに生きると、世界は必ずその偏りにふさわしい問題ごとを与え、行き詰まるようになっています。そして世界は、その行き詰まりを通して人間に自らの偏りを体験させ、つながることの大切さを学べるようにしているのです。ところが「自分」に意識が向けば向くほど、人間は自我が強くなり、この仕組みが見えなくなっていきました。目に見えるものだけの価値観に囚われ、全体が一つの集合体であることを忘れて個々の幸せを追い求め、その結果、多様であるからこそ互いに補い合い世界を豊かにするはずの個性が、多様であるがために対立し、世界に不調和を生むようになりました。そして世界にも、私たち自身にも、様々な問題をもたらすようになったのです。

 
あなたの奥に、永遠のあなたがいる

私たちは、生まれてすぐの赤ん坊の時から泣くことで意思表示をし、食べることや眠ることを求めます。それは生きるための本能的な行動ですが、ではそれが生きることの目的なのかというと、そうではありません。
この世界は、云わば生命の織物です。地水火風空の元に無数の生命たちが織り成す命の循環は、自然生態系(現象界)の広がりを表す、横糸です。そしてそこに、目には見えない縦の糸の働きがあります。それは、私たちすべての生命の源である、魂のふるさと(潜象界)との循環です。そこからやってくる命の源のエネルギー、即ち元の気(=元気)が、私たちに常に新鮮な生命力を与え続けてくれているのです。

この世界では、まず始めに陰があり、それを元に陽が発生します。この命の織物の、陰は縦糸、陽は横糸です。ところが現代の人々は目に見えるものばかりに囚われ、この縦糸の存在を忘れてしまいました。縦糸を見失った世界は秩序を失い、軸を失ったコマのように、ゆらゆらと不安定な状態であり続けることになってしまったのです。しかし、どんなにその存在を認識していなくとも、私たちは絶えずこの縦と横の循環の中で命を与えられ、生かされています。そして私たちがこの世界に生まれてくる真の目的は、肉体を持って現象界を生き、そこで出会う様々な現象を通して、目に見える肉体の奥にある、魂そのものを磨いていくことなのです。それが、私たちが生きていく上で根本的な軸となる役割を果たすのです。

私たちは絶えず呼吸をし、食べることや排せつすることをしなければ、生きることができません。生きるとは、肉体に縛られている状態であるとも言えます。水や土や空気に縛られているとも言えます。しかし本来、魂とは無限の存在なのです。
今あなたが「自分」だと思っているその姿の奥に、永遠の存在としてのあなたがいます。自分という囚われを外した時、そこには未だ出会わぬ、未知の世界が広がっています。人間には、無限の可能性が秘められているのです。

   

 

 

遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。
光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」
そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。

 
地球という学校への入学

宇宙に漂う無数の魂たちは、どれもとてもユニークです。完全なるひとつから分かれてきたため、一つひとつは不完全で、偏っており、それぞれが他にはない個性を持っています。ところが魂たちは、魂のままでは自らの姿が見えないのです。「どうしたら自分のことがわかるだろう。」そこで、宇宙の総意によって、地球という星が創られました。魂たちはこぞって地球に降り立ち、それぞれの個性にぴったりの姿かたちや性質を持って、地球生態体験ツアーをスタートさせました。

地球では毎日、それはそれはたくさんのことが起こります。肉体を持った魂たちは、人生を通して様々な体験をし、その体験から自らがいったい何者であるかを知るようになりました。自分がどんな響きを発しているかによって、出会う出来事が変わっていくのです。「そうか、自分とはこういうものなのか。」

宇宙の時の流れは壮大で、変化もとてもゆっくりですが、ここ地球では、変化変容変態をくり返す仕組みの中で、次々と現象が起こります。そんな中、魂たちの歩みはそれぞれです。出会う出来事から次々と学び、どんどん進化していく者。目に見えるものに囚われて、地球に来た目的を忘れてしまい、何度も同じことをくり返す者。それは、地球という学校に入学したようなものでした。やがて、学びの期限が訪れると、魂たちは「死」という形で卒業を迎えます。そして、人生を通してどれだけ学んだかによって、それぞれの段階にふさわしい異次元宇宙へと還っていくのです。

魂たちにとって、地球は唯一、自分が何者であるかを知り、進化できる場所です。学びを終えた魂たちは地球学校の成績表と共に宇宙へ還り、またいくらかすると「よし、今度こそ!」と地球へ学びにやって来るのです。

 
宇宙全体が美しくなるために

この地球での魂たちの進化のようすを、宇宙の星々はとても興味深く観ています。肉体を持ち、人間として地球に降り立った魂が、自らを高め真理に目覚めると、星々が反応し、銀河の中心がザワザワと波打つのです。たった一つでも、優れた魂は、宇宙に対してそれほどの影響力を持っているのです。

今、地球上に人間として降り立った魂たちは、とても狭い世界観の中で生きています。自我に囚われ、生まれてきた目的を見失い、死ぬことへの恐怖を紛らわせるかのように、目の前の欲望を満たすことに一生懸命になっています。そして世界は問題ごとであふれかえるようになりました。

しかし時代は確実に、光の方向へと進んでいます。神様が自分からもっとも遠いところに闇を置かれてから、私たちは闇とは何であるかを体験し、何度も何度も生まれては死に、生まれては死ぬことをくり返しながら、もとの光の世界へと還っていく道を歩んでいるのです。

時代は21世紀を迎え、2000年から3000年への新たなサイクルに入りました。これは、地上を生きる人間たちが、生きることの真の意味を悟る時代を迎えたということです。それは今までの宗教のように、誰か一人の聖者が現れて教えを説き、救いを求める人々がその教えに群がることとは違います。一人ひとり誰もが、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり、生きる時代がやってきたのです。

私たち人間は、自我に囚われ世界に混乱をもたらす存在から、本当の人としての価値を地球上に表現し、すべての生命のために、この世界に正しい秩序をもたらす存在へと進化する時を迎えています。私たち一人ひとりの魂が美しくなることが、地球を、そして宇宙全体を美しくするのです。

そのためにはまず、「自分」という囚われを、外すことなのです。

 

 

21世紀の死生観についてさらに深く知りたい方は、「1ヶ月間の真学校ブログ」をどうぞご覧ください。
 → 1ヶ月間の真学校ブログ『死生観~死と一体となって、生きる』

*1ヶ月間の真学校は、1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、様々な切り口から21世紀の世界観を学ぶプログラムです。

 

 


この研究は、新たな世界の扉を開けてくれた 〜 イスラエル人留学生・リリアの手紙

イスラエルからやって来て、京都の大学院で環境学を専攻しているリリア。昨年秋に農作業ヘルパーとして1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、今年1月から2月にかけては、大学院の卒業論文の研究のために滞在していました。そして昨夜、2ヶ月間の研究を終えて旅立つリリアのために「いってらっしゃいコンサート」が開かれました。
以下は、そのコンサートの場でリリアが読み上げた手紙です。日本語で書かれた手紙の全文をご紹介します。


お別れの挨拶

木の花ファミリーでのトータルして3ヶ月間の滞在に関して、伝えたいことがたくさんあります。

木の花ファミリーに来た当初の目的は、コミュニティについて研究することでした 。この研究は学問的なものです。ですから、それは学問のルールのもとにあり、大学の制度のもとにあります。この研究はコミュニティにおける具体的な詳細や個人的な物語を含みます。

この研究は学問的な用語で書かれます。つまり、それは事実、正確さ、数字と専門用語が大切だということです。もし私がこの挨拶を自分の言語であるヘブライ語で書くならば、誰も理解しないことでしょう。それが言語の重要さです。その理由のために、学問で理解できるような用語を使ってこの研究を書いています。学問的な人々にこの研究に対して敬意を払ってもらうためには、私はこの妥協を受け入れるしかありません。

卒業論文は白紙に書かれた黒い文字にしか過ぎません。さらに、研究者はこの研究のための単なる媒体にしか過ぎません。つまり、研究にとっては、誰が研究者であるかは重要ではないということです。研究は客観的である必要があります。しかし、私はリリアであり、主観的な存在です。それはとても難しいところです。

それにも関わらず、この研究は私が新たな世界に行くための扉を開けてくれました。人生が予期せぬ新たな方向へつながっていることは面白いことです。もし抵抗せず、道に来るものが何であれいただくのであれば、奇跡が起きる可能性はあります。皆さんと作業をし、語り、笑い、食事をし、インタビューをし、学び、聴き、体験する機会は、奇跡的なことでした。インタビューをしていた多くの機会において、私の目の前にいる人のことを美しいと感じていました。言葉やハグ、微笑むことを通して、何人かのメンバーとは私のこの感情を共有しました。すべてのメンバーとこの感情を共有しませんでしたが、皆さんはこうした私の気持ちを感じてくれていたと思っています。私はこれまで感謝の気持ちを表現してきたかどうかはわかりませんが、今この場で皆さんに感謝を伝えたいと思います。私にはたくさんの見たこと、聞いたこと、感じたこと、思ったこと、理解したこと、また理解しなかったことがありますが、そのすべてに感謝しています。この研究の重要さは存在していますが、3ヶ月間ここで学んだことはもっと大切なことです。

いさどんとの時間の最後に、何度か、私は「愚かであること、そして真実に向き合うよりも何も知らないことのほうがずっと簡単なことです」と伝えました。真実を探究することは疲れることであり、もどかしいことです。神社に鏡があることはその理由のひとつかもしれません。私たち自身を真に見つめることは全能の神様の存在よりもずっと恐ろしいことです。

木の花ファミリーの人々から多くのインスピレーションを受け取りました。妥協することなく真実を探究する勇気を高く評価しますし、それは私にエネルギーと意欲を与えてくれました。陽子のような物語を聞くことから、とても刺激を受けました。

木の花に来る前、私の目標は他者を理解することにより、他者とより良い関係を築くことでした。ですから、Eちゃん(木の花ファミリーにケア滞在をしていたゲスト)のことを上手く読めなかったことで私は自分自身に対してがっかりしました ──── それは、阿吽を実践することを何度も思い出させるものでした。それを忘れると、宇宙はそれを思い出させるものを送ってくれます。それは通るべきプロセスです。

明日、私はここから出て、もっと大きく、そしてもっと意義深い目標を持つことでしょう。それは、真実を明らかにするためです。真実はとらえどころのないものです。それは善悪や枠を超えたものであり、そして真実を掴むことは容易なことではありません。皆さんが自分の物語について語ったり、ミーティングで「シェア」を聞いたり、ブログや他の資料を読んだ時 ──── 、「自分自身について振り返ること」の大切さを認識しました。ここの子どもたちは生まれた時からそれを学んでいます。私が通ってきたすべてのことは、今いる所に私をいざないました。そこには意味が秘められているのです。

この研究を書くことによって、木の花ファミリーの種を蒔いていきます。これがこの研究の大事な部分です。

起きたこと、今起きていること、そしてこれから起きることすべてに対して、心の底から感謝します。

木の花ファミリーに2冊の本をプレゼントしたいと思います。本来、これらの本は子供向けの本ですが、その中にはたくさんの秘められた意味があります。これらの本は与えること、幸せ、広大な宇宙を旅することについて書かれていますので、きっと皆さんも興味があると思います。ぜひ読んでみてください。

最後になりましたが、もう一度皆さんに感謝の気持ちを述べて、この挨拶を締めくくりたいと思います。ありがとうございます。

 

今日の朝、リリアはみんなに見送られて旅立って行きました
いってらっしゃい!

 


世界のお金がみんなのお金になるように

コミュニティズ 2017年夏号
コミュニティズ

アメリカのコミュニティ向け専門誌「コミュニティズ」の2017年夏号に、木の花ファミリーの記事が掲載されました。
同誌の今号のテーマは、「共同文化における経済」。ファミリーの金庫番であるなかのんが、現代社会においてたぐいまれなる木の花ファミリーの経済の在り方を紹介しています。以下は日本語版の全文です。どうぞご覧ください!

なかのん
なかのん

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世界のお金がみんなのお金になるように

-みんなでお金を共有できる社会を目指して-

 
木の花ファミリーの暮らしを紹介

たっくん(5歳):なかのん、僕、これ(大袋のあられ)買いたい。

なかのん:それを買うにはお金が足りないね。たっくん、他のお菓子を買ってお金使っちゃったからね。

あやな(7歳):私のお金足してあげる。

なかのん:あやなは優しいね。

あやな:うん、みんなで食べたらいいもんね。

これは今年のお正月、子どもたちと交わした会話です。日本にはお年玉という習慣があり、お正月には大人から子どもたちに小遣いが渡されます。木の花ファミリーの子どもたちはそのお金を使って木の花ファミリーの商品を買っているのです。子どもたちは各自、自分の好きなお菓子を購入しますが、それをみんなで分け合っています。分け合うことでたくさんの種類のお菓子をみんなで楽しんでいるのです。それはとても微笑ましい光景です。通常、子どもたちはお金を使うことなくお菓子や必要なものを得られるのですが、このようにしてファミリーの子どもたちはお金を使うことを身近なところで体験しながら、共有することを学んでいます。

木の花ファミリーは、赤ちゃんからお年寄りまで血縁を超えた84名(2017年1月現在)のメンバーとゲストを合わせて100名近い人々が一つの大家族として暮らす農的共同体です。1994年、人と人とが支えあい、互いを活かしあう暮らしを志した20名の仲間が富士山麓に木の花農園を設立し、その後2007年4月に木の花ファミリーと改称しました。それは活動の幅が「農園」の枠を超えたからでもありますが、この世界のすべての存在を家族とする想いに基づくものです。

私たちは農薬や化学肥料を使わずに作物と対話しながら育てる天然循環法により高いレベルでの食糧自給を達成し、農産物の販売も行っています。加えて、農家レストラン及び農家民宿の経営、教育プログラムや心と身体のケアの提供、便利屋事業や古紙回収など幅広い活動を行っています。

多種多様な事業の中で、農業及び関連事業は農事組合法人木の花ファミリーが主体となって行われ、社会貢献事業はNPO法人ぐりーんぐらすが主体となって行われています。どちらの法人もファミリーメンバーが経営の主体となっていますが、メンバーは原則どちらの法人とも雇用契約を結びません。メンバーの大半は農事組合法人の組合員となりますが、法人の利潤は組合員であるファミリーメンバーに配当され、メンバーはそれぞれ個人事業主として確定申告を行います。これは私たちの精神をそのまま表しています。ファミリーメンバーは一人ひとり自らの意志でこの暮らしに参加し、みんなでこの暮らしを創り上げています。そこには上下関係や雇用関係はありません。みんなが自由であり、平等であり、独立した存在なのです。

一人ひとりが事業を通して得たお金から生活費を集めます。そこからメンバー全員の税や年金、医療費や子どもの教育費、光熱費や日常の消耗品まで、生活に関わるすべての費用を支出します。生活費の総額は年間約2,000万円、一人当たり年間25万円以下のお金で豊かな生活を実現しています。自給自足と共同生活により、少ないお金で豊かに暮らすことが出来るので、競争や無駄がなくなります。お金に縛られず低い環境負荷で安心して暮らし、平和な心を育むことが出来るのです。

木の花ファミリーでの僕の学び

そんな木の花ファミリーに僕は2008年7月に初めて訪問しました。僕は当時、公立中学校で事務職員をしていました。中学生と共に過ごす中で感じていたのは子どもの貧困の問題であり、教育費に携わる中で、その問題の解決に少しでも貢献したいと思っていました。

「教育費が足りないのではなく、教育費思想が足りない」

これは当時の僕が大切にしていた言葉です。子どもは未来を担う社会の宝です。それならば、親の財力の違いに関わらず公費により平等に育てられて然るべきです。ですが、実際の学校では私費(保護者のお金)が沢山使われています。その背後には教育は個人のためであり、だから受益者が負担するという発想があります。そして、そこに競争原理が働き格差が生まれ、子どもの貧困が社会問題となっているのです。

自然はすべての人間が暮らすのに充分な恵みを与えてくれています。ですが、人間の自我は強欲や不安などの心を生み出し、それが格差や対立などの問題となって現れます。そのような現実に対して有効な手立てがなく無力感を感じる毎日でした。そんな僕にとって木の花ファミリーとの出会いは衝撃的でした。そこではお金について何の心配もなく支え合って暮らしている人々がいたのです。そこに未来を感じ、僕は仕事を辞め2009年5月20日に木の花ファミリーに移住しました。

木の花ファミリーに移住したばかりの頃。僕に言い渡された役割は、なんと!金庫番でした。その理由は「顔が四角いから」・・・というのは冗談で今までの僕の経験を踏まえた決定ですが、来たばかりの人間に経理を任せる木の花ファミリーに懐の深さを感じました。

あれから8年。僕はお金を通して様々な経験をして来ました。

冒頭で紹介した子どもたちとの交流もお金を通した学びです。子どもたちはお年玉をもらうことでお金を手にし、それを使うことを楽しんでいます。ファミリーの子どもたちのバックグラウンドは様々です。コミュニティ外部に祖父母がいてお年玉を貰ってくる子どももいれば、そういう存在が一切いない子どももいます。コミュニティ外部でお年玉を貰ってくる子どもたちは、そうではない子どもたちよりも多くのお金を手にすることになります。その時、子どもたちの中にそのお金を自分で持っていたいという気持ちが芽生えることがあります。ですが、私たちは基本的にそのお金はみんなのお金として預かることにしています。前述の通り、私たちの暮らしに必要なものは生活費によって過不足なく満たされます。子どもたちの必要も当然満たされています。そのような中、限られた子だけが自分のお金を多く持つことは、優越感や不平等感などを生み出し、それらの心は不調和に繋がります。そのことを丁寧に説明すると子どもたちは納得し、お金を手放していくのです。その姿はとても気持ちが良いものです。

このことは些細なことに思えるかもしれませんが、お金が人間に与える誘惑が表現されています。何かがあった時に備えたいという不安な気持ち、人より優位に立ちたいという気持ち、その気持ちのままに行動し歯止めが利かなくなったのが現代の資本主義社会の姿です。経済は一人ひとりの心の表現なのです。

先に説明した木の花ファミリーの経済は、頭で考えたシステムを適応したのではなく、メンバーの心磨きの結果であり、すべてを共有していく姿勢の現れなのです。大切なのは自らの心、その未熟さに向き合い続けることです。

僕自身で言えば、安易に人の希望に応じてしまう傾向を持っています。その傾向は時に人の欲望を刺激し、コミュニティに害をもたらします。例えば、先の子どものケースでも子どもの希望をそのままきいてしまったら、子どもたちの中に不調和が広がっていきます。僕は今まで何度も判断ミスをして来ましたが、僕の判断ミスはその都度みんなが調整をしてくれました。みんなの調整に支えられながら、僕は自らの未熟を知り、成長してきました。それはとても有難い体験です。

共有する経済が生み出すもの

先に説明した通り、木の花ファミリーには農事組合法人やNPO法人が存在し、それらの法人は資産を持ちます。そして一人ひとりのメンバーは財産を所有しています。ですが、それらはみんなから信託されたものであり、どこにお金があってもみんなのために使われていきます。それが安心感に繋がっていくのですが、そのためにも常に適切な判断をし、みんなが納得していく必要があるのです。みんなが納得することでお金はみんなのものとなっていきますが、その時、必要なのが、一人ひとりが自分の立場を離れ、全体視点を持つことです。メンバーは常に心を磨き分かち合う心を育んでいます。

自給自足と共同生活を基盤とする木の花ファミリーの経済は自然の恵みをいただき、みんなで分かち合う経済です。そこから生まれる事業は天の恵みを世の中に広げるためにあります。そのことを古田偉佐美(木の花ファミリー創設者:通称いさどん)は以下のように表現しています。

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今の社会では、みんな収入を得るために必死に仕事をしています。お店ならば、お客を獲得するために一生懸命、商品開発や営業活動を行っています。お客の増減はお店にとっては死活問題なのです。ですが、木の花ファミリーの活動はそれとは違います。私たちは天の恵みである作物をいただき、それを基盤として生活を営んでいます。収益を得ることが死活問題とはなっていません。ですから、私たちの商売は一般とは違うものなのです。同じ基準で考えてはいけません。天の恵みによって暮らす私たちは、心に余裕やゆとりがあります。そして、その余裕を心磨きに向けることが天との約束です。商売もその延長にあります。天の恵みの恩恵を世の中に広げていく。それが私たちにとっての商売で、心を伝えること、幸せを循環させることがその本質にあるのです。

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木の花ファミリーでは月に一度、自然食レストラン「恵みいただきます」を開催しています(現在、施設の改修工事のため休業中)。毎月200名以上のお客様をお迎えし、「元気をもらった」「夢の世界にいるよう」などの声をいただいています。それは古田の言葉にある通り、利益を追求するのではなく、人の心のぬくもりを伝え、集うことの楽しさを味わっていただくことを大切にしていることからこそ生まれる感想なのだと思っています。だからこそ、さらに謙虚に日々心磨きを続ける必要があります。そして、2017年3月21日には異次元空間カフェ「ロータスランド」をオープンし、幸せをさらに広げていきます。

経済は人が「はたらく」ことによって生まれます。木の花ファミリーでは、「はたらく」を傍楽と表現しています。それは「はたらく」ことの本来の意味が「傍(はた・他者)を楽(らく)にする」ことにあり、自分を超えたネットワークの中で役割を果たすことだからです。それは生産活動がそのまま宗教、芸術、倫理を生きることを意味した未開社会の人々の暮らしにも表れています。

人々がそのように「はたらく」時、お金も常に他者のため、全体のために使われるようになります。それが木の花ファミリーの経済であり、これからの社会のモデルになると思っています。すべての人がみんなのため、全体のためのお金を使う時、お金はどこにあっても同じとなります。どこにあっても誰が持っていてもみんなのお金となるのです。

環境破壊や経済格差などお金によって生み出される問題が山積みとなっている今、みんなで力を合わせて生きることが求められています。世界のお金がみんなのお金になって、みんなが世界のためにお金を使うようになった時、お金を巡る争いやトラブルはなくなります。そして、みんなで助け合って豊かに暮らす社会が実現し、今ある問題は解決していくでしょう。そのために大切なのは心磨きであり、それは、経済を通して自分を知り、そして自分を育み、結果、心豊かな経済を生み出す道なのです。

 

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